2019/05/14

『けものフレンズ』『けものフレンズ2』を巡る作劇論

(「『けものフレンズ』は子供向けアニメで、ストレスを抱えた大人の幼児退行の逃避先にされている」の続き)
間違って入ったアマゾンプライムにあったからたまたま話題にしたら、アニメファンぽい人に絡まれて(アニメへの偏見をもつなみたいに言われて)分析することになったので一応最後までやる為、『けものフレンズ2』も全話流してみた。それで次のことが分かった。
 先ずけもフレオタ(けものフレンズのオタク)が1は神、2は糞といっている理由は次のものだ。
 1はほのぼの感かつ勝ち負けのない世界観で、全員で勝敗なく徒競走させる異常なまでの馴れ合いもしくは擬人化動物との和が幼稚園的視線で描かれている、精神を病んだ大人の逃避先にされていた子供向けアニメである。
 2は1に比べアニメ画面自体のできもよく主題歌もよく、キャラクター造形もうまくなっていて全体の映像が可愛らしい上にしばしば美しい(特に最終話頃の海の光の反射とか)。がシナリオが違っていて敵だかなんだかとの喧嘩みたいな様子も出てきて、性格が悪いんだかなんだか分からん関西弁の獣もいる。
 それで1は人類絶滅後の世界で少年が動物界脱出を試みるのを逆に動物が助けるオオカミ(サーバル)に育てられた少年の現代版だが、2はその世界観を下敷きにしているものの、記憶喪失の少年が自分の家を探すため方々さまよった末に脱出用飛行機だかが壊れた廃墟だかなんだかを家にして解決する点で浄化が足りない。
 しかし全体として1も2も幼稚なことこの上なく、園児がみるならいいかもしれないが大人がみて楽しめるといった類のものではないので、先ずけもフレオタの心が酷く病んでいて、精神療養の為に幼児退行先にしている可能性がある。これは既に書いた。ここでは更に彼らけもフレオタの精神分析をする。
 一体「一神二糞説」を唱えている人が、脅迫罪で逮捕される危険を犯すほど何にそこまで義憤をまきちらしているか調べると、「けものはいてものけものはいない」というこれまた稚拙な駄洒落による批判が検索でぼろぼろ出てくる。即ち1は道徳相対主義だというのだ。この世で誰も違和しない(例えば兄弟間での単純な利害対立なんかも含め)、何も批判しない、即ち思考停止している状態で、そもそも互いに利己的な各自我間の対立がないということはありえないわけで、交渉や折衝、議論、戦い、競争、政治、弁証法的メタ認知などの能力がない空想的世界でしかない。しかしこの種の相対主義(ソフィストの詭弁術の土壌だ)がけもフレオタの中では最高善みたく崇められている訳は色々考えられる。2002年から導入された絶対評価教育と、小泉政権以後に進んだ格差社会との摩擦で荒んだ心を、彼らが幼児体験した馴れ合いへの退行で癒しているというのがありそうな解釈だ。
 逆に例えば以前のアニメである『ドラゴンボール』では全力で修行し競争し、負けた者を辱めず寧ろ努力を称える、いわゆるスポーツマンシップか武士道的な精神のありようがみられ、戦いはそこでは賞賛されると同時に目的でもあったのに比べると、けもフレオタのよくいえば優しさだが、軟弱さは甚だしい。
 けもフレオタの相対主義礼賛は愚民化の一部で、思考停止に陥っているに過ぎない可能性が高く、いわゆる批判的・弁証法的・脱構築的に既存の正義観を疑義する高尚な態度とはいえない。なぜなら2でその種の利害対立じみた場面が出てくるだけで彼らは「世界観を壊すな」と大発狂していたのだから。大衆の一部がけもフレオタだとすれば国民全体が幼児退行しているとはいいきれないにせよ、そこに垣間見られるのは明らかに幼稚化、思考停止、軟弱化、愚民化である。この傾向は萌えだか少女風擬人化だかオタクの流行を利用したこの商業アニメシリーズにも見られるものだが決して立派な傾向ではない。
 そもそもオタクが萌えだか少女風擬人化だかコスプレだかに喜んでいたのは彼らに性的倒錯者、幼児性愛者またはフェティシストが含まれていたからで、下卑た要素を多分に含む。このアニメシリーズは少なくとも2に当該要素が1より増えている気もするが、子供向けに無害化されてはいてもひたすら幼稚だ。
 ところで童話や童謡の世界は、童心の純真さの中で純粋な徳を大人が教える目的をもっている。しかしこのアニメシリーズも童話に結構似てはいるのだが、似て非なるもので、どことなく嘘くさく子供にしたところでこれに共感できるのか分からない。穢れた大人がカネ儲けでオタク騙しを作っている感がする。自分はジブリ以外のアニメは大人になってからはまず見ないので(それもテレビでやるから見るのだが)、他のアニメと比較して語っているにしても極めて限られた範囲だから批評として適切か知らないが、正直いってサブカルチャー全部もそうだが、所詮、知的に低次元な低俗な産物だといっていいだろう。

(「(けもフレの)内容が読み取れてない」ので可哀想、というツイートへの返信)
とりあえずシナリオだかその内容を簡単に書いてくれる? 1もそうだけどアニメ自体が物凄く分かりづらく、数度みただけでは幼稚園児が「無内容に」たわけてるだけにしか見えないのだ。私は君みたいにいってきた人を真に受け1を数度みなおしたが、中身が驚くほど薄くて大いに後悔したのでもう見ない。
 この世には永遠に分かり合えない溝があると思う。私は1を丸2日かけて検討したが、もし君が本気でこのアニメシリーズの「内容」を理解することが非可哀想だと思っているのなら、私は永遠に君と同じ人類になれそうにない。なぜなら私はその内容を完全に認知してなお、軽蔑の念しか感じなかったからだ。私は君みたいないわゆるオタクの人が、君の様にいうので私の見解が間違っているのかをはじめ疑っていたので、できるだけ慎重に自分の誤りがないか再検討した。また第三者にも客観的意見を募り、一体君達が何をいっているのか知ろうとした。その結果わかったのは、オタクは低俗な人だということだ。
 オタクが何を評価するかといえば、美術用語でいえばローブロウ(無教養、low brow)なものである。いいかえると子供でも分かり、なんの予備知識もいらず、できたら思考そのものを使わないものだ。ところがどちらかといえばこの正反対の傾向を好む性質をもっている人にとって、これは無内容となるのだ。
 High browな美術の典型的なものはデュシャンの便器だ。オタクがみればただの便器に落書きがしてある様にしか見えない。だからオタクに言わせればそれこそ無内容なものとなる。アウラ(本物らしさ)の議論や、美術展の制度性、署名の付与する作家性への皮肉など、予備知識がないと理解できないのだ。
『けものフレンズ』の1と2を何度も見返し、このアニメシリーズ礼賛者が幼稚園児並みの知能だということは重々理解したのだが、まだ納得いかない部分がある。それは君みたいな似非上位者ぶっているその態度だ。これほど幼稚なものを理解することが偉いだなんてどうしていえると思うのか。このアニメはいってみれば園児向けだから大人がみたら、分からないのではなくて余りに幼稚すぎて呆れるというだけで、「内容が読み取れていない」のではなく、馬鹿でも分かりすぎるからわざわざ語るまでもないほどだ、というのに過ぎないのに、分からないのか? といっている方がいかれている。例えば或る園児がAちゃんを殴ったとか、Bちゃんと歩いたという。Cの場所まで行ってきたという。はいわかりました。それだけである。ところが君らけもフレオタクは、これをわざわざ「内容」だと称している。はっきりいって何にもいえていないのだ。それを並のIQの人は「中身がない」というのだ。
『新世紀エヴァンゲリオン』というテレビシリーズは、この『けものフレンズ』とどっちかといえば正反対の類型を含んでいる。つまりは複雑すぎて訳が分からないほどなのだ。それはハイブロウという意味でではなく、単に物語の設定が凝りすぎているのだ。次に簡略化してまとめてみよう。先ずエヴァンゲリオンは典型的な少年が救世主になるというロボットアニメとか少年漫画の設定を踏襲しているが、問題は仲間が病だか心の病だかを抱えていてそれらの少女らにも独自設定があって各々の物語が交錯する。またこの少年の父が総司令官みたいなのなのだが、敵は元々この父が作り出したという。しかもこの父は少年少女らに敵と戦えというのだが、この敵は地球外からやってくる化け物で全人類を殺しまくるつもりの堕天使かなんかで、倒しても倒しても湧いてくる。で父は実は少年をいけにえにするつもりかなんかで、本当は人類絶滅の計画中だという。父は神になりたいのだという。意味不明だ。この意味不明さは設定がおかしいのだがその複雑な状態で物語は先に進み、また父の不倫だかなんだか、また少女らと同居して主人公の自慰だかなんだか、軽薄な男と指導役の女がいちゃつくだかなんだか、まあ猥褻な現代人的描写も挟まれていて少年向けとして大分おかしい。しかし主人公は敵と戦う。その少年は臆病だが彼しか地球を救えないので父の厳しい期待に応えようとするが、段々とプレッシャーに押しつぶされていき、終に最後の敵だというところで発狂して終わるのである。子供向けアニメの終わりが、発狂エンド。私は当時中学生だったが、最終回が主人公脳内の走馬灯で終わると思わなかった。そんで、このアニメは伏線が無数に引かれていてどれも全く回収されないので映画版とかで謎が語られる形式で色々カネ儲けしていたのだが、父親は母となる使徒と一体化して人類を滅ぼすのが夢だか、仲間の少女は虐待を受けてただか、そもそももう1人の少女もクローンだか、とにかく酷く複雑なのである。
 それに比べてどうだろうか。『けものフレンズ』少年が動物園をさまよっててオオカミ(サーバル)らに助けられ脱出しました。『けものフレンズ2』少年が卵から生まれ家を探しましたがありませんでした。これである。内容がどうとかほざいているが、あんなの内容じゃないだろ。園児が動物園で獣とじゃれてるだけだ。けもフレオタクは自分達が幼児退行していることに気づいていないのだろうか? 一体全体、筋とほざいているその内容を語れるというのならどうぞ、ここに記述していただきたい。まあ私は当該アニメを何度もみて確認したからあっそ、としか思わないだろうけど、感動したというなら全部いえるはずだ。
 因みに私は『新世紀エヴァンゲリオン』のテレビアニメシリーズそのものをろくに見てなかったしファンでもない。友達が見てただけでいい作品だとも思っていない。そもそもアニメに興味がない。何がいいたいかといえばロウブロウなサブカルチャーでもけもフレで偉そうにする理由もないだろうという話だ。
 正直いって、君と、もう1人、前に絡んできた人、その2人しかこのテレビアニメシリーズを何らかの意味で褒めている人と若干なりとも会話したことはないが、私は君らを通じて、アニメ自体を軽蔑しはじめた。それ以前はそんな感情はもったことがなかったのだが。童話なら分かるが、余りに幼稚すぎる。それと、アニメファンだかオタクだかと呼ばれている人達も、今まで生まれて1度も軽蔑したことがなかったのだが、単に幼稚で周りについていけないだけの癖に裏返って偉そうにするというわけの分からない高慢ちきな態度を2度ここでみたことによって、今までそんな態度みたことがなく文化衝撃を受けた。私の今回受けた心理的ショック、それもオタクやアニメ文化の一部が差別主義者だか精神病者だか知的障害者だか犯罪者も含む、ある種の裏返った愚劣さの同調圧力地獄みたいな世界だと知ったことのショックはかなり大きく、一生消えないかもしれない。君らはいわば退廃的排他集団を作りたいだけなのでは?
 君らは美術界では村上隆、批評界では東浩紀その他をイデオローグとし、自分達の排他的衆愚に同調してくる愚者を仲間にし、それが無意味だと、裸の王様だ、低俗すぎる幼稚だと見抜き指摘してくる人を今回みたいに「可哀想」だか「偏見を持たずに見るべき」だかいってごまかしごまかしやってきたのでは? 私はジブリの宮崎駿作品は、『風立ちぬ』だけ間接的性描写が入ってるから家庭向けとはいえず評価しないが、それ以外は全部いい方だと思う。実際子供の頃から見てきた。そして彼のアニメに比べ、けもフレ1と2が格が落ちるのはいうまでもないが、テレビだからとか言い訳抜きでファンが傲慢すぎる。
 庵野秀明は宮崎の元にいたからこいつらの系譜だけ取り上げるのは卑怯で、たつき監督をけもフレオタは全力で応援しますというのだろう。そしてアニメ大好きジャパニーズは私がいってることを何一つ省みず永遠にガラパゴス愚民化地獄で心行くまで退廃か幼児退行したいのだろう。だが私は騙されない。
 私の恋人がいう。アニメオタクは虐めてくるのだと。それはこんな幼稚極まりない、或いは時に下品極まりない内容のアニメを「わからないの?」とか「まだみてないの」とかいって虐めるらしい。まさに君らのことだ。そんな子供じみた馬鹿げた虐めの手段にこんな下らない偶像劇画をしてるならすぐやめろ。低俗な馬鹿の癖に、高尚且つ道徳的な人を差別する衆愚根性がオタクの正体であれば、私はこの種のサブカルチャーを褒めてきた村上隆氏も東浩紀氏も、わが国文化の天敵と見なすのに吝かではない。今すぐここで宣戦布告まではせず、もう少し深慮しオタク連中を分析してからにするが、近いうちに復讐する。一体何に復讐するかといえば、私の恋人を嘗て虐めたオタクどもにだ。しかも今回も、1人ではあるが私に喧嘩を現に今ここで売ってきている。オタクの奴隷精神を叩きのめし、全世界の恥晒しとして児童ポルノ問題等を利用し地上から粛清するのは私の力なら容易にできることを知らないのだろうか?
 私が直々に丸2日、且つ昨日をかけて、一体お前らのほざく偉大な作品とやらがどんなものか詳細に確認し、熟慮を重ね批評までしてやったのに、何だこの態度は。お前は芸術家をなんだと思っているのか。アニメオタクの1人よ。お前如き愚物が、我々の芸術の殿堂の片隅にも入りえない様に神々と裁断する。
 本当にお前のいう、その偉大な作品の立派な内容とやらがあるのなら、私は1度見た瞬間その作品を崇敬し、全世界の全知識人に全才能を使ってありとあらゆる賛美を伝えていたに相違ない。実際それだけの意欲も力も能も、準備や根性さえ私にはあるのだ。お前は中身のないものをあるかのよう嘘をついた。
 そもそもだ、こいつらアニメオタクは見る目がない。同調圧力で動いている本物の愚物である。なぜなら、私は1も2もこいつらの意見を全く無視してみたが、はっきりいって2の方が美術として遥かに優れている。2は性格悪そうで不快な関西弁キャラがいるのがきついだけで、お前らは何も見れていない。自分の目では何にも見れない本物の愚物の分際で、周りの更なる愚物がほざいているどうしようもない謬見に群れ、三文以下の批評でもない監督脅迫なんかしている連中が、一体全体、なにゆえに私に絡んできたのか。私の恋人の仇であるばかりか幼稚アニメを偶像崇拝している。オタクどもの罪深さよ。
 わが国の12万年にわたる全史の中で、このアニメオタクだかけもフレオタだかが出現したのは、たったこの1、2年、いや最長でも手塚治虫あたりからだから最長で50年たらずではなかったか? それどころか今年4月に終わったけもフレ2を種に、恋人ばかりか私まで虐めつつあった。ばかなのか? 私の職業はなんでしょう。私は絵描きです。20年間くらい毎日の様に絵を描いてきました。それでありとあらゆる絵をみようと努力してきたし、全人類の絵画技術の粋を集め、最大限の審美眼を身につけようと日夜研究に励んでいたら、突然、けもフレ2オタの1匹(上記)が私に喧嘩売ってきたのである。
 それで私の仕事としているこの絵だが、古代洞窟壁画からずっと続いている。当然のことながら写実絵画も描ければそこらのバンクシーらしき落書きも描ける。全技法を修養して当然なのだ。そこからいうと、けものフレンズ1は顔の造形(目)がおかしいといった。2は直っているといった。すぐ分かる話だ。私は本業が絵なのだから物語なんざ実質どうでもいいくらいで美術として全世界をみているのであり、そこからいって、1と2でいえば2の方が圧倒的に美しい。これは単体で褒めているのではなく1に比べて、ということだ。その程度の質の差すらわからないのに、何をみているといえるのだろう。本当に。
 オタクの人々は「なにもみちゃいない」。これは私が一人のプロ、いや世界史上無二の巨匠として断言する。本当だ。もう二度とそこらのアニオタ一般とやらの美術眼は信用するな。2のオープニングでぐるぐる回って空にカメラが移動する場所と、2の最終話だか11話で海を背景に逆光で少年が話すところ。この2つの箇所だけみればいい。美術の進化度という意味で飽くまで1に比べてだが、先ずこのぐるぐる回ってカメラが上昇する描写は、映画のカメラワークを意識してると思うが初歩的な遠近法だ。大きなものは近くに見える作用で垂直的高さと、青い大気で地平線の広さを同時に表現している。しかしこれは美術界ではイタリア・ルネサンス期の手法なのでアニメは今頃やってんだね、って感じで千年くらい遅れているけれども1の全部をいれて他の稚拙な描写よりは現実感の意味で優れている。
 もう1つは海の煌きを背景に少年の顔を影で表現するシーンだが、これは明暗法というやつだ。これもルネサンスの少し後くらいでカラヴァッジオとかが流行らせた手法だからこれまた千年近く遅れている。つまりは美術とみて実に後進的でスーパーフラットとか無理いってるが基本を学んでないのが丸分かりである。それだから全体がのっぺりしていてキャラが浮いて画面を長い間みてられないのである。
 因みにジブリアニメはここまで美術が下手じゃない。勿論、ハイアートに比べれば単なる幻想感の表現に過ぎないから子供だましの下らない次元ではあるけど、少なくともどうしようもないなって感じではない。本当に下手すぎてびっくりなのは1である。2もうまいとは、上の2つ含めほぼ思わないけど。そもそもデフォルメされたキャラクター描写単体でみても1に比べ2の方が人物造形に無理がない。これは例えばピカソやベーコンやクーニングの人物画が美術の中では成立済みなのに比べ1は寄り目すぎて黄金比の点でおかしいでしょって次元だからこれまたレベルが低すぎる話なのだが。
 因みに断定してもいいが1~2の全部を通じてみて最も美術的にうつくしいといえるのは上に出したオープニングでぐるぐる回ってカメラが上空に行く所だ。ドローン撮影でミュージカル風の演出をした、みたいな感じでかなり新しいし、今言った様、遠近法が成立していてある種の優雅な立体感があるからだ。
 アニメ批評家ども(ウィキペディアに載ってる類の)はまともに美術の勉強すらしていない上に、サブカルしか見てないから子供でもできる感情論に耽っており演劇の批評言語ももっていない。それでこれまた幼稚な感想を述べているにすぎず、そもそもこれを原因としてアニメは美術ではないのである。
 上に書いたところで「下手さ」は、日本美術では「ヘタウマ」とか下手さそのものを評価する批評言語がある。だから下手なことそのものは否定的評価を伴うとは限らないのだが、ここでいってるのは1が素晴らしい、1は神とかほざいてる三流オタクは美術をわかってないね、何も見てないんだねというのだ。
 まあアニオタという輩は、そもそも僕は小学校のときクラブ活動で漫画読めるから漫画クラブとかいうのに入ってゆとりの時間だかなんだかに何読んでたか忘れたがなんか読んでドラえもんとか描いてたが、それ以来一切みてなかったけど当時の漫画読んでる子供より遥かにたちが悪くなっている。
(すごくどうでもいい情報だが思い出したので書くと、私が小学校のとき漫画クラブとかいうゆとりの時間に何でもクラブ入って遊んでていいですよという時間に読んでたのは、多分だが『YAIBA』だった。で、一つ思ったことがあるのでこれから続ける。
 先ずこの漫画の作者、青山剛昌はこの後、有名になった『名探偵コナン』に移る。ヤイバが終わって。しかし実はコナンは同時期に流行ってた『金田一少年の事件簿』のパクリなのが丸分かりで、先駆性からいったら金田一のが早かった。そしてヤイバとコナンを比べても、普通にヤイバの方ができがいいのだ。
 ヤイバの内容は伝説の剣士の家に生まれた侍っぽい少年(多分、中高生)が、修行の末に幼馴染の恋人を守り抜くという筋で、騎士道的な色彩だ。最後に空飛ぶ剣に乗りバイクでみたくしがみつく恋人とE.T. 風に月を背に飛んで終わる。
 金田一の方は『週刊少年マガジン』で連載してたからか、多少大人っぽい描写があり、知的な主人公を誘惑してくる恋人でない女が「あなたの存在証明(レーゾン・デートゥル)がほしい」とかいって関係を求めてくるみたいな場面があったり、そもそも殺人事件も子供がみるには怖いほどの残酷さがあった。
 で、青山剛昌はヤイバが終わってからコナンを描いたが、ヤイバ的な少年漫画らしさを金田一の構造、つまり探偵小説みたく次々起きる事件解決をくり返す型とくみあわせたのだ。それでこのコナンも続けて自分は当時読んでいたが、できが悪いわけではないけど、金田一の真似かよって感じで安直だった。
 しかし一般大衆は、ヤイバや金田一より、コナンに群れた。すなわち商業的ヒットって、作品のよさと必ずしも比例しないのだ。だから「人気度」で作品のよしあしをはかってる人は、判断を誤る。
 実はこのゆとりの時間あたりで、当時小学校3年だか4年くらいの僕は、クラスの棚にあった小説『吾輩は猫である』を読み出したのだが(もちかえってきてそのままになってる気がするが、時効にもかかわらず返した方がいいのだろうか)、例えば当時流行の『I"s』より普通にこっちの方が面白かった)
そもそも当時は同人誌の類もなく、きちがいじみた変態アニメみたいなのもなかった、もしくは広く知られていなかったのに加え今みたいに萌えだのコスプレだの下卑た概念もなく漫画といってもブラックジャックの延長上にある、シリアスかギャグか少女かくらいのパターン絵巻物みたいなものだったわけだ。
 皆さんは『週刊少年ジャンプ』という雑誌を賞賛している。だがあの雑誌も自分の時はドラゴンボール以外はろくなのなかった。どうでもいい情報だから省くけどわかめ高校とかいうのは全部読んだが。ドラゴンボール形式をぱくった『ワンピース』は完全に劣化版でしかなく、絵も恐ろしく下手で展開パターンが限られていて面白くない。鳥山明は、私はその後、美術の道に進んで本格的に現代美術の最先端(つまり私)まで網羅的に学んでからもう一度見直してみたけど、はっきりいって天才漫画家である。鳥山明は美術家がみても、高度な技法を使ってる場面も確認できるし、そもそも絵が恐ろしくうまいのは誰でもわかるが物語も上手だった。鳥山明は語り部としてはエロスを下品に表現する場面があるから、そこが彼の限界というかコミックではあるんだけど、近作ではおじいちゃんが主人公で枯れているから昔よりずっとましになっている。宮崎駿は逆に抑え気味ではあるが性表現を子供相手に最後にやってしまってるから老醜を晒した様に見えた。
 そんでだ、この手塚治虫から続く歴代天才だか漫画家らの列に、『風の谷のナウシカ』の次に『けものフレンズ』を並べられますか、という話なのだ。笑ってしまう。ナウシカ漫画版を勧められて読んだけど、宮崎駿は漫画の方が才能があった。彼はカネのために映画に行ってしまったと思うけど、たつきはいずれにせよ彼に匹敵するのは無理だ。けもフレオタが幾らひいきしようが、宮崎駿の圧倒的な描画と想像力の前ではこのしょぼすぎる3DCGでの筋の潰れきっていて内容を確認に何度も見直さないといけないどうでもいい話で対抗できるわけがない。だからいったのだ、これに夢中な大人は幼児退行してる病人と。先ず自分を疑った方がいい。
 言っておくがアニメなんて無数にあるのであって、『けものフレンズ』がどの程度の質のものかというと、『忍たま乱太郎』くらいのものである。忍たまも相当流行ったし、実際面白かったが、今も知っている人がどの程度いるだろう? ちゃんとアニメの質を確認しろといいたい。
 以下ここで絡んできたやつが言ってた「内容」の概念について、なぜ私のいう「内容」と解釈がずれてるのかについて講義する。
 先ず文学的ミニマリズムについて説明する。これははじめ美術でドナルドジャットとかが箱を並べはじめて、機械文明のリズムを表現するんだとかいいだしたことから興る。この単純な幾何学形態を連続配置する手法、本来のミニマリズムはそれまで彫刻が担っていた装飾性を拒否する、モンドリアンの新造形主義からバウハウス、で建築で言うロース『装飾と罪悪』を受けたコルビュジエの論理まで遡れ、「形態は機能に従う」機能主義の要請を受けた美術思想といってもいい。即ち当時の前衛建築家らが近代合理精神にのっとれば中世みたいなごちゃごちゃした装飾はいらないんですよと。簡素な造形、工場みたいに機能そのまま露出させてる形の方が寧ろ新しい美なのですといいはじめたのは彼らそれぞれの理由があったがまあ現実には新興市民、労働者の為に安物を作り始めたのだ。
 で彫刻家は建築装飾を古代ギリシア以来してきたので仕事がなくなっては困る、でジャットはじゃあ自分も装飾じゃなくてもはや建築資材みたいなのをそのまま並べたら新しい美じゃね? っていうのだ。Minimalとは最小・最低限の意の形容詞である。Ismとは思想、主義。ミニマリズムとはMinimal+ismで、直訳すれば最小主義だ。これを本気にして音楽家の世界でもミニマリズムが流行りだした。
 純粋音楽でいうと『チャイナゲート』という曲の作曲家ジョンアダムズとか、大衆音楽だとクラフトワークという音楽家グループのテクノ様式とかが現れ、単音または単純な機械音を並べ、美術概念を援用して近代機械文明の工場からする建設音みたいな感じをだしはじめた。で更にこれらを受け文芸でもまねっこしだす。
 文芸ではアメリカでミニマリズムが流行り始めたのだがそこは敢えて日本での動向に焦点をあわせ説明する。なぜかはのちわかる。でこの傾向の典型的なのが芥川龍之介『文芸的な、余りに文芸的な』で、この中で芥川は筋論と対比させミニマリズム的なものを賞賛する。「『けものフレンズ』を巡る対話」で書いたが、そもそも文芸は古代ギリシア詩劇の最大の批評書、すなわち最古の文芸・演劇論といっていいアリストテレス『詩学』以来ずっと筋論をしている。筋(英語でいうplot)は物語を進める流れで、登場人物に起きる劇的展開をいう。
 芥川は短編小説家だった。当時翻訳してた大長編『源氏物語』の大河的筋を賞賛する谷崎潤一郎に食ってかかり、いや、小説ってそんなもんじゃないでしょ。もっと色々あるでしょといい、芥川が好きだった志賀直哉を引き合いに芥川自身の前衛性を多分に含む実験小説群も擁護した、というのが典型的解釈だ。例えば『あばばばば』という芥川のミニマリズム的作品(実は最高傑作?)があり、タイトルからしてふざけているが、ここでは近所のタバコ屋の娘が最初は生娘っぽく応対してただそれだけだが突然、あばばばばといいだす。何かと思ったら店の中で子供をあやしていた、ああ母になったのか、という話だ。
 即ち文芸におけるミニマリズムは日常生活の淡々とした描写をする手法になった(で私は文学(芸)のそれを日常主義と時に意訳する)。これはつい最近、ジョブズらが余計な決断力を浪費しないため簡素な服装してたのを日本の非正規雇用者だかが質素な様式美としてまねし、服飾用語にした生活ミニマリズムとも意味のずれがある。
 そんで、サブカルチャーというのは無教養な大衆を相手に商うものだから上記みたいな知識人世界を相当遅れて、劣化させつつ顧客に卸す、有体にいうと昔の日韓、今の中国みたいなパクリ(盗作)業者になっている。漫画やアニメでミニマリズムが採用されたのはかなり遅い。いわゆる日常系というやつだ。元々日常系が典型的に使われ始めたのは日本でいう藤子・F・不二雄が『オバケのQ太郎』『パーマン』『キテレツ大百科』『ドラえもん』等で使いまわしていた某フォーマットがそれにあたり、延々小学生が終わらない。それ以前なら『サザエさん』や『天才バカボン』、『ブラックジャック』も要素はあった。
 で、なぜ敢えてミニマリズムの影響を日本に焦点を絞って語ったかといえば、日本ではアメリカとは違った展開をみせたからだ。
 例えば漱石の『門』も日常主義が使われ、冒頭と終わり部分は主人公の会社員が奥さんと縁側に猫だかと座り、爪きりだかし、奥さんは裁縫してて、春の庭をみながら雑談する。漱石はイギリス留学で鬱病だか神経衰弱だかになり、暗い現地の天気や、当時のうぶな途上国日本に比べ文明病じみた利己的国民性にさいなまれ、日本に帰ったら縁側で猫と寝て庭を眺めたいといっていたくらいだから、『門』は彼のミニマリズム願望が完全に表現された記念碑的作だ。で、実は『門』全体はただのアニメ的日常系ではない。この冒頭と終わりは実は『門』全体の作劇法上、筋にとって起承転結の起結(三幕構成でいう始終)になっていて中盤で起きる劇的展開、即ち妻の前夫(の親友)が家に来かけ主人公は焦って出家するが挫折し、自宅に帰って妻と和む場面対比効果なのだ。
 一方、アメリカで日常主義がどうなっていたかというと、ビートニクと呼ばれる世代から始まって、素で庶民の日常を描く手法として使われた。それまで物語といえば王侯貴族とか、特別な長所をもつ人が典型的だったのにそこらのアメリカ中西部のヤンキー生活をそのまま書いてもいいんだよとなったのだ。この意味でアメリカ版文芸ミニマリズムは自然主義という思想潮流が西洋のルソー『告白』くらいから起きてアメリカに影響したといえるけど、日本で自然主義は田山花袋『布団』から私小説の流れに入って別のものになったのと対照的だった。輸入業者としてアメリカ日常主義をぱくったのが村上春樹だ。どういうことかというと、薬物やって割と簡単に交尾し、車で走り回って下らない日常を過ごしてる典型的アメリカ人(いわばガチヤンキーの本場版。ガチとは相撲用語で本気の意。ヤンキーとはアメリカ人の愛称だが日本ではしばし不良に転じて使われる)の下世話な焦燥感を独白で内部告発的に書いたのがサリンジャー『ライ麦畑のキャッチャー』とすると、村上春樹は戦後、これを格好いいものと勘違いした。
 日本では花袋以後、主に東京文壇でダメ人間の変態性欲や自殺願望みたくどうしようもない愚痴や、悪徳告白をする様式が、私小説と呼ばれた。つまり西洋の自然主義は、捨て子のルソーが貴婦人の男娼状態で生き延びた過去を人権の種とし、赤裸々な感情を語ってくれよ、とする流れを独特に陰湿化していた。
 村上春樹は神戸で生まれ育つ中、米軍人が古本屋に売り飛ばした上記の小説が落ちていて、これを大人になってからまねて『風の歌を聴け』を書いた。つまり私小説や日本版日常主義じゃなく、アメリカ版のヤンキー日常主義をそのまま神戸人不良の描写としてやってみたら、まあまあうけてしまったわけだ。
 ほんで、何がいいたいの、若干複雑じゃありませんかとなってきたが、サブカルは例によって上記の文芸その他、純粋美術での流れを劣化コピーし、ヒトラー「大衆の一番程度の低い者に合わせて」演説する形式で金儲けしようとする。それがいわゆる日常系で、これは直接的には春樹コピーなのだ。(上に出した『サザエさん』的な終わりなき日常系は、これと区別するため古典的日常系とする)
 一体どこらから、日本版日常主義(作劇法的な場面効果を狙った日常描写)じゃなくて、アメリカ版日常主義の劣化コピーであるところの春樹コピーの、更に劣化コピーである「日常系」が始まったかというと、エロゲ(エロスゲームの略で性描写を含むアダルトゲーム)とライトノベルからだ。エロゲも実は他にも模倣先があって『ときめきメモリアル』という恋愛ゲームがそれにあたり、色んな恋人が出てきて意中の相手を射止めるとクリアという筋を描く為に、高校生だかの日常を、漫画での古典的日常系に近い形にした。そしてこれを春樹的に簡単に異性と寝るアメリカミニマリズムを真似た性描写にした。ラノベ(ライトノベル)は、春樹という輸入業者が南米(マルケス『百年の孤独』)などで流行ってたマジックリアリズム(幻想と現実を混ぜて描く手法)を流用販売しはじめた(『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』)頃からその劣化コピー版として流通し始めた。まあ実は遡ると馬琴『南総里見八犬伝』くらいまでこのマジックリアリズムの萌芽は日本の中でもみられたのだが、それを日常系と混ぜたのがラノベで、最近は転生物(日常を送ってたら幻想の世界に生まれ変わった)に展開しているわけだ。凡人の現実逃避の為の手段で。まあどっちにしても劣化コピーだ。(多少細かく言うと、「でも転生物はラノベの独創なのでは?」という論点についてだが『新世紀エヴァンゲリオン』最終回(夢が覚めて僕が救世主なんて全部嘘だったのか)とか、そもそもRPG『ドラゴンクエスト』が幻想世界の救世主として目覚めて始まる転生後の筋だから、原型は既にあったといえる)
 つまり文芸日常主義には
1.漱石的日常主義(作劇法上の演出で日常を描く)
2.アメリカ風日常主義(庶民の日常を描く)
3.春樹的日常主義(アメリカ風日常主義の模倣で、何らかの不良を描く)
4.古典的日常系(『サザエさん』『ドラえもん』みたいに延々日常が終わらない)
5.日常系(エロゲやラノベみたいに春樹的日常主義や古典的日常系の混成した模倣で、退屈な日常をほぼ無内容にくり返す)
の最低でも5つがある。
 そんで、結論をいうと、ここで俺に絡んできた人だかオタがいう「(お前には読み取れていないのが可哀想な)内容」ってなんですか、といえば、この春樹的日常主義の劣化コピーであるところのアニメ版日常系の、その取るに足りない戯れの幼稚園児版である。少なくとも『けものフレンズ2』は、そうだ。
 一体あなたは何がいいたいんですか? というと、これは最重要批評になるに違いないが、『けものフレンズ』(けもフレ1)の方は、実は上でいう漱石的日常主義の文脈で日常描写を使っている。即ち漱石『門』でいう劇的展開との対比になってるのが2話~6話と、8話~10話だ。いわゆるほのぼの描写。
けもふれ1では
1話 動物園をさまよう少年が獣と自分探しの旅に出る
(日常描写)
7話 少年はヒトと分かりヒトのいる園の外を探す新たな旅に出る
(日常描写)
11話 敵に襲われ少年が獣らをかばう
12話 獣らが少年を助け園外脱出
この「日常描写」部分に、芥川がいう「筋のない物語」、いわゆる文芸ミニマリズムが使われている。
 対してけもフレ2では、
1話 動物園で卵から生まれた少年が獣と家を探す
(日常描写)
11話 少年が海に落ち獣に助けられる
12話 少年は獣と園内でくらすことにする
この様な筋で、「日常描写」部分が1に比べ対比効果を伴っていない。いいかえれば日常系を素でやっていて、多少なりとも春樹化している。
 詳細にいうと、けもフレ1の日常描写部は、人類破滅後の世界を生き延びた絶滅危惧種であるヒトの子が、図書館で自分は何者かを知り、同種を探す旅に出ようとするものの、天敵に襲われ、無私の動物に助けられ生き延びる、という劇的展開の筋全体において、動物の無私さを強調する役割である。ところがけもフレ2での日常描写は、そもそも獣に助けられる筋書き自体が1の劣化した模倣に過ぎない上、1において使われた漱石的日常効果(しかしけもフレ1においても間延びしすぎて時間の無駄に近いことは既に書いた)を利用できていない。しかも劇的展開そのものがほぼ浄化を伴っていないのだ。
 これがけもフレオタどもが大発狂した訳、作劇法的に理論化した原因なのだが、端的に言うと文芸ミニマリズムの遡源というべき西洋自然主義(素直な感情や恥ずべき過去も語っていいさ、人間だもの)と、その応用編である日常描写の劇的対比効果を使えてないから、実は彼らはつまらないといい怒ったのだ。
 けもフレ1での日常描写はかわいい少女風の人型獣とたわける少年に同一化し萌えてた社会人オタが幼児退行の手段とし、精神療養の場になっていたろうと既に書いた。即ちそこでの無意味な戯れ(山奥までよく来たね、最近お客さんこないんだよ、そっすかみたいなの)を2の木村隆一監督は日常系と解した。なのでけもフレ2は1のたつき監督のと違って、劇的対比効果を筋全体であまり使わず、より日常系が延々と続く話にした。つまり「オタどもは仕事で疲れて脳死したいらしいから、こんなもんだろ」とわりかしB層扱いでなめ腐ったとまでは行かないが、無意味な戯れ自体を1と違ってひっくり返さなかった。1でオタが歓喜したのは、敵が無教養的労働者の脳死萌え世界を潰しにかかってきたので、唯一のヒトが救おうとしたら、逆に彼らの萌え対象の擬人化少女獣らが立ち上がって潰してくれたところである。地下アイドルファンのおじさん達が金貢ぐ相手だったアイドルらから逆に救われたら涙するみたいな感じ。オタ界からすると「あれー、俺たち搾取されてんのかな」って薄々感づいているがそれが幻想の中でひっくり返され、偶像が「あなた達のおかげで私があるの!」とほざく(勿論偽善だ。皇族が国民ありがとうみたいな)のに浄化があったのだが、2はそれがなかった。なんだただの日常系かよ? となったのだ。
 で。この俺に絡んできたオタが「(分からなくて可哀想な)内容」というのは、2における延々続く無意味な戯れの部分で、実際には私は美術的目線で見るのでその部分の方がましだといってるのである。なんでかといえば既に触れたがそもそも2の3DCGや美術技法の方が1に比べずっと高度で上手なのだ。別の言い方をすると、別の人もいってたよう、この2の無意味な戯れは典型的日常系を、アホ会社員どもが仕事から帰ってくるや深夜に脳死状態でボーっと眺めるのをマーケティング目的で標的され作られていて、本当に何の中身もない、寧ろ意図的に無内容こんにゃく情報(「こんにゃく情報」は『情報の文明学』での梅棹忠夫の語)にされているのだ。嘘だと思うなら子供に聞いてみるといいと思う。NHK教育テレビの動物紹介動画だってここまで無意味でアホ臭くはない。だから幼稚園児向けだといってる。園児くらいだと不確定に動くものを追いかけるくらいでも楽しいものだから、動いてるだけでわーとかいってる。作劇法上も無内容な部分ということだ。
 要するに、このオタはけもフレ2の日常系描写の無内容こんにゃく情報を「でも栄養あるんじゃ?」といってるわけで、こっちは「あのね、これ食物繊維の塊。全く栄養なくはないにせよ、あんたら労働者の底辺をナチス的社畜扱いで時間とグッズ搾取する為に意図的に仕込まれてんの」と教えてやってるのだ。
 補足すると、NHK教育テレビは現時点ではEテレかもしれんが、そもそもテレビみてないだろうからNHKの教育向けテレビチャンネルと表象化して書いた。あと村上春樹のアメリカかぶれの輸入業者ぶりは大江健三郎が芥川賞の審査員として、日本文化<アメリカ文化、じゃないでしょという批判を最初にしてる。
オタA「でもこんにゃく情報の美味しさが分からないなんて可哀想」
私「こんにゃくがうまいのはマンナンライフのこんにゃく畑だのしらたきだの、仙台の涼しい杉林の中の茶店で真夏に食う透き通ったくずきりだかで重々承知だが、無内容さを無内容さとして認められないばかりか威張り腐ってる理由は?」
オタA「けもフレ2の2話~10話を見返せ」
私「またか」
オタA「日常系で何が悪い。永遠に萌え少女擬人化獣類と戯れていたいのだ、おれは。お前は敵か。悔しいから見下しつつ差別してやる」
私「作劇法を全否定するのはいいが、だからといって無内容さが無内容でなくなるわけではない」
 まあ結局この絡んできた人が、自分に喧嘩売るみたいな感じで、まさに筋の通らないこんにゃく日常系情報を内容扱いせよとしてきた原因は、2の木村隆一が1のオタ受けを日常系脳死に違いないと拡大解釈し、作劇法を捨てたことにあるというのが上でやった私の分析だから、このオタAが無理いってるのだ。2のほぼ全体は1の平和感を演出する日常描写より更に無内容さを突き詰めたものゆえ、2を擁護する立場のオタAがいうべきなのは逆に「無内容で何が悪い」と開き直ることなのだ。それこそ日常系アニメが、例えば『けいおん!』とかで萌え的メイドカフェハーレム妄想みたいなものとしてやってたことだ。
 また、絡んできたお前は例えばテレビアニメ『ご注文はうさぎですか?』(ごちうさ)の日常系が甚だ無内容さを前面化してるものなのをどう説明するのか? いうまでもないがけもフレ2なんかこれに比べたら、つまり学力的低偏差値風だか幼稚化したメイドだかの極端なぶりっ子世界に比べ、わざと幼稚っぽくした様にしかみえないであろう。『ご注文はうさぎですか?』(私はアマゾンプライムにあったから1話だけ流してみた)の無内容さを強調する超絶ぶりっ子世界に比べ、けもフレ2のこんにゃく加減は「内容があるふり」をしてるだけまだ全然ましというか、一応筋っぽくしてある。ごちうさにおいてはほぼ全体が低俗な雑談でしかないのだ。
 ちなみに、無内容さを強調する手法なんざ、文芸界ではとうの昔にやられていてジョイスの出鱈目描写な『ユリシーズ』か更に筋をぶっ壊した破壊文体の『フィネガンズ・ウェイク』、ピンチョンのニンジャが出る日本もどき世界で格闘しつつ狂乱生活しまくる『ヴァインランド』あたりでぶちぬいてある。和歌の伝統に遡っても無心所着という無内容な句の連なりを評価する審美観もあるし、最初に絡んできたお前は「内容のなさ」を低評価と勘違いしているが、それは全くお前が劇だか詩だか語りだか、アニメーションの構成要素となっている諸知識を理解していないだけなのだ。無内容だから日常系というのだ。
 更に深堀りし説明してやろう。例えばRPG(テレビゲーム)の『ドラゴンクエスト』(ドラクエ)と『ファイナルファンタジー』(FF)シリーズでは本筋に無数の副筋(サブイベント)が枝葉みたいにくっついていて、それらを辿るとドラクエだと貴重アイテムと交換できる小さなメダル、FFだと特別装備みたいなのが手に入る。それでこれらの副筋は本筋にほぼ回収されないので辿っても辿らなくてもいい。これら副筋状にも無数の物語があり、プレイヤー(自分の演じる主人公ら)はこれらの小さな物語群も「副内容」と認知するとする。逆に本筋は「主内容」だとする。がこれらのRPGでは副内容の方がしばしば本筋より印象深い。最も代表的なのがドラクエ5で、主人公は成人後、幼馴染か、金持ちの箱入り娘か、(DS版だと且つその娘の高飛車な姉か)、の内からどれかを択ばなければならない。でこの後、結婚しなかった人らはそれぞれの人生を辿る。二度と会わなくてもいいが、プレイヤーは副内容に責任を持つことになるのだ。
 これで何がいいたいかというと、けもフレ2の日常系無内容さは、この種の副内容ですらない。すなわち本来、劇作でいう「内容」は筋にとってどんな意味をもっているかなのだ。だから形式(或いは様式、つまり表現の仕方。効果音、色使い、カメラワークとか)抜きで筋(内容)だけ抜き出して書けるのだ。
 けもフレ2の2~10話の筋ははっきりいえば破綻済みで、そもそも適当にくみあわせられていて必然的連関をもっていない。全く無意味とまでは行かないが、ドラクエでいえば中盤くらいの感じで、A地点からB地点になんやかんや移動していくみたいに馴れ合い状態である。それだから無内容にほぼ等しい。
 内容が素晴らしくある例でいえば、『ハムレット』をあげると、主人公であるハムレット王子が父の亡霊を見て、父は王座をのっとるつもりのいとこを恨んでいると告げ、王子は婚約者に「尼寺へ往け」と別れを告げると、いとこと再婚した母といとこを殺し自殺する。婚約者も発狂し王子の後を追い自殺する。(私がRPGでリメイクした『でんまーくのおうじ』もある)
 このシェークスピアによる詩劇の筋は全てが必然的連関をもち繋がっていて、いわゆる内容がしっかりしている実例だ。そして彼一流の言い回しの妙でこの劇全体が言葉によって紡がれるのだが、その修辞法が形式にあたる。
 まあシェークスピア版『ハムレット』は、正確には私が上に書いた筋ではない。上の簡約版は私の作で、筋にとって無用な複雑すぎる部分を除いたものだ(そもそも再婚者が王の弟という設定をいとこに替えてある。理由は自分でもよくわからないが、多分、近親相姦への禁忌か、(例えば伯夷・叔斉や義公との対比で)悌に反する部分は避けた方がいい、なぜならこれらは王位簒奪者による母との政略結婚、息子がみた母から父への親愛についての懐疑を曇らせる、余分な不徳さを憎しみの原因にしてしまう。つまり省いても作劇の本質上問題がないという判断からだろう)。しかし総じて全体の推進力は必然的で欠かせない部分だけでできているので、例にした。つまり、最初に絡んできた君が言うべき内容とはこの推進力だ。「内容がない」とは、詩劇の伝統的な意味では、ある筋を必然的に前に進め、登場人物らに劇的展開を巻き起こしていく語りの推進力が足りない、すなわちだらだらとしていて何がいいたいかも分からなければ登場人物らが何を意図し何を目的にそれぞれ動いているのか示されていない、故に退屈ということだ。
 一体君が「内容」をどういう意味で使っていたのか知らないが、私が再分析し上記で説明したところでは、
1.もともと内容とは劇作において筋(又は副筋)の必然的推進力の意味
2.日常系アニメはわざと無内容さを描くことで筋を進めない手法をとる
3.本来の日常描写は次の展開との対比効果が目的
で、私の推測で君が「内容」をどんな意味で使っていたかといえば、この日常系アニメのだらだらとした筋を前に進めるでもない馴れ合いの雑談や雑事を内容扱いしていたのでは? それは、劇作では装飾であり、内容ではない。正確にいえば「設定の作り込み」の様な部分で、且つそれはけもフレでは粗雑だ。
 設定の作り込みが最も徹底している劇作の例をあげれば、RPG『ドラゴンクエスト4』か映画『マグノリア』かもしれない。これらはそもそも主人公が頻繁に交代し、それぞれの主人公にも詳細な設定がしかけてあって全てが見える上に、途中から最後に全員が副人物として交錯するからだ。
 けもフレ1も2も、各地方で何らかの人型獣が出てきてそれらの個々にも何らかの事情があることが語られはするが、大概においてその場で別れなかなか再登場しないし、しかも一話24分内で語られている各々の物語が薄すぎて各キャラクターに主人公級の内容がないから、ただの萌えキャラメイド状態だ。例えば最低でも『ドラゴンボール』の主人公以外のキャラクターにおける「内容」をみてみるがいい。ブルマ、クリリン、ヤムチャ、天津飯、プーアル、ピッコロ、ラディッツ、ベジータ、人造人間16号、魔神ブウ、御飯、ミスターサタン、これらだけで全員凄まじい作り込み方である。同じテレビアニメだ。勿論、本物の漫画原作『ドラゴンボール』の方がアニメ版より素晴らしい出来映えだから、アニメはそれをコピーしたものに過ぎないが、ここでいいたいのは「内容」というべき代物をきちんと語っているといえるのは、キャラが雑談してるなんて当たり前のことで、彼ら個々人に魂が宿ってる必要があるのだ。
オタB「私の中ではけもフレの獣にも魂が宿ってるよ」
それは『ドラゴンボール』レベルの入魂度を知らないだけだ。
 色々書いたが、私はけもフレ1も2も、幼稚だと思うが特に嫌悪していない。寧ろ他の漫画原作深夜アニメ的なのより下品な要素が少なく、童話っぽく、まあオタク文脈中では相当ましだろうなと思う。又少なくとも2の美術に関しては再三書いたよう可愛い感じだし、1に比べれば評価している方だ。
 大体、3~4日かけ考察したが、『けものフレンズ』シリーズとは、物凄く肯定的な視点から一言でいうと、動物愛を通じある種の慈悲と友情を信じる人達が、萌え擬人化キャラにたわけているアニメーション作品だ。但し、とかく幼稚で退屈かつ冗長に表現されていて主にオタク向けになっている。
 結局4日も費やしてわかったのは、オタクの一部は明らかに詐欺師だということだった。「低俗なもの、低次元なもの、幼稚なもの、無教養なもの」をすぐ分かってしまって面白くないといっている知的な大人を、なぜか劣等感の裏返しで「こんなのもわからないのか」と蔑視する、いわゆる中2病(知的障害を除き、凡そ中学二年生くらいの精神年齢に留まっている大人を、子供じみているという文脈で揶揄する俗語)の性質だ。

(続き「なぜ動物愛護や生命倫理の観点から『けものフレンズ』が幼稚といえるか」)

※このブログURLは2019年6月8日に
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