2019/05/08

商人の利益追求と武士の大義の勇は正反対の精神性

(中国人や韓国人は儒教を大切にしている、というツイートへ)
細かい話かもしれないけど、中国の人で儒教を大切にしてる人って多分少数派でしょ。共産主義とか道教なら分かるけど。儒教を大切にしてるのって現実には日韓の人だと思う。中国で儒教が流行ったのって物凄く昔でしょ。文革で弾圧(批林批孔運動)されてからはほぼ反国家的な思想とされてたでしょう? 日韓人で「長幼の序」で先輩に敬語使わないとか、道を教えてもらって「礼」いわないとか、恐らく嫌悪感を感じるだろうけど、こういう儒教的観念が民間人の中に普通に存在するのは日韓であって中国ではない様な。最近は孔子学院とかいって中共が方針転換してるけど中国人庶民の中では孝行くらいでは。
 会社だか国家への忠誠心だの、天皇への君臣の義だのを大真面目に信じてるのは、思いっきり日本人であって、中国人にはこういう儒教は全く存在しないといっていいと思いますね。そうでなければ文化大革命おこしたり、当時の皇帝をさっさと滅ぼして次の王朝つくったりできませんからね。

(「宗教がない国は明治時代に国際社会で見下されたので新渡戸が武士道をでっち上げた」とのツイートへ)
でっち上げたとかいってるけど、本当にリアル武士達は150年前に誇り高く生きようとしてたわけで、これはある種の逆張りの身分差別ですね。現実に武士がいなかったつもりになっているのでしょうか。歴史をちゃんと調べたら、武士が武士道と呼ぶ倫理体系をもっていたのはただの事実。切腹してたでしょ? 例えば忠臣蔵とか桜田門外の変とかは史実であって、主君が侮辱されたので、自主的に武士らが自分の忠義の為に脱藩だの辞職して仇討ちしたわけですよね。それで大抵、切腹する必要が生じて自殺したと。こういう倫理って、日本独自のもので、現に存在してたんですよね。
 子供に武士道の是非を問うのは高度すぎるので(倫理学者もろくにやってない)、とりあえず武士道という日本独自の倫理体系がありました、それはこういうものでした、彼らは義の為に、或いは公の為には私を犠牲にする考えでした、どうおもいますか、と問うのは、まあ普通の倫理学の初歩だとおもうけど。例えば福沢諭吉は武士道について、一つは忠臣蔵の倫理学的是非を問う小論を書いて、通説に反してあれはただのテロだといっている。つまり直近の主君じゃなくて将軍の命令に従うべき、という話だったと思う。他に幕府に使えてた侍が明治政府に仕え直したのも批判している(いわゆる『痩我慢の説』での榎本武揚批判)。こういう次元の議論になる。
 新渡戸稲造もそうだけど、確かに日本人一般はろくに宗教教育を受けないのに、独自の倫理を持っているというのは確かなので、また犯罪率とかも謎の低さで、その体系を武士道と名づけて書き残したのは江戸時代生まれで、昭和に死んだ新渡戸の目からは誠実な社会考察で、かつ真実だったんじゃないですか?

(子供に与える道徳の授業で、哲学的なややこしい問答にすべきでないとのツイートへ)
道徳は哲学、具体的には倫理哲学を元に、個々人の中にある規範の体系としてできあがるものであるから、子供であれ、哲学的にしか獲得できません。
 哲学とは「知恵を友愛する」という意味のギリシア語フィロソフィア(philo(友愛する)+sophia(知恵))からきた明治時代の西周による訳語であり、実際には全学問を意味しています。学の考究対象の中で最終結果といえる道徳は、全学問の総合判断を意味していて、知恵を友愛する最終的成果物です。恐らく、凡人に倫理哲学は抽象概念を使う必要性が高く、高度すぎて着いてこれないので、単なる単純化した宗教的規範を教え込んでしまえ、といいたいのでしょう。一体どの子供にどの程度までの倫理的理解が可能かですが、これを見極めるため作文や議論などでの判断をみることになるわけですよ。
 或る道徳を既に成立済みで疑う余地がないものとして教え込め、という考え方は、宗教教育であって、道徳教育の中では最も幼稚な段階といえるでしょうね。これに対して宗教学として各思想を客観視できる様になる段階があり、更に全思想を疑義し直す純粋に哲学的な段階がある。小中学生に哲学教育を与えるべきか、つまり純粋に哲学的な段階を踏ませるかについてですが、抽象概念の理解力には個々人で差があるので、単にある徳目についてどの程度の理解力があるか試験すればよい。その徳目自体を疑義し直し、より高度な徳目に至る段階については教師に採点は不可能ですから。

(「侍は農民の犠牲の上に成り立つことも教えてもらいたい」とのツイートへ)
日本の商人は農民を犠牲に金儲けに耽りながら原発を農村におしつけ、田畑を「何もない」といいながらコメだの野菜だの肉だのを捨てて感謝もしていないのだから、寧ろ米経済で農本主義といってもよかった武士階級より遥かに農業への扱いがひどい。農本を教える相手は安倍だけでなく会社員だと思う。
 因みに徳川斉昭が農人形を作り、毎朝食事前に領内農民に飯を捧げ感謝を述べてから食べていたよう、武士階級は米経済であったこともあって農本主義的でした。ひじに枕し勉学に励めと、清貧を徳なき富貴より重視した、儒教の影響もあったでしょう。寧ろ農民の犠牲を省みないのは現代の日本商人です。
 現代(平成)日本商人は、農村を荒廃させたり田園を蔑視しながら大都市を過度に美化し、それどころか自給率が国単位で4割と先進国でも最も低い部類(東京神奈川大阪などは1%前後)なのをもなんとも思わず外国から大量に輸入して捨てる。他国は個別保障の補助金などで十分に自給率を上げたのにです。堤未果『(株)貧困大国アメリカ』等で述べられているようアメリカの遺伝子組み換え食品の会社は他国に期限つき種子を農薬とセットで毎年うりこむわけで、既に一部の途上国で農業はアメリカの特定の会社の利益にされてしまっています。こうして商業主義者は自国民の命をアメリカ企業に握らせています。安倍内閣は種子法を廃止してアメリカの特定企業に日本農地を間接支配させる第一歩を踏み出し、こないだもトランプ大統領の目の前で農業関税を撤廃する等と宣言していましたよね。つまりは同著で述べられてる他一部途上国と同じ破滅として、全国民の生存・餓死をアメリカ企業に左右される結果になると。
 当然だけどアメリカ企業・政府連合体の策謀を見抜いて自国の自給率を英仏独伊どこも上げてきたのであるから、日本でも武士が生きていたら拝金商人の出すぎた鼻を挫いていたに違いないのですが、安倍晋三という首相は逆に米政府に媚を売ったり、企業に媚を売って金と地位を得ています。そしてなぜそんな悪徳商人じみた首相なのかといえば、商人であるところの9割の日本国民に、農本思想が欠如しているからといえるでしょう。彼らからするとコメはコンビニに落ちてくるもので、田んぼの機能すら知らない。都会人は、ビルか商店がないとそこは無に見えるそうですから。
 武士は賎貨思想をもっていて、金儲けは卑しい身分の者がやることと考えていたので、「武士は食わねど高楊枝」と、そこらの豪農だの一般商人より貧しい状態でもひたすら勉学をしてしのいでいたのが史実です。こういう面も平成商人は何一つ持ち合わせていないので成金万歳の拝金主義でしたからね。
 まあはっきりいうと、侍が農民の犠牲の上に成り立つなんて武士が理解していなかったはずもなく、逆にそれを教えていたんですよ。少なくとも私が住んでいる茨城県、常陸国の領主だった水戸の徳川家においてはそうでした。それで江戸時代はじめの徳川光圀も農地改良して農民から尊敬されていたのです。一体誰が農民の犠牲を理解していないかというと、再三述べましたよう、商売人の人達です。特に東京とか大阪とか大都市部の商人でしょうね。彼らは生まれてから死ぬまで田んぼに入ったこともなく、つまりは冷たい泥の中で苦労して腰をかがめて田植えした経験も一度もなく死んでいくのですから。
 或る京都出身の商人が私にこんなことを言った。「資本主義で農業会社を作り非正規の移民に働かせ金儲けすればいい」と。こんな発想です。商人というのは。農民の為をはかるなんて考えは何一つないのです。勿論金儲け目的しかないので、農は民の天たり、農は国の本なりという根本思想も欠けています。なぜ農民自身の集まりである農協を潰せ、と大都市部の拝金商人がいうかお分かりになりましたか? 彼らは農民の犠牲を恥じる程の知能はなく、単に自分が安く農作物を買い叩きたいというのです。それで遺伝子組み換えでいいというのです。安ければ戦争時の国民の危機管理なんて公徳は、どうでもいいと。
 偕楽園という梅(令和の花ですが)がたくさん植えられている水戸市の世界で2番目に広い公園があります。もとは水戸の徳川家の庭でしたが、愛民思想をもつ彼らが一般に公開し、民と皆で楽しむという名前を古典からとってつけました。梅は学の象徴、戦時の備えです。それで梅干が名産になってるのです。より詳しく言うと、「偕」はともにという意味の漢字で、民と偕(とも)に楽しむ、という文言は『孟子』から取られており、民衆の支持がなければどんな贅沢をしても楽しめない、民の為の仁政を行えばこそ立派な庭園を造っても民とともにその栄華を楽しめるのだという内容の部分です。武士の親玉の一人といえる徳川家、少なくとも水戸徳川家に関しては飢饉に備え蔵を作って実際に農民を救ったり、農人形を作って毎朝お供えや感謝をしてから食べる風習を広めたり、残り物の米をお菓子(今の「吉原殿中」)にして農民の苦労を無駄にしない心がけとしたり、実際に自分で農耕までしました。西山荘という水戸徳川家の隠居所に行けば分かりますが、光圀公、いわゆる水戸黄門はおじいさんになっても自分で田んぼを作りそこのお米を食べていました。民家風の隠居所で、田んぼの真ん中にあり、水戸徳川家のお墓がある瑞龍山も田園の中に現れる小高い小山です。彼らは生涯、農民と共にありました。
 ところで天皇家は平城京あたりで直接仕事しない公家化してからというもの、長い間、農業していませんでした。昭和天皇は西山荘を訪問してから、皇居の中に伝統に反し田んぼを作り、光圀公に習ったと私は思いますが、自ら田植えを始め現上皇も踏襲しています。公家なら卑しい仕事といってたでしょうね。武士の代表者の一人である徳川光圀の農本思想、愛民思想の原型が、武士の上位者と気取っていた公家の親玉である昭和天皇の中に逆流し、田植えという農民のやる大変な仕事を自らも行う風習として少なくとも2代続いている。それに比べ、一般民衆は? 平成だか令和の日本商人は相変わらず何も学ばない。

(個人主義や個人の尊厳の方が、公や国といった国粋的・全体主義的な匂いのする考えより重点的に教育されるべき、とのツイートへ)
個人主義は人権思想が成立後に欧米で広まった考えだと思うけど、これが絶対的正義だと言い切れる根拠はない上に、欧米であれ公私の別は存在し、また古典的にはプラトン・アリストテレスやヘーゲルのよう公を私より重視する考えの方が正しいとされている。つまり個人主義に偏るのも正しくない。
 具体的にはプラトンは国家に絶対的に仕える哲人王を教育の目的としていたし、アリストテレスは公を私より重視する人達の統治体制を善いものと定義していたし、ヘーゲルは人倫という国家と一体化した倫理を自由の根拠としていた。公共重視を再考させるのは決して不道徳なことではない。
 個人主義はソフィストの相対主義や、自然主義のよう個人の感情を重視する思潮や、カントのよう良心を道徳律の規範とする考え、或いはミルのよう他人に害がない限りの自由を個人に認める考えなどが包括的に流れ込んで、日本国憲法13条に流れ込んだものと思うが、諸倫理規範の中で普遍的とは言いがたい。

(サムライは利用者側には便利とのツイートへ)
確かに天皇からみれば、勝手に尊皇論で天皇に忠君を誓って倫理的に振舞う武士の階級は理想的な部下となる。しかし問題は国民の代表者である政治家側が、自分から侍を自認して忠臣的になったのであって天皇がそうなれと命じたのではないことだ。天皇に反抗的だった初代武士の将門は打ち首になった。
 天皇が反抗的な武士の系譜を手下の公家や暴力団体に命じて抹消していったから、忠臣的な武士ができあがって、江戸時代を経て明治以後、唯一の主君である天皇に対する忠君愛国論を含むいわゆる武士道の体系になった。戦中の軍人も戦後の保守論客の一部も頻繁に武士道を引用し、愛国心を啓蒙した。

(江戸時代の多くの人は武士ではなかったので、武士道は日本人の一部の倫理観や人生観に過ぎなかったとのツイートへ)
武士って「もののふ」の当て字で、確かに江戸時代頃にはほぼ世襲してたけど、実際には新撰組みたいな例があるよう他の職業の人が腕次第で仕官もできたし、逆に侍が帰農したり武士以外になったりもできた(熊谷直実は出家した)。戦国時代以前には民兵だらけでいわゆる郷士が戦争に狩り出されてたし。秀吉に至っては農民が大出世した例だし、当然のことながら武士の過去をずっと辿ったら縄文人か弥生人のいずれかだから狩猟採集民か、または農民ということになる。つまり武士を階級化していたというのは世襲で切り捨て御免とかがあっただけの話で、そこまで厳密なものではなく、要は強さ次第でしょう。
 農民であったところの日本人一般は刀だの槍だの弓矢だの銃を手に戦場に出て、他人を斬り殺すなんて恐ろしいことはやりたくなかっただけで、腕に覚えのある「もののふ」が自分で思い立って武装勢力を作り、各地を割拠していただけの話で、天皇だってもとを辿ればただの奈良地方のこの種の暴力団ですね。
 で、一体、日本人のどの程度の数の人の中で武士道なる倫理規範が、どの程度の時代に渡って影響を持っていたかだけど、武士の起源の一つといえる平将門が新皇を名乗って独立王国を主張しはじめたところで武家政権が成立したと考えると、それ以後、支配力をもつ政治界では無視できなかったと思いますね。道端に侍だか武士が歩いてて、そこらの一般日本人がちょっとなめたことをしたら斬り殺されて文句一つ言えなかったという時代が千年以上続いていたわけで、当然だが陰口でも言おうものなら村ごと滅ぼされかねない。かつ少なくとも江戸時代以後は武士の方が教育度も高かったので尊敬せざるをえないと。つまり江戸時代時点でほぼ9割くらいの多数派だった農民の中でも、切捨て御免にされる可能性が常にあって、年貢も取り立てられていたわけだから武士道を慮る必要は絶対にあったでしょう。天皇も平安期くらいには腐敗政治をして武士にぶちぎれられたわけだから、武士道を無視はできなかったでしょう。明治維新以後、政界財界で支配階級になりあがった華族や、御用商人のかなりの部類も薩長土肥だの旧幕府だのの旧武士だったわけで、渋沢栄一だって岩崎弥太郎だって、麻生太郎だってその末裔だけど、彼らが武士道を全く馬鹿にしていたかというと事あるごとに引き合いにだしてたと思いますけど。
 結局、日本人の多数は、天皇という古墳~奈良時代時点での武士みたいな暴力団の親玉が平安時代に失政し、別の武士に軍事政権を作られてからというもの、千年以上、現代まで彼らの末裔に翻弄されてきたといえますね。そして儒仏神道の思想など諸学問を総合し倫理規範とした武士道に影響されてきたと。

(武士道は自己の理性を失い、集団心理へ雷同することを重んじた、とのツイートへ)
集団埋没を倫理的に善とみなしてたのは弥生時代くらいからそうだった民衆側の考え方なので、武士道とは全然関係ないですね。具体的にいうと水田稲作をしていた村落共同体ではあぜを切り離したり溝を埋めたりすることが致死的だったので悪とされた。逆に武士らは理性が強く、個人的諫死も厭わなかった。
 村落共同体の考えが最もよく残されてるのが十七条の憲法で和を以て貴しと為すと一条に『礼記』『論語』からの引用が換骨奪胎されている。逆に『武士道』には「戦場に飛び込み討ち死にするのは賎しい者にもできるが、生きるべきときに生き死ぬべきときに死ぬのが真の勇気」と徳川光圀が言ったとある。

(武士道は個を殺す集団主義や集産主義であり、全体主義や結束主義に繋がり兼ねない危険思想で、日本の道徳で教えるべきは人権尊重、個人の尊厳、民主主義などとのツイートへ)
行き過ぎた個人主義は、新自由主義で格差の下になった経済弱者を差別したり、更に自由至上主義(libertarianism)で租税回避し私利の為に全人類を犠牲にしたりする考えに行き着くわけで、理想的な武士はプラトンやアリストテレスが理想とした公を私より優先した統治者だったのでは?

(武士道の忠節や、自己犠牲が気に入らないとのツイートへ)
個人主義を突き詰めると、小泉政権、第二次安倍内閣下で日本人民衆が進めた新自由主義みたいに、経済弱者を極貧や自殺に追い詰めても助けもせず自己責任とほざく冷酷無慈悲な社会になりますので、それはただのアメリカかぶれが表面だけまねたものだと思いますよ。一体、平成日本が人倫的ですか?
 また主君というのは、日本にあっては武士達の総元締めである徳川将軍家(最後の将軍)だの毛利・島津家みたいな旧西軍の大将級らも共通意見として天皇家のことですので、この主君への忠誠は象徴天皇へ万歳三唱してる現日本人も受け継いでますよ。天皇への忠誠が気に入らない、とおっしゃる。私も皇室廃止論の立場ですけど、確かに近代個人主義の立場からいうと、身分差別的な主君への絶対的忠節は、利己性に比べ価値がないものになる。
 しかし話が公徳に関してだと違う様に思います。或る指導者に従わないと全滅する危機的状況の場合などです。利己性の手段とみて、忠節だとか忠誠が採用されるというのが、実際には武士道が生じてきた理由なんです。具体的に言うと武士団は最も戦略に優れた個人が自生的に指導者になった集団です。油断すると他大名に領地を略奪され殺される場面では、自分より判断の優れた軍師に従った方が生存率が上がります。それでこの原理が日本の企業に応用され、会社への忠誠みたいな意識が受け継がれている。公務員組織では天皇が世襲なので形式化してると思いますが、会社の社長は必ずしも世襲ではないですし、実力がなかったら潰れますので。会社員が進んで残業したり、過労レベルの自己犠牲を払うのはこの為でしょう。
 またイマニュエル・カントは倫理の最高段階として、自己の犠牲を省みず良心の命令に絶対的に従うことを義務と呼び、最高善(定言命法)としました。利己心を全く捨て去った状態が善と一致するという考えは梵我一如のインド思想や、イスラムの聖戦思想、日本社会の「和」など結構国際的です。
 なお米国が日本以上の格差社会としても、控除制度を含む寄付の文化が広く存在しているのも事実で、イギリスからアメリカにわたった清教徒らが今日の米国の一つの起源になっていることからも、ただの利己性より、商業を通じた社会貢献とか、自主的な寄付による良心的自己犠牲が尊敬されているでしょう。私が上に書いた範囲で、利己性抜きに天皇だか会社だかに忠節を誓えとか、進んで自己犠牲せよとか一言も書いてないですが、現実の平成日本人を観察してきた限り、彼らは自分からそういうことをしてましたよ。つまり儒仏神道などが日本化された武士道の倫理規範が自動的に彼らに受け継がれていたと。

 (「公の単位に国が入っているのがまずい」とするツイートへ、「なぜ公の中に国が入っているのが駄目なのか」と返信されていることにあてて)
国は公の単位で、究極の公は全世界でしょう。人類に対するものとすれば、現時点では全地球が最大の公の単位でしょう。

(知性が二極化すると健全な民主主義が成り立つと思えない、とのツイートへ)
アリストテレスは『政治学』で、資産を中くらいに持っている中流の人達が、政治的良識(公を私より優先する意識)を持ってる場合、多数政治がふさわしいといっている(今日の言い方では民主主義だが、アリストテレスの定義ではそれは堕落した政体であり、善い多数政治は国政(ポリテイア)になる)。
 国民の知性が二極化した場合、公に関する政治的学識を得た少数、または単独者が全体を統治することになるので、多数政治ではなくなるか、堕落した多数政治(衆愚政治、またはアリストテレスの同著の言い方では民衆政治(デモクラティア))になって新政府に移行する。国は日本ではなくなるかもだが。国は日本ではなくなるかもとは、明治以前のこの列島は色々な国々(蝦夷地や琉球王国、旧国名の大名直轄地)が独立または相互連携して存在していた連邦国だったといえるから、今の日本単位が新政体に受け継がれるとは限らないということだ。
 なお単独、少数、多数支配のいずれが善政になるかは、より高い公徳の持ち主がある集団(国など)に単独でいるか、少数いるか、満遍なく多数派なのかで違うので、場合による。つまり多数政治(現代日本人がいうところの民主主義)でないから即悪政にはなりえない。寧ろより善政も王政か貴族政でも可能。

 (日本の中学2年生向けの道徳教科書で、「あなたの考える日本の大切なものは何か」と、国や地域社会など公の社会集団やそこにいる人々を私以上に大切にした武士道と対比させて考えるよう促す設問を「小学道徳よりもヤバさが直球になってると感じる」「公の説明中に国って入ってるのも気になる」とするツイートへ)
義は儒教や武士道の徳目で、特に君臣の義という言い方で、国家に仕える者が守るべき諸原理を指す。漢字の本義は羊を我という刃でいけにえにする文字だが、儒家や武士の哲学の中ではより抽象的な倫理学的概念になった。日常語では「義理」とか「義務」などに名残があり、信義という使われ方もする。
 この教科書の内容を具体的に読んでないからこの断片だけでは判断できないが、義務を重要な徳目にしている倫理学の体系は複数あって、例えばキリスト教やカント哲学などがそうである。国家と必然的に義務を結んで体系づけている体系にはプラトン哲学、アリストテレス哲学、ヘーゲル哲学などがある。
 新渡戸稲造著の『武士道』(原著 "Bushido -- The Soul of Japan")の中では第三章が義の解説にあてられている。孟子やキリストから紐解き、この徳目が正義の堕落した姿としての義理と関連づけられて説明される。義士はいかなる学芸の熟達より優れた者にあてられ、義は勇の双子であるとされている。同著によると、義は林子平によれば「自分の身の処し方を道理に従ってためらわずに決断する力」、真木和泉守によれば「人は才能や学問があっても節義がなければ武士でなく、人の体で言えば骨にあたる」。孟子によると「義は人の道」で、イエスは「我に従えば失われたものをみいだせる」と義を説いた。孟子の定義した義は、新渡戸の解説では「人が失われた楽園をとりもどすために通らねばならない、真っ直ぐな狭い道」のことで、狡猾な策略や真っ赤な嘘が戦術として罷り通っていた時代にも率直で正直で男らしい徳として最高に光り輝く宝石であり、日本人が最も高く賞賛する対象だったという。義理という言葉ははじめはただの正義の道理という意味で、義務が負担になった時にも厳しい監督者として鞭を手にし怠け者になすべきことを実行させていたが、次第に曖昧になり堕落したという。また新渡戸によると義理は社会の産物に過ぎず愛に動機として劣るが、武士道の勇という徳目がその堕落を防ぎ、卑怯者の詭弁とならずに済んでいたという。孟子「義をみてせざるは勇なきなり」、義公「生きるべき時に生き死ぬべき時に死ぬこそ真の勇気」など、義と勇を一体化して教えていたからだという。「大義の勇」(偉大な義務の前で自己犠牲を省みない真の勇気)と「匹夫の勇」(取るに足りないことで無駄死にする卑小な勇気)の違いとして、義公(徳川光圀)のいう義の観念は武士の少年中で一般化されており、「恐れるべきものとそうでないものを区別する」プラトンによる勇気の定義と一致していた。
 義を巡っては少なくともこういう倫理学的な経緯があって色々な議論が展開されてきたといえるので、小学生が義の大切さを考えるきっかけができるとしたら、それは公私の別の問題とか、地球上の人類集団をしばしば自分以上に大切にする考えと関連づけて議論されるべきことなのは確かじゃないですか? 例えば日本国外でも、いやどの集団でもそうですが、消防士とか軍人とか医師とか、進んで自己犠牲してでもいずれかの人を助けないといけない職業がありますよね。彼らに必要な心構えは義の徳目と極めて近いものですし、嘗ての国防階級の規範である武士道と関連づけ議論されても、自然の流れですよ。最近でもJCO事故のとき、職員が自分で青い火を見ながら事故を収束させ、結果、大事故にならなかったから首都圏全体の人が救われたがその人は被曝症で死亡しました。しかし福島原発事故の時は止めには行ったが、ガイガーカウンターが鳴りまくって東電職員は引き返してしまい、大事故に至ったんですよ。
 義の徳目はあなたの中では物凄くどうでもいいもので、個人の快楽追求だかの方が優先ってことになってるのかもしれません。しかし全ての人がそうだと当然だが、社会って維持できない。知っていようが知っていまいが進んで義に殉じる人がいるから、我々って生きていられているんですよ。本当に。
 また、あなたは恐らく武士をろくでもない暴力集団くらいにしか捉えていないんだと思うのだけど、彼らは韓国がフビライ軍に侵略され、日本にまで元寇で攻め込んできた時にも自分から戦って国を守りました。幕末、黒船が来たときも自分から国政改革し、将軍自身が自己犠牲してまで植民地化を防ぎました。太平洋戦争は今はGHQのWGIP(自虐戦争観洗脳)を受けた一般日本人の中では単なる侵略戦争扱いだけど、実際には大東亜戦争と日帝が呼んでたようアジア圏を欧米の植民地化から解放する、又は有色人種差別を覆すという大義をもっていた戦いだったんですよ。これも一種の義の為したわざといえますよ。
 で、現時点で或いは今後、自衛隊だとか原発の廃炉を担当する職員とか、医師だとか、或いは沈没しかかった船の船長だとかでなくとも、事あるごとに義が試される場面って、そこまで大げさでなければ誰にでもあると思いますよ。目の前で虐められている人がいても、黙って見過ごすのは勇でも義でもない。極めて小規模な例でいうと、道端でおばあさんが横断歩道を渡りきれず信号が赤になりつつあるとき、会社だか学校まで遅刻しそうなんだけど自分はそのおばあさんの為に、自己犠牲して車を止めておくだか信号機を延長させる行動をするかとか? 武士なら当然そうしたろうけど、今の商人ができますか? おばあさんを背負って信号を渡りきったとしても、自分は会社だか学校で減給処分だか大学のAO入試で落ちる赤点をつけられる場合、これは自己犠牲にしかならないけど、武士道にのっとれば、小さな「義士」になるわけです。だから小学生にこういうことを考えさせるのは、公益に類する話だと思いますけど。
 あなたはドイツに住んでらっしゃるということなのでドイツ思想に関連づけると、カントの場合、義務を内面的規範として絶対的な良心の命令に従うものと最高の徳目にしていたし、ヘーゲルの場合、国家なくして人倫なしと家族・市民社会を持ち上げた国単位での自由と道徳の一致が理想だったと。もっと極端な例では古代ギリシアのプラトンは全ての子供を親から切り離し、純粋に国家に仕える存在として寄宿学校で誰の子供かわからないよう育てようとしてましたし、日本以外でも義と国あるいは公の関係って、倫理哲学にとって伝統的な主題といえると思います。なぜなら共同体は時に義が必要なので。
 上に出した卑近な例でなくとも、少なくとも国政、市政など政治しなければいけない立場の人は全て、多かれ少なかれ公に仕える必要があって、彼らが私利を追求してると当然だけど悪政となって多くの人達が犠牲になります。二律背反で、公務員が義を欠くと国民が犠牲、逆に義を重んじると公益になると。公務員が自分の家族だか自分自身の為に一般国民に増税して私腹を肥やしたらどうなりますか? やろうと思えば簡単にできますが、日本の公務員はそこまで堕落してないから給料はさほど高くない。しかしこれをやってるのが安倍晋三という首相です。福祉を切り捨て、弱者を犠牲に悪徳商人と不義理をする。
もし武士が生き残っていたら、それは身分としてではなく義士としてですが、安倍首相を懲らしめて、印籠つきつけてたでしょうね。徳川家は貴族院議員はやってましたけど、戦後は公職から離れてますが、今だって秋田の県知事は元殿様の旧華族ですし、武士の末裔が政治をしている場合もありますよ。
 義を持つ本来の武士、もののふが一人残らず消えて、殆どの全国民が唯々諾々と悪政に従うだけの私利を貪る雑魚商人になってしまった為、自己犠牲だとか大義の勇だとかは無視され、欧米の表面だけ猿真似しエゴイストだらけになったわけだが、アメリカ人の方ががんがんトランプを批判して正義を主張する。義士は切腹前提に自己犠牲するのをしばし最高の名誉とみていたし、寧ろ討ち死にを潔い死に方とみて卑怯を恥とする戦場の心得もあったと。安倍晋三みたいに主君(主権者)の国民に「こんな人達」だとか、天皇に「健やかさを願っていません」とほざく米大統領への売国奴へ、武士は即刻天誅してたでしょ。
 あなたは今の国民の9割を占める商売人が正義だか義理だか義務だか大義だかの担い手になりうると思っているのかもしれません。しかし、私の見る限りそれは全くないですね。彼らは自分の金儲けを正当化する、昔でいう町人倫理を引き継いでいて、しいていえばアベノミクスに媚売って株で金儲けてました。その商人達の子供も、自分が就職さえできれば違憲だろうが賄賂だろうが違法だろうが不正だろうがなんでもいいと、安倍礼賛してる卑怯な奴らであって、はっきりいってそんな下衆による下衆の為の町人道の人達が、義の為に行動する可能性は先ず全くないといっていいでしょう。自己犠牲すらできないので。アメリカでは清教徒思想が絡み資本主義者には控除込みの寄付を進んでする特有の倫理観があるともいえるかもですが、日本人はそういう部分は全く学んでいないので成金が租税回避地を使いまくっているし、日本人商人の倫理は会社か客への奉仕くらいで公に関する義の面では殆ど役に立たないでしょうね。
 なお、孔子は「小人は利にさとり、君子は義にさとる」と、庶民と貴族の利己・利他の違いを見分けていた様に、そもそも義を追求できるのは経済的または教養面で余裕のある貴人だったわけで、食うに困る上に志の低い一般庶民が、自己犠牲を省みず公に仕える立派な大義をもてる可能性は相当低いと思う。中にはナポレオンだとか秀吉みたいなのが出てきて、大出世すると思いますから、勿論例外はあります。義を身につけるのは、ただの庶民にはそのくらい困難だということです。なぜなら貧すれば鈍したり、商売人の利益追求と正反対の精神性だからです。
 日本人一般は武士道を信じてないだの、儒教は中国のものだの、神道に言及せず言ってる愚物って、はっきりいって勉強不足だよ。日本人の倫理規範ってほぼ新渡戸がまとめた武士道に負ってるのは確かで、現代でも何も違いはない。なぜならそれを超える規範がないからだ。無知なら黙ってたらいいだろうに。
 日本人の礼儀正しさとか、個人より和を重んじる協調性とか、上司だか会社だか天皇だか国家への忠節だとか、合理性より人間同士の義理堅さを重視する傾向だとか、成金根性を蔑む貴族精神だとか、正直さを尊ぶ誠実さだとか、全部、武士道に起因する儒仏神道の昇華された行動傾向だよ。

※このブログURLは2019年6月8日に
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