2019/05/07

文化相対主義は寛容度の問題だが、倫理相対主義はただの悪意

文化相対主義って確かに構造主義以後の主要な寛容さの目安にされてるけど、首狩り族とか切腹とか、鹿児島に最近まであった集団強姦の風習(誘拐婚、おっとい嫁じょ)みたいなのまで含めると疑義に付される。『コーラン』の教義だと異教徒が攻撃してきたら殺害せよとなってるわけで聖戦も正義になる。日本人、特に関西人のもののあわれ説に基づいた不倫の正当化も、その外の文化から意味不明にみえるだろうし、実際、プーチンが二千円札の源氏物語の絵をみて「不倫や近親相姦を題材とした小説を紙幣に印刷して流通させるほど社会が堕落したのか」といった。国内でも同様の退廃文化への批判はあるけど。
 そもそも欧米(南米含む)とか中東とかで頻繁にキスしたりハグしたりする文化も、日本含む東亜からみたらベタベタしてて気持ち悪いか、性的な場面でしかしないことだから納得できない。一夫多妻への感受性もそう。つまり文化差の根底に倫理観の相違があると、異文化の容認にも限度が出てくる。東京都民の結構な数が性売買を日常の一部にしてるのも、同じ首都圏でも北部から見たら本当に信じられない退廃だし、南関東だの京阪神の都市部の人が田畑を見て「何もない」とほざくのも、当人らがコメだのパンだの野菜だの肉だの食ってるくせになにいってんだろうって話で、倫理の差は埋まらないよね。
 倫理的な相対主義は逆にどの正義も不成立にしたがるただの無思慮を正当化してる理屈だから、サイコパスとか悪人に好都合だし、それを寛容というのは行き過ぎになる。死刑廃止論もできなくなるのだから。
 文化差は許容できるが倫理に関わると再考が要る。
 ユダヤ教徒やイスラム教徒が豚を食べないのは元々は廃物利用の動物への忌避が、砂漠の環境で適応的だったからかもしれない。牛を食べないヒンズー教徒の場合は牛が神格だからで、このいずれの場合も倫理的な要素を含む文化差だから、信徒にとって許容可能にならない。ゆえ文化多様性で済ませられない。

※このブログURLは2019年6月8日に
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