2019/05/16

皇室民営化論

共和政が「絶対に」正しく、全人類は完全平等たるべきで、当然ながら王侯貴族みたいな制度は「絶対に」間違っていて全滅させるべきである、とする立場は、恐らく考え方としてはかなり正しいのでいずれそうなると思う。
 一方、会社もそうだが人の公徳には落差がある。
 たとえば起業家の伝記を読めばわかるが、圧倒的に周囲の労働者と発想からして違うとか、努力の精度が違う類の人達が自ら危険(起業リスク)を冒し、大出世していくわけだ。生存バイアスにすぎないというかもしれないが、実際、だれでも社長にしたらそこで業績の差がつくから殆どの会社は潰れる。能力差があるから歴代将軍みたいな強い武士と、そこらの一兵卒が分かれたのであって、最初に身分差があるのではない。ところが共和政論者の中には能力差を無視し、全員一兵卒にせよ、という無理な論理をとっている人がいる。正直、共産主義者の一部にもこういう考えの人がいるのではないだろうか。
 問題は身分が制度化され、形骸化した場合で、これがまさに象徴王政とか象徴天皇制になる。名誉会長がずっと不動でしかも無能の状態だ。
 徳川光圀(義公)の論理(大義名分論)は、公徳に応じ速やかにトップ交代せよとする中国の論理(易姓革命論)を否定していて、皇族が馬鹿殿でも守りぬけという。日本人全般はまさに義公の論理、大義名分を重んじているから昭和天皇が本物の暗君(結果から見ればそういうほかあるまい)でも、敗戦後すら普通に万歳三唱していた。ところで西洋の象徴王政も、これと似た君主無答責の立場だ。特にイギリス議会が発祥地で、そもそも王は実権を剥奪されている。
問い「無能な名誉職は維持すべきか? (もしくは共和政の論理を全面的に貫くべきか?)」
米中は、この点でいうと実利・合理の立場から、公徳に欠けた皇帝だの、無能な会長だのはさっさと排除してしまう。日英は逆に形式・擬制を重んじ、無能でも伝統だとかいって馬鹿殿をかばう。日英(その他の象徴王政の国々)がやってるのは単なる時間稼ぎで、なぜそこまでして費用負担がかさむ偽君主をもちあげるのかだが、これは一言でいうと保守的だから、保守性はIQの低さと関係しているので幼稚だからとなる。しかし日英人などは逆にその幼稚さを合理化し、格式がある自分らは偉いという。
 私が王侯貴族も時には悪くないというのは、この種の擬制ではない。寧ろ物凄く公徳の高い傑出した個人がいたら、その人が絶対王政をとった方が全体の公益だという意味で、商人でいえばジョブズみたいな人物を指しているのだ。
 だから私の立場は先ず義公の立場と相当違う。現に皇室廃止論者だし、民間宗教法人化し自分らの寄付だか営業収益で儀式し、政治したくば立候補すれば? という話だ。しかも西洋はじめ象徴王政を、本音をいうと「演芸」「ごっこ」の類だから結構な猿回しどすなあと思って眺めていて、馬鹿にしている。しかしこの種の本音をいうとイギリス人などは若干怒るかジョークだと思われるので、敢えてぼかしてるだけで本音からいうと、幼稚な連中だなとしかいえない。同じことを皇族をありがたがっている東京都民だの京都市民だの、その他の知事だの役人へも思ってるが、問題になるから例外にしかいわないのだ。
 確かにこの種の擬制にも一理ある。上品ぶる俗物根性の結晶だから、その中には本当に上品なもの(いわば教養、悟り)を偽装手段として扱う鼓舞が含まれる。「私の息子は何々大学の博士ですのよ」「あら、うちは知人が海外の何々研究所の所員ですの」みたいなのだ。あほ臭いがえせ上流はこの程度だ。
 私の論理では、真の王侯貴族は実力次第で勝手に出現してくる個人や少数集団のことで、この種の人達はただただ有益だ。そこで最初にあげつらった全員一列論みたいなのは否定される。組織は基本、実力に応じ指揮系統が立てられるべきで、公知公徳の面で無能が上位者だと、その集団は先ず絶対に負ける。
 結論をいえば、擬制をとってる組織はそれだけ無駄が多く、無能の命令に従い失敗した責任は部下がかぶったり、忖度して成功したら手柄は上位者のものになってしまったり、まさに平成自民党だとか大企業病な日本企業みたいになってしまう。皇族が有害なのも同じ意味でだろう。だから私は「外国が擬制をとる」のはその国民が馬鹿だから寧ろ愛国的(日本ひいき)な意味で、「立派な王室ですこと」とかいってりゃいいのであり現にそうしているのだ。「象徴王政やめろ、共和政がいい」とはっきりいって「そうする!」と返すほど賢い国民相手ならいいが、保守を説得なんて意味ない。逆に自国が潰れたら困る(これは政府が代わるという意味ではなく、自分が迷惑こうむりたくないという意味でだが)なら、「無能な皇族もちあげてんじゃねーよ」って本音を言ったらいいのである。だから私は紳士としてそこまではっきりいわないが、「皇室はやめたほうがいい」「共和政で」みたいな少し角を丸めた言い方をしているのだ。
 もっと深くいうとだ、そもそも義公の論理は愛国主義に基づいているわけだ。中国と日本は違う、日本は独自だ、日のいずる処の天子が沈む処の天子につつがなしや、この論理だ。だが平和憲法は米軍のおしつけ論者もそうだが、天皇自体が中国神話上の三皇で皇帝制兼多神教たる神道も中国由来と忘れている。つまりどこの国からきたものであれ、そんなのどうでもいいし、他国と似てようが違ってようが物のよしあしでよければ使う、駄目なら捨てるでいいのだ。思想もだ。和魂洋才の論理は、それ以前なら国風文化の時に使われた。和魂漢才だったわけだ。これは愚考というべきである。
 例えば『荒野行動』というゲーム(昨今日本で流行のPC・スマートフォン用ビデオゲーム)。これは海外のサーバーも日本サーバーもあるんだが、「国際サーバー」ではほぼ中国人がやっている。そこで試合前に組む人らに既存の定型文で挨拶すると誰も返さない。礼儀知らずなわけだ。日本サーバーでこれをいうと、子供でも返す。儒教の美質は日本が継承している。(これは文化多元論の一例で、日中の文化間の優劣ではなく違いを語っており、民族・国籍差別の旨は一切含んでいない。詳しくは「『荒野行動』で見られた日中の文化差」)
 では儒家が教えた通りに礼儀正しくなった日本人を、儒教を馬鹿にし道教だの法家だのでなんでもOK、実利第一としてきた中国人みたいに再び変えましょうか、それともどれも中国思想だから、和という『礼記』『論語』の援用概念も捨てて、弥生人渡来前の原型たる縄文人の自然崇拝に帰りますかという話だ。
 ちなみに、愛国主義を更に極端にしたものといっていい、国粋主義的な民族純化の考えで漢字排除したのが有名な韓国のハングル統一であって、似た論理は明治政府の廃仏毀釈にもあたる。そんで、この民族純化の原型は愛国主義であり、つまりは義公や紫式部や聖徳太子とかの国風化理論にあるわけである。
 私がいいたいのは、この国風化理論みたいなのは、江戸・平安時代を文化面で評価する時とか歴史教科書にも普通に出てくるが、あとガラパゴス化を肯定的に評価する時(サブカルチャーを褒める時)にも出てくるが、物のよしあしと関係ない。それでいったら戦艦大和はB29より凄い、と無理な論理になる。9条がどこ由来だからダメ、石原慎太郎が散々ほざいてたが、全く関係ない。9条自体が日本に役立つか、有害かを問う。これでいい。よければ海外製品を使ってもいい。日本独自の物に改良したがる傾向はあるがローカライゼーションであってどこの国でもそうしている。独自性もどうでもいいのだ。
 だから義公の論理、すなわち水戸学は、明治以後の日本政府や日本人が普通にかなり体化していて無意識に採用しているわけだけど(松陰や西郷が学んで、新政府の原型になったので部分的に採用されている)、「中国の歴史と違う」風にする為に理論構築した部分、つまり尊皇論の類は、問い直すべきなのだ。
 具体的にいえば、義公は「中国は易姓革命(公徳で皇帝が代わる)だから日本は大義名分(天皇は不動で次位が代わる)で。あと中国は君臣の義が乱れ亡国したから、日本では君臣一体にするためダメ天皇でもひたすら順位継承で(故に本来の順位継承者の南朝が正統)」といった。松陰はこれを受け中華皇帝風の一君万民論を展開し「天皇の下に臣民は平等」とした。我々が象徴天皇を政府に入れてるのは、知ってるかしらないかに関わらず、この2人の考えをここ150年間の首相が採用したからだ。「中国と違う国にしてもダメならダメじゃん、同じ部分があってもいい(愛国主義の脱構築、又は国際主義)」とか、「天皇も人でしょ。天は人の上に人をつくらず(自然権含む人権)」とかは、ここ150年間、完全無視されている。
 私も上に書いたよう、共和政で国民による国民の為の政府をつくらないかぎり、災害時に政府が天皇避難させ国民は後回しとか、税はむ主権在民の公僕でありながら意味不明な行動とることになるだろうし(私がじゃなくて政府がそういう行動とるかもしれないという意味)、さっさと皇室民営化しないといけないと思っている。政教分離は西洋由来だろうけどいいのだ。

※このブログURLは2019年6月8日に
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