2019/05/15

なぜ動物愛護や生命倫理の観点から『けものフレンズ』が幼稚といえるか

(「『けものフレンズ』『けものフレンズ2』を巡る作劇論」の続き)
世界(海外)が動物について何を議論しているかというと、例えばピーターシンガーが代表者だけど先ず動物の苦痛を最小化しようと功利主義の範囲を動物全体に拡張している。同様に、動物愛護運動はドイツのティアハイム(動物の家)を筆頭に愛護動物や野良犬・猫の殺処分を行わず、ペットの売買を禁じている。
 ヴィーガン(純粋菜食主義者、維根主義者)は、原始仏教徒含む菜食主義者より更に原理的に動物食どころか動物系食品も拒否する。また動物愛護運動の一部は、大手企業が肉食者の食糧供給のため家畜を苛酷な環境で育て残虐に殺していることを批判し、動物の恵まれた幸福な暮らしや安楽死を要求する。
 世界は一般にクジラやイルカの様な大型哺乳類の捕獲を禁じ、或いは観光資源を兼ねている国々の環境保護団体と共に、日本政府や和歌山・静岡・山口など鯨・イルカ漁を行う漁業者の罪悪を責める。更には肉食におきかわる植物由来の擬似肉の会社が上場したりしている。
 そもそも動物園は、動物を人工環境に無理やり連れてきて見世物にする残酷な施設だから、これが野生動物にとって苦痛なのはいうまでもない。また人類の乱獲や環境破壊によって絶滅危惧に瀕した動物を守る為に様々な無政府組織、或いは動物愛護家が声を張り上げている。
 西洋の犬はよくしつけられ、公共交通機関にも乗っている上に、広い公園や荘園の様な場所で自由に走り回って暮らしているが、日本の犬は鎖に繋がれ、自由を奪われ、邪魔になったら遺棄され、生まれた子供ごと保健所で殺処分されているし、更にこの負の連鎖をペットショップは金儲けの為に強化している。動物実験を行う病院や研究施設は、例えばネズミを道具にしているから生命倫理は無視されている。
 そして全体として人類はこの星の生態系の一部なので、食物連鎖の中にあって天敵のいない条件でほぼ全動物を殺戮しているし、雑食なのでほぼ何でも食べ、動物らの生存環境へも平気で侵略して文明ぶる。
 橋や護岸が必要だといい清流を潰し、発電所が必要だといいダムを作り、川魚が遡上できないどころか人間ですら憩えない野蛮な自民党遺産をあちこちに無理やりおしつけ、土建票で東京五輪だだのとほざき、動物の大量死と奇形化の上で原発再稼動だとかいっている。
 ついには遺伝子組み換えに手をつけ、毎年農家に米企業の種子・農薬を課金する目的で、動物実験では異常があった人工食物を人間なら大丈夫だろうとほざき世界中にばらまく。動物自体の遺伝子も品種改良してきたが、家畜・ペット化の為にもはや機械状態の異常個体を量産し、野生で生きられなくする。勿論、人類は伝統的な罪悪として皮剥ぎや、毛をむしりとったり、象牙や動物を殺して出す油、絵の具の材料といった、食べあさる以外の動物資源を目的にありとあらゆる動物を殺戮、又は虐げ恥じない。しかも単に動物の見た目で差別し、動物Aが可愛ければ無意味にエサをやるが動物Bが醜ければ虐殺する。
 普段は大量に動物を殺戮しているのに、いざ野生動物が人間の侵略でエサが激減し、里におりてきて食べ物を探したら、一発で銃殺して絶対権力を当然視している。様々な罠や毒をまいて野生動物を死に至らしめようとする。それどころか遊びの為に、鳥、魚、獣を殺して、食べもしないのだ。
 こういった人類全体の邪悪さに対し、ゴータマ・シッダールタ(釈迦、ブッダ)は慈悲の哲学で、全生命体は苦痛や死を恐れつつ、生態系の中で縁起しているのだから殺すな、と説いた。仏教徒ははじめこそ彼の言いつけを守っていたが、明治時代に西洋かぶれの福沢諭吉が牛鍋を白人化の滋養といい広めた。
 大体、動物倫理を巡って行われている議論は上記の流れで、人類の偽善や、動物の生存権との戦いなわけだ。だが『けものフレンズ』シリーズのオタクらはどうだろう? 幼稚な擬人化少女にたわけ、のけものはいない、とかいっている。意味がわからないのだが。それはただの電子データなのではないか?
 まだ昔の人達のほうが動物の身を真剣に案じていた例は無数にある。『鶴の恩返し』や『浦島太郎』は動物愛護によって報恩があると信じていた例だし、縄文人はそもそもカミの大型のものとしてオオカミを考えていたからこの言葉があるのだし、アイヌも自然神カムイが動物含む全てに宿ると信じていた。ヒンズー教徒は牛をカミとし野放しにしているし、奈良やら鹿島神宮でも鹿がカミの使いとして扱われているし、そもそも一部の動物が人を超えた存在だという観念はかなり広く見られる。中国由来の多神教を利用し、動物を擬人化するのは分かるが、ヒトと同列だとするのも『もののけ姫』より高慢な考えだ。
 先ず世界の動物愛護、又はその反命題ともいえる反出生主義、特に全生命への終末論を両方とも省み、一体、他の動物を殺さずには人類まで進化してこれなかったばかりか日々、動物食でくらしている我々が、動物愛を語るには自分の行いが偽善でないか省みたらどうなのか? 今日は何をどれほど殺したのか? 動物愛どころか、原発立地自治体への人類愛すら抱かない、極悪人が1千万人以上たかる邪悪極まりない人類の巣があるというのに、その中で「のけものはいない」とは一体なんのことか。妄想上で偶像崇拝し、現実の人間を殺戮し、或いは幸福を奪い、テレビだかモニターに張りついて電気で涙を流す偽善者。
 科学的には植物にも痛覚に似た作用が見つかっているし、当然ながら動物には死を避ける機能として痛みがなければならない。動物に苦痛を与え、その中でも人類に特別な苦痛を与え、痛快だといっている一部のサイコパスやサディスト、ダークトライアドをどう思うのか? 彼らを「のけもの」にしないのか?
 私は『けものフレンズ』シリーズが幼稚だといった。それは上述の全ての動物愛護論のうち、たった1つへすら真面目な意見がみられないばかりか、そもそも動物倫理に近い思想をもっているかすら怪しい次元で、アニメーション作品で動物を扱おうというその無思慮さが、悪い意味で子供じみているというのだ。
 他にも考えるべきことはある。孔子は厩(馬屋)の火事で、先ず人を心配したと『論語』にある。生類憐みの令を出した徳川綱吉に対し、御三家の徳川光圀(義公)は副将軍を勝手に称しつつ(回天館の義公自身の書簡にみられる史実)、わざと肉を入れた鍋を食べたり犬の毛皮を贈って、動物中心主義を皮肉った伝説がある。
 欧米の人間中心主義はユダヤ教の聖典『旧約聖書』で、神が人を自らの似姿として作ったとの神話からきているので、孔子や義公の人間優先とは違う文脈だが、本当に『けものフレンズ』で人間と動物を同列に扱うのが倫理的なのかだ。当然だが動物も利己的なので、ペットの犬ですら時に死後の主を食うのだ。

(続き「日本人一般は武士道物語に感動し易い」)

※このブログURLは2019年6月8日に
https://yuusukesuzuki.blogspot.com/
へ変更されます。