2019/05/26

娯楽の研究

娯楽の研究
2019年
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2019/05/25

最善さは程度

最善さは程度として生じる。
 差別によって自分の地位を上げようとした者は、結局、卑しさによって自分の評判を下げているだけだ。徳と共に地位を得た者しか、真の意味で尊敬を得られない。愚か者は差別することで自ら墓穴を掘る。
 倫理的でない者は知識を悪用するばかりで、当人はますます不幸を得るだけだろう。

都会は他人を見下すのを目的にした俗物と悪人にとって好ましい環境

不幸の主因の一つは他人との比較によるねたみであり、人徳者にあっては悪意ある人々の思いやりのなさからくる他害行動だが、そこにもしばしばねたみの解消を目的にした差別、誹謗、攻撃などの迷惑が含まれる。この為、他人との比較が生じ易い都会生活で幸せでいることは先ずできず、脳がねたみを感じなくなるまで壊れないとまともでいられない。
 もし都会生活でねたみを全くなくそうとすれば成金になり浪費に耽りながら、中華思想で差別をまきちらす天皇家と配偶するしかなくなるが、このどちらの道も甚だ競争が必要で大抵の人々は敗北し転落するばかりだし、仮に勝者となってもカルト教祖としての天皇からの絶対的差別を受ける一方で、自分を却って惨めにしてしまう。
 これら全てを省みて、ゴータマがいうとおり人里離れくらすのが最善なのは先ず疑いない。逆に俗物であれば都塵を好んで住み着くだろう。特に極悪人にとって都心部は最も好都合であり、どんな悪行をしても容易に逃げ出せるので犯罪率が上がるのだ。また彼ら都会人の悪意は確かなのであらゆる嘘をつき他地方の人々を騙し、全てがひたすら自身の利益になるよう情報汚染で洗脳をはかるのだ。

中華思想に耽る都会の文化を無意味にまねるのはただの愚行

アメリカ化された国々は他国を搾取する様になる。
 重要なのは自治体単位でしっかりとやっていくことで、東京をまねることではない。なぜなら東京の欠点も甚だ大きいのであり、さも小京都がそうだった様、或いは長安をまねた京都や奈良(平城京)もそうだったが、相手の悪い面も見習ってしまうからだ。
 東京は嘗て京都や奈良がそうしていたよう天皇家のもたらす中華思想に耽り、自分の自治体が上位者と勘違いしているが多くの欠点は致命的な次元に至っており、修正できない。特に都会化について回る諸々の都市問題(高い犯罪率、風紀の低落、人口過密からくる住環境悪化など)は将来も解決不能なほど甚だしく、誰も手をつけられない。いいかえれば彼らの思い上がりは京都や奈良が大都会だった時代にいだいていた自己愛的な身内ひいきと無意味な地方差別の焼き直しでしかないし、これは中華皇帝の模倣者である天皇がもたらす意識の歪みで、自らの欠点に目をつぶり長所と思われる自慢の点を大仰にいいふらす確証偏見に繋がる。賢人は常にこの様な誤りの対極にいる筈だ。
 アメリカ化はこれと同じ理由でどれかの国を第二のアメリカにするだけで必ずしも何かがよくなる訳ではない。実際、アメリカの欠点と呼べる高い犯罪率、国民一般の低い幸福度、商業化がもたらす低俗な民度、軍産複合体に通じる侵略戦争などは致命的な特性で、冒頭にあげた資本主義化そのものもこの副作用に含まれる。或る商業が集積しているなり政府の立地した地域のもたらす文化を鵜呑みにまねるのは、全くたちの悪い勘違いだ。そして単なる経済構造、政治の状況だけを見てもこのことは変わらないだろう。

倫理は技術やかねより上位の価値

技術は利便性をあげるが必ずしも人の幸せに繋がらない。それどころか却って不幸を促しさえする。つまり人生にとっ倫理の方が技術より上位の価値なのだ。同じことは死を免れない全人類にとってかねについてもあたる。商人はこれを知らないと結局、寄付や納税の義務をふやすばかりで過度の暴利を貪り、過労に耽ってしまう。

遺伝子組み換え米国農企業の世界侵略

アメリカの農家にカネを注ぎ込み日本の農家虐ぐ安倍とトランプ

春の夜

なまぬるき春風うけて波の音われを包める夜は深まる

笠の再発明

民度低く中華思想の東京都笠を再発明し驕れる

上品さ

上品さとは欲望の直接さを否定している程度、つまり無欲な脳の質である。

2019/05/23

愛について

我々は人を愛することを学ぶべきだろう。人類の憎むべき点などありすぎるのだから。

学を悪用する俗物

学問が自然や世界、神の創造を分析し後自然学として倫理を構想する哲学から始まったとしても、それが就職手形だか他人を見下す肩書きだけの為に歪められ、学位をもつ俗物を量産している今日、いかにマイケルスペンスが全人類に公害をもたらしたか計り知れない。裏返せばその種の下賎の徒にまで学問が通俗化して普及したともいえるが、なにしろこの種の乱用は知識そのものを差別の手段にする一方で、誰も幸福にしない。
 儒学は人々に公徳で指導的役割を果たす目的のものだったが、これを浅学の平成・令和日本人全般は中国思想といい軽侮しながら、自然科学や工学を拝金目的で私用しようとする一方で、倫理の一切を貶めて恥じていない。つまり現代日本人は学問を悪用する目的しかないのだ。就職手形や肩書きとして他人を差別し、不幸にする目的で学位なり入学歴を得た人々には実際、学と呼ばれる何も与えない方がましだったのだ。

資本主義の目的は全人類をできるだけ不幸にすること

現代経済の主要目的は、できるだけ他人を不幸にすることにある。それによって性悪な商人達は自分の相対地位が高いと認知し、嫉妬の解消になるからだ。顕示的消費が彼らの主要な生活動機になっているので、そこには他人をなんとか見下す為の成金根性しかない。つまりこれが拝金主義と呼ばれる彼らの行動原理である。
 裏返せば現代経済は発展するほど人類全体を不幸にする。そもそも他人の不幸が己の幸福だとする或る種の悪意が拝金主義者の真意なので、そこで最後に起きるのは全体の破滅である。究極の拝金は全人類を極貧状態で餓死または奴隷化した上で拷問にかけ、彼らに崇拝させた自分ひとりが全人類の全人生を好き勝手に支配することにあるのだから、この様な目的を果たすには独裁者、或いは世襲天皇に生まれ帝国主義的に全世界侵略を果たすしかない。
 資本主義は大航海時代に高い危険度の航海に出資を募ったところを起源の一つとすると、人類を奴隷化し、自身の資本を元手に金儲けする目的ではじまったが、この種の商業を正当化する為にカルヴァンが登場し、やがてアメリカ合衆国の独立により決定的世界侵略に口実を与えた。
 結局、拝金主義とは資本主義の思想的本質である。資金を有効活用し、需給を満たすという建前は、その中にある付加価値搾取のしくみの言い訳にすぎず、資本家が経営者と彼らに雇われた労働者を通じ、消費者から富を吸い上げる口実なのだ。この究極の形が一度集めた金を虚栄心のため自分名義で寄付に回す偽善である。
 拝金主義は全人類をできるだけ不幸にし、自分はできるだけ大きな資本を独占することで羽振りを利かせたいという独裁欲求の変形で、この思想を含む資本主義は多かれ少なかれ人類の幸福度を低下させる為の邪教だといえる。

日本で最善の生き方は引きこもり

国民の殆どが下賎で利己的な金儲けしか目的のない退廃した衆愚であれば、その種の極悪集団と関わらずに済ませるのが最善の生き方に違いない。引きこもりを差別の文脈に置いている「出づっぱり」らは、近い将来、その様な考えを改めない限り無限の不幸を背負い続けるだけだろう。
 そもそも仏陀の昔から、俗世に関わりなきよう過ごすのが最善だったのだから現代でもそれは何も変わらない。特に日本のよう国民全体が利己他害を拝金主義・衆愚主義で正当化するよう堕落した国では尚更だ。
 インターネットを通じたSNS上のやりとりも、匿名衆愚のたまり場になり易いし、実名であれ悪徳に満ちた人々と接するのは害悪しかない。つまりできる限り有害な他人と接さず、限られた信頼度の高い人とのみ最小限度接するのが、この国で幸福度を高める唯一の解法である。

業の細分化理論

共感性が高い人は、他人が不徳だとさも自分がそうである時の如くつい不満に感じがちだが、性悪やサイコパスたちが本能的にそうしているよう、他人をより不幸にした方が自分に有利だという考えをとりいれることでこの感じ方を自己改良できる。悪徳に満ちた人々をもっと悪の道に陥れるとまではいかずとも、自滅を果てまで辿らせるまで泳がせ、単なる自己防衛のみに気をつけ世渡りすれば安全かつ愉快に俗社会を眺めていられる筈だ。
 そしてこの考えによると、我々が共感性をもつに値するのはどちらかといえば性善的な人々、即ち善良な人間に対してに限られるとわかる。
 我々が世を憂うのは共感性の対象を普遍化しすぎているからだ。もともと高共感の人が性善的なとき利他性が高いといえるので、この種の人々が巧みに世渡りするには業を単位ごとに分割する必要がある。例えば都会の悪徳を憂う意味はなく、彼らは悪例を示しながら自滅する為の存在なのだ。この世には善徳の地域もあれば善良な人もいるのだから。

自由市場と高福祉は両立する

自由市場と高税率・高福祉は両立するが、社民政治の概念では自民党の行う国家社会主義政治の様な市場干渉をより悪化させたイメージを日本人民衆に与える。これはGHQと皇室、戦後政府による赤狩りが与えた社会主義一般への負のイメージがそうさせるのだろう。社民政治を福祉政治と言いかえることで、低公徳の民衆は自らの利害に注目するので、自民政治より好感をもつかもしれない。但し労働者(会社員)一般は怠惰とみなした貧民を差別するのが自己正当化のいいわけになっているので、「福祉」にも救貧と反差別の意味をよみとり、違和を感じるかもしれない。
 上のことから、日本単位の悪弊になっているのが自民党の堕落した国家社会主義政策だといってまちがいないだろう。政府による市場干渉と、低福祉を兼ねるのはなんといっても最悪の手でしかない。
 裏返せば公害に繋がらない限りの自由な市場(例えば堤未果『㈱貧困大国アメリカ』などを参考にすれば、国民の命綱を確保する為の保護農業は例外だろうが)と、高累進税制を通じた最貧者の生活向上を目的とした高福祉の両立が、令和期に必要な善政である。平成時代の自民悪政を否定する必要があるのだ。この自由市場・高福祉を兼ねる立場は最も学術的にいえば社民主義になるが、上述の理由で日本人民衆にそのことは理解できない。つまり彼らに納得させるには別の言葉を使って説明するしかない。しかも自民党を不安や無知から選好しがちな衆愚は単に多数派が群れているからそうする。いいかえれば、日本国全体の公益をはかるには自民悪政がいかに彼ら衆愚に有害かを論いながら、マスコミとネット世論を唆し、同調者がほぼいない状況まで彼らを追い詰める必要があるだけで、そこに論理は必要はない。代替政党がわには自由市場・高福祉の実行という基本原理があれば十分である。
「社会主義」という言葉は多義語で、自民党が現にやってきている賃上げへの圧力とか企業国有化の様な市場干渉が意味として含まれている。羊頭狗肉で自民党は衆愚を騙しているが、要するにこの政党は詐欺を商いにしているのだ。逆に社民党は学術的次元でこの言葉を使っているので衆愚は誤解しかしない。
 結局、日本人民衆は政治思想によって投票先を択んでいるのではなく、単に彼らの周囲の人々が群れるだろう対象に雲集する「孤独な群集」でしかない。群集心理で全体ファシズムに群れ、皇室や自民を支持するだけで中身は不安しかない。だからこの群れを操る方法を、公徳をもつ我々がおぼえる必要がある。
 ウォーレンバフェットは1994年、ネブラスカ大学の講演で累進消費税を主張している。彼がいうにはこの方法は短期で経済に悪影響を与えるが、長い目でみれば長期で国全体の富をますという。理由はより消費する人はより多く社会を働かせる(社会銀行から出金する)のでより多く手数料を払って当然という。他の累進税制に対し、この軽減税率に加えた累進消費税はますます消費を冷やす様に見えるが、実際には庶民に対する減税措置と同等の効果をもっている。税の調整(再配分)で得た富を庶民ほど生活必需品の消費に回す鼓舞になるからだ。又トリクルダウンが不能な訳も、バフェットは説明済みということだ。
 しかし日本人民衆、特に労働者全般にこの様な理論が理解できるだろうか。並みいる経済学者に理解されていないのだが。よい政策を実行するには、新首相がかなり強い権限を独占する必要がある。上述全ての福祉政治も同じである。そこで合意をとろうとするかぎり、再び衆愚政や寡頭政に逆戻りしてしまう。
 目下、枝野幸男氏と安倍晋三氏が首相争いをしている状況にせよ、この両者のいずれも聡明さにまさっているとはいいがたい。この場合、期待できるのはなんらかの誤解された政策だけである。我々は明らかに賢慮の高い人物が選出されるまで、絶えず主要政党の党首交代を要求し続けるべきだろう。

学ぶ訳

暗愚な人々を観察する限り、彼らの人生に混乱をひきおこしている大きな部分は、当人の愚かさだ。故に人はこの逆側に自分をひっぱることで諸々の自滅をできるだけ避けられる筈だ。
 悪徳とは彼らの中に植えつけられた諸々の誤解の集積だといっていい。特に自滅を含む悪徳を私的悪徳、公害をもたらすそれを公的悪徳と分類すると、私的悪徳の原因は自滅的習慣で、その内容はなんらかの愚かさである。

善政と悪政

善政は最も恵まれない人の利益を最大化するもので、既に金持ちな人をさらに恵むのは商売がやる仕事だ。この意味で新自由主義に基づく日銀や年金機構の税金を流用した株価釣り上げ、これに伴う生活保護のきりすて、年金支給年齢を遅らせるといったアベノミクスは世紀の悪政に違いない。

下衆の様子をみないこと

下衆の様子をみないこと。これは最重要な人生訓だ。彼らの生態を知るほど卑しさ、悪徳の下限をみる結果になるが、寧ろ我々が知るべきなのは善徳の上限の方だからだ。
 福沢諭吉は海千山千を勧めていたが私はこれが間違いだと経験により悟った。具体的には一部の都民や西日本出身者らの下賎さを見るにつけ無論、連中の生態をしらない方が幸せだったと認識した。ゴータマシッダールタは寧ろ福沢の逆で愚者の言葉を見聞きするなと教訓していた。福沢よりゴータマの見解の方がずっと正しい。
 もし世知に価値があるとしてもそれは抽象的なものであるべきだ。理由は愚劣さの具体例にはきりがない上に詳しく知ろうとも限度があるからだ。そもそも愚者の誤り方は千差万別で体系的でも論理的でもなく、その混沌は学びようがなく学ぶ意味もない類いのものである。

恥ずべき悪例としての日本人衆愚

愚かな人々は世界の反面教師となる為いる。
 安倍晋三氏や自民党、皇室の悪政へ忍従するばかりか彼らの愚かさを一層強調する類の忖度をくり返す衆愚は、確かに世界史へ悪例を示す目的の存在なのだ。同じことは東京や京都といった自治体を構成する人々一般の底しれぬ高慢、或いは彼らに洗脳される日本人全般の小中華思想を主とした差別的思考にもあたる。彼らがどれほど愚劣でも各国民、人類全般は彼らの失敗を避けうる恥ずべき例として語り継ぐであろう。

2019/05/22

資本主義教は誰も救わない

同時代の多数派、又は自分と似た職業の人々がもつ価値観を絶対視なり信仰している人は、過去においてその種の価値観が或る人を制度に縛りつける役割を果たしていたと悟っていない。だから現代商人が「金儲け」を倫理的に合理化しているのは、別の時代、又は別の価値観からみればただの狂信である。
 現代商人は自分達が資本主義という搾取体系の中で、金儲けを続ければ自己救済されるという教義を完全に宗教として狂信している。そして彼らはこの考えを他人にも当然の如くおしつけたがるので、彼らの妄想の中では貧富が人格的価値その他におきかえられてしまう。金持ちが神、貧民はごみと彼らはいう。資本主義教を疑義することは現代商人の中では最大の禁忌の一つで、それをした途端、彼らの行いが合理化(言い訳)できなくなるので狂人扱いし、思考の外にこの疑いを排除しようとする。丁度、封建時代の商人らが身分差別を当然視していた様に。
 商人達は金儲けの癖で、世間の物に所有権を主張しはじめる。この土地は自分の物だ、この機械は、この音楽は自分の物だと。結果、世界を商人らの傲慢が排他的な悪意で占有しあう。つまり国だ。商人の親玉は軍隊を雇い人殺しをはじめる。それが皇室でありつまりは悪徳商人の権化なのである。
 仏教国は確かに、資本主義教に対する最後の防波堤だ。ブータンやチベットがなくなれば我々の世界は商人が『リヴァイアサン』でいう「万人の万人に対する戦い」をくり返す血みどろの収奪戦だけで埋められ、その最終結果は封建制と何も変わらない超少数者か、唯一の大金持ちによる全人類への専制だろう。
 生まれつき商才のないだけの人(しばしば他の分野で社会的有益性が極めて高い天才を含む)を、搾取し、見下し、虐げ、自己責任だと罵り、場合によっては社会保障を与えず餓死させ、これが資本主義教だ、とのたまう。一体この種の露悪のどこに尊ばれる理由があるというのか。商人の傲慢に他ならない。生存者バイアスで洗脳し、他人を金儲けに走らせる商人向け啓発書。つまりはここで教義とされているのは搾取を善行と思い込めという典型的な付加価値信仰であり、資本家に都合がいいラットレースの煽りでしかない。
 一方それら商人、労働者全体はこの教義の中で一生過ごし死ぬのを名誉と考えている。
資本主義狂信者たちが密集しているアリの巣の様な都心で十年近く過ごした私が見つけたのは、その教義がただの悪意に他ならないという真理だった。「他人をもっと貪ろう」。この教義が欧米人を唆し世界侵略を企てたのであり、東京にやってきた薩長土肥や関西地方の暴力団も同じ野望で地獄を作ったのだ。
 私は自分自身を資本主義者にする為に、なるだけ資本主義の有利な点を集め、自分自身をその教義遂行の担い手にするようこの数年間、過労で気を失いかけるくらいの努力を重ねた。その結果得たのは、この教義を信仰できるのは相当の愚物だけだという認識だった。余りに矛盾が多すぎかつ実行不能だからだ。資本主義社会の象徴というべき東京都で暮らし、そこが地獄の如き環境だと悟ってのち、なおもこの教義を改善すればなんとか使い物になるのではないかと果てなき努力をこの数年間私はくり返した。しかし全くそれが不可能であるばかりか、寧ろますます不幸をまきちらす装置が資本主義と分かるだけだった。

差別されたら相手が持たないその点を誇る方がよい

差別に合わせて、自分を差別されない風に変えるという間違った反省が世界で一番馬鹿げた行いの一つだともっと早く気づいていれば、私は数多の遠回りをせずに済んだ。なぜなら差別主義者達は見るも穢れる馬鹿者どもであり、連中の悪意以外何の理由もない蛮行に合わせれば自分も堕落するだけだったのだ。

2019/05/21

私が嘗て見た全差別とそれを恥じる必要について

私が生まれてはじめて「差別」と呼べる代物を見たのは、私が18歳の時、東京都の池袋でだった。
 そのとき私は私の高校からの親友と、美術予備校(専修学校、すいどーばた美術学院)にいたのだが、ある静岡出身の男が、当人も静岡方言を使っているにもかかわらず、私と親友の発音を小ばかにする様な文脈に置いた。
 その予備校には全国各地から色々な人々が集まっていて、様々な方言が混在していた。私や親友は一応地元で通える中では最も入試偏差値の高い方とされる進学校の出身で、元が愚かな方ではないのか、当時、私はこれは「間違い」の指摘なのだろうかと受けとり、標準語の発音や東京方言に該当する発音を自分から学びとり身につけることになった。親友も何も語らなかったがそうしていた。
 しかし関西地方出身者のうち、奈良県出身の講師や、京都府出身の生徒の中には、自分達のなまりを直さず「間違い」のまま使っている人達もいた。この小論の最後に書くが、彼ら関西人達がなぜ標準語・東京方言にあわせないのかについても差別の文脈があるのを知るのはもっとずっと後になってからだった。

 次に差別の実例をみたのは、千葉大から東北大の修士課程に進学した、高校の美術部で同級生だった男が、私に「四大卒」がどうのと言ってきた時だった。
 この男はいわき市に住んでいたが親は大阪からきた云々と言っている人物で、いわゆる学士とそうでない者を何らかの差別の文脈におきはじめていた。私は家族にその「四大卒」くらいしかいないので、そもそも学士をもっているからなんなのかと感じたが、その男が運転する車の中でだったか、当人がこの言葉をそれ以下の学歴とされる人々(つまり当時の私)を侮辱する文脈に置いていることは明らかだった。

 また、10代後半の私はPCを手に入れインターネットに接続したのだが、2chという場所を開き、私に関心があった分野を学ぼうとしたのだが、その中で文学板という場所で、はっきりした在日朝鮮人差別というものを生まれてはじめて目にした。それは京都出身の或る有名小説家らしき男(当人か成りすましか定かではない)の言動だったが、韓国あるいは朝鮮を生まれ又は人種で完全に蔑視する文脈に置き、彼らの文化そのものを日本以下とする一連の言動だった。そして私が観察していた限り、相当数の関西地方人達もそれに協賛していた。
 まだ10代後半から20代前半で判断力が未熟だった私は、その有名小説家(現時点で、日本人で世界的に最も有名な小説家だろう)の小説を高校の時から全て読んできていて、多かれ少なかれ模範なのではないかと勘違いしていた。しかも当時の私は10代後半頃から福沢諭吉の研究をしていて自ら古ぼけた福沢全集を通販で買い集め、神田の古本屋街で続福沢全集をみつけたのでこれも全て購入して読み込むといった行動をしており、福沢も『文明論之概略』『脱亜論』等の文脈でほぼ類似のことを言っていたのを知っていた。私は彼ら以外にも夏目漱石や岡倉天心、新渡戸稲造といった思想家らの本にも触れていて、つまり10代後半から20代前半の私は、愛国主義、国粋主義といった思想傾向の先人らの書籍をかなり研究しており、某小説家らしき者の朝鮮差別的言動に一理あるのではないかと思ってしまっていた。
 しかしこの後の平成時代、KPOPというものが流入してくるに際し、私に認知的不協和が生じた(「本当にこの人達が生まれや文化で卑しまれるものなのか?」という感じがした)ので考えを改め、韓国や朝鮮の文化、歴史、思想や現時点の状況などを調べ始めた。その結果、全く逆の事実を発見していった。つまり、某有名小説家らしき者(京都出身)をはじめ、関西人の相当数や、福沢諭吉(大分出身)といった朝鮮差別的言動を取っている人達は「弥生民族」の末裔であり、遺伝子的にほぼ同一といえる朝鮮民族の人達と双生であるが故に近親憎悪の様な言動をとっていたのだ、と結論づけられると私は思った。現に韓国・朝鮮文化の中には詩調の様な伝統詩から始まり、万葉仮名の参照元である吏読も先駆で、朱子学者を兼ねる両班階級の文人や哲学者としての知的に高度な世界が展開されていたし、それどころか敗戦後の日本軍に捨てられた日本人らを完全な善意から救っていた実例も見つかった。料理も大変豊富だ。

 また私はこの後、SNSというものが発達してくる中で、アメーバピグというSNSを通じ「都鄙差別」の類をはじめて目にした。このSNSの中では全国各地の日本人らが好き勝手な言動をとっているが、その中でも東京都、神奈川県、千葉県、京都府、大阪府、愛知県、静岡県、宮城県、北海道の札幌市といった地域の人々が、東京を上だといい、田舎(私の自治体を含む)を下だといい門地差別的言動をしている場面を頻繁に目にした。
 私は10代の頃、自分の生まれ育った常磐圏ではない文化圏、特に都会とされている未知の文化圏への知的好奇心から、東京への大学進学を望んでいたので現実に新宿副都心にある超高層ビルの専門学校・大学に通い、暇さえあれば都内のあちこちを探検し見聞を広めて過ごしていた。
 その様な暮らしを10年余り続けて発見したのは、「都会は下衆の集まりだ」という、私がはじめ脳内妄想として持っていた高尚な文化圏というマスメディア等に洗脳されたイメージと正反対の事実だった。犯罪が溢れているばかりではなく、衆愚が自己正当化や恥知らずの自慢に耽りながら何もしらないでいる。上述の都鄙差別の偏見をもつ地域はどこも、ある地方で最大の都会であることに気づくだろうか? いいかえれば自分の土地の人口密度が高いと、どういうわけか、日本人達は無意識に増長し周りの自治体を見下し始める。これの権化が東京や京都で、つまりは天皇の中華思想が模倣先になっているらしいのだ。

 またアメーバピグの中で私は様々な海外の人とちょっとした英語で会話する機会に恵まれた。その結果、殆どの外国では差別といったものを日本人ほどしていないが、一部の外国では日本では見当たらない類の激しい人種差別をしている現場をみた。具体的にはイギリスとドイツの人達が次の様なことをいった。
 あるイギリス人がいうにはイギリスにお前の様なアジア人がきたところで何の意味もない、所詮アジア人はアジア人だという。しかもお前は中国人か? と悪意ある嘲笑をするのである。
 また別の外国人に紹介され、ドイツ人の本物のネオナチと会話する機会があった。ドイツのネオナチはいわば日本でいうネット右翼を何十倍か激しくしたものといっていいだろう。いわゆるアーリア人優越主義みたいなナチス的発想を現役で続けており、当然だがそこからいえば日本人などサルと同じくらいの扱いで、私が第二次大戦で一緒に戦ったじゃないかと説得するも完全に無視された。
 その他にも西洋人一般は、ある限度より知的程度が高くなければ総じて中東の人々に人種・文化的な偏見をもっていた。また逆に中東の人々も、私が現場を見た限り、この種の差別に抗う目的でバイキングめなどとやり返していた。そして私がみたフランス人に限っての話だが中国人観光客に迷惑がっていた。
 更にはアメリカ人はアメリカ合衆国国外に総じて無関心で、中学生ですらアメリカ英語以外の英語方言を聞くと「変な言葉」などといっていた。またカナダやペルーなどの外国人男性らは、日本人女性を性的搾取の対象としてみている節があり、要は人として見下しているので或る意味では性差別主義者だった。

 またこのSNSでは「学歴差別主義者」と呼んでいいだろう人達を頻繁に見た。彼らはどういうわけか関西出身者が多かったが、それは偶然かもしれない。具体的には東大、京大、東北大、そして関西地方の大学を卒業した人達が学歴で人間性まではかれるかの様、彼ら自身に有利になる激しい偏見をもっていた。

 これらが私がこれまで全人生でみた全差別の総体だが、私にいえるのは、差別は脳の認知を過度に単純化しすぎることによる利己性の有害な拡張に他ならない。つまり愚かさの一種で、悪徳に該当する。私は自らが幼児の頃からマスメディアや義務教育で差別的偏見を植えつけられていたことに、都内の見聞による反証的事実の数々で気づいてから、寧ろそういった偏見を教え込もうとした都民の貶めていた対象の美質を探り始めた。結果、確かに彼らの貶めていた対象、すなわち田舎の方に優れた点が多かった。私が都内で自分に研究できる全対象を観察後、最上の美質といっていい場所は代々木公園の彰義隊の墓だったが、そこは都民の中では完全に見捨てられ馬鹿にされ忘れ去られ、誰も省みていない風だった。しかし同等以上の精神的遺産は白虎隊とか回天神社とか田舎ではもっと沢山あるしきちんと祭られている。

 この小論で私がいわんとしたのは次のことだ。

 差別は或る人が自らに都合のいい風に現実を歪めて捉える為の虚構、つまり悪意ある嘘なのだが、これに感染した人々は同様の錯誤をくり返してしまう。自らに植えつけられた差別を解除するには反証的認知を自ら集め、反省し、考えを改めるしかない。
 また或る差別観を持っている人は、先ず何より当人が損害する。なぜなら差別が現実逃避の一種に過ぎない以上、事実は彼に不都合な方に動いていくからだ。よって差別はする人自身の悪徳であり、被害者側に原因がなく、いわば差別観を持つ人が墓穴を掘っている状態である。基本的対処は無視がいいのだ。
 激しい差別は人権侵害に該当する。「これは区別だ」などの言い訳で差別観を持つ人は自己正当化しがちだが、全く意味を為していない。被害者側の状況が余りに酷い時には、弁護士を通じ裁判所や、時には国連に訴える必要があるだろう。だが差別主義者を避けられるならそれが簡単だということは確かだ。
 政府は差別を細かく分類し、全差別についてできるだけ法整備を行い、それに該当する行動を人権侵害とし、何らかの防止策や罰則を設けるべきだ。議員にせよ行政にせよ政府自身が差別観をもっているのもまた事実なので、この為には客観的基準が必要であり、世界中から最上の倫理観の持ち主を招くべきだ。
 例えば方言は各国言語に該当し、それらの尊厳と文化多様性は尊重されるべき筈が、明治以後の日本政府は拙速にも標準語教育で東京方言以外を事実上弾圧した。いわば英語帝国主義の東京版をやったわけだ。この様な蛮行を政府が現にしてきている以上、政府に依拠して差別をなくすのは限界がある。
 日本政府がお札の顔になんかしたりしている、上述の福沢なんて差別主義の権化みたいな面があったわけだ。『福翁自伝』でハワイ人の王族をどう扱ってるか見たら驚愕する。アメリカ憲法の天賦人権論は彼の中では未来のもので、幕末から明治時代人としては平気で東亜人差別をし、名誉白人気取りだった。福沢の愛国きどりの人種差別が明らかな事実としても、彼の知識輸入業者としての役割が全否定されるまではいかないにせよ、一体なぜその様な思想の持ち主を日本政府が一万円札にしていたか。理由は文科省だか財務省なんてその程度の浅はかな東大卒の官僚がやっている組織なので、浅学なだけである。
 或る政府は、国連であれ、構成各国の国民から成る組織にすぎず、つまりは民間人の中身に応じた結果しか現れない。最終的には我々自身が政府よりはるかに高尚で、人権に対する理解も深く、全人類に慈愛をもち接していれば、政府も当然そうなる。差別的考えをもつことを恥じる民間人でなければならない。

長期的成功

急成長で成功した人より、ゆっくり成長し成功した人の方が尊ばれ易いのは、アダムスミスが『道徳感情論』でいう観衆の同感によるだけではなく、短期的成功は必ずしも長期的成功を保証していないのに加え、往々にして高収益な行動は高危険を伴うからだ。つまり短期的成功者には偶然そうなったに過ぎない偽物が含まれているが、一生をかけ成功した様な実例をみると、その途中で明らかに努力や失敗にめげなかった挫折からの復帰などがみてとれ、結局その人が運によらず当人の実力であまたの逆境を運命に抗いのりこえてきたとしれるからだ。

右翼一般は社会の反面教師として存在意義がある

或る東京都民の差別主義者の言動を私は或るSNSで観察した。成城出身で仕事場は五反田にあり妻の親族の法律会社勤務、山形の父、北海道の母をもつといっていた子持ちのその男は、「韓国」「田舎」等を差別対象とし頭ごなしにそしり、仕事中SNSで駄弁を弄し怠けながら、不倫相手を常に探していた。この男の脳内をかなりの期間(約3~4年間、できるだけ全言動を追い、思想内容の検証を重ねる)をかけ分析した私は次のことを発見した。
 この男はいわゆるIQが低く思考を節約する為に差別的思想を好む。そしてこれは第三者の目には意味不明に映るが当人の脳内では「正義」とほぼ同一の定義である。この男は日常的に韓国全体を「反日」と呼び差別していたが、或る神奈川出身の韓国人女がこの男に媚を売ると喜んで馴れ合っていた。この矛盾の理由は、当男は身持ちの悪い出会い厨(厨の意味は以下に解説あり)で、性欲は利己性に合致するが、反日認定も当人の利己性と同一視されている偏見らしかった。(厨は厨房、つまり中坊、中学生の略でネット俗語では幼稚な奴らといった意味)。この男は他に「田舎(者)」と呼び私を差別してきたが、私は都内に長い間(人生の約半分ほど)住んでいたので、都内でも行動範囲が限られる彼より都内の或る面に詳しかった。つまりこれも上述の「反日」認定と彼の脳内では全く同じ方法論になっている。いいかえれば彼は差別対象を脳内で捏造する。
 この男の分析だけを理由にネット右翼全体の脳内構図を直ちに演繹できるとは限らないが、私はこの男の脳をサンプル数1のネット右翼的思考のモデルとしてできるだけ多くの角度から研究していた。彼の基本的思考原理は次のものだ。
1.韓国や田舎、反日などの言葉はネット右翼脳内ではただ攻撃対象へ貼る偏見ラベルに過ぎない
2.彼らは、現実に偏見ラベルを不都合と見なした相手になら誰にでも貼る
3.彼らは、偏見ラベルを事実と無関係に貼る
4.彼らは、偏見ラベルを利己性に従って貼る
こうしてネット右翼の脳は、現実を自分に都合がよいものへ歪曲し認知するべく、認知的不協和を最小化する目的で偏見ラベルを乱用する。これがネット右翼、或いは更に一般化すれば右翼的思考が差別を行う根本的理由である。すなわち科学的反証思考、又は批判的思考の対極にある「信じたいものを信じ、信じたくないものは意識の埒外に置くため汚名を着せる偏見ラベルを貼る」といった利己的妄想、現実歪曲の中に生きているのがネット右翼なるものの脳のしくみなのだ。
 この右翼的思考、保守性はゴードンホドソンの中ではより抽象化され一般知能の低さ、又はIQの低さに関わるものと定義されていたが、もう少し詳しく見ると、彼らの脳の潜在容量にとって、世界を無理やり単純化しないと自己の利己的妄想をおびやかす不安になるので、差別という価値づけ方法をとる。右翼的思考の人々は複雑な現実の多様性に混乱をきたす為、自集団又は互恵性が期待できる利己的な同胞(最小単位なら個人で、家族、地域集団、民族、会社、国などと公共化される単位)を他集団から見分けるべく、自動的に差別をしがちだ。差別を法的に禁じると、彼らはこの単純化が使えず苦痛なのだ。
 では我々は一体、この右翼的思考をもつ脳(一般化すれば低IQな傾向があるとされるが、相関は因果ではないので、低IQかつ寛容な脳もありうる)の持ち主をどう扱えばいいのかだが、彼らは現実歪曲の中で自ら強化した妄想に生きているので、判断を誤りがちなのが事実である。右翼的思考を持つ脳が飽くまで利己的に行動したがる場合、認知的不協和から生じる不快感と利己性を天秤にかけ、自らに都合がいい方を択ぶことになる。これがなぜ判断を誤り易い(騙され易い)のにこの種の脳をもたらしがちな遺伝子が残っているかの原因と思われる。
 いいかえると、右翼脳は反面教師の役割を担う為に、現実に生存しているのだ。彼らは差別の癖で損し易い上に、類似した低IQ傾向の悪徳集団にとどまり易くなる。つまり我々は極端な例を別に、彼らの言動を他山の石とし、誤った自集団ひいきの妄想がどんな結果をもたらすか、社会実験として扱うのがよい。

皇室廃止は感情的かつ一方的に、しかし建前を使って相手の勇退風に仕立て上げ後腐れなくするべき

心理学のプロスペクト理論(得するより損する方が、より恐れを感じ易い。人は損失回避に動き易い)によれば、皇族が庶民の暮らしをするだけで大変な苦痛や不安を感じる筈です。甘いといわれるかもしれないですが、日本史を省みると、革命じみた時に旧権力者を辱めない方が恨みが残らないと思いますよ。かつて薩長藩閥の人達は、将軍権力から天皇権力へ鞍替えする際、旧将軍や彼の擁護者達を大変悪意をもって辱めてしまいました。何しろ単なるテロ、政権簒奪ですから誠実に政治してきた旧体制には許しがたい蛮行です。彼らは李氏朝鮮へも同じ悪行をしました。それで150年後も国内外に遺恨があります。
 皇室を民営化するに際し、建前で「皇室は伝統のある立派なお家柄ですから、財政が厳しい折、どうぞよしなに」みたいに丁重に扱うのと、本音で「この殺人邪教の穀潰し共が、身の程を知り貴様らが搾取し虐げてきた浮浪者未満におちぶれろ」と扱うのとでは、後の世からの新政府の評価が違うと思う。
 日本人一般は論理的思考がとても苦手で、子供の頃から議論の訓練を積んでいないどころか論理的に反論されると「喧嘩」と勘違いし感情的反発をする癖があります。彼らは人権上、共和政が必然の帰結という論理を理解も尊重もしていないのです。日本人一般を操作する方法があり、それは情緒的扇動です。都内のマスメディアが日常的に行っている商いの手法であり、自民党ネットサポーターズクラブがネット右翼達を醸成した手口でもあります。GHQも類似方法で日本人全体を洗脳していた証拠(WGIPなど)が幾つかあります。つまり幼稚な国民性です。
 皇室廃止にあたっては、論理的反論は、上記の理由でほぼ意味がありません。寧ろ日本人一般は論理的回答を求めると反射的に非難する側に回るか、多数派に群れる癖があり、それは義務教育上、「和」を乱さないことを正義と誤認させられているからです。
 よって皇室廃止にあたっては感情的かつ一方的な扇動が得策です。

大正デモクラシーは寡頭政治をしていた薩長藩閥や皇族ら旧華族に弾圧された

(なぜ日本では民主主義が芽生えなかったのか、というツイートへ)
大正デモクラシーを薩長藩閥(明治寡頭政治)が皇室共々弾圧しただけ。民衆の権力闘争が、薩長藩閥を主とした明治新政府勢力(旧華族及び皇族の寡頭政治)に負けたから、天皇制ファシズムが継続発展した。つまり民衆が力負けしたに過ぎない。
 国連軍(旧連合国軍)が天皇政府を暴力で存続不能にしたので、皇室は保身の為に妥協し民衆政治(democracyが民主主義と訳されている)を採用した。そして天皇統治(君主政治)と民衆政治は対立するものなので、皇室はイギリス王室をモデルに象徴天皇制に納まることで地位を維持しやり過ごそうとした。
 神武天皇とされる弥生民族が外国(弥生時代のことなのでこの外国は中国とほぼ同定できる)から移民してくる以前、各地の先住日本人らは民衆政治(多数政治、共和政、democracy)をとっており身分差がなかったことが縄文遺跡の埋葬跡から分かる。要するに天皇一味に民衆が洗脳されているだけ。

武家一般は男女分業だったが決して男尊女卑ではなかった

(「女は三歩下がって着いていけ」が男尊女卑に使われてきたとするネット記事へ)
女は三歩下がって着いていくみたいなのは、寧ろ武家の女性自身が、武士の男性に比べ力のない生まれつきの性別の差を省みて、夫の仕事を内助の功で支えようとした事実から出てきた武家の女性による武家の女性の為の共通の観念で、後から『女大学』等で補強された信念だと思われる。この意味で「男女差別に使われてきた」とするのは、確かに町人の世界ではそういう解釈になってしまうかもしれないが、それは農工商の世界では男女の性別に由来する生まれつきの力差が、近代的武器登場以前の戦闘階級(戦国時代等でのそれ)より小さく男女がほぼ同じ比率で働けたからだと思われる。
 新渡戸『武士道』によれば、武士階級の間で家庭における女性の地位は最高のもので、家庭の主として武士の男性より権力をもっていたし、家庭の主として最高度に尊敬されていたという。これが相当正しいとすれば、つまり武家は男女分業体制になっていたわけで、現代商人(会社員、労働者)で共働きが基本になっているからといって、江戸時代当時、武家が男尊女卑だったとはいえない。

過失と名誉

他人の過失は気にするな。自分が何をしたかのみに注目せよ。
 自分の名誉を無視すること。他人が真の名誉に値するかのみに着目せよ。
 これらは他人の過失は自分の行動に還元されねば意味がなく、自分の名誉を誇るほど世間はあなたをねたむに過ぎないからだ。しかし他人の真の名誉をそうでない虚飾から見分ける人は、結果、自他に公益である。

差別はする側が100%悪くされる側に原因は全くない

或るゆとり世代の人と会話してたら、侮辱表現や差別表現を日常的に友達と使いあってるらしく、ますます私にがっかりさせた。全く本を読まないらしく、基本的な語彙がない。それでそれは侮辱的な意味のある言い回しだよ、意味が間違ってるよと教えてあげても逆切れしてきて、差別してきて説教が無意味。皆私と同じ経験したことないから、私がどれだけがっかりしてるか分からないと思う。未来を悲観せずにいられるのか。日本語が通じない人間が下の世代の殆どだと想像すると、この国は没落することがほぼ間違いない様に見える。
 インターネットが愚物に発言権を与えたから、これまでみれなかった都会の差別主義者の一部の醜態が世間にあらわになってるだけなのか。国語が読めない大人がいると誰が想像したろうか。
 賢く、道徳的で、尊敬できるゆとり世代を探さないと。東洋大学の某活動家くらいだ、立派な志をもっていた若者だ。今どうしているだろう。
 孤独を深める為のSNS。不幸さを増す為のSNS。アメリカのIT企業が広告費でカネを儲ける為のSNS。時間を浪費する為のSNS。ろくでもない下衆に絡まれうんざりする為のSNS。匿名の極悪人達が日本語で誹謗や揚げ足とりをする為のSNS。すばらしいSNSは一体どこにあるのか。嘗て1度もみたことがない。
 日本人全般、特に東京都民や神奈川県民、愛知県民、大阪府民、京都府民、仙台市民、札幌市民あたりは日常的に地域差別、田舎差別、都鄙差別をまきちらしていた。一体彼らは都会の何が高貴だと狂信していたのだろう。犯罪率が高く犯罪者数も多い地域でより善良で賢明な人々を差別する目的は何か。日本国は差別の塊ではないか? 東京都のテレビだの報道だのが一体どれほど卑しい地域差別、田舎差別を日々金儲けを兼ねてまきちらしていることか。勿論それら全てが悪意ある虚偽の中傷に他ならなかった。現実に犯罪三昧しているのは東京都のマスメディアの方だった。洗脳された衆愚が悪意に感染した。この国民はどういうわけか民衆政治を民主主義と訳しその政治思想を正義と思い込んでいる。GHQに洗脳されたのだろう。彼らの現実をみるにつけ、下級階級だった町人らの卑しさの延長上で、下衆極まりない蛮行三昧しているのがよくわかる。東京商人の傲慢ぶりを見よ。一体彼らに正義があるというのか。下賎極まる猥褻漫画、強姦だか児童ポルノだかに該当する漫画絵に何万人もツイッター上でたかっている日本人とやら。彼らが立派な絵画に一瞥もくれないのは彼らが卑しいから以外の理由があるだろうか? そしてそんな下衆が民主主義といい、邪教祖万歳といいながら立派な政治ができるとでも思うのか。
 勿論、私も共和政を実現してほしいと思っている。だがそれは私が政治的に冷遇されない為だし、私より立派な政治思想の持ち主がみあたらないからだ。私より偉大な政治思想の持ち主がいたら、その人に全てを任せてしまえばいいのだし、私としてもそれを望んでいる。しかし民衆に何ができよう。
「あなたは無能なのです。なぜならあなたは一般大衆が望む低俗極まりない無価値に等しいモノを生み出しそれを市場に出せないからですよ。金儲けできなければ存在自体が無意味、それがこの日本の秩序なのですよ。カネが全てですからね。芸術? 知らないなあ。アニメと漫画はまだなのですか?」
「村上隆さんを知ってらっしゃいますか? ええ、彼のおかげで漫画アニメが大義名分を得て、今では外人オタクも夢中でサブカルチャーをほめちぎってます。低俗さこそカネ儲けですので。衆愚? なんのことですか? 民主主義と呼んでいただいていいですか? カネにならないモノはごみなのです!」
「あなたのしていることはそこらのコンビニで言われたとおりに業務遂行するAIより遙かに価値がない。AIじゃなくて奴隷でしたっけ。どっちにしても同じです。定型作業より価値がない。なぜなら日本に美術の造詣なんてないからですよ。紛い物の国に生まれて嬉しいですか? わはは。お金モウケマショウ」
「ああ商人に生まれて幸せだなあ。とにかくカネ儲けは楽しい! 朝から晩までカネをどうやったら儲けられるか考え、お客様の為、株主様の為と念仏の様に唱え、商品サービスを提供させていただく。ええ、金儲けですよ。楽しいどす。だから儲かりまっかで大満足どすえ。え? 芸術家。しりまへんなあ」
メンタリスト「商売しろ」
ユーチューバー「商売しろ」
投資家「商売しろ」
俗物「商売しろ」
天皇「商売しろ。納税しろ」
アニメーター「商売しろ」
衆愚「商売しろ」
僕「嫌だ。絶対にやらない」
日本人全員「商売しないやつは死あるのみ! 生活保護は与えない!」
女「で、カネは?」
政府「カネ」
労働者「絵なんていらねえよw いいからカネもってこいよ! そうカネカネ。カネが全てだから。カネかポルノかマンガ。アニメ。わかった? 頭使いたくないから。で? カネ。カネは? 労働しろよw」
経営者「で、カネは? カネくれ」
首相「カネを払わないやつは生活保護与えないので。浮浪者で」
渋沢栄一「論語使って金儲けしたら?」
福沢諭吉「逐円の日本男児は和歌なんて詠むな」
鎌倉出身のサイコパス女「ほんで。カネはどした?」
僕「いや、私は金儲けが嫌いなんだ」
全日本人「金儲けしないやつは無職ニートだから。自殺しようが生活保護は与えない」
東京商人「金儲けたのすいいゲヘヘ」
京都の俗坊主「カネとりますえ」
神道の神主「賽銭はここへ」
創価学会員「聖教新聞です」
東京の下宿に来たエホバの商人「あそこの浮浪者助けるより韓国女信者に発情してる方が楽しいじゃんね?」
僕「金儲け嫌いなので」
全日本人「だ~から~。カネ儲けの国なの、ここは。下衆の国なの」
僕「は?」
労働者「会社員はな、時給か月給でいわれたとおり動いてりゃいいんだわ。それでカネもらえりゃ大満足して、お前みたいな貧民見下してりゃ偉いんだわ。定職に就き何も考えずに生きて死ぬ。奴隷階級? 知るがな。社畜で十分。公僕万歳だわ。天皇陛下万歳三唱だわ。大ファシストだわ」
僕「金儲け嫌い」
NHK集金おばさん「カネ払ってもらっていいすか」
僕「お金ないので払えません」
NHK「テレビあるでしょ?」
僕「NHKつけてないのですが」
NHK「カネ払わないと違法なんで。何度でもきますよ」
僕「ないものは払えないのだが」
NHK「あるでしょ?」
僕「餓死の可能性がですか?」
NHK集金おばさん「カネ払ってもらっていいですか?」
僕「んじゃ払うけど、これは私の老いた父母の年金ですよ? 私は金儲けの能力が皆無なので朝から晩まで仕事しても1円も儲かりませんので」
NHK「まいどありい」
神「王子よ、お前はなぜ金儲けを拒むのか」
僕「新渡戸稲造がそう教えました」
神「王子よ、それは真理なのか」
僕「はい」
神「王子よ、お前の耳と目を奪うがいいな?」
僕「いや、よくはないが」
神「王子よ、マザー2知らない人のが多いぞ」
僕「金儲けしない」
神「王子よ、死は恐ろしいか?」
僕「いいや全く」
神「王子よ、金儲けすれば永遠の生をやろう」
僕「いらない」
神「王子よ、溢れるばかりの財宝と無数の美女をはべらせてやろう」
僕「……」
神「王子よ、この世にある限りの快楽をやろう」
僕「……」
神「王子よ、商売するのだ」
僕「はいしない」
仏「商売すれば?」
僕「そもそもやってもできない」
仏「苦手でもやれば?」
僕「やってるが無理」
仏「下衆が憎いか?」
僕「どうでもいいな」
仏「中道は見つかったか?」
僕「無欲なら昔から」
仏「この国を捨てたらどうだ?」
僕「それすらいらない」
仏「俗人が多いだろう?」
僕「虚無です」
記者「男女差別するなよ」
僕「寧ろ女性のがいいじゃん」
記者「アーティストは性差別主義者なんだよ!」
僕「だから、女性のがいいじゃん」
記者「女性のがいいとは?」
僕「男性より女性のが美しいのでは?」
記者「何が?」
僕「見た目?」
記者「中身じゃなくて?」
僕「優しい女性もいますよ」
ジョブズ「本物の芸術家は出荷する」
僕「お前はアーティストじゃないだろう」
ジョブズ「お前とは失礼な」
僕「ソクラテスとの午後のひと時は楽しいか」
ジョブズ「iPhone4sの調子はどうだ」
僕「中古で3千円だった」
ジョブズ「俺の遺作だぞ」
僕「お前は商人だが、俺がこれ用の壁紙描いてやった」
本田「YOU LOSE」
僕「はい」
本田「明日までに考えといてください。何かが見えてくるはずです。ほな、いただきまーす」
僕「はい」
本田「YOU WIN」
僕「はい」
本田「明日までに考えといてください。ほな、いただきまーす」
僕「はい」
本田「やるやん。明日は俺にリベンジさせて。では、どうぞ」
Q.なぜあなたは人が嫌いですか。
A.彼らが悪徳まみれで酷く愚かだからです。
Q.彼らの望むことが分からないと?
A.勿論。
Q.下衆の気持ちが?
A.先ず下衆以外みたことないです。
Q.立派な人達を探していましたか?
A.ほぼ見つかりませんでした。
Q.今後は?
A.諦めます。
商売人「他人を搾取するだけの簡単なお仕事です」
僕「やりません」
商売人「貧乏人には何もやらない」
僕「そうですか」
商売人「金持ち様には無限に奉仕します」
僕「はい」
商売人「対価を得る為に働くのです」
僕「なぜ無償じゃないの?」
商売人「カネがほしいからです」
僕「利己ですね」
差別は醜悪だ。そして差別するやつは馬鹿だ。
 南関東人はほぼ例外なく「田舎」、又は茨城県を差別している。つまり南関東人らは本物の差別主義集団、人権侵害集団で我々及び人類共通の天敵なのだ。関西人は南関東人を煽り首都圏に内乱を起こし痛快がっているが、東京・神奈川・千葉・埼玉くんだりの人間達は差別主義を狂信し自滅の道を辿っていく。南関人一般が中華思想に耽るのは彼らが暗愚だから、悪意だから、これら以外の理由はない。つまり極悪人衆愚なのである。しかし差別主義者が反省力を持つ可能性など殆どないので、いってみれば彼ら南関人一般を救う方法はない。集団になって商売し、南関東に密集し、自慢と差別をまきちらす。原発を「田舎」におしつけ、下らない偏見で茨城県民を侮辱し、あまつさえ何一つ反省しない。その様な差別主義の南関人一般を人道はどう処理すべきなのだろう? 無視し、ひたすら蛮行を続けさせるべきなのか。天罰を下すべきなのか。日本政府は南関人に群れ差別のまきちらしに加担している。かつて、いや今も京都市民が全国に対してやっていた中華思想の焼き直し。差別主義により日本人全般を侮辱する。邪悪な皇室。
 南関東の哀れな差別主義者ども、皇室と名乗る邪教祖を担いで人道を汚す邪教祖ともども、偏見の井戸の底で死に絶える。
 我らは広い世界を見て生きよう。下衆は下衆の間で死ぬのだ。差別という網に囚われ永久に知らない外の世界を我らは楽しもう。
 日本人全般は私が都内に暮らしていると全く無意味にもちあげてきた。日本人全般ほど脳内が差別でできている人達がどこかにいるとは思えないのだが。なぜ東京都内に住所があるだけでもちあげてくるのか? そして地元にもどると途端に差別をはじめるのか。日本人全般ほど卑しい差別主義者がこの世にいるとは全く思えない。特に南関東人全般の傲慢はすさまじいものだ。日本人全般に田舎差別主義が当然視されている以上この国民は極悪人だと断定できる。なぜなら私が暮らした限り本当に卑しい人達、すなわち犯罪者集団は都会の方に遙かに多かったのだから。勿論、知的教養の不足、品性下劣さも都会人全般の方が激しかった。それ故に都会人の方が中華思想に耽るのだ。
 皇室と自称する極悪邪教祖が諸悪の根源なのは疑う余地がないが、その次は東京都民、京都市民、大阪府民一般に潜む地域差別主義集団が天敵になるであろう。
 学歴差別主義者というのも実にたちが悪い。往々にして生得知能が明らかに低い下衆が後天的にその地頭の悪さを補う為にがり勉し、自分を有利にする為に学歴差別をまきちらしているものだ。都会で自己をもちあげながら差別や偏見をまきちらす。それに騙された衆愚が差別や偏見を更にまきちらす。これが天皇制の基本現象であり、ただの愚行だ。この上にこの種の差別はついに人種差別にいたり、都会人と称する極悪犯罪集団が大量殺人をはじめる。帝国主義とはまさに差別の犯罪だ。
 毎日満員電車地獄、搾取地獄、狭小住宅の最悪の環境である東京都に暮らしながらその最悪さを嘘で隠す為に自慢する。逆に恵まれた住環境、居心地のよい自然に囲まれ、平和極まりない広く快適な田舎、茨城県を差別する。東京都民は悪意のみで極悪都内マスコミと日本人全体を洗脳し、国中を汚染している。
 一体私が見た真実をなぜ語らずにおけようか。東京都民が極悪行為をしていることを。善良な田舎の人達をだましていることを。嘘をついていることを。
 東京から全国民を搾取し、差別と原発をまきちらし、偏見報道で田舎を貶める。これだけのことに騙されている全国民。なんと卑しい皇室制度か。中華思想の為だけに邪教で自己神格化するとはどれほど悪意を極めたらできるのか。暴力団を独裁し、善良な人類を大量殺人してきた天皇史と洗脳された衆愚。
 東京が奈良や京都のよう荒廃し、滅亡することもまた疑い得ない。悪徳の巣、邪教のすみか、全国民を騙し、何もかもを搾取する為の悪業の地。犯罪者の巣窟になって当然だ。悪意でなければ中華思想で差別等まきちらしえないのだから。
 差別はする側のみに100%の原因がありされる側には何一つとして落ち度がないものだ。つまり南関人全般が100%悪いのだ。皇室だか衆愚だかと群れ、卑しい偏見をまきちらしている。理由は彼らが暗愚だから、悪意だから以外なにもないのだ。
 差別と戦う意味がわからない。差別する側のみが悪いのだから、される側はひたすら善徳を高めているに過ぎないのに。
 卑しい人と接さなければ幸福でいられる。
1.カネを貪り
2.差別をまきちらす
3.犯罪を行い
4.侵略殺戮する
これが南関人が関西人と共に天皇制として行っている帝国主義の全貌だ。神道はなにも進歩がないのだ。
 商売する、東京が搾取する、東京や京都から天皇中華思想で田舎差別をまきちらす、天皇が警察の暴力で税をまきあげる、全国民を奴隷化する、都内から偏見報道で全国を地方扱いし門地差別・人種差別する、外国人を人種・民族差別する、商業・軍事侵略し地獄的都塵を拡大する、原発汚染をまきちらす。皇室、日本政府、東京都、京都市、奈良市。中華思想で全国民を差別しながら搾取する邪教が住み着き、洗脳された衆愚が華夷秩序を主張しながら偏見をまきちらし、カネを貪り、侵略しながら犯罪を正当化する。天皇が消滅したら彼らは反省するのか? 己の犯している邪悪な傲慢の罪を。搾取と汚染の罪を。
 私は実に善良な世界で育ったと知らずにいたものだ、東京都や神奈川県、千葉県という極悪の差別主義者達が悪意ある偏見をまきちらし衆愚を洗脳する世界を知るまでは。そしてその南関東の中枢にいたのが邪教祖で、悪徳商人達がやつの為に金を貪り原発汚染をばらまいていると知るまでは。資本主義者は蓄財によって偏見や差別を強化する。それだから東京港区から全国民、特に田舎と見なした地域を門地差別しているのである。
 悪意ある人類は不幸をまきちらしているに過ぎない。そして彼らはその時点で哀れむに足る人々だ。勿論、他人を身分差別する目的しかない皇室も、労働者を搾取する目的しかない資本家も、南関東地方や京阪地方から全国民を傲慢にも蔑視している衆愚も。卑しい人達は人道そのものを知らないのだ。

2019/05/20

慈愛とは人間へ完全に期待を捨てること

人を愛する意味がわかった。人を愛するとは人を諦めることだった。人を自分と同等以上の存在と思っている限り慈愛で接せない。人に何も期待しなければ慈愛のみで見れる。

自民支持者は民衆一般より金儲けできると信じている

もし誰かが利己的で金儲けの方法がみつかれば、その人は自分の税率を下げろ、といいだす。つまり自民か社民で前者を択んでいる人達は自分だけ金が儲かると信じている。彼らが自分はどう頑張っても金が儲からないと悟ったら自民支持をやめるだろう。

孤独の装置

ツイッターは孤独の装置。

2019/05/19

善意は最高幸福の中身

我々は性悪が他人を不幸にする目的で生きているのを忘れがちだ。連中は他人を嗜虐するのが最大の生きがいで、そもそもこの為に人生を送っている。だから性悪への唯一で最善の対処は連中に触れないことだ。
 一方、商人全般もこの性悪と同じ目的で生きている。いいかえれば彼らの動機は他人を比較的な地位財で見下すことである。なぜ彼らがかねを貪るかといえば他人を搾取する為でしかない。商人生活に適応できるのは性悪な人々で、彼らは嗜虐が最終目的のラットレースを死に至るまで続ける。
 この世で商人社会の中で幸福さが一向に高まらないのは以上の道理による必然で、結局彼らは不幸を買う為の努力をして死ぬ。だから賢明な人ははじめから商わない。
 物質的快楽は打ち止めになるのが知れているが、単に性悪が他人に優越感を得る目的でかねを集めても一定限度以上で見下せる相手が減るからだ。そして性善の人は最初からその種の虚栄をみてとり、悪徳の都会に近寄らず質素な田舎町でくらせば競争の必要もないと知っている。中庸の徳は今日もまた正しく、かねを巡る無数の悪徳ははじめから他人に妬ませる目的しかない都会、もしくは性悪共の生態を離れてこそ避け得る。
 ピーターシンガーがいうとおりこの世で幸福さを高めたくばただひたすら利他の行いを積み重ねればよい。積善は最も簡単に救いの信念を得る方法だからだ。カルヴァン思想の中でと同じく自らが救われるとの確信が、我々がこの世で得られる最高の資産である。それは自分が常に揺るぎなく最善の行いをし尽くしたとの満足感の度合いでしかない。だが自らのかね儲けのため仕事してきたとしか思えない人は、結局自分の生を比較的地位財でしか合理化できない。これが幸福になれないかねもちの正体だ。
 アダムグラントは経済的成功を利他行動と兼ねる人を理想化しているが、実は清貧な利他主義者の方が幸福感が高い。それは自分が善良な存在だと信じられる人が、少なくとも非地位財の中で最上の宝というべき善意を高めていくからだ。相利によっては永久に仮言命法的偽善心しか満たされない。

カネ欲しさに生きている人達

カネ欲しさに生きている人達
東奔西走
それから無が残った
明るすぎる部屋の中
置き去りにされた自我
死にゆくものの中
とわにある真理
自分の死後に残った全記憶が
とりもなおさずお前の全て
他人を見下す為に生きている俗物が
お前にとりつき死に絶えてゆく中
暗すぎる絶望の街で
お前は崩れ落ちた自我を拾い集める
それから無が残った

皇室廃止は首相の独断で行うべし

(天皇制廃止の国民投票しかない、とするツイートへ)
天皇制廃止は国民投票ではなく首相が独断でやった方がいい。理由は日本国民全般は上から力で押しつけられたことにはひたすら従順(奴隷精神)だが、自分達で判断する能力は基本的にないからです。憲法改正の時に絶対権力をもつ首相が皇室典範を削除すれば、国民はその直後から共和政に順応します。
 歴史に学ぶと、17条憲法から始まり武家諸法度、公家諸法度を経て日帝憲法、戦後憲法、どれも実際には政府が「上からおしつけて」決めている。厳密な民定憲法は日本史上ない。しかし日本人民衆は自分で判断しない方が楽だからそれに忠実に従う性質をもっている。国民投票すると逆に現状維持になる(つまり何も自分で考えず、考える能力もなく、不安がって思考停止し、なんとなく多数派が選んでいそうな無判断か時間切れに終わる)。
 もし天皇制の是非を問う国民選挙とやってしまうと、当然ながら国民の多数派は神道や皇室に洗脳されているので現状維持を選択しますよ。間違いないことです。すなわち別の条項(例えば9条)を主たる懸案にし、一気呵成に皇室典範も削除してしまう戦術が最も滑らかに共和政へ移行させるでしょう。
 例えばフランスやアメリカは市民革命によって共和政へ移行してますよね。中国だってそうです。しかし日本人民衆は一度も市民革命を起こした試しがない。明治維新は武士階級発、つまり公務員の入れ替わりでしかなかった。日本人民衆の政治民度は米仏より遙かに低く、共和政と君主政の違いも知りません。
「愚者に意見を聞く」と、全く見当違いの答えが返ってきますよ。共和政は国民自身に権力を取り戻すことですと説明したところでそれが理解できないからあれだけ一般参賀に雲集する。愚民を操縦するには高所大局にたった公徳、公知が必要なのです。

純粋美術は大衆商業主義や反知性主義に妥協すべきではない

純粋美術系の或る上の世代の小集団を最近色々観察してて気づいたのは、先ず彼らは知性主義を引き継ごうとしている。それで彼らはラカンの概念を用いて説明してるのだが、より知性的な作品がすばらしいと言いたがっている。リヒターがコンセプチュアルアートを懐古的に語る時の口上みたいに。
 欧米美術のハイアート界は確かに知性主義とほぼ完璧に一致していて、そもそも上流階級の所有物である。そこに一石を投じる概念をもちこんだのが村上隆でスーパーフラットだった(中間芸術の正当化を、日本画の非遠近法的な特徴の掛詞にしていた)。だが日本にこの種の知性主義的傾向はないと。寧ろ若い世代になるほど大衆商業芸術が主になっていて、漫画『ワンピース』が素で芸術の王道だと思っている。或いは日本画界が変質したガラパゴスなサロン美術界といえる日展みたいなのが似非上流の世界になっている。そのどちらでも巧妙に知性主義は排除されていると。
 じゃあ純粋美術の運命は? というと、風前の灯であると。そもそもカネが儲からないゴッホ的な近代美術家像を踏襲していると死んでしまうので、普通に誰もなりたがらない。私はこの意味で逆説的に近代回顧の存在で、グリーンバークの前衛を「まだやってる」扱いなので、商業美術界に属せていない。
 リヒターが「当時のアートシーンでは、モンドリアンよりマカルトの方が重要だった。この意味で誰がサロン美術家か分からない」云々と書いていたが、状況は現時点でも全く変わらないですね。例えば日比野克彦さんがいわき市立美術館の玄関でライブペイントしてるの昔見たが、時代は非情といえます。
 村上隆さんは中間芸術を欧米アートシーンにもちこみ、日本のサブカル(特に漫画とアニメ)を彼流儀に諧謔を込め翻訳しつつ輸出してきたと。このサブカル正当化イデオロギーは強烈に下の世代に影響し、「漫画アニメに外人も喜んでるじゃん」「純粋美術は分からないからいい」みたいになってしまった。で俗受けユーチューバーがアーティスト扱いと。
 で、その私の上の世代の或る純粋美術クラスター(具体的にいうと絡まれそうなのでぼかしている)は、物凄く端的にいうと村上隆に完全敗北しているが、私小説の人らが当時の文壇でサロンを作り(正宗白鳥とか)自己正当化しながら漱石を「あんなの商売だよ!」といってたみたいにしていると。
 私は全く気づいていなかったが、この上の世代の或るクラスターを客観視することで自分も結果的に完全に逆張りになってるとわかった。つまり大衆商業美術って今で言うと『君の名は』みたいなのを素でリリースしカネ儲けること以外何物でもない。そこに知性主義なんて当然全く無用なばかりか邪魔だと。
 純粋美術とはなんだったんですか? 過去の流行でした、学歴主義なら就職先だか世間体だかカネ目当ての発情相手になりますけどとなってしまい、「カネさえ儲かればなんでもええわ。東京の億ションからユーチューブでドヤりたいやで」みたいな似非商人気質が日本で完全に支配権を握り、後戻りしないと。しかし私はこの種の愚民化が底抜けに進行中の日本国のサブカル全盛期ではあるが、純粋美術の前衛性の世界が完全に消え去るとは全く思えない。なぜなら私はサブカルも相当みてきたけど、ファインアートと比べるとやはり幼稚なものに過ぎないからだ。大人になれれば、サブカルは下らないとみな思う筈だ。
 私(鈴木さん)は何者ですか。私はこの国の知性主義が残した足跡ですね。それは当然ながら学歴主義ではない。虚飾とか衒学でもない。また単なる金儲けでもない。すなわち大衆商業主義でもない。純粋美術は中間芸術ではない。これはひたすら高踏的な意味で、完全にぶっちぎりの前衛でなければならない。
 某氏がネットで「美術は哲学の枝葉だ」といっていた。私はこれについてかなり長い間考えてきたけど、はっきりいってプラトン思想に過ぎないと思う。アリストテレスもそうだったが形相論で美術はそれ自体がイデアの形だとしたわけだから、哲学と別分野ですよ。美術自体が哲学以上を語れるのです。
 本物の知性と、単なる衒学は、並べたらすぐ分かる話で大衆には見分けがつかないかもしれないが、そんなのなんの問題にもならない。既に述べたようモンドリアン『ブロードウェイブギウギ』はMOMA中央正面に鎮座するにふさわしいがマカルト『五感』では様にならない。本物だけを突き詰めるべきなのです。なぜその上の世代の某クラスターが完全敗北の状態かといえば、村上隆の前衛性を超えられてないからに他ならない。この意味で美術界は完全に公平な世界です。本物の評価って世俗的評価じゃない。そして金儲けそのものでもないから、儲かったら勝ちでも全然ない。私はだから美術をやろうと思った。
 もし純粋美術の担い手がいなくなると、つまりスーパーフラッターというか中間芸術のサブカルもどきの人、もしくは似非サロンの公募展作家みたいなのしかいなくなると、その地域は全て下らない物と偽物で埋められてしまう。そこに堪えられるのは馬鹿と俗物だけだ。裏返せば純粋美術は高貴さの印である。

詰め込み世代とゆとり世代は知性への態度が真逆

この間、日本国内で知性の二極化が起きるのを危惧してるといってる人がいたけど、これは既に起きているので危惧とかじゃなくて現に体験しまくってるともう後戻りできないと知っているだけの話である。
 いわゆるゆとり教育の失敗、これはその世代の一部と標本抽出みたいにかなりのサンプル数と「できるだけ反証的に」接した限り、本当の話だった。まず本を全然読まなくなっていてネットでも長文読まない上に、幼稚園児レベルのアニメを本気で見ている人達が多い。国語そのものが読めてない人もよくいる。なぜ若い世代で安倍政権の支持率が高いか。就職率が「団塊世代の引退で」「民主党政権の頃から徐々に」改善しているからという理屈をつけている人もいるが、実際には彼らの知性が安倍晋三氏と同程度だからだという方が信憑性が高いです。私はゆとり世代と頻繁にというか毎日接したのでよくわかった。
 皆さんはご存知ないと思いますが、ゆとり世代のかなりの数の人達は、うそ抜きで憲法を知らないのです。小学生級の知識の欠落がかなり広範にわたってある人が相当多い。それどころか本を読まない影響で、基本的思考が疎漏で「首相は立法府の長だ」とか聞いても「何がおかしい?」というのが多い筈です。
 で、世代でいうと全共闘世代というのがいましたね。彼らは頑張って知性派ぶるのが格好いいと思っていた。その人達の真逆の類型がゆとり世代といって先ず間違いないです。馬鹿ぶるのを更に超えて「素で馬鹿」でないと集団圧力で虐められるみたいな雰囲気の世代なのである。
 ミセスグリーンアップルというバンドの『WanteD! WanteD!』という曲の歌詞に「あの子は馬鹿で、すらすら生きれている」とかいうのが出てくる。これがゆとり世代的な価値観をとてもよくあらわせてます。馬鹿がうらやましい。なぜなら同調圧力をかけて排除やら阻害されないという話なのです。
 私は今でも毎日とっても驚いている。どういうことかというと、僕は詰め込み教育の最後の頃の世代(1984生)なのだが、ゆとり教育を受けたとされる少ししたの世代32才(1987年生)~23才(1996年生)位の人らと会話すると、会話に崖があるのがわかるのです。崖の上下位の感じで超えられない。
「知性の二極化が起き、高知性側が低知性側を統治すると、安定した民主主義が破壊される恐れがある」という危惧の仕方を、私より上の世代の方がいっていた。これは勘違いです。事実はもっと恐ろしい。低知性側の方が数が多いので衆愚政治になるんです。それが民主主義のしくみですので。民主主義とはデモスのクラティアで民衆政治、アリストテレスによると堕落した多数政治のことですよね。まさにそれになりますね。もう確定的だといっていいでしょう。現時点で安倍独裁政権が悪政三昧している。しかし未来はもっと酷いです。なぜならゆとり世代がまだおもな世代になってないからです。
 確かに経済面では、極端な二極化が起きるでしょう。知性が高いほど搾取する能力が高くなる傾向は、一応ですがありますからね。私は10代で賎貨道徳を新渡戸『武士道』あたりから学んでたので、教養階級と商人階級の分離という知恵を受け継ごうとしていました。しかしそれは少数派にとどまりますね。
 ゆとり世代の現実(馬鹿の方が物凄く威張っている同調圧力みたいな感じ)を全く知らない私より上の世代の方で、官僚制みたいな姿を予想してる人は、未来を見誤っていると思います。衆愚政治の極端な形が、近い将来の日本です。財政ならギリシア、右傾化ならネオナチを随分悪化させた様な感じでしょう。皆さんがゆとり世代感覚を疑似体験するならヒカキンの動画、または『けものフレンズ』をみるといいですね。え、小学校低学年~幼稚園児向けなのかなというのを大人がみているのですね。本気でみている。それは冗談とかではなく、知性の質自体が全然違う世代、もしくはかなり大規模な国内集団がいる。例えばです。日本語圏ツイッター上には、まあ知性でいうと並から中の下くらいのネット芸人みたいなのがわんさか自己顕示してますよね。彼らはゆとり世代からはどうみえているかというと「意識高い系」にみえている。それは知者きどり位の揶揄が込められている蔑視語で、感覚が馬鹿中心主義なんですよ。
 私ははたちくらいの頃、神の様な全知に到達する目標を立てて、毎日猛勉強してきました。私はその意味で詰め込み教育的な価値観を体現した最後の代表者の一人といっていいと思います。ほぼ完璧に禁欲的で勉強が趣味ですので。そして私からみるとネット芸人らは「なんでこんな馬鹿なの」とみえていると。
 知性に対する取り扱いが全く正反対の世代が、超えられない崖を挟んで二手に分かれてるみたいな状態が、詰め込みとゆとりの間にある事情です。大体、今の30代半ばと20代の間にある意識の差。他の世代にとってどうでもいいと思いますが、私はこれで毎日果てしない摩擦を体験してるので参考に書きました。
 思い出したのでつけくわえると、眞子さんと小室圭さん。彼らは上の世代からみると「なんでこんな馬鹿みたいなことするの? 本気?」ってみえている。しかしそれは本気です。ゆとり世代の恐ろしさはあれで最上の知性の部類だといっていいと私は確信できます。一番ましな人達です。嘘ぬきで。
 そういえば「反知性主義」という便利な言葉もありましたね。ゆとり世代語といってもいい「意識高い系」とは(なぜなら私の世代では存在しなかった)、知性主義者を差別する為の言葉ですね。マイルドヤンキーとかオタクという言葉もありますが、都鄙差別を含むので、反知性主義が最も便利ですね。
 ついでに言うと、知性主義的なものの中でも、例えば浅田彰『逃走論』みたいに偽知性みたいなのもありますよね。この本はスキゾ・パラノの枠組みをドゥルーズとガタリから剽窃し、フランス哲学に詳しい俺凄い? といいたいだけで衒学以外なにものでもない。だからファッション知識人ごっこだった。
 真の知性とはなんでしょう。それは真理を悟っていることですね。彼らが真理を説けば結果、迷信が晴れたり人類に道を照らし出すことになる。ですが偽の知性主義は衒学なり学歴主義なりで尊敬されたいという俗物根性の虚飾にすぎない。ですから知性主義の中では知恵者が哲学者に擬態しています。

本来の学術と信号化の違い

日本商売人のかなりの部分は、学問を肩書きをつけ就職手形にする手段としか見ていない。信号化(シグナリング)の外にある本来の学術は、彼ら商売人にとって先ず一度も目的視されたことがない。

抽象的思考について

総合的思考に対し分析的思考しかできない人は、永遠に後自然学に進めない。それ以前に、社会学段階すら満足に思慮できない。総合に関わる抽象的思考力は分析を包含しているがそれ自体ではないからだ。

職業選択

自由があるのに嫌いな仕事を選んだ人々は、たとえそれ以上何を与えてもまた同じ愚をくり返すだろう。

啓蒙は無意味でしばしば有害

自分より遙かに愚かな人々に何かを教える手間は、少なくともそれが対価を伴わなければほぼ無用の沙汰である。愚かな人々は自らの業に従うからだ。
 啓蒙主義はこの点で自由が理解される以前の考え方に過ぎず、特に孔子のいう下人(理解力のない人々)に向けての説教は全く意味を為さない。寧ろ往々にして下人らは彼らの妄信に逆らう真理に感情的反発をしながら何らかの反抗をするものだが、それは彼らの知性が低いのみならず、元々彼らに向上心がないからでもある。彼らはその種の無知や不徳の中で生涯を終えることを望んでもいる。つまり啓蒙は下人にとって完全に余計なお世話なのである。
 孔子のいう通り中人(理解力の中程度の人々)以上にしか啓蒙の意味はない。特に上人(理解力の高い人々)は自ら学ぶのだから啓蒙といっても細部の指摘又は大局的助言で十分だが、中人はしばしば啓蒙により下人集団から上人集団への道筋を見つけるかもしれない。つまりこれが『孟子』でいう「教育」と呼ばれる分野で、孔子が『論語』でいう啓発の本質的な意味である。啓蒙を下人への教化を含む概念として使う福沢諭吉の様な愚民観の持ち主は、これらの儒学的定義でそれを使っていない。彼の啓蒙の定義は、百科全書派を主としたフランス啓蒙主義の影響下にあるのだ。
 我々が通俗科学としてみるもの、例えばメンタリストとか大衆媒体における脳科学者の立ち回りは上述の啓蒙主義を踏襲している。ヒトラーがいう「大衆の中で最も愚かな者にあわせた」演説が学者らからただの金儲けの為に真理を極端に単純化したり、説明の為に歪め誤解を招く仕方で解説する仕事は軽蔑され勝ちである。それというのも啓蒙は自由にとって元々無用なばかりか護送船団的な最遅速を余儀なくし、結果、知識そのものを矮小化して観衆に信じ込ませ、大抵ある種の洗脳に近い状態を呈するからである。いいかえれば占い、スピリチュアルの様な疑似科学よりましだとしても通俗科学は単なる宗教として自然哲学(今日のいわゆる科学、自然学)と道徳哲学(形而上学、後自然学)を低俗化させてしまう。つまり真理を疑義する活動であるはず哲学の本道から多くの人々を逸らし、当時の科学教を正しいものと教え込んでしまうのだ。
 この種の過ちから身を退け為すべきなのは真理探求の道に帰ることだが、啓蒙家ぶりを反例にただ根本的疑義の中に生きるのが賢明だ。そして啓発そのものも必要十分なだけ行えばいいのであり、もし収入に困るでもなければわざわざ教授、教師の類に学者が身を落とすべきではない。世俗的職業と全く別の所に知識水準はある。

時間的快

ミルのいう快楽の質は、短期的快の為に長期的快をなおざりにする傾向への戒めだといいかえてもいい。この意味で快楽の質とは時間的快である。なぜ徳の問題として快楽の質が定義されたかといえばこの長期的計算の能がより高い功利性を意味するからだ。

都会

悪人は都会に集まり自ずと堕落し合う。

忌避

悪徳を避けるのに妥協は無用。

2019/05/18

誰もいない世界

誰もいない世界
そこで僕らは死んでいく
無意味より無意味
それから何も残らない
夢は分解され
あとには人の足跡すらない
東京港区にたかる関西人に水爆を落とし
連中の死体も残さず消し尽くし
天罰を加えたとて
下衆極まる自称日本人はつけ上がり
カネを貪りながら差別をばらまく
だから東京や関西が滅亡してほしいと
多くの善人らが願ったとて
誰もいない世界は未だ来ない

勧善懲悪と同調圧力

同一成員の凝集性が高いと集団に有害な利己を見分けられる様になるので「出る杭は打たれる」(いわば「勧善懲悪」)の現象が生じるが、集団に有益で利他的な人間が「同調圧力」で足をひっぱられる場合はこれに該当しない。
 この2つは似て非なるもの。語の定義上も厳密にみわけられていない。
 そもそも都会で犯罪率が高く、悪人が多くなるのは「勧善懲悪」がし辛いからだ。一度遭った人に二度と会わずに済む環境だと悪事が有利になってしまう。裏返せば田舎で犯罪率が低く、素朴な善人(素で利他的な人)が多くなる傾向にあるのはそもそも悪人にとって過去の業を知られるのが都合が悪いからだ。同じ法則はネット上にもいえて、匿名でのやりとりが多い場は悪人がふえる。実名で個人特定されるのが当然だと善人がふえる。
 一方で「同調圧力」の方はファシズム(結束主義)に他ならず、単に集団の平均値か中央値が正規分布的に最多のとき生じ易い。人間は2つ以上の集団に分けると互いに競争しあう傾向にあるが、この種の結束性(いわゆる和、又は集団の輪)を乱す者を排他する傾向も同時に生じているのだろう。「同調圧力」は集団の同質性が高いほど強烈になるので、日本人の様ほぼ類似した遺伝子・生育環境をもっているとたとえ利他的な個性へも悪意で(又は結束自体を目的に)足をひっぱる傾向が激しくなる。こちらの有害性は歴史的にも検証されている。
「同調圧力」を解除するには集団の多様性をますか、集団全体に影響をもつ指導役が少数派をかばう、いずれかが有効だ。どちらも不可能の場合、「同調圧力」をかけられる少数個性はその結束集団を抜け出す必要がある。子なら、親の強制等で抜け出せないと自殺したりするが、集団外に出るのが基本的対処。
 また「同調圧力」に単独で立ち向かうこともできなくはない。『孟子』が「千万人と雖も吾往かん」といった方式で結束集団と権力闘争を演じ、本来の少数派が実権を握れば絶対権力者状態になることもできる。秀吉、ナポレオン、ヒトラー等がその実例だ。だがこれは余ほど当人の政治的才がないと難しい。

商業出版で純粋芸術ぶるのはお門違い

全員が幻冬舎を虐めてるみたいだから俺だけ擁護に回るか。売れない小説出したければブログに書けば? 出版社は金儲けですよ? 芥川賞も金儲けですし、大江健三郎も金儲けですし、村上春樹も金儲けですよ。ノーベル文学賞も金儲け、さもなくばただで配ったでしょうが。なんで本が有償だか分かる? 商売人が作ってるからだよ。商業芸術やっておいてなに売らなくていいとかいってるの。商人作家如きが。
 売文屋でしょ、小説家なんて。職業作家って商売人の一種なんだよ。下らないプライドで威張り散らしてるけどさ。寄付だけでくらせてるのか? 純粋芸術家だというなら、どうぞ私より貧しくくらしてくださいよ。私ですら30数万しか全財産ないですからね。それより金儲けてんでしょうが? 売れない小説だして金儲けになるっていうなら、どうぞどうぞ。一人で新宿の雑踏で手売りしてくださいよ。それがあんたらのやるべきことだ。偉そうに商業作家の分際で出版社責めてるけれども。商売をなんだとおもってるんだ。お客に売れなきゃ自殺、芥川龍之介がそうだったじゃあないですか?
 出版社は家族を養っている人達だの、まあ商売人の集まりですから。本も。金儲けですので。文化も兼ねているとほざく。だからカネが儲からなくてもいけるのだという。笑えてくるよ。純粋芸術をなめているのかと。何十年私が一円も稼がず毎日大量の文章を発表してきたと思っているのか。
 あんたらは金儲けしててさ、村上春樹だか綿矢りさだか知らないけど。2chくんだりで散々蛮行してましたよねえ? 私に対しても。それが今度は商売じゃねえよだとかいっている。商売じゃないですか、ものの見事に。商業出版社から本だして金儲けしてきたでしょうが。全財産寄付してからいってくれよ? 売れない作家の本なんて出版社から出すなよ。自費で出せよ。馬鹿なのか。商売なめてるのか? カネ儲からなかったら死ぬんだよ皆。それがブログにすら書かず、自分で出版社様の世話になって本出してくださいとほざいて大勢の人に働かせてるんでしょうが。売れない本出すならブログ書けばいいだろうが? お前が金儲けしてるんだろうが。本で。カネ欲しさに売文してきたんだろうがよ。無料で出せ。それがお前のやるべきことだ。一円もとるな。俺みたいにな。それができねえなら黙って出版社の奴隷にでもなっていろ。ごみ作家どもが。
『日本国紀』。読みましたよ。それどころか手元にありますよ。そして私が書いたウィキペディアの記事がそのままコピーされてましたよ。まあそんな部類の本だということは皆知っている話だ。だからって一々つっかかるまでの話じゃねえだろ。下らん話だろうが。もっと高尚なこと考えてくらせ。売文屋が。小説屋も落ちぶれたもんどすなあ。まあ最初から高尚な部類のジャンルじゃないからね。本気で。三流文学の分野でしたもんね、はじまりからして。猥談書き散らしてただけの話ですからねえ? 紫式部さんからして。もともとのぼったことなんてないか、純粋芸術の世界になんて。漱石ですらそうだからな。
 カネ欲しさにだかさ、自分の下らん政治思想の為に、出版社の社長に食ってかかりましたと。馬鹿なのか。お前が金儲けしてきただけだろうがよ。だから売れない商品いりませんと。それ、当たり前でしょうが? 売れない服を売ってたら服屋潰れますよ。お前が一人で売ればいいじゃないか。自分の文章をさ。
 出版社の利害関係者の皆さん。株主様、取引先様、書店様、あるいは印刷屋様、あるいは社員、或いは書店員、読者、色んなステークホルダー様方がですよ。実売部数にして元が取れてない本を出す赤字作家みたいなのが当社の本を売れなくしていますと。『日本国紀』が虚構じゃないと誰かいいましたっけ? 当社の本がますます繁盛する様に言ってくれないと。これが社会のルールじゃ、ございませんこと? 当たり前どころの話じゃないでしょこれ。なんでさ、自分のところから本出してる作家が当社の悪口いうの。虚構かいてるやつがだよ。虚構の歴史書いたらダメと。そしたら先ず天皇から責めるべきじゃん。わが国の史書もどきの系譜。『古事記』からはじまってるよね。これも当然嘘八百ですよ。読んだことあるよね。最初からしてうそだよ。嘘で固められた地歩。それが出版業界ではございませんでしたか? 天皇が嘘書かせてまきちらしてきたんだからさ。作家の本がちゃんとした歴史書だと誰かがいいました?
 気持ち悪いねえ、売文屋どもの出版社脅しは。幻冬舎の社長がかわいそう。だって売文屋どもは彼をみせしめにして、自分が有利になるよう他の出版社を脅迫してるつもりでしょうが。政治思想の違い如きで。卑しいやつらだねえ。前から小説屋どもは嫌いだったけど、というのも2ch文学板とかいうところで連中の実態をつぶさに見て、こんな悪徳まみれの極悪人どもが滅びないわけないと完璧に悟ったからだが、これは近づかなくて正解極まりなかったですね。今後とも近づかない様にします。本当にやくざまがいだ、出版屋を脅迫とか。
 大勢でよってたかって1人を虐げる。しかもその社長の方が正論いってるからな。『日本国紀』、私のウィキの記事が直接剽窃され、悪解釈の文脈で直接のってましたと。だからって私が怒ってる? 「アハハハ」と思ってるよ。大騒ぎするほどの話じゃないよ。歴史は虚構じゃないの。史家をなめてるのよ。
 私のところ。『大日本史』という歴史書を書いた先人がいるのね、私の県。その人の隠居所兼書斎を描いた伝統工芸の団扇があってつねに私の左斜め上にかかってるのね。西山荘行けばいい。彼の生涯の仕事って、そこらの小説書きみたいなレベルじゃないんです。厳格な考証は虚構を徹底的に排するものなの。俗書が売れますと。そんなのどの時代のどの地点でも、都会ならまあ先ず変わらないですよ。都会ってそんなもんですから。俗人が多いから都会なんです。もし立派な研究書が売れるなら、それは知識人、学者、研究者の間でですから。作家が書いた虚構の本、司馬遼太郎の様なもんですよ。俗塵の世界だよ。
 歴史というのは過去にどの様なことがあったか、史料や実地検証を元に客観的事実を記述すべきもので、誰かがどこかでこの様に書いていた、というのはそのまま「Aという人がこう書いている」と書かないといけないんですよ。それが虚構を排することになる。この意味で学校の歴史教科書も虚構の本だよ。
『日本国紀』は出典がないからダメ、というのも間違ってる。なぜなら虚構は当人の思想を記述してるものだからだ。史書の偽装を施した小説というのがこの本なんですね。『古事記』や『日本書紀』と同じ体裁を踏襲している。どちらも殆どが嘘ですからね。まあ端的に言うと神話の書き方をしてるだけ。
『大日本史』は全部漢文だから読み通した人ほぼいないと思う。私も一巻の途中くらいまでしか読んでいない。だけど書き方としては正史の書き方をしていて、事実しか書かない様にしている形式は分かる。事実として分かっていることしか書かない姿勢に徹した本は立派な史書で、見ればわかるはずですよ。立派な歴史書もあれば下らん俗書もあるし、別に出版表現の自由ってそういうのを含めたものなんだから、或る歴史観をもった人が通俗書をまきちらしたからって世俗の人らしか影響受けないよ。歴史家といっても一流から三流までいるからね。そこらの教授レベルは二流以下です。本物は本物としているの。
 私も死ぬまでには『大日本史』も全部読むかもしれないよ。ただ、きちんとした正史がどういう形式か知っていれば、そこらの通俗書に触れても免疫ができてるから一々怒ったりなんてしないんだよ。
 世界を確実に変えるのはどういうものか。それは本物です。これは間違いなくいえますよ。科学的事実というのは世界を変える。歴史も科学です。或いは歴史観を伴うなんらかの政治哲学であれ、本物と偽物はありますよね。マルクスがいいましたね、世界を変えるのが大事だと。それは真理をつかむことです。私達は『大日本史』がどれほど日本と世界を変えたか知っています。殆どの人が読み通していないのに、あの本は皇統を整理し、維新の原因となり、現政府の基礎を作り、人類に植民地侵略に抗う勇気を与えた。学問は世界を変えます。商業出版は真の学問と何の関係もありません。真理のみに注目して下さい。
 今回、神話みたいな歴史書風の小説で怒ってる小説家の皆さんは、あなたらが普段やってる嘘つきを反省したらどうですか? 嘘で金儲けてる商売人でしかない小説屋が、なぜ日本史に恣意的な色つけて流布した作家を叩くのか。司馬遼太郎もとんでもなく悪い嘘つきだからね。嘘の色が違うと怒るとは何かね?
 要は「御用作家は気にいらねえ」と、「流用三昧で金儲けはずるい」といいたいんだろうけど、出版社の社長の判断としては当社から出版してる分際で当社の本を売れなくするやつは困るな、って当然の話ではなかろうか? 金儲けしないと破産する立場の人と、他に幾らでも出版先ある素浪人では立場が違う。
 因みにこないだ100億円で売れた『うさぎ(ラビット)』のジェフクーンズは流用の権化だし、あの彫刻自体も子供用のおもちゃかなんかの流用シリーズだから。美術界だとウォーホルやリキテンシュタインくらいから流用は王道の手法になってて訴訟されても文脈になってるから。文芸はその点遅れている。例えば音楽でもリミックスとか歌ってみたとか流用的な手法は沢山あるけど、文芸でいうと、詩歌だと本歌とりはかなり昔からあったが小説だとない。小説は文芸界の中でも一番遅れてる分野だ。俺が実験小説沢山書いても何の反応もない。雑魚の集まりで後進的な足の引っ張り合いしてる商業界でしかない。ウォーホルの『花』は非常にいい絵だけどあれもどっかの写真家の写真を勝手に流用して引き伸ばし、シルクスクリーンでまきちらしたから訴訟され、確か罰金払ってた気がするけど美術館にも収められ教科書にも載っている。二次著作権がある今日ではもっと流用の幅も広まってるといえるな。流用は盗作ではないと。
 まあ全員で幻冬舎の社長を叩いてる風だったので、私はそういう全体主義というか全会一致の幻想が本当に生理的に気持ち悪くて堪えられないので集団いじめしてる側を迎撃する意味で以下のことを書いたが、俺も最初から反安倍かつ皇室廃止論者なので政治思想面で『日本国紀』に共感は何もできないけどな。
 俺が書いたウィキの部分は慶喜公の部分ですね。私が記述した筈の文章をほぼそのまま引用してあって、しかもその解釈を非常に悪意で恣意的にしてた様でしたね。慶喜公は父上から幕府に弓を引いても皇室に弓を決して引くな、ゆめ忘るるなかれ、といわれた庭訓を守ったのみと維新後に伊藤博文に言ってる。これは『徳川慶喜公伝』で慶喜公自身が伊藤に言ったのを渋沢栄一が聞いた話で、慶喜公の生前に出版された筈なので彼も記述を確認したろうし、事実でしょう。つまり百田氏は慶喜公は臆病だったといってるが全くの間違いですね。第一次長州征伐の陣頭指揮してました。百田氏は水戸学に無知です。

記者の標的

下らない記者とやらにずけずけ批判をぶつけ
そいつの無能を暴いてやれ
連中の一生など他人の不幸を切り売りし
下らない肩書きで身を固め
ごみみたく嘘をまきちらしているだけ
己の裁いているつもりの加害者たちが
真の被害者だと知ってもなお
やつらの標的はお前なのだから

都会人は自分の住む場所がいなかと知らない
そのせいで多くの恥をかき初めて
自分が井の中の蛙だったと知るのだ
彼らが世界の中心だと思っている場所など
無用なまま幸福に暮らす人達がこれ程いるとは
そして彼らが誇っているすべてが虚無だとは
豊かに暮らす外の世界を見るまで知らない

人として

救いを超えた世界を探す
お前はだれからも望まれない
お前の前にも後にも無の音符がとりまき
旅先の店先にぶら下げられている
だからあきらめて放り投げ
なにも成し遂げられない動物として
二足歩行のサルどもの一員となり
下らない生涯をくり返したのだろう
価値のない労働
無限の後悔の中で
人として

首相に反省力がない以上、安倍氏と自民に投票している有権者を直接叩くべき

首相が無能だ、腐ってると非難してる人らは、矛先を間違えている。無能で腐敗したダークトライアドなんて探せばごろごろいるが、そんなのをわざわざ首相に選んでる人達が悪いだけ。山口4区の有権者の一部と、自民党に投票している人達が無能で腐敗したダークトライアドを自ら選ぶ、真の巨悪なのだ。山口県4区の有権者の一部と、自民党に投票した愚図が悪いのであって、彼らは悪意か暗愚かどちらか故にダークトライアドの独裁者をもちあげている。安倍氏が幾ら外道でも普通に有権者の一部がそんなの選ばなければいいだけなのだから。反省力がない首相と分かってるだろうに。本丸は山口4区の人らだよ。
 私は生まれて1度も自民党に投票したことはないし、今後もしないだろう。保守とかいうただ無能なだけの後進的下衆なんてのは理解もできないし、そうなりたいとも思わない。一歩でも進歩しなければ競争相手に潰されるだけである。少なくとも進歩的政党、つまり自民党以外にしか投票する意味はない。
 山口4区の有権者の一部と、自民党に投票した人達が「極悪人」だからあんなのがいつまでも権力の座に居座ってると冷厳に認識し、これらの人達の罪を問い責めあぐむべきだ。
 ちなみに天皇支持者だか皇室維持論者もただの愚図だからね。断言するが。そんなのとつるんでてもろくな人生にならないだろうよ。主権在民と矛盾する身分差別だか人種差別だか性差別だかの遺構をいつまでも持ち上げてるのはなぜですか。その人達が馬鹿だから以外の理由はない。その人達が差別される側なのに喜んでいるのですからね。米国や中国を御覧なさい。どこの誰が自分を超えた身分からの差別を認めているのか。時代遅れです。
 思想が進歩したら過去の制度なんてすぐ撤廃でいいんだよ。でなければなぜいつまでも古代のままでいなかったのか。狩猟採集民を続けていればよかったではないか? なぜ唯物史観宜しく情報文明まで進んできたのだね? 既に人権が広範に認められるに至った。主権者が、いまだに天皇陛下万歳じゃないよ。あなたがこの国を統治しているのであり、間接選挙で首相を任命してるわけでしょ? ならばあなたを超えた身分なんて認めなくていい。国民が最上の地位にあり、国民自身を統治すればよい。神道教祖を象徴だかいってるのは完全に政教一致のおしつけですよ。私は神道信者じゃないんだから。

ある愛国者による都内講演会の記録

資本主義より信用できるしくみがある?
勿論資本主義以外でだが
(会場笑い)
金儲けが人類を救うと学校で教わった
だから僕らはこの国にきた
(会場拍手)
さあ歌おう
大日本帝国万歳!
(会場合唱)
それでは会場の皆さん
料金はこちらです
貧乏人は失せろ
ここは陛下の聖地だぞ
(会場爆笑)

匿名の犯罪幇助

「匿名で誹謗すればええやん」
と或る神奈川出身の東京人が言う
大勢の極悪人がそこに群れ
大挙して悪業を蓄積していった
犯罪の山は手に負えなくなり
日本を完全な地獄にした
自殺者は天に届き
死体で埋まった地上は血で溢れ
はじめに犯罪の場を与えた東京人は
フランスから相変わらずカネを貪った

納税奴隷の育成

私は幸せですよ?
なぜなら大金をもっているから
あなたは不幸です
なぜなら私より貧乏だから
これが日本のルールなので
ではあなたは金儲け競争しなさい
死ぬまでです
私より幸せになりたいですと?
それはできない相談です
なぜなら私は皇族なので
あなたは永遠に不幸なのです
さあ働いて!

はりつけ

あなたには途方もない才能があります
だからただ働きしてください
そうです無償で
しかも一生
どうしてか?
凡愚でうずまったこの世でねたまれない為
はいそれだけ
なにも得てはなりませんよ
ただ苦労だけ背負いしぬ
そして神になる
天才伝説として
下らない世界の救世主
はりつけになるのです

生の喜び

生きるのはなんて素晴らしいことでしょう
死ぬ前までは

機械の教え

労働はえらいんだぞ
資本家のいうとおりにするんだ
金持ちの命令に従っておけば間違いない
そして無職をいじめるんだ
一文無しの連中はごみ以下だ
とにかく働くんだぞ
働くってのは命令に従うんだ
そうだ上にいわれたとおりにするんだ
何も考えずひたすらあちこち行け
いいか一番偉いのは機械だ

投資術

A「投資とはなんですか」
B「他人を使って金儲けすることです」
A「ピラミッド建設みたいなもの?」
B「奴隷も喜んでましたよ(笑)」

自称文化

「搾取したいので交尾してくれますか?
そうどす
交尾どす
あなた様みたいな奴隷はんがな
繁殖してくれへんと搾取できひんのやわ」
なるほど桂離宮はこんなもんね
御所といい庶民を見下しみくだし
奴隷制を強いてきた歴史遺産とやら
なんとすばらしいのでしょう
「ほなおおきに」
自称文化はええどすな

批判

批判は無意味だと
脳がサル位の下衆がいう
それならそれでよいが
実際にお前は神なのか
あなた様に落ち度などなにもなく
生まれて死ぬまで過ちなどしないので
外道のざれごとに耳を貸さず
的外れの悪口などどうでもいいので
目を塞ぎみなかったことにしよう
批判は無価値だと
脳がごみ未満の君はいう

現人神のお告げ

神より偉大な君主
天地を超え
遙かなる時空の地平線をすべる
無限のかなたより来たる
散りぢりの世々をまといて
あなたの前には何もなく
あなたのあとにも無しかない
時の底に眠りし民草も
この邪悪なる覇道によりて
永世の奴隷たる営みを喜ぶであろう
さあ崇めるのだ
日本国を
下僕たる神道信者どもよ

すばらしい芸術

漫画はすばらしいですよ
アニメはうつくしいです
ゲームはおもしろいです
衆愚がそうほざくので
私はその通りかなと思っていた
だから余りの幼稚さに驚き
こいつらが本物の馬鹿だと悟ってから
まだ連中の発狂がやまないので
この国は動物園以下だと
軽蔑しながら眺めていた
大金を手にする漫画家の横で

呟き

誰もがあなたを愛している
誰もがあなたの前で賞賛する
あなたが愛されるべき存在だと
さも両手に溢れる花束をもち
天に嘉された存在だと
誰もがそう思い込んでいた
大金があなたにあると気づいた人々は
あなたを憎みながら陥れた
誰もがあなたを愛していると
両手に溢れる札束をもち
あなたは呟いた

美術館

私は素晴らしい絵を描く
そしてそれが人類を救済する
しかし人類は私に感謝しない
人類は私を見殺しに贅沢三昧に耽る
なぜなら彼らは邪悪だから
では私は何を救ったのか
救うべきでさえない極悪人どもを
死すべき存在を
地獄に住まう下衆どもを
私の絵の行き先を尋ねても
見えてくるのは死体の山だ

民主主義も資本主義も皇室も信用ならない

もし資本主義者、つまり商人、労働者のいうことが正しいなら、皇室に俺が払ってる税金分捕られるくらいなら100円でも200円でも取り返して、今すぐ近所の自販機いってコーラ買って飲みますよ、となるよね。それが正義だ、というのが資本主義だもんね。そして私もそのほうが幸せだよ。
「自分のリターンは?」「いくらくれるの?」「で、皇室が俺にもたらす収益の額は?」「俺が年間払ってる税金以下のリターンしかよこさない制度なんて今すぐ潰せよ」これで終わりだよね、議論。
 もし皇室が善だというなら有益だというなら、私に生活保護以上のカネでもよこせばいいじゃないですか? この極悪国民日本人という連中は、朝から晩まで寝ずに働いても1円もよこさないんですよ。その極悪国民を洗脳し贅沢三昧してる殺人邪教祖、しかも侵略犯の末裔をなんで犠牲者の私が崇めるの? カネ払ってやってる私が、しかも全資産が30数万くらいの私が、なんで極悪邪教祖だか私から搾取する一方の極悪日本国だか極悪日本国民だかを崇め奉るの? 謎でしかない。どこをどう間違えると虐げられる側が虐げる側を崇めると思うんだろう。当然だが「すぐ消えろごみ」以外の感想がないんだけど。1400年だか2679年だか知らんが我々日本人を侵略して、散々奴隷化して搾取してきた中国人さんの末裔がですよ。その暴力団の末裔如きがなにゆえに私の生活費から金を分捕り、ヤクザと群れて威張り散らしているのか。ほんとコーラ1本のがあんたらより価値あるよ、としかいいようがないですよ。
 結局、皇室の存在は、東京都民だか京都府民だか京都市民だかがヤクザの親玉を擁して全日本人を見下す手段に過ぎないわけですよ。どうだこのオウム真理教の親分以上に邪悪な殺人教祖は、逆らったら配下の暴力団がお前を脅迫するんだと。それだけの話に何で俺がカネを払うのか。まじでコーラ1本返してよ。
 皇族の存在は日本の誇りだ論者いるよね。私はこの種の人達は本物の馬鹿だと思ってます。なぜならあなたは皇族じゃないからですよ。あなたはただの庶民、貧乏人、血統が卑しいという扱いで、犯罪したら逮捕だし何の特権ももっていない。邪教祖に同一化してるんだろうが、それは防衛機制だよ。
 卑しい人が溢れるSNS。下衆の心魂を眺めるほど民主主義が信用ならないと分かる。

関西から移民した東京都民達の素描

「カネを貪れ! 差別をまきちらせ!」
東京で関西人が言う。
「カネが全てや。ええから黙れや! 納豆臭いねん」
中国朝鮮から入り込んだ極悪人達が商売人として威張り散らす。
「港区が偉いんや。黙れや!」
「ギャハハ」
「皇族に従って納税しとけや」
「臭いねん」
計54人の極悪人達が日本中に散らばって言う。
「カネや、カネや!」「臭いねん」「差別大好きやで」
 なるほどこれが関西人の望んだ世界。
 では彼らは幸せだというのか。
「もっとカネや!」「ええから黙れや!」「カネ儲けやで」
 東京中に関西から流れてくる衆愚。
 今日も卑しい商売で国中を不幸にしていく。
「原発なんて田舎もんにおしつけろや!」「臭いねん」

愛ゆえに

愛ゆえに
2019年
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7680 × 4320 px

真の商人

わしらは偉大や
なぜならわしらはカネを儲けるからや
わしらはカネの為ならなんでもするで
わしらは邪教祖を崇め殺人と差別の歴史をもち
わしらは帰化人やから
わしらは東京都民やから
わしらは京都市民やから
わしらは神々の手の平の上でカネを貪るんや
わしらは農民や発酵食品を侮辱し
わしらは東海道を東へ行く真の商人なんや

日本人正社員の特権待遇は撤廃されるべき

終身雇用制はそろそろやめますね、と大企業がいいだしてるのは、自民としては株価があがって望ましい(なぜか株価あげて格差ひろげると庶民が歓喜する。株持ってないんだから相対的に損してるのに景気回復と勘違いする)わけだから、一体だれが怒ってるかというと、正社員になりたがってる人らでしょ?
 終身雇用制をやめる、全体を非正規雇用あつかいにすると、日本株を持ってる人(資本家)は総じて株主還元がふえるからラッキーとなる。そして正社員に新卒採用されなかった人ら、或いは正社員になりたくなかった人らからしても、正社員からの社会的差別の土台が崩され、恨み晴らしとなる。
 大体、GAFAだかFAANGが素晴らしいといってるならそこの勤続年数が平均1~5年くらいで超絶短いのは? 日本だって会社を渡り歩く技術者の集まりにしないと保身第一の無能が居残って実力次第にならないでしょ、と。中国も米国と同じくらい短期と。




http://tamakino.hatenablog.com/entry/2018/06/12/080000
https://uslifelog.com/tech-tenure/
(次の2つは勤続年数の中央値)



https://matthew-sg.hatenablog.com/entry/2019/05/02/190822
https://hackerlife.co/blog/san-francisco-large-corporation-employee-tenure
(以上で中央値・平均値いずれもFAANG技術者の勤続年数がほぼ3年以内とわかる)
日本国民全般は「正社員」という特権待遇の身分制を維持し、社会保障の代わりにしようという国家社会主義そのものの発想をしながら、なぜか私企業にすぎない経団連大企業のせいにしている。一言でいうと後進性そのものではないだろうか。私の勘違いなのかもしれないが、米中企業の方が成績優秀なので。
 経営の観点からいったら、無能はさっさと首にし渡りの技術者でも最優秀なのを囲った方がいいに決まってるんだから、3年でもなんでもいいでしょう? 雇われてるだけ感謝しろよという話で。それが偉ぶって正社員とほざき、米中の神級の技術者も3年でやめてるのに日本のごみは15年も居座っていると。経団連は温情でごみを雇い家族を養わせてやっているのに、逆に経団連に噛みつくなんてお門違いもいいところ、寧ろ社会保障は政府の責任なのに安倍には生活保護きりすてさせ役人にも水際作戦とか意味不明な悪事させ喜んでいる。日本人労働者の異質さ、心得違いが甚だしい。だから生産性低いのでしょ。
「社員個々人の生産性なんてどうでもいいのでござんす、労組もどうでもいいでござんす。正社員で生活保障を企業がする。これが日本流儀でござんすよ」と、日本商人どもは言っている。しかしこれで成功するならいいけど、普通に負けまくっている。だから全部非正規で期間雇用にしますよと。正論では?
 全部非正規にしたら長期勤続で技術保守ができないんですよと。これが主要な反論でしょ。この論理の怪しさは、じゃあFAANGは? BATだかBATH(Baidu、Alibaba、Tencent、Huawei)は? となる。経団連大企業が時価総額で負けてるのに何を保守しているのか。謎極まりない話である?
 経営って金儲けなんだから、利害関係者を全員納得させいかに企業の時価総額をあげていくかの競争といいかえてもいいでしょ。それが資本主義なのだから。保守しますとかいって負けても誰も責任とらない。つまりは日本正社員がごみすぎるから切る、社会保障は政府がやってくれ、と当然の話になるわけだ。竹中平蔵氏みたいに派遣会社で政商行為してた人が悪者扱いされているし、実際に悪者かもしれないけど、社会保障をしっかりすることでカバーすればよかったのに、自分らで自分らの安全網を撤去させてたのが日本人労働者だったじゃないですか。だから私はずっと社民政策で生保捕捉率あげろといっていた。
 正社員は自分らが身分制で守られた武士階級だくらいの威張り方で、無職ニートその他を本当に完全に人権侵害レベルで差別しまくってきていたと。侮辱や名誉毀損はいうまでもなく、そもそも人間扱いせず自殺においつめている場面もよくみた。だから正社員には何の威厳も尊さもないと思う。自業自得だよ。

2019/05/17

なぜ皇室廃止が必要といえそうか

スノーデンが漏らしたとされる「スズメバチの巣作戦」に根拠はないとするブログ、すなわち「米英以(以は以色列でイスラエルの漢字表記の略)政府の情報機関によってイスラム国(IS、ISIS、ISIL)が捏造され、イスラエルの周囲に反イスラム国際世論の的となる仮想敵を作り出すのを目的としている」根拠はないとするブログがある。
当該報道の一例https://archive.is/swaqT
日本語訳http://archive.is/jto1G
当該報道を陰謀論として否定するブログhttp://archive.is/gR9JL
最後にあげたブログではそもそもスノーデンのNSAキャッシュに当作戦の記述がないことを根拠に、中東に広まるデマだと結論している。
 がもしただのデマとしても、なぜこの種の陰謀論が出現したか省みると、米英仏以軍らが明らかに罪のないイスラム圏の諸国を一方的に侵略していることへの疑義だろう。そして過去の日本史、世界史を鑑みても、米英仏軍らは既にこの種の侵略を世界各地でやってきた。いわゆる植民地侵略の時代からの伝統手法が「敵の同士討ちを煽る」内乱作戦、『アテルイ伝』で桓武天皇が「蝦夷を以て蝦夷を討つ」といい実際、幕末も東北の日本人同士に殺し合わせた新政府軍のやり口だ。例えば茂木健一郎氏は坂本龍馬という歴史上の人物を大層ほめちぎるが、この人はスコットランド商人から反政府勢力に武器を横流しし、大金を懐手にしていた死の商人だ。結果、最後の内乱(戊辰戦争)の直接原因となり、数万人規模の日本人同士の殺し合いで大量死が起きた。今日でいう内乱罪人なわけだ。
 今日、中東で起きている大規模内乱の直接原因が、「スズメバチの巣作戦」でいうとおりの起源(つまり米英以政府による内乱戦術)をもつとはいいきれないが、過去には似た例があった以上、全くありえない話とも私は思わないのだ。そして現時点でも日本国民の圧倒的多数は素朴に、米軍の善悪を問わない。
 再び幕末の例でいうと、当時の水戸学者らは朝鮮を除く周辺諸国全てが植民地化されたのを前提に、統一国家の形成・国防理論として尊攘論を唱え全国に遊説した。結果、国防意識ができ統一に成功した。が薩長は上述の坂本に唆され内乱分子となり国内侵略を始め、英仏の公使は幕府との内乱を煽っていた。将軍が自己犠牲によって東西最大勢力同士の最終戦争は避けられたが、少なくともあの時、英仏がやりたがっていたのは正義の名を借りた内乱誘導である。例えばインディアンの中でポカホンタスの様なスケープゴートの役割を福沢諭吉は義塾生の金玉均に担わせようとしたが、失敗し脱亜論者に転化したのだ。
 小泉純一郎首相(当時)が米軍の片棒を担ぎ、イラク戦争に参加したのは、大量破壊兵器がなかった以上、単なる侵略戦争への加勢だった。シリア騒乱についても同じ文脈があてられる。安倍首相は米国製の武器を買い、以国へ(彼の兄が重役を務める会社系列である)三菱系含む武器を売り込みに行った。総じて米英仏以日の各政府は、起源はどうあれイスラム国鎮圧という名目で、中東の国々への侵略戦争を戦争屋の金儲けになるとみているのだ。簡単にいうとケインズ政策の最も凶悪な形が侵略戦争になっている。これは日本史で戊辰・日清・日露戦争くらいから既にそうだった節もあり、亡国の引き金だった。戦争誘導で国内産業を振興させようとする意図は、当然だが人類の大量死とひきかえだ。死の商売といわれるゆえんで、坂本龍馬が生き残っていたら更に大儲けしながら幾重の人類をアジア各地で殺戮しまくる凶弾供給元になったに違いない。
 何がいいたいか。この種の蛮行に与するのは罪悪だというのだ。
 皇室廃止は政教分離によって宗教戦争の火元をとりのぞく意味があると私はいった。例えば十字軍の類は現実的判断を超えた少年兵を生み出し、会津戦争でいう白虎隊状態になったわけで、宗教的聖戦意識を思想の根元から除去しておけば上述の戦争屋の悪意に政府・軍隊・自衛隊を操られる危険を予め防げる。日本史でいうと、はじめは坂本龍馬の私利私欲が、最終的に第二次大戦に至る火種になったといえるが、最初の火種がいかに小さくみえても戦争屋が暴力団を操るかぎり火事は拡大を続ける。終局では人間魚雷と原爆のぶつけあいになった。
 でブッシュがWTC(World Trade Center)を破壊され怒るのは彼が資本主義信者だからだ。
 例えば資本主義信者ではない場合。色々な知識を総合し資本主義がただの一宗教だと知り狂信を免れている。なので資本主義の象徴、いわば聖堂であるWTCをイスラム過激派に破壊されても、「アダムスミス対ムハンムドで戦争はないだろう」と冷静に内治を優先できたわけで、イラク侵略まで無用だったのだ。ラディンの逮捕は必要だったかもしれないが、かといって無関係でしかない一般市民を大量虐殺しまくったイラク戦争は凶悪な上に雑すぎる侵略で、勿論、何の必要もなかった。資本主義教の聖典『国富論』と『コーラン』が対立する内容を含んでいたとしても、鵜呑みで殺し合いなど無意味。それが政治だ。
 より具体的にいうと、『国富論』では見えざる手として市場放任が正当化される。一方『コーラン』では善意からの喜捨(寄付)を前提に、イスラム教徒が異教徒に攻撃されたら殺してでも立ち向かえよと書いてあるわけだ。市場放任だけじゃダメ、貧しい人に寄付しなさい、そして売られた喧嘩は買えよと。で、この部分はあんま詳しくないが、ラディンがなんで9.11の加担者側になってるかというと、およそブッシュ父が湾岸戦争時にマディーナという聖地に異教徒である米軍を軍事侵攻させたので、喧嘩売ってると判断し、「異教徒に攻撃されたら殺してよい」とする聖戦の教義に該当する復讐、として企てたと。米国政府の教義はアダムスミスに遡ると原則は市場放任で、途中でワシントン演説に遡れる孤立主義が入り、今のトランプの米国第一、だけど金儲けはさせろよ、という傲慢な自警団風のものになるわけだ? で、日本の自衛隊はイスラム過激派との戦い、つまりテロとの戦いに属軍として利用されていると。
 では私の話だけど、私は15才のとき、磐城高校の美術の授業で、絵は一生できそうだと思って絵描きになろうと決心し、その後20年間実に色々な苦労をしその画業を続けてきた一人の男である。じゃあなんで私が自衛隊の中東侵略なんかに加担者みたいにいわれなきゃならないの? って話である。
 上に書いたところでは
1.イスラム過激派vs資本主義信者は戦争屋の都合。
2.安倍首相は米国政府のでくで自民党支持者も同じ。
3.皇室も自己神格化の邪教で信者に大量殺人させてきた狂人一家の部類。
4.金儲け思想なんかで人殺しなんてしてられないし悪者扱いされたくない。
という話である。
 最終結論をいうと、
1.皇室廃止で少なくとも神道教徒の戦争誘発を避けたい。
2.資本主義信者(特に戦争屋)の暴挙を防ぎ対米追従のテロとの戦い(イスラム過激派への仮想敵視)はやめさせねばならない。
3.中東のイスラム圏を一方的に敵視し、米英仏以などの旧連合国側を正義視するのは歴史観の歪み。
皇室廃止、つまり皇室民営化・民間宗教法人化には議論百出するであろう。なにせこの人らの洗脳度といったら凄まじく、朝のテレビつけたら「皇室アルバム」とかいって西洋古典音楽を背景に国税でひたすら上品ぶり、「おはよう茨城」(嘗て早朝に放送してたテレビ番組)の前後くらいで全国民を洗脳しまくっていたくらいなのだ。首都圏だけの話か?
 ただ、私がなんで思想的前衛として「でも、共和政が約11万8600年も続いていたのが事実なのに、高々1400年だか2679年しか歴史のない中国人侵略者如きが偉いので?」といえるかだが、確かに先人である義烈両公が国体論とかいう幻想の共同体理論を作ってたからだ。国体を否定すればすぐ私の立場にこれる。
 あとこないだアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』のロンギヌスの槍(磔刑後キリストを突いて聖性を否定した異物)で悠仁君を脅してた被疑者。あそこまでしなくても「皇太子なんざ人なんだから神でも神の子孫でもなく、武力討伐されたら終わりの暴力団幹部の子なんすよね」っていえば済むだけの話である。この王権神授説の否定は、ジョンロックがとうの昔に『統治二論』でやって政教分離、名誉革命の理論的基礎になったわけで、日本人全般がちゃんと勉強してないだけの話だ。

醜悪な夜景

東京近辺の夜景ってなんでこんな醜いんだ。褒めてる人がいるけど美意識が違いすぎてびびる。東京界隈の夜景って世界一醜いレベルだな。なぜかは全く分からないけど。人間の底抜けの醜さしか感じない。
 よく、というか毎日、新宿の超高層ビルの最上階から夜景みてたけど、あの頃も人間がアリみたいに見えてあまり美しいと思えなかった。
 原発で田舎に公害まきちらしながらカネを貪ってる下衆の集まりだから、醜悪な外道の巣に過ぎないわけで、それが美しい筈もない。
 醜さとは悪徳の塊だ。

修行の全て

自分より尊い人とのみつきあえ。この他に修行の全てはない。

目的さえない朝

無力な自分を時代が押し流し
やがて跡形もない夜がくる
大地震のなか見た景色
でもなにができる
魔法より手早く宇宙を切り刻み
手に余る自由を手に入れても
あなたの前に残る誰もいない街で
存在さえ消え失せ月燈籠が無を照らす
けどなにがいえる
存在さえ時の気のせい
早く立ち上がるのだ
存在さえ失われる前に
自分など見えなくなり
やがて目的さえない朝がきても

貴族

争いごとは沢山だ
喜びも消え失せ
あなたの声だけを頼りに
真っ暗闇を遡る
時は遙か夢幻を超え
あなたの現に散っていく
大切な人は去り
無数の声だけが響いている
悲しむまでもない
私はこの金儲け社会に居場所はなく
単にみせしめに生きているのだ
貴族という名の生け贄として
あなたの声が私を導き
やがて答えにいざなうだろう

悪徳の分析

軽蔑に足る人達の属性をよく観察し、なぜ彼らがその属性をまとうか分析せよ。悪徳がなぜ或る属性を帯びたのか。原因が分かればきっと失敗を避けられる筈だ。
 しばしば属性と悪徳は一致していない。同じ属性をまとっていて善徳の者もいるからだ。属性と悪徳の関係が相関か、擬似相関か、それ以外の偶然の一致か見分け、悪徳自体を取り出せば属性に覆われた事の真相が分かる。

歌手

どれほど悩んでも死んで終わり
ですから悩む意味もない
ただ静かに定めを受け入れ
かいがいしく歌をうたうのです

2019/05/16

「仰られる」は「仰る」より古語に近いが二重敬語としては「仰せになられる」の方が一重敬語と解される余地がない最上表現

(『論語』で孔子曰くを「孔子がおっしゃられた」と現代語訳するのは、「孔子がおっしゃった」の方が正しいとの指摘ツイートへ)
二重敬語は最上表現ですよ。古語の方が伝統・格式のある表現で、ビジネス敬語(商人敬語)はここ50年くらいの日本人商人の一部が勝手に捏造した偽敬語です。曰くはここでただ「仰った」程度の意味ではないですよ。孔子は儒教の聖人で、この様に申し上げていらせられた、心して聴けの意。「申し上げていらせられた」も申し上げるが謙譲語で、申し上げる(皆様にお言いになる)+いらせられる(おなさいになる)で、曰く、のたまわくかいわくかいずれかは「聖人様がこの様に皆さんに仰せられました」ってニュアンスだと思いますよ。今から調べますけど。
 因みに天皇は神道で自称神の子孫だけど現人神ではないと当人らが言ってる上に伝統的にもそう(神でないからしばしば出家した(仏門に入った)といっていいでしょう)なので、孔子は聖人ですから、日本語ではかつて二重敬語を天皇に使ってたとはいえ、孔子に使わないのは格式表現としておかしい。
「お前も天皇に二重敬語使ってないじゃないか」というかもしれないが、孔子にも簡約のために使ってないのであって、「曰く」は『論語』で弟子らが聖人の聖なることばを記述した表現であるから、その訳としてふさわしいのを選んだという話です。
 白川静によると、曰(エツ)の字は祝詞(のりと)など神意を告げる書を収める器(∀の下部を丸くしたもの)のふたを少しあけて、中の祝禱(シュクトウ)の書を見ようとする形。即ち「曰く(のたまわく、が最も訓として古義に近いと白川はいう)」は、「神意が示される」という意味だそうです。したがって白川の解釈によれば『論語』の「曰く」は、神の心を示すことばで、本来は単なる敬意の強調である二重敬語を超えた日本語表現が必要になるが、その様な表現はありません。天皇は歴史上、皇帝と教祖(自称神の子孫)を兼ねた人ではあるが聖人ではないし、神意を述べる人ではないからですね。
「おっしゃる」は、本来「仰せになる」であり、即ちこれの略か訛りでしょう。したがって「仰せになる」を受動態にすると「仰せられる」になります。これをあなたは二重敬語と誤解した。「仰る+られる」だと思ったわけです。確かにそう解釈もできますが、二重敬語としても間違っていないという話。
 更に古語辞典を調べると、「おほせらる(仰せらる)」として元の形が載っており、由来は連語で動詞「おほす」未然形+助動詞「らる」。ご命令になる、との意。「おほす」は「負はす」から変化し自分のことばを相手に負わせるため「命令する」、の意になった(のちに「言う」の尊敬語)。「らる」はいわゆる「られる」で受動の意。
「仰す+られる」が古語の解釈であるから、前に出した「仰せになる」は一体正しい表現か? となってしまうが、私の意見ではこれも正しいと思います。お+~なる(お喜びになる、みたいな尊敬表現)の拡大解釈として仰すを解釈した結果でしょう(以下に「仰す」+「~なる」の単純解釈も記述あり)。即ち仰るは現代語化された仰せらるの商人俗語版です。
 まとめますと、
1.おっしゃる(仰る)は古語仰せらる(仰せられる)を拡大解釈か単純化し約めた現代商人版
2.孔子は儒教の聖人かつ曰くは神意を開く意なので正確には最上敬語の表現が必要
3.二重敬語は伝統的に最上表現かつ古語は格式が高いので「仰せらる」を現代口語化し「おっしゃられる」でよし
で、もしこの様な思考経路(といっても直観だけど)を経て『論語』曰くの訳語「おっしゃられる」が、あなたが指摘するよう二重敬語の禁忌(商人は忙しいから、或いは皇族じゃないから一重敬語のほうが簡単でいいみたいな意味での通俗的慣行ですね)と解釈できなくもないなら、もっとふさわしい敬語は?
 既に述べたよう、ただの「仰る」ではそこらの会社員の上司と同等程度の扱いになってしまいます。弟子らは孔子の死後に『論語』をまとめ、聖なることばを後生に残したのであり、これは聖典であるからキリスト教でいう『聖書』、イスラム教でいう『コーラン』にあたる様な物で、社長級の話じゃないです。
 もう少し調べました。「仰せになる」は、「仰(おほ)す」の連用形「仰せ」+「~になる」で、尊敬の意味が入った言い方との解釈がでてきた。私は上で「お~+なる」の文頭のおが、「お」ほすに適用され混同されたと解釈したが、これは文法的に拡大解釈しすぎかもしれませんね。
 もう複雑になりすぎてなに言ってるかわからないかもしれないが、あなたは
古語 仰す+ら(れ)る → 仰ら(れ)る
ではなく
現代語 仰せになる+られる → 仰せになられる → おっしゃられた
と解釈し、煩雑なので、「られる」を省いた 仰る が一重敬語では? といいたかったんでしょうね?
 古語においては「仰す」は初め命令するの意味だが徐々に他動詞の尊敬語になったから、その連用形「仰せ」+受動の助動詞「ら(れ)る」で、受身の尊敬語「仰せら(れ)る」が存在したと。
 現代語の「仰る」からみると、古語「仰せられる」が二重敬語に見えるが、古語では二重敬語ではないですね。
「仰せになられる」は「仰せになる+られる」で二重敬語。「おっしゃられる」は古語では一重敬語、現代語では仰るという短縮表現との対比で二重敬語と受け取られる可能性も、あなたが指摘したよう残っている。
 私は古語風に仰られたを使ったが、誤解を招かない為には「仰せになられた」のがいいね。なぜ「おっしゃられた」より「仰せになられた」の方が「聖人が言った」の敬語表現でいいかといえば「おっしゃられた」は古語の一重敬語(おほせられけりの現代語風)か現代語の二重敬語的解釈の2つの解釈がありうるが、「仰せになられた」だと二重敬語の余地しかないからです。最上表現と解され易い。
 ただの敬語と多重敬語の尊敬度差を分かり易くすると次のもの。
多重敬語「こちらにおはしますおかたをどなたと心得る。おそれおおくもさきの副将軍、水戸光圀公にあらせられまするぞ」
敬語「こちらにいらっしゃる方をどなたと心得る。おどろくな、さきの副将軍、水戸光圀公でござるぞ」

アニメオタクの一部には無教養を兼ねたかなりの不良がいる

オタクはこちらから何もしていないのに、向こうから喧嘩売ってくる(3人)ということをツイッターで学習したので、今後、天敵と見なす。しかもどいつもこいつも知的には最低級のやつらでなぜ絡んできたのかわからない。完全に復讐されたくてやっている以外の理由が想像もつかない。自分から喧嘩を売ってきて、復讐されないことがあると思ったのだろうか? アニメオタク達のうちたった3人ではあるけれど、自分から喧嘩を売ってくるということは、当然だが報復の危険があるということなのだから、身の程を知るべきだ。
 アニメオタクとか呼ばれてる人達にここまでたちの悪い悪徳もちの愚物連中が混じっているとは全く知らなかった。社会的に差別されてる哀れな連中だとばかり勘違いしていた。自分から喧嘩を売りまくるばかりか幼稚な作品を偶像崇拝し、しかも自分より優れた人達(劇画の鑑賞においてもっと成熟した、又はより深く批評的な趣味判断のできる人達。或いは理解力のもっと高い人達)を逆に侮辱するとか、信じられない。正直いってオタクというのは、大衆商業芸術にたかっている、暗愚な連中というのが現実らしい。さもなくば全く知性のかけらもない作品を崇め奉り、幼稚園児未満の言動で喧嘩をあたり構わず売りまくるばかりか、あまつさえその種の喧騒に全く無関係でしかない純粋美術家に罵倒を加える等するはずもないのだから。
 現代美術の主要な敵ってオタクアートだったのか。そこまで真剣に天敵だと思ってなかったが、今回完全に理解した。まさに不良連中だ。行儀が悪いどころの騒ぎではなくそもそもアートと呼べる代物ですらなく(何しろ欧米美術の概念であるアートそのものを全く無視しているので)、何一つとして礼儀作法を守らないばかりか人を完全に馬鹿にしており、やることは辺り構わず罵倒し、自分達の暗愚を自慢しまくる虚栄心の塊で、しかも頭の中身もからっぽなら内心は穢れきった差別心で一杯になっているとは何事か。
 自分は今の今までサブカルチャーが主要な美術館や美術展で完全に排除されてるのはただの嫌がらせの類なのではないかと思っていたのだが、普通に理の当然だった。なぜならそのサブカルチャーの核心部分に分け入ってみたら、とんでもない愚物が差別をまきちらしているだけだったのだ。悪意で。
 村上隆氏とその擁護者だった東浩紀氏の両氏は本当にとんでもないことをやったものだ。オタク達が実質どんなものか知っていてやったのだろうか? もし知っていてやったなら犯罪者に華を持たせた(犯罪を励ました)みたいなものだし、知らなかったならなぜ勉強せずにそんなことをしたのか不思議でならない。
 今後、オタクアート関係には一切関わらない。二度と。俺の前で切腹してきても許す余地ないね。こっちは何にもしていないのだから。

小室圭氏を引き摺り下ろそうとする圧力は恨みそのもの

小室圭氏を叩く日本人大衆は、それをルサンチマン(恨み)を解消する手段にしている。だが皇族(眞子内親王)の婚約相手がもつ世俗性を欠格事由としているのはただの言い訳で、もともと彼を非難する日本人一般は小室氏より遥かに愚劣なのは明らかで、だからこそ強者である彼を引き摺り下ろそうとする。

日本人右翼は馬鹿殿をもちあげすぎ

日本人右翼一般がなぜ安倍晋三氏や麻生太郎氏といった総理・副総理が馬鹿殿じみていても必死になって持ち上げ続け、忖度しまくるかだが、これは天皇が無能でも「君君たらずといえども臣臣たらざるべからず」で、義公を通じた『古文孝経』序の教えがそのまま踏襲されているからだといっていいであろう。そもそも義公以前にこの種の擬制があったから、将軍統治が出現後も、公徳も実権力もない天皇だの建前だけの公家が居残っていたわけで、単にこの論理は日本の伝統的な組織のあり方を、中国古典を引用し指摘したものともいえる。

東京中華思想の権化である港区自慢は関西における同和問題の愚をくり返す火種

(「東京港区に土浦から働きに来ている女子を「港区女子」ではなく「土浦女子」とわざわざ言いかえていた人への説教」の続き。「黙れよ茨城県民、納豆臭えんだよ」との侮辱的ツイートに対する返信)
この侮辱表現(と思われるもの)について二週間ほど考え、一体どういう意味なのか分析しました。
 先ずあなたは「納豆」という発酵食品を侮辱の為に使っていて、恐らく茨城県が日本では最大の生産地だという知識に基づいて、相手の住んでいる県の特産物を差別的文脈に置こうとした。
 第一に、食物を粗末に扱うことは、一般に日本の道徳の中ではかなり厳しい禁忌になってます。都会で生まれ育つと一生その種の道徳に触れないのかもしれないが、少なくとも食料生産の労苦や、飢饉の経験を経てその大切さを噛み締めている農村部では「食べ物を粗末にするな」と親・教師等から必ず叱られます。
 第二に、この「納豆」という食品についてだが、先ず現時点の生産地としては確かに国内では茨城県の水戸市内の会社や、愛知県の某企業に買収はされたものの常陸太田等に工場があるが、消費地としては量の面で東京都、或いは福島県が最大です。即ち納豆の消費の観点ではなく生産の観点を侮辱している。そしてこの「食料生産を侮辱する」ことについて、なぜあなたのこの表現があなたの中で侮辱になるのかな? というのがわからなかったので、(今日みてみたらいいねが52人、リツイートが12人ついてるので侮辱の意味を理解している人もいるみたいですが)、私なりに理解しようと色々思考を巡らせました。
 私の常識だと「食料生産を侮辱する」ということは、まあ農本主義という考え方があって、わが県でも水戸の徳川家がその種の啓蒙を行っていた歴史もあり、まずありえないことなわけです。何しろ人々は食べ物がなければ即死しますので「農は民の天、国の本」と中国人が解釈していたのは正しいわけです。では一体なぜあなた(及び総計52人)が、「或る発酵食品の生産」を、敢えて侮辱しうると、脳内で考えられるのかです。私はこれがわからなかったので、ただの地理にも詳しくない程度の、浅はかな下衆のわめきごとなのかなと思って素通りというか無視していました。即ち農本主義の否定を含む差別表現。
 恐らくあなたの中ではモノカルチャー(単一の生産)を差別の文脈に置くのが侮辱度が高い表現になるのだろうと、先ほど漸く気づきました。即ち植民地主義の焼き直しなわけです。その為、或る地域の特産品を象徴化し、その地域は「モノカルチャーに過ぎない」と悪意で矮小化することで後進性を強調した。ところが、私ははじめあなたの「食料生産の侮辱(何しろ最大消費地としては人口が数倍多い東京の筈なのですから?)」があなた(と計52人)の中で成立するのか認識できなかった。なぜならわが県はモノカルチャーどころか多数の作物で生産高が長年日本一な上に、工業製品においても類似だからです。
 即ち、地理、特に生産に関する知識の落差(いわゆる無知ですね)があなたと計52人にあり、わが県から国内外に出荷され日々消費・利用されている多くの生産物の本の一部に過ぎない或る食品が、発酵食品であることを種にそれを差別の文脈に置くというのは、一言でいえばただの下らない誤解なわけですね? その上、植民地主義自体が否定されている今日、フェアトレードその他の文脈でモノカルチャーを侮辱するということそのものが実に野蛮であって、まあいってみれば後進的なのはその種の差別を平気で行っている自称文明人の方だという話になりますし、しかもわが県は有数の生産性をもつので事実に反する。更に、例えばここで対比先になった某区に関しても、東京都は日本で最大の納豆消費量をもっていますので、恐らく当該食品を差別の文脈に置くならその消費が少ない、又は消費していない人の主観にしか訴えがたいわけです。つまり納豆消費量が日本で少ないのはどこかといえば主に関西地方です。
 元々納豆がどこから興ったかといえば奈良の寺院で僧侶の食事としてはじまったとか、秋田で生産がはじまったと考えられていたりしますが、そもそも納豆は東アジア一帯の食文化で中国等にも類似食品があるわけです。しかしなぜか関西地方では消費量が相対的に少ない。なぜ関西地方だけ納豆を消費しないのかといえば幾つか理由が考えられますが、そもそも関西地方は渡来人の集住地です。即ち朝鮮民族(弥生人、百済人、新羅人、高麗人など)が帰化した地域です。ご存知のよう朝鮮半島の発酵食品といえばキムチ。関西地方人は帰化後も日本のそれを食さない可能性がある。いいかえれば、あなたの使っている「モノカルチャーの象徴化による食品への侮辱・差別表現」は、関西地方に関していえば日本の首都圏等で最も好まれている食べ物の一つへ、反日的な意図を持ち発言されている、という文脈になるわけです。「関西地方ではキムチは食べるけど納豆食べないのね」みたいな? 勿論、この種の侮辱・差別表現そのものが実に幼稚で、例えていえば「アメリカ人はハンバーガーばっか食うな」とか「イギリス人はフィッシュアンドチップス」「インド人はナンで腹いっぱいか」この種の実に稚気に満ちた愚劣な色彩を帯びるので、まあ省みる価値もない子供の戯言程度のものにみえます。ですから私も「こんなの相手にする価値もないかな」と思って流していた。一方私の脳は、2週間、一体なぜあなたがこの様な言動をとったのか無意識に分析をくり返していた。それでさきほど閃いた。「ああ植民地主義を国内でやってるつもりの、食品を侮辱する関西人だかの中華思想的反日表現なんだ」と。
 東京都は関東地方より、むしろ関西地方の一部(京阪神)との相関係数が高いというデータがあります(ただの民間人のサイトですがね)。これは歴史的に大坂商人が江戸に家康から呼び寄せられ、また東海道を辿って関西人が流入した経路からいって、或る程度、遺伝子や気質としてもいえるかもしれません。
 港区を中華思想で上位者扱いし、その他の地域のうち、今回の件でいえば土浦市を下位者の文脈に置く、というのはただの門地差別だと既に指摘しました。当然ながら港区に犯罪者もいれば土浦市に人格者もいるからですね。要するに人類の一部がもっている何らかの愚かさが、地域間に差別を脳内で捏造する。したがって、なぜ或る食品の最大の消費地の一つたるべき東京港区の驕りを解く私によるこの一連の指摘の中で、逆にあなたがその生産地をモノカルチャー風に(恐らく無知で)後進地扱いしたかの理由は、論理的には、関西地方の帰化人らが日本独自の発酵食品を差別の文脈に置く論法の延長上にあるということです。その上、中華思想そのものが中国や、小中華思想という意味で朝鮮に由来し、関西地方、即ち京都や奈良を世界或いは日本の中心かのよう偽装する地域差別のイデオロギーを意味し、東京、特に港区・千代田区界隈の小中華思想もこれの焼き直しにすぎない。つまり関西地方的「後進的」中世の踏襲なわけです。
 おわかりでしょうか。私はこれに気づいて、この一連の返信をすることにしたのですが、面白いでしょう?
 植民地主義や中華思想の様な中世並びに近世の真に後進的な差別を、現代においてもそのままくり返している人が、逆にその差別思想の中では侮辱されるべき相手から非難されまくし立てられ焦ってしまったと。しかも例えば他国の発酵食品の臭いを揶揄するなら、まだ愛国的な文脈として下らないにせよ理解はできるものの、なんと東京で最大の消費量をもつ日本特有の食品の方を差別してしまっている。つまり期せずしてあなたは反日的中華思想を、即ち日本人差別としていうべき台詞を無意識にいってしまっている。計52人の「いいね」をした人達も、あなたと同質の「日本人差別」、特に東京港区をもちあげる文脈で逆に東京が最大に消費している食品を侮辱してしまっているという、いってみればいかにも関西人的な矛盾に気づかない。東京をもちあげ、より茨城をけなすふりをして東京人を貶してしまっているのですよ。
 あなたと計52人の「いいね」をした方々の知的水準に敢えてあわせて上記のことを分かりやすく述べますと、例えば京都地方の人に向けて「黙れや、ニッキ臭いねん」とのたまう場合です。京都からすると観光客向けの食品を侮辱されて特に侮辱にもならない上に、八橋を買い捲る観光客を逆に差別していると。全く同じことが、茨城県民に向け納豆臭い云々という場合にもあてはまります。当然ながら水戸市内の一部の会社だの常陸太田市あたり等でしか生産してませんし全県民からすればごくごく一部の人しか生産にすら携わっていないと。そして殆どの出荷先は県外なので、まあ観光客向けも含め輸出品であると。
 もっといえば、そもそも水戸市で納豆の生産が始まったのは比較的最近で、常磐線が通った近代、偕楽園での観梅客向けに、仙台から習った某企業の社長が売り出した観光客向け商品に他ならなかった。つまりは茨城からすれば納豆のブランドというのは商品経済上の伝統っぽい戦略でしかないわけなのですよ。
 総じてあなたの諧謔に満ちた侮辱表現は、私が上記の分析を結構な期間を経て脳内で勝手にやった結果、全く以て稚拙で、喧嘩にすらならない。ですから実際私も無視していた。歯牙にかける価値もないほど子供じみていると感じたからです。ですが、こうして復讐にやってきたのは面白いと思ったからです。
 あなたは私達がいかに食べ物を大切にしているか、全くご存知ない。ではあなたは恐らく都会で生まれ育ち死んでいくだけの商売人か何かですかな? カネさえ出せば食べ物は買える。カネのほうが重要だと思って生きてきた、罰当たりの驕れる悪徳商人に過ぎないかもしれないが、農家はどう思うでしょうね。
 もしあなたが極貧に落ち、浮浪者になり、私はあなたがきっとそうなると信じていますが、東京港区だかのの大都会の河川敷の片隅で青いシートに包まれ真冬にがたがた震えている中で、嘗てあなたにいいねをした52人も素知らぬ顔で通りすがり、食べ物がないといっているところに誰かが現れます。その何者かはいうでしょう。
「以前、あなたはツイッター上で、今はこうして荒廃した驕れる港区をもちあげ、或る発酵食品をそこへ供給してきた生産者の方々の土地を差別の文脈に置く発言をしましたね? 私は全てを知っています。ここにその食品がありますがあなたには与えられない決まりです」
あなたが「キムチなら食べられるけど納豆はいらへんわ」といい、そのまま餓死したとしましょう。私はああこの人は下らない差別だか中華思想だかを関西地方だかから持ち込んできて自業自得だと思います。大切な食べ物を粗末にし天罰が下った、発酵食品の意味すらわからない男だったのだと。いやあなたは女かもしれませんけど、いずれにしても同じ意味で、この人は都会で商売さえしていればカネが儲かり、農家が大豆から丁寧に作った貴重な食べ物を侮辱し、差別し、発酵食品の健康に対する有益性にすらまともに気づかず、臭いからいらへんわ、とかいい胃腸すら痛め寧ろ息も臭かったのだと。今こうして浮浪者となったこの人は、しばらく前、ツイッター上で港区は上位者だ、カネさえあれば居住地で差別しまくれるんだと実に愚昧な考えをもっていた或る人物にたかって、計52人の外道どもと一緒になって違憲な門地差別をばらまいていたのだと。しかし、一切同情に足らないなと私は思いますよ。
 あなたが浮浪者になることは、以上の推察からもほぼ確かだと思いますし、その浮浪者になる場所も港区だといっていいでしょうね。だってそれ以外の可能性は全くないほど、あなたといいねをした計52人の宿命は因果応報で定まっていますから。悪因悪果をご存知ないわけではないですよね。
1.食べ物を粗末にするなかれ
2.生まれ育ち暮らす土地で人を差別するなかれ
3.愚者と群れ悪事に加担するなかれ
4.国内の地理や文化についてもっと学びなさい
以上のことはそこらの小学生でも分かっている話ではあるが、あなたと計52人は分かっていなかった。もう少し高い教育を受けることです。いや、元々高い教育を受けるほどの経済的余裕がないからあなたの様な誤解だか差別だかに耽るわけなので、教育を受けよとまではいわない。自力で立派な人々の考えを学びなさい。善なる知識を身につけなさい。さもなければ、あなたにたかった計52人と同じ末路になりますよ。業は消えないのですから。

(「確かにコイツ(私)には黙ってほしいが、納豆臭い云々は茨城県民を傷つけるのでやめてほしい」とのツイートへ)
「義を見てせざるは勇なきなり」と『孟子』に書いてありますよね。
 目の前で県内のある自治体が、県外のある自治体と比較され、県内のある自治体が差別の文脈に置かれていた時、ただ通りすがるのは勇気ですか? たとえ全人類が悪意だろうと構わず正義を主張せよと孟子は言う(「千万人と雖も吾往かん」)。私もそう思いますよ。
 場合によっては全人類が悪意に満ちた極悪集団であったとしても、まあそんなことは先ずありえないが、日本人衆愚みたいに群れ易い愚民の群れだとそれに近い現象は起きる。即ち今回、計52人の愚物が上記の差別的ツイートにいいねをしている。この人達はどれほど責められても足りませんよ。人権侵害です。人権侵害というのは重大な犯罪なので、現在、全人類の有志(国連等)はこの悪意と戦っています。あなたは人権侵害を行うとんでもない極悪人53人だか54人足らずと群れて、全人類74億人を傷つける側に回るのですか? たとえ東京都民1000万人と立ち向かってでも74億人の尊厳を守るべきでは?
 東京都には複数の区があり、港区というのはその中で最も搾取している自治体です。金儲けとは言い換えれば搾取ですからね。ですから港区が自分達は中華的上位者で他の自治体は下賎なのだとでも言い始めたら、他の区が迷惑こうむる。「都外を差別する」「区外を差別する」いずれも門地差別に過ぎないと。
 なぜ私が、わざわざ馬鹿の戯言を無視して通りすがらなかったか、ご説明しましょう。
 私は東京でも約10年以上くらしていて関西地方との違いも随分と認知しました。京都で千年以上続いた差別の文化は、150年前東京に天皇と共にもちこまれたが、関西におけるほど激しく残りませんでした。
 関西地方ではいまだに差別との戦いがあります。いわゆる同和問題です。西日本一帯に類似文化がありますが、あなたもご存知のよう東日本、特に関東ではほぼその種の問題が周りにない。知っていても行政の一部の人しか知らないくらいで、関西と関東では差別の質も、内容も、歴史すら違っています。あなたがもし国内東西のこの差別に関する意味内容の違い、文化差を認知していればだけれど、高々港区が中華思想に驕るといっても、その程度は、関西地方で京都市上京区が崇仁地区や洛外、或いはウトロ地区にもっている類の中華思想とは全く中身が違うのです。先ずこのことを認識してください。
 港区は江戸城、現皇居のある千代田区の西隣にあり、都内商人が最も地価の高い場所として一種の俗物根性で選好する傾向のある土地です。それは懸案の最初のツイートに如実に表れていますよね。「港区女子」は金持ちにたかるお高く留まったいけ好かない女、といったニュアンスを持つ俗語です。
 ところで私は差別に反対です。当然ながら全差別は脳の単純化志向が誤って判定した何らかの事実誤認に基づく人権侵害に過ぎないものなので、全ては撤廃されねばなりません。したがって関東、現首都圏において全差別は消滅させられねばなりません。個人の脳を管理できない以上、制度上においてですが。
 したがって「港区女子」は、全く他の女子と同じ人権の保有者として扱われるべきで、当然、幾ら金持ちにたかる人達とはいえ軽蔑すべきでもなければ逆に単にそれだけで尊敬すべきでもない。即ち出身地とか居住地に関わらずその人達はただの一人類にすぎない。「土浦(在住)女子」でも同じです。
 最初の人がツイートしていたテレビ取材の対象者は夜間、港区で働き、土浦で保育か何かの昼の仕事に帰るという日程になっていましたね。そしてこの種の生活様式で都内特に港区に通っている人達は、上述のとおり沢山いるわけです。いいかえれば土浦に限らず昼夜間人口の出入りが激しいのが東京で港区と。
即ち
1.関西地方はじめ西日本一帯で同和問題として残る深刻な門地差別は首都圏・関東地方では先ず見られない。
2.港区が中華思想を主張していても関西のそれとは質が異なり単なる金持ち自慢の虚栄心程度。
3.昼夜間人口の出入りをみても都外からの勤労者を差別の文脈に置くのは不正に他ならない。
したがって私がなぜ『孟子』「勇」の文脈で港区自慢兼土浦差別を批判にかかったかいえば、首都圏、関東、東日本及び日本全国で、再び京都市洛中を中心とした同和問題の様な華夷秩序の愚をくり返さない為です。つまり「関西の様なことをここでやるな。向こうでも苦労してるじゃないか」というわけです。東京都民だかの大概の人間が、京都市民と同等以下の公徳水準であれば、計52人もが下らない門地差別に「いいね」を肯定的な文脈でしたことも頷けますが、都内には1000万人以上の人口がいる上に各区民もしくは市民等の殆どは、港区に差別されるいわれはないのだから私の方法論に公益を得るのです。
 こういう理由があるので、私は言論の自由を人権擁護の観点から正しく用いるべき義務があり、実際にその義務に従って私以外の誰も行わなかった「港区・土浦市どちらの出身でもそれは立派な勤労者じゃありませんか?」という尤もな指摘をする必要がありました。全ては卑しい差別文化を消滅させる為です。
 あなたは東京都民の民度を過度に低くみつもりすぎていると私は思いますよ。私が書いた一連の批評(ある種の国内比較文化論にあたるでしょうね)は、都民の民度の質から言うと「尤もだな」と思う人もかなりの数いる筈です。港区といったって最近になって栄えだしたところで高が干拓地が大名屋敷気取りでなにいってるのだろうってね。
 都民には固有の驕りの気質があります。武蔵国について『人国記』に出ているくらいだから江戸時代に家康がきてからというもの、また天皇が明治時代にきてからというもの、その驕り高ぶり易い性質はますます激しい。しかしことが差別になると、ただの気風と話は別です。人権侵害は是非防止しましょう。

『荒野行動』で見られた日中の文化差

「皇室民営化論」で中国人は云々と書いたけど、これは中国人を悪く言うものではなく、また日本人を褒めているものでも全然ない。文化が違うだけで、先ず優劣はない。なぜなら日本には日本の欠点があって中国の方が優れてる面もあるからだ。
 具体的に『荒野行動』でいうと、仲間と協力し敵グループを倒す演習で(ランダムで5人ずつ2集団に分かれサバイバルゲームする。ゲーム内でいう「団体競技場」)、自分がやったかぎり中国人は普通に何人であれ仲間を助けてくれるし、どっちかといえば精神力も強くて最後の1人になっても諦めずに戦う傾向があった。つまり個人主義で動くのだ。協調性の有無でいっても中国人は十分すぎるほどあるから強い上に賢く、それどころか僕が2階に煙弾なげて踏み込んだらいるはずの敵がいない。で、逃げたかと思って1階におりたら、人気のない部屋に敵がじっと待っており背後から奇襲された。こういうずる賢さみたいなのは日本人とやると先ずみられない。そのうえ僕が、仲間がやられてるのに気づかなくて助けなかったら「助けろ助けろ」とチーム全員で大合唱された。日本ではこういうことはなくて、気を使ってか何も言わずに消える。つまり中国人も協調性もあれば勝利の為なら空気も形成するし、そこは彼らの強さでもあるし礼儀がどうとか関係ないわけだ。
 日本人はどうかというと、確かに最初に挨拶するとほぼ確実に子供でも返すので物凄く礼儀正しい様に見えるが、実はこれは「しつけ」でそういいなさいと親とか学校にいわれてる癖で、いわないと気持ち悪いからいうのだ。なぜそういえるかというと、現実に戦ってる中では無礼なこととか平気でいうのだ。そして日本人プレイヤーの特徴は、ほぼ確実に群れること、集団主義的に動くことで、中国人みたく1人で生き残ってでも戦おうとすると、他の人達は空気読まないやつと見なして勝手に逃げるのである。だから最後1人だけ残って戦う羽目になって負けてしまう(中国人みたいに待っててくれなくて、2局やるんだけど1局目で勝負を捨てて、ゲーム自体から落ちて(ゲームをやめて)しまうのです)。これでは勝利がどうとかいえないであろう。それどころか、日本人の特徴として「勝てば官軍負ければ賊」を地で行く行動原理みたいなので動いており、形勢不利になったとみるや我先に逃げ出してしまうのだ(勝負の最中で仲間はまだ戦ってるのに、自分だけ勝手に落ちる)。武士道どころの話ではない。中国人は最後の1人でも粘る傾向があるから、時に1人で逆転され凄いと思ったが、日本人は一般に逃亡し消える。
 日本人のよい点もあって、心理的距離が近く、服装を褒める定型文とかいってもありがとう、とか返ってきたり、まあ如何にも古代中国人が「倭」と呼んだそのものの性質で、よく言えば優しいのかもしれないがなよなよしている。そしてばらけて行動しないから一網打尽で負けか団塊で勝つかどっちかが多い。
 んじゃ中国人プレイヤーの悪い点は何かというと、幾つかあるけどとりあえず定型文を雑につかってて、元々性格が雑なのか知らないがまちがったことをいう。助けてって意味で適当にボタンおして「ここに物資があります」とかいったり、最初からいってるがそもそも呼びかけてもまず雑だから返答しないのだ。戦い自体は全然雑ではないというか日本人より凄すぎる精度で一撃必殺決めまくってきたりするからシステムがずれてるだけの可能性もあるけど、往々にして服装も雑だ。多分、日本で言う大阪人的がさつさを数十段上にしたみたいな感じで、他人相手で気を使わないところはどうでもいいって感じなんだろう。
『荒野行動』はボイスチャットといって声をだせるんだけど、やってる人がつけてるとその人らがどういう状況でやってるか分かる。大体は失礼極まりないこという西日本の人が多い。九州とか関西の人はそこまで気をつかわないからだろう。それで中国語わからないからかもしれないが、日本人のが失礼だ。定型文だと丁寧に見える返答なのに、それはただの形式で、ボイスチャットだと仲間に気を使わないどころか友達とやってて別の人を貶したりとか平気でいっている。そういうのは九州弁だか関西弁だかに多くて東北弁とかでは先ずない。方言そのままでいってるからどこの人かわかってしまうのだ。
 標準語というか首都圏方言で上品な人が多いかというとそれも先ずなく、素の少女にとんでもないシモネタ連発してる南関東人(つまり東京方言に近い)おじさんみたいなのがいて、一緒にやってた中高生男子ぽいのも僕も気分悪くしたこともある。
 ま地域差もあるが日本人の礼儀なんて基本、形だけって話だ。
 どうでもいい情報だけど、面白かったのは、小学校低学年くらいの子がボイスチャットで父親らしきのから「勉強しろ」と怒られてて、「お父さんは悪い奴なんだ。僕はゲームがやりたいんだ」と念仏みたいに唱えてた。勉強しろって親からいわれたこと1度もない僕は趣味が勉強なんだから怒らない方がいい。
 あと礼儀は心がこもってなきゃ意味ない、真心がこもっていてこそ礼が意味をなす、というのが儒教の立場で、『論語』で孔子が「剛毅木訥仁に近し」「巧言令色鮮し仁」と対比させ「人に仁がなければ礼などどうでもいい」(決して礼儀不要という意味ではない。別の所で孔子は「礼を知り、学ばねば一人前になれない」(『論語』季子第十六、一三。尭曰第二十、三)といっている)と語ってるわけだから、仁の方が礼の本質なのだ。礼は仁を形にするものにすぎない。
原文 「子曰、人而不仁、如礼何。」(『論語』八佾第三、三)
訓読 子曰く、人にして仁ならずんば、礼を如何せん。
現代語訳 孔子がおっしゃられた。「もし人に仁がなければ、礼など何になるのか」
「自分に克って礼に立ち返るのが仁だ」(『論語』顔淵第十二、一)との孔子の定義によると、礼儀正しさとは、進んで放恣を避ける仁の心(思いやりの心)を指す。

皇室民営化論

共和政が「絶対に」正しく、全人類は完全平等たるべきで、当然ながら王侯貴族みたいな制度は「絶対に」間違っていて全滅させるべきである、とする立場は、恐らく考え方としてはかなり正しいのでいずれそうなると思う。
 一方、会社もそうだが人の公徳には落差がある。
 たとえば起業家の伝記を読めばわかるが、圧倒的に周囲の労働者と発想からして違うとか、努力の精度が違う類の人達が自ら危険(起業リスク)を冒し、大出世していくわけだ。生存バイアスにすぎないというかもしれないが、実際、だれでも社長にしたらそこで業績の差がつくから殆どの会社は潰れる。能力差があるから歴代将軍みたいな強い武士と、そこらの一兵卒が分かれたのであって、最初に身分差があるのではない。ところが共和政論者の中には能力差を無視し、全員一兵卒にせよ、という無理な論理をとっている人がいる。正直、共産主義者の一部にもこういう考えの人がいるのではないだろうか。
 問題は身分が制度化され、形骸化した場合で、これがまさに象徴王政とか象徴天皇制になる。名誉会長がずっと不動でしかも無能の状態だ。
 徳川光圀(義公)の論理(大義名分論)は、公徳に応じ速やかにトップ交代せよとする中国の論理(易姓革命論)を否定していて、皇族が馬鹿殿でも守りぬけという。日本人全般はまさに義公の論理、大義名分を重んじているから昭和天皇が本物の暗君(結果から見ればそういうほかあるまい)でも、敗戦後すら普通に万歳三唱していた。ところで西洋の象徴王政も、これと似た君主無答責の立場だ。特にイギリス議会が発祥地で、そもそも王は実権を剥奪されている。
問い「無能な名誉職は維持すべきか? (もしくは共和政の論理を全面的に貫くべきか?)」
米中は、この点でいうと実利・合理の立場から、公徳に欠けた皇帝だの、無能な会長だのはさっさと排除してしまう。日英は逆に形式・擬制を重んじ、無能でも伝統だとかいって馬鹿殿をかばう。日英(その他の象徴王政の国々)がやってるのは単なる時間稼ぎで、なぜそこまでして費用負担がかさむ偽君主をもちあげるのかだが、これは一言でいうと保守的だから、保守性はIQの低さと関係しているので幼稚だからとなる。しかし日英人などは逆にその幼稚さを合理化し、格式がある自分らは偉いという。
 私が王侯貴族も時には悪くないというのは、この種の擬制ではない。寧ろ物凄く公徳の高い傑出した個人がいたら、その人が絶対王政をとった方が全体の公益だという意味で、商人でいえばジョブズみたいな人物を指しているのだ。
 だから私の立場は先ず義公の立場と相当違う。現に皇室廃止論者だし、民間宗教法人化し自分らの寄付だか営業収益で儀式し、政治したくば立候補すれば? という話だ。しかも西洋はじめ象徴王政を、本音をいうと「演芸」「ごっこ」の類だから結構な猿回しどすなあと思って眺めていて、馬鹿にしている。しかしこの種の本音をいうとイギリス人などは若干怒るかジョークだと思われるので、敢えてぼかしてるだけで本音からいうと、幼稚な連中だなとしかいえない。同じことを皇族をありがたがっている東京都民だの京都市民だの、その他の知事だの役人へも思ってるが、問題になるから例外にしかいわないのだ。
 確かにこの種の擬制にも一理ある。上品ぶる俗物根性の結晶だから、その中には本当に上品なもの(いわば教養、悟り)を偽装手段として扱う鼓舞が含まれる。「私の息子は何々大学の博士ですのよ」「あら、うちは知人が海外の何々研究所の所員ですの」みたいなのだ。あほ臭いがえせ上流はこの程度だ。
 私の論理では、真の王侯貴族は実力次第で勝手に出現してくる個人や少数集団のことで、この種の人達はただただ有益だ。そこで最初にあげつらった全員一列論みたいなのは否定される。組織は基本、実力に応じ指揮系統が立てられるべきで、公知公徳の面で無能が上位者だと、その集団は先ず絶対に負ける。
 結論をいえば、擬制をとってる組織はそれだけ無駄が多く、無能の命令に従い失敗した責任は部下がかぶったり、忖度して成功したら手柄は上位者のものになってしまったり、まさに平成自民党だとか大企業病な日本企業みたいになってしまう。皇族が有害なのも同じ意味でだろう。だから私は「外国が擬制をとる」のはその国民が馬鹿だから寧ろ愛国的(日本ひいき)な意味で、「立派な王室ですこと」とかいってりゃいいのであり現にそうしているのだ。「象徴王政やめろ、共和政がいい」とはっきりいって「そうする!」と返すほど賢い国民相手ならいいが、保守を説得なんて意味ない。逆に自国が潰れたら困る(これは政府が代わるという意味ではなく、自分が迷惑こうむりたくないという意味でだが)なら、「無能な皇族もちあげてんじゃねーよ」って本音を言ったらいいのである。だから私は紳士としてそこまではっきりいわないが、「皇室はやめたほうがいい」「共和政で」みたいな少し角を丸めた言い方をしているのだ。
 もっと深くいうとだ、そもそも義公の論理は愛国主義に基づいているわけだ。中国と日本は違う、日本は独自だ、日のいずる処の天子が沈む処の天子につつがなしや、この論理だ。だが平和憲法は米軍のおしつけ論者もそうだが、天皇自体が中国神話上の三皇で皇帝制兼多神教たる神道も中国由来と忘れている。つまりどこの国からきたものであれ、そんなのどうでもいいし、他国と似てようが違ってようが物のよしあしでよければ使う、駄目なら捨てるでいいのだ。思想もだ。和魂洋才の論理は、それ以前なら国風文化の時に使われた。和魂漢才だったわけだ。これは愚考というべきである。
 例えば『荒野行動』というゲーム(昨今日本で流行のPC・スマートフォン用ビデオゲーム)。これは海外のサーバーも日本サーバーもあるんだが、「国際サーバー」ではほぼ中国人がやっている。そこで試合前に組む人らに既存の定型文で挨拶すると誰も返さない。礼儀知らずなわけだ。日本サーバーでこれをいうと、子供でも返す。儒教の美質は日本が継承している。(これは文化多元論の一例で、日中の文化間の優劣ではなく違いを語っており、民族・国籍差別の旨は一切含んでいない。詳しくは「『荒野行動』で見られた日中の文化差」)
 では儒家が教えた通りに礼儀正しくなった日本人を、儒教を馬鹿にし道教だの法家だのでなんでもOK、実利第一としてきた中国人みたいに再び変えましょうか、それともどれも中国思想だから、和という『礼記』『論語』の援用概念も捨てて、弥生人渡来前の原型たる縄文人の自然崇拝に帰りますかという話だ。
 ちなみに、愛国主義を更に極端にしたものといっていい、国粋主義的な民族純化の考えで漢字排除したのが有名な韓国のハングル統一であって、似た論理は明治政府の廃仏毀釈にもあたる。そんで、この民族純化の原型は愛国主義であり、つまりは義公や紫式部や聖徳太子とかの国風化理論にあるわけである。
 私がいいたいのは、この国風化理論みたいなのは、江戸・平安時代を文化面で評価する時とか歴史教科書にも普通に出てくるが、あとガラパゴス化を肯定的に評価する時(サブカルチャーを褒める時)にも出てくるが、物のよしあしと関係ない。それでいったら戦艦大和はB29より凄い、と無理な論理になる。9条がどこ由来だからダメ、石原慎太郎が散々ほざいてたが、全く関係ない。9条自体が日本に役立つか、有害かを問う。これでいい。よければ海外製品を使ってもいい。日本独自の物に改良したがる傾向はあるがローカライゼーションであってどこの国でもそうしている。独自性もどうでもいいのだ。
 だから義公の論理、すなわち水戸学は、明治以後の日本政府や日本人が普通にかなり体化していて無意識に採用しているわけだけど(松陰や西郷が学んで、新政府の原型になったので部分的に採用されている)、「中国の歴史と違う」風にする為に理論構築した部分、つまり尊皇論の類は、問い直すべきなのだ。
 具体的にいえば、義公は「中国は易姓革命(公徳で皇帝が代わる)だから日本は大義名分(天皇は不動で次位が代わる)で。あと中国は君臣の義が乱れ亡国したから、日本では君臣一体にするためダメ天皇でもひたすら順位継承で(故に本来の順位継承者の南朝が正統)」といった。松陰はこれを受け中華皇帝風の一君万民論を展開し「天皇の下に臣民は平等」とした。我々が象徴天皇を政府に入れてるのは、知ってるかしらないかに関わらず、この2人の考えをここ150年間の首相が採用したからだ。「中国と違う国にしてもダメならダメじゃん、同じ部分があってもいい(愛国主義の脱構築、又は国際主義)」とか、「天皇も人でしょ。天は人の上に人をつくらず(自然権含む人権)」とかは、ここ150年間、完全無視されている。
 私も上に書いたよう、共和政で国民による国民の為の政府をつくらないかぎり、災害時に政府が天皇避難させ国民は後回しとか、税はむ主権在民の公僕でありながら意味不明な行動とることになるだろうし(私がじゃなくて政府がそういう行動とるかもしれないという意味)、さっさと皇室民営化しないといけないと思っている。政教分離は西洋由来だろうけどいいのだ。

2019/05/15

日本人一般は武士道物語に感動し易い

(「なぜ動物愛護や生命倫理の観点から『けものフレンズ』が幼稚といえるか」の続き)
もっと深く考えたけど、『ドラゴンボール』のクライマックスは、少年時代から武道の修行を共にしてきた親友のクリリンが、世界征服を狙うフリーザに殺され、主人公の悟空が怒って超人(スーパーサイヤ人)になるところだといっていいだろうから、友情だといえる。
 一方『けものフレンズ』のクライマックスは、主人公の少年(かばん)が、オオカミに育てられた少年状態で遊んできた動物園の動物たちをかばい、敵に食われるものの、逆に動物たちに助けられる、という場面だから、これも一種の友情といっていい。
 ところでどちらも流行した漫画・アニメの核心部分だが、この2つの友情には共通点と違いがある。先ず主人公らは仲間・人類・地球等の全体を守ろうとして公を私より優先する人達だ。この意味で完全に新渡戸武士道の類型に立つ侍、一種の国防階級だといえる。これが共通点だ。つまり武士道物語なのだ。
 次に違いは、『ドラゴンボール』の場合、ずっと地球人類全体のため戦ってはいたものの、戦友である無二の親友を殺される場面が戦闘力が飛躍的にあがるきっかけになるので、友情の範囲は親友とのものである。しかし『けものフレンズ』は寧ろ仲間である動物全体の為の自己犠牲が美化される。いいかえると『ドラゴンボール』は国防階級(武道家)の私的友情が重要なクライマックスだが、『けものフレンズ』は国防階級(ヒト)による全体の為の自己犠牲が美談の文脈に置かれる。後者の方が全体主義的といえる。
 日本人一般大衆はいまだに武士や日本軍と同じ発想の道徳物語に感動しているのだ。
 さらに違いを分析すると、同じ国防階級ではあるが悟空は異星人(帰化人)で、かばんは唯一の生き残りのヒトである。後者は『旧約聖書』の創造神話が重ねあわされているともいえる。聖書の中でヒトは神の似姿で、ノアがそうしたよう動物の種を守って箱舟に乗ったり、動物全体の管理者役だったからだ。万物の霊長としての貴族の義務が描かれているのが『けものフレンズ』で、国防階級の貴族の義務が描かれているのが『ドラゴンボール』だといっていい。どちらも貴族の義務を描出する筋だ。しかもここで焦点をあてられているのは、全体守護の為の友情または自己犠牲の賛美である。武士道そのものだ。
 現代の一般大衆は商人なので士農工商でいえば下流階級の町人の中でも一番悪役扱いされていた部類といってもいいだろうが、なんとその人達自身が、武士道を語る物語を紡ぎ、あるいは語り伝え、賞賛している。これは大いなる日本社会の本質であり、まさに道徳哲学的な議論に値する問題なのではないか? もしこの2つの物語を、現代商人の姿で描くと、天敵であるフリーザ一味に悟空らは「で、幾ら儲かりますのや?」と聴き、地球侵略の武器を坂本龍馬みたいに売り買いする役目におさまるだろうし、かばんなら敵に「ぼくを管理者にしてくれます?」といってジャパリパーク社長におさまることになる。
 前ツイッター上に、口調からいうとまあそこらの低級労働者くらいのやつらが、「カネで動く人間は操り易いから安全で、カネで動かないのは意味不明だから危ない」といっていた。まさに下級商人の発想で、この人らは善悪と損得を完全に取り違えて生きているのだ。確かにこの次元になると武士道も必要だ。
『猫の恩返し』という講談は、ある町人が博打で金を使い果たし、飼い猫に「猫に小判というから3両もってこいやい」とかいい寝て、起きたら実際に小判がおいてある。その後でもっと大金もってこいやいといったら猫が消えた。店に行くと旦那が泥棒めといっていて、みたら飼い猫が殺されていたという筋だ。この後、この町人が大いに後悔して改心し、商人になって成功後、猫だんなと呼ばれたみたいな落ちだったと思うが、要するに善悪と損得は違う。人は時には損得抜きで行動しなければならないし、常に善悪だけで動いていれば先ず損することは免れない。善徳・悪徳商人の差は商売の仕方によってつく。
「勝てば官軍」でカネが儲かればなんでもいいのだ、政権簒奪できればなんでもいい、これははっきりいって外様大名、もしくは海賊の発想だ。いわゆる薩長がまさにそうだったわけで、ノルウェーの友人に聞いたら「それは海賊の合言葉ね」とかいわれた。恥ずべき話だ。Winner takes allは野蛮の証だ。
 俺が18の時、東京で自転車のブレーキがきかなくなったかなんかで、住んでたところで近所の自転車店いったら、ワイヤーが絡んでたかなんかで1秒でなおった。そしたら店主が1万円(物価からいうと1か月分のコメが3000円くらい)要求してきた。自分は公務員(士)の子なのでなめてるのかとは思ったが、カネなんかどうでもいいので1万敢えてやった。まあ詐欺まがいである。田舎の善良素朴な店では考えられない。その後、その店を観察していたのだが、途中でシャッター閉まって潰れた。つまりそういうことだ。

秋篠宮文仁親王殿下は国事である皇位継承順位を私徳に過ぎない悌より軽視する発言等の公私混同をやめるべき

どうせ身分制度なんて復活しようもないし、王侯貴族といっても封建時代にある程度の地位にあった人達の名残にすぎないが、アマゾンプライムにあったから『英国王のスピーチ』の直後に『海街diary』をみたら思いっきり日本人庶民の話で、余りに卑しくて愕然とした。封建道徳は全く馬鹿にできない。

『英国王のスピーチ』のあらすじ
1.イギリス国王の次男が幼児に厳しすぎる躾けや乳母の虐待を受け、吃音症になって演説がうまくできず悩んでいた。
2.父が亡くなり兄が即位するが、兄は離婚歴のあるアメリカ人女性と恋愛関係になり、国教会の定めで王のままでは結婚できない。
3.弟は吃音を治すため色々な医者にかかるがどれもダメで、最後に或るオーストラリア人医師にかかると徐々に発音できる様になる。
4.その医師と仲良くなった頃、医師は「お兄さんよりあなたの方が国王にふさわしい」というが、弟は無礼な庶民めと兄をかばって治療を打ち切る。
5.弟は国の行方と兄の身を案じるが、兄はパーティで弟の吃音をからかいつつ「お前は『ハムレット』のよう俺を王座から追い落とそうとしているのか」と言う。
6.兄はアメリカ人女性と結婚し退位、弟に王座が巡ってくる。
7.いよいよ吃音を直さねば王位継承式(戴冠式)すらまともにできなくなった弟は、「王が謝罪するには長い時間がかかる」と独特の言い回しで医師へ謝り、再び吃音の治療をする。
8.医師と二人三脚の努力のかいもあり式は無事済むが、その後、今や王となった弟は自らの式を映したテレビのニュースで、自分と対照的に極めて演説の巧みなヒトラーを見る。
9.イギリスはチャーチル首相の決定でヒトラー率いるドイツと戦争状態に突入、王に宣戦布告の文をラジオ放送でよみあげる役割が回ってくる。
10.王は医師のつきそいの元、「君には感謝している」と述べながら、いよいよ演説に臨む。
11.宣戦布告は若干いいよどんだ箇所はあったものの、却って威厳がある様に聴こえ、文明国の勝利を誓う宣言文の演説は、植民地含む全国民に報じられ成功した。
12.医師が後姿を見守る中、王は妻子と共にバルコニーへお手振りに出ると、集まった数え切れないほど多くの国民達が彼を称賛していた。

この映画をみてから、『海街diary』をつけてみたら、冒頭からわけのわからん日本人庶民同士が交尾していて、その女の方が家に帰ると妹だかなにかが何があったの? と聴き、「大人は色々あるのよ」と姉みたいなのがいう。これでびっくりして、余りのギャップに、やはり王侯貴族の存在意義も感じた。
『英国王のスピーチ』の中で、弟の王は自分がただの人形で、議会が決定した役割を演じるに過ぎない歴史的地位を皮肉がるが、しかもそのお仕着せの役割すら満足にできない(吃音で、首相に渡された演説文がうまく発音できない)自分の残念さを、医師との発声練習のなかで思わず吐露する。
 皇室批判者の中には皇族が人権を持たないことを哀れだとする理由で、皇室廃止を望む人達がいる。彼らが指摘しているのはこの種の象徴君主(天皇の場合は兼教祖)の不自由さだろう。
 私がこの映画をみて感じたのは、象徴王権の擬制が名誉革命以後にできた類型とすれば、イギリス史の文化的な性質だ。イギリス人自身、この象徴王政が議会の苦肉の策だと知っていて、一度は放伐した王座に別の国からひっぱってきた人を就けたのは保守派との妥協策だったのだろう。論理的には議会が主権をもつ点でまとまったが、イギリスが内在した不条理さはアメリカ独立で証明され、第二次大戦後は「古きよき国」を偽装している。
 この映画は障害の克服というある種の克己論が含まれ、障害は社会の側にあって取り除くべきは偏見だ、とする近年の障害観からみれば大分古い。
 また弟が悌で自らの治療まで打ち捨てたにもかかわらず兄は公私混同を貫く点で、伯夷叔斉や徳川光圀(義公)の逆類型であり、イギリス王室が形骸化した制度だとよく示している。
 義公は「君君たらずといえども臣臣たらざるべからず」と、英議会の「王は誤れない(King can do no wrong)」と同じ君主無答責の立場をとる(「君君たらずといえども臣臣たらざるべからず」は『古文孝経』序に見られる文。易姓革命論と相反するので、義公の尊皇思想にふさわしい考え方として彼の『常山文集』巻十五の序文に援用されたのだろう)。つまり水戸学は政教一致論ではあったが、イギリス議会と君主無答責の点では等しかった。明治以後の政府も君主無答責の立場をとり続けている。天皇大権は消え、教祖を兼ねる皇室が残った。また義公は兄をさしおき世襲した負い目を、伯夷叔斉の禅譲から学んで高松の松平家との継嗣交換で償ったが、この映画(史実)の兄弟は寧ろ逆で、兄(エドワード8世)が順位を無視し、しかも公私混同で弟(ジョージ6世)に地位を譲る。
即ち
1.義公は代替わりで君主無答責(大義名分論、象徴君主制)を応用し、世襲の順位継承を当主の公徳より優先した
2.義公は悌で兄の子に禅譲した(いわゆる水戸黄門が御隠居な理由)
3.エドワード8世(映画中の兄)は公私混同で禅譲した(動機は国の為でなく恋)
4.ジョージ6世(映画中の弟)は悌より公徳を優先し禅譲しなかった(義公の逆。世襲順位より公徳を優先した)
こうしてみるとジョージ6世の政治哲学は、義公のものとかなり違う。確かに映画中では兄を思いやっていたが、史実では兄を見限り許可なしの帰国を禁じたとある(ウィキペディアにはそうあるが真実だろうか?)。
 ジョージ6世は君主無答責を利用しているのに自らは順位をかえ 悌<公徳 の行動をとったので、劇中でも兄から「ハムレットの王(兄の地位を弟が簒奪した)」に喩えられた。しかし例えば文仁は皇位に就けないと発言し、いわば悌を優先する旨を述べた。王位継承を巡り、悌、公徳、順位の問題がある。
1.悌の有無
2.公徳の有無
3.順位の正誤
当映画ではこの3つの要素が王位継承を巡って描かれているが、
義公は 順位>公徳>悌
ジョージ6世は 公徳>順位>悌
の優先順位だったといえる。つまり日本とイギリスは継承の哲学が違う。英国王は中華皇帝に近いのだ。
 前述の義公「君君たらずといえども臣臣たらざるべからず」と英議会「王は誤れない(King can do no wrong)」は似て非なる哲学で、同じ君主無答責ではあるが、日本版は形式的継承順位の方が優越し(故に南朝正統論を明治天皇が認めた)、公徳はその次位に置かれる。イギリスでは公徳を順位に優越する。伯夷と叔斉の譲り合いが義公の哲学に反映され、明治政府から現皇室に流れ込んでいるのかもしれない。この君主無答責観の差を、日本のものは順位主義、イギリスのは公徳主義とすると、歴代中華皇帝の易姓革命論は公徳主義に基づくもの故、日本独自の継承観が義公の中で差異化として構想されたのかも。
 文仁は年取ってからでは皇位に就けないと発言したが、謎だ。順位が優越なら就ける筈だ。悌の方が順位より優先なのか。一種の公私混同というべきだ。兄の手前で謙遜か、兄を敬う気持ちでいったにせよ軽率だ。憲法でも、皇室の伝統でも継承順位が決まっているのに国事である皇位の継承より私徳に過ぎない悌を優先する時点で、文仁こと秋篠宮文仁親王殿下に公徳が欠けているのは明らかというべきだ。
『英国王のスピーチ』は弟のジョージ6世が王位に就き、公徳を悌に優先するまではいいが、義公ほど深く順位主義の君主無答責を学ばず、兄のエドワード8世を軽視する史実については日本の方がまだましだ。しかし文仁は悌を公徳や順位より優越する発言をしているから、彼らから何かを学んでもらいたい。

なぜ動物愛護や生命倫理の観点から『けものフレンズ』が幼稚といえるか

(「『けものフレンズ』『けものフレンズ2』を巡る作劇論」の続き)
世界(海外)が動物について何を議論しているかというと、例えばピーターシンガーが代表者だけど先ず動物の苦痛を最小化しようと功利主義の範囲を動物全体に拡張している。同様に、動物愛護運動はドイツのティアハイム(動物の家)を筆頭に愛護動物や野良犬・猫の殺処分を行わず、ペットの売買を禁じている。
 ヴィーガン(純粋菜食主義者、維根主義者)は、原始仏教徒含む菜食主義者より更に原理的に動物食どころか動物系食品も拒否する。また動物愛護運動の一部は、大手企業が肉食者の食糧供給のため家畜を苛酷な環境で育て残虐に殺していることを批判し、動物の恵まれた幸福な暮らしや安楽死を要求する。
 世界は一般にクジラやイルカの様な大型哺乳類の捕獲を禁じ、或いは観光資源を兼ねている国々の環境保護団体と共に、日本政府や和歌山・静岡・山口など鯨・イルカ漁を行う漁業者の罪悪を責める。更には肉食におきかわる植物由来の擬似肉の会社が上場したりしている。
 そもそも動物園は、動物を人工環境に無理やり連れてきて見世物にする残酷な施設だから、これが野生動物にとって苦痛なのはいうまでもない。また人類の乱獲や環境破壊によって絶滅危惧に瀕した動物を守る為に様々な無政府組織、或いは動物愛護家が声を張り上げている。
 西洋の犬はよくしつけられ、公共交通機関にも乗っている上に、広い公園や荘園の様な場所で自由に走り回って暮らしているが、日本の犬は鎖に繋がれ、自由を奪われ、邪魔になったら遺棄され、生まれた子供ごと保健所で殺処分されているし、更にこの負の連鎖をペットショップは金儲けの為に強化している。動物実験を行う病院や研究施設は、例えばネズミを道具にしているから生命倫理は無視されている。
 そして全体として人類はこの星の生態系の一部なので、食物連鎖の中にあって天敵のいない条件でほぼ全動物を殺戮しているし、雑食なのでほぼ何でも食べ、動物らの生存環境へも平気で侵略して文明ぶる。
 橋や護岸が必要だといい清流を潰し、発電所が必要だといいダムを作り、川魚が遡上できないどころか人間ですら憩えない野蛮な自民党遺産をあちこちに無理やりおしつけ、土建票で東京五輪だだのとほざき、動物の大量死と奇形化の上で原発再稼動だとかいっている。
 ついには遺伝子組み換えに手をつけ、毎年農家に米企業の種子・農薬を課金する目的で、動物実験では異常があった人工食物を人間なら大丈夫だろうとほざき世界中にばらまく。動物自体の遺伝子も品種改良してきたが、家畜・ペット化の為にもはや機械状態の異常個体を量産し、野生で生きられなくする。勿論、人類は伝統的な罪悪として皮剥ぎや、毛をむしりとったり、象牙や動物を殺して出す油、絵の具の材料といった、食べあさる以外の動物資源を目的にありとあらゆる動物を殺戮、又は虐げ恥じない。しかも単に動物の見た目で差別し、動物Aが可愛ければ無意味にエサをやるが動物Bが醜ければ虐殺する。
 普段は大量に動物を殺戮しているのに、いざ野生動物が人間の侵略でエサが激減し、里におりてきて食べ物を探したら、一発で銃殺して絶対権力を当然視している。様々な罠や毒をまいて野生動物を死に至らしめようとする。それどころか遊びの為に、鳥、魚、獣を殺して、食べもしないのだ。
 こういった人類全体の邪悪さに対し、ゴータマ・シッダールタ(釈迦、ブッダ)は慈悲の哲学で、全生命体は苦痛や死を恐れつつ、生態系の中で縁起しているのだから殺すな、と説いた。仏教徒ははじめこそ彼の言いつけを守っていたが、明治時代に西洋かぶれの福沢諭吉が牛鍋を白人化の滋養といい広めた。
 大体、動物倫理を巡って行われている議論は上記の流れで、人類の偽善や、動物の生存権との戦いなわけだ。だが『けものフレンズ』シリーズのオタクらはどうだろう? 幼稚な擬人化少女にたわけ、のけものはいない、とかいっている。意味がわからないのだが。それはただの電子データなのではないか?
 まだ昔の人達のほうが動物の身を真剣に案じていた例は無数にある。『鶴の恩返し』や『浦島太郎』は動物愛護によって報恩があると信じていた例だし、縄文人はそもそもカミの大型のものとしてオオカミを考えていたからこの言葉があるのだし、アイヌも自然神カムイが動物含む全てに宿ると信じていた。ヒンズー教徒は牛をカミとし野放しにしているし、奈良やら鹿島神宮でも鹿がカミの使いとして扱われているし、そもそも一部の動物が人を超えた存在だという観念はかなり広く見られる。中国由来の多神教を利用し、動物を擬人化するのは分かるが、ヒトと同列だとするのも『もののけ姫』より高慢な考えだ。
 先ず世界の動物愛護、又はその反命題ともいえる反出生主義、特に全生命への終末論を両方とも省み、一体、他の動物を殺さずには人類まで進化してこれなかったばかりか日々、動物食でくらしている我々が、動物愛を語るには自分の行いが偽善でないか省みたらどうなのか? 今日は何をどれほど殺したのか? 動物愛どころか、原発立地自治体への人類愛すら抱かない、極悪人が1千万人以上たかる邪悪極まりない人類の巣があるというのに、その中で「のけものはいない」とは一体なんのことか。妄想上で偶像崇拝し、現実の人間を殺戮し、或いは幸福を奪い、テレビだかモニターに張りついて電気で涙を流す偽善者。
 科学的には植物にも痛覚に似た作用が見つかっているし、当然ながら動物には死を避ける機能として痛みがなければならない。動物に苦痛を与え、その中でも人類に特別な苦痛を与え、痛快だといっている一部のサイコパスやサディスト、ダークトライアドをどう思うのか? 彼らを「のけもの」にしないのか?
 私は『けものフレンズ』シリーズが幼稚だといった。それは上述の全ての動物愛護論のうち、たった1つへすら真面目な意見がみられないばかりか、そもそも動物倫理に近い思想をもっているかすら怪しい次元で、アニメーション作品で動物を扱おうというその無思慮さが、悪い意味で子供じみているというのだ。
 他にも考えるべきことはある。孔子は厩(馬屋)の火事で、先ず人を心配したと『論語』にある。生類憐みの令を出した徳川綱吉に対し、御三家の徳川光圀(義公)は副将軍を勝手に称しつつ(回天館の義公自身の書簡にみられる史実)、わざと肉を入れた鍋を食べたり犬の毛皮を贈って、動物中心主義を皮肉った伝説がある。
 欧米の人間中心主義はユダヤ教の聖典『旧約聖書』で、神が人を自らの似姿として作ったとの神話からきているので、孔子や義公の人間優先とは違う文脈だが、本当に『けものフレンズ』で人間と動物を同列に扱うのが倫理的なのかだ。当然だが動物も利己的なので、ペットの犬ですら時に死後の主を食うのだ。

(続き「日本人一般は武士道物語に感動し易い」)

2019/05/14

政教分離度が重要で王侯貴族が問題ではない

(ノルウェー王室は日本の皇室の模範、故に「日本人一般は格差主義者」でノルウェーを例に引くのは不適切、というツイートへ)
私は別のSNSで或るノルウェーの友人ができて色々聴いたが、日本人一般と教育内容も次元も違うことに加え、そもそも政治的民度自体が全く違っていると感じた。それは日本人全般の方が教育の質が低く、政治経済を理解していないという意味で。
 で私は王室を実は否定していない。政教一致を問題視している。
 政教分離後の象徴王政は、単なる名目君主を国民が統治する形式で、私は『英国王のスピーチ』を見て王室に共感したくらいで、どっちかといえば賛成なくらいである。まあ共和政に比べ王室が身分差別の名残じゃないかという論点は分かるけど、イギリスの友人と話した限りこれもただの社会制度だと思った。
 日本の皇室は王室ではない。実はこれは教祖を兼ねている。つまり西洋でいうと教皇か大司教の立場である。なので宗教を使って国民を洗脳してしまう。政教一致が危険なのは他教の人を弾圧するからだ。
 西洋で政教分離が図られたのはジョンロックに遡れる。『統治二論』で王権神授説を否定した。王は世俗的権力者だ。しかも名誉革命後、王は議会に従う結果になり、実権を持っていない。つまり単なる貴族制度の名残でしかない。端的に言うと、ただの奥ゆかしい儀式みたいなものだ。
 逆に日本では水戸学の大義名分論では将軍が世俗的王権、天皇が象徴的教皇の立場で、実権は将軍が握っていた筈だったが、明治政府は天皇大権にきりかえ、戦後は天皇(教皇)がそのまま象徴に収まった。つまり政教分離が十分はかられなかった。政府の外に天皇を出すべきとはこういう意味である。
 なぜ私が王室に必ずしも否定的でないかというと、アリストテレスによると単独支配、少数支配、多数支配の3類型はそれぞれ最高の公徳の持ち主が或る集団で単独か、少数か、多数かによって選ばれねばならないので王政が最善のこともあるからだ。しかし世襲は形骸化し易く伝統的貴族くらいの扱いでいい。更にいうと、私はそもそも少数支配としての貴族政治が最善の時もあると認めるので貴族院(参議院、上院)は無給にすべきだと思っている。金持ち、代々の貴族、又は無償奉仕を望む一代貴族が無給でも公益に尽くそうとしていればこそ、良識の府として機能する可能性があると期待しているからだ。
 例えば日本の歴代将軍の外交称号は、しばしば日本国王だった。つまり征夷大将軍が実権を千年近くもっていたので彼らは王族だったといってもいい。それで明治以後の150年間を無視すれば、本来なら歴代将軍をそのまま王室、象徴王族として扱っていればよかったのだ。天皇は政治の外に置いたままでだ。なぜ私が身分制や封建制の名残に過ぎない王族や貴族を一切廃止する考え方のみに全面的に賛成でないかというと、私も勿論共和政論者で皇室廃止を望むし全人類の人権を平等にすべきと思う(それどころか常任理事国も撤廃すべきと考える)が、現に尊い王侯貴族には貴族精神が宿り易いと知っているからだ。
 貴族の義務(いわゆるノーブレス・オブリージュ)は自己犠牲の精神で、利己心の正反対に位置する。これは生育の中で折に触れ公徳をしつけられないとなかなか身につくものではない。しかも普段から特権待遇に近い条件で育っていればこそ、自ら心理的負債を清算する為に進んで公益に身を投ずるのである。
 貴族の義務の研究は、政治的良識の核心部分なだけに今後も人類が進めていかねばならない分野だと思う。少なくとも私の生まれ育った県には水戸の徳川家ら旧公爵がいて彼らはその種の良識を事あるごとに発揮していた。つい先日も政府から原発の汚染物廃棄場にされそうになったら彼らが怒って立ち消えた。
 まあこの部分、異論が多いに違いない。徳川は世俗的権力者だったからはじめ、暴力で地位を得た。そしてそれだからこそ王(単独支配者)や貴族(少数支配者)の地位にいたのだ。彼らと敵対していた権力者や、彼らより身分が低いとされた側は気に入らない論理かもしれないが、もう少し実例を語る。
 上記の汚染物廃棄場は、たまたま政府が何も知らず徳川家の山林だかそのすぐ近所をゴミ捨て場にしようとして、徳川が怒った。そしたら政府があっという間に引っ込んでしまった。だから公益という部類じゃなくて彼らの私的闘争でしかも偶然というかもしれないが、結果私達も守られて甚だ公益だった。
 ほか具体的にこの種の精神をもっていた徳川慶喜(最後の将軍)は幼児から厳しく躾けられ、いざとなれば幕府に弓を引いてでも皇室を守れといわれていた。我々の世界観なら「いざとなれば政府に弓を引いてでも国民を守れ」の方が筋が通っているが、当時の世界観だと貴族精神が守るべき対象は皇室だった。そして彼がなぜその行動をしつけられたかといえば、まま経済的余裕があり当時で最高級の教育を受けられ、血統も十分高貴(将軍家と皇族の末裔)なので特別な役割を期待されていたからだが、彼は幕末の危機的状況の中で実際に庭訓通りに自己犠牲を選択し、無血開城で幕府を自ら閉じたわけだ。穿った見方をすれば高々、父系の将軍家(徳川宗家)と母系の皇族で、母系を重視した選択となるに過ぎないのだが、これは水戸の徳川家が二代目から代々紡いできた哲学に由来した行動なので、庶民の及ぶところではなく、実際その後も水戸の徳川家は勤皇のため原爆投下時に貴族院議長をしていた。恐らく彼らのことであるから、いざとなったら天皇の代わりに自分が犠牲になるつもりだったろう。これがただの一般大衆には想像もつかない考えで、つまり貴族精神のありかである。同時に偕楽園という彼らの私庭を自ら一般民衆に開放したよう愛民思想というのも持っていて、民主主義とは違う毛色で公共的なのである。
 直接わが県で生まれ育って彼らの残した文化遺産や徳行の実例を実体験として理解していないと、一体私が何を言いたいのか分からないに違いないが、貴族精神の現実をみると、それは血統・身分差別と正反対の内容なので、大抵の人類は敬意を持つ。そしてそれが私が王や貴族の存在を全否定しない理由です。
 王侯貴族は世界中にいるが、彼らの全てが単なる虚栄の封建主義者ばかりだとは言いきれない。現実に何らかの公徳を、不文律などで代々受け継いでその地位にのぼりつめた類の人も混じっていると思うからだ。しかし永続した王侯貴族はなくいずれどの家系も廃れ、また新たな家が興るであろうとは思います。
 上に政教一致の問題点を他教弾圧と書いたが、無論他にも沢山ある。そもそも私が最も恐れているのは日帝が起こした類の宗教戦争だ。例えばイスラム過激派やキリスト教原理主義者が皇族暗殺したら、神道信者は激昂し宗教戦争に突っ込みたがる。イスラエルから見てどうか。好都合この上ないのではないか。中東諸国があれほどイスラエル軍や米英仏軍に翻弄されているのは、基本的に政教一致だからだといってもほぼ間違いないであろう。日帝が絶滅戦争に漸近したのも同じ原因がある。宗教と政治を混同していれば、教祖の邪悪な命令にも、政治的現実性を無視して信者が特攻してしまうのである。第一次大戦はサラエボ事件から発展している筈だから、政敵の王族や皇族暗殺そのものが大事件ではあるけれど、昨今、資本主義陣営(イスラエルや米英仏ら)がイスラム過激派を煽って中東諸国を荒らしまわっているのは事実であり、日本も巻き込まれ致命傷を負うまでに何とか皇室民間化で政教分離したい。
 また地元の話になるが、私がこの恐れを抱くきっかけになった最大の理由は、回天神社を訪れたことだ。そこは尊皇志士の墓が列になって集められ、彼らがいかに純粋な魂で天皇に尽くそうとしたか、しかもその結果、維新を起こし悲惨な死を遂げたにも関わらず皇室は全く彼らを弔わなかったかが一見できる。私が驚愕したのは、回天神社の無数の神道形式の墓の中には、なんと私と同姓同名のがあった。私は靖国神社も見た。ところがあのご大層で大仰な巨大神社に比べ、水戸のその墓は維新を起こした偉人が眠っているにも関わらず全く無視されていた。ただの石なのだ。その上、当時の私はまだ尊皇論者だった。一歩間違えれば私もこの同姓同名の侍と同じ運命だったと悟り、私はそれ以後、神道を疑い始めた。私の恋人は仏教徒なので、その頃私に「宗教は人を救う為にある。人を傷つけるのはおかしい」と言った。神道は殺人邪教で奈良時代に仏教とすみわけるため捏造された天皇家の自己神格化だと研究し分かった。
 水戸の徳川家を例に出したが、彼らはかなり強烈な神道信者で、奥さんも皇族だった徳川斉昭(烈公)の時代には皇居に向かい毎朝だか恭しく礼をしていた。正月には奥さんにひざまづき、敬意と感謝を捧げていたという。私は水戸の徳川家の公徳を尊敬もし、評価もするが、私個人は神道をもう信じていない。
 かなり長い返信だが、もう一つ付け加えておきたい。私は政治思想そのものが一種の宗教観念だといってもいいと思う。だから自由主義や民主主義の類もそうだといえるだろう。厳密には政教分離は単なる伝統的宗教とのすみわけ度だ。問題は不条理な過去の信仰を、現代政治に持ち込んでしまうことである。

『けものフレンズ』『けものフレンズ2』を巡る作劇論

(「『けものフレンズ』は子供向けアニメで、ストレスを抱えた大人の幼児退行の逃避先にされている」の続き)
間違って入ったアマゾンプライムにあったからたまたま話題にしたら、アニメファンぽい人に絡まれて(アニメへの偏見をもつなみたいに言われて)分析することになったので一応最後までやる為、『けものフレンズ2』も全話流してみた。それで次のことが分かった。
 先ずけもフレオタ(けものフレンズのオタク)が1は神、2は糞といっている理由は次のものだ。
 1はほのぼの感かつ勝ち負けのない世界観で、全員で勝敗なく徒競走させる異常なまでの馴れ合いもしくは擬人化動物との和が幼稚園的視線で描かれている、精神を病んだ大人の逃避先にされていた子供向けアニメである。
 2は1に比べアニメ画面自体のできもよく主題歌もよく、キャラクター造形もうまくなっていて全体の映像が可愛らしい上にしばしば美しい(特に最終話頃の海の光の反射とか)。がシナリオが違っていて敵だかなんだかとの喧嘩みたいな様子も出てきて、性格が悪いんだかなんだか分からん関西弁の獣もいる。
 それで1は人類絶滅後の世界で少年が動物界脱出を試みるのを逆に動物が助けるオオカミ(サーバル)に育てられた少年の現代版だが、2はその世界観を下敷きにしているものの、記憶喪失の少年が自分の家を探すため方々さまよった末に脱出用飛行機だかが壊れた廃墟だかなんだかを家にして解決する点で浄化が足りない。
 しかし全体として1も2も幼稚なことこの上なく、園児がみるならいいかもしれないが大人がみて楽しめるといった類のものではないので、先ずけもフレオタの心が酷く病んでいて、精神療養の為に幼児退行先にしている可能性がある。これは既に書いた。ここでは更に彼らけもフレオタの精神分析をする。
 一体「一神二糞説」を唱えている人が、脅迫罪で逮捕される危険を犯すほど何にそこまで義憤をまきちらしているか調べると、「けものはいてものけものはいない」というこれまた稚拙な駄洒落による批判が検索でぼろぼろ出てくる。即ち1は道徳相対主義だというのだ。この世で誰も違和しない(例えば兄弟間での単純な利害対立なんかも含め)、何も批判しない、即ち思考停止している状態で、そもそも互いに利己的な各自我間の対立がないということはありえないわけで、交渉や折衝、議論、戦い、競争、政治、弁証法的メタ認知などの能力がない空想的世界でしかない。しかしこの種の相対主義(ソフィストの詭弁術の土壌だ)がけもフレオタの中では最高善みたく崇められている訳は色々考えられる。2002年から導入された絶対評価教育と、小泉政権以後に進んだ格差社会との摩擦で荒んだ心を、彼らが幼児体験した馴れ合いへの退行で癒しているというのがありそうな解釈だ。
 逆に例えば以前のアニメである『ドラゴンボール』では全力で修行し競争し、負けた者を辱めず寧ろ努力を称える、いわゆるスポーツマンシップか武士道的な精神のありようがみられ、戦いはそこでは賞賛されると同時に目的でもあったのに比べると、けもフレオタのよくいえば優しさだが、軟弱さは甚だしい。
 けもフレオタの相対主義礼賛は愚民化の一部で、思考停止に陥っているに過ぎない可能性が高く、いわゆる批判的・弁証法的・脱構築的に既存の正義観を疑義する高尚な態度とはいえない。なぜなら2でその種の利害対立じみた場面が出てくるだけで彼らは「世界観を壊すな」と大発狂していたのだから。大衆の一部がけもフレオタだとすれば国民全体が幼児退行しているとはいいきれないにせよ、そこに垣間見られるのは明らかに幼稚化、思考停止、軟弱化、愚民化である。この傾向は萌えだか少女風擬人化だかオタクの流行を利用したこの商業アニメシリーズにも見られるものだが決して立派な傾向ではない。
 そもそもオタクが萌えだか少女風擬人化だかコスプレだかに喜んでいたのは彼らに性的倒錯者、幼児性愛者またはフェティシストが含まれていたからで、下卑た要素を多分に含む。このアニメシリーズは少なくとも2に当該要素が1より増えている気もするが、子供向けに無害化されてはいてもひたすら幼稚だ。
 ところで童話や童謡の世界は、童心の純真さの中で純粋な徳を大人が教える目的をもっている。しかしこのアニメシリーズも童話に結構似てはいるのだが、似て非なるもので、どことなく嘘くさく子供にしたところでこれに共感できるのか分からない。穢れた大人がカネ儲けでオタク騙しを作っている感がする。自分はジブリ以外のアニメは大人になってからはまず見ないので(それもテレビでやるから見るのだが)、他のアニメと比較して語っているにしても極めて限られた範囲だから批評として適切か知らないが、正直いってサブカルチャー全部もそうだが、所詮、知的に低次元な低俗な産物だといっていいだろう。

(「(けもフレの)内容が読み取れてない」ので可哀想、というツイートへの返信)
とりあえずシナリオだかその内容を簡単に書いてくれる? 1もそうだけどアニメ自体が物凄く分かりづらく、数度みただけでは幼稚園児が「無内容に」たわけてるだけにしか見えないのだ。私は君みたいにいってきた人を真に受け1を数度みなおしたが、中身が驚くほど薄くて大いに後悔したのでもう見ない。
 この世には永遠に分かり合えない溝があると思う。私は1を丸2日かけて検討したが、もし君が本気でこのアニメシリーズの「内容」を理解することが非可哀想だと思っているのなら、私は永遠に君と同じ人類になれそうにない。なぜなら私はその内容を完全に認知してなお、軽蔑の念しか感じなかったからだ。私は君みたいないわゆるオタクの人が、君の様にいうので私の見解が間違っているのかをはじめ疑っていたので、できるだけ慎重に自分の誤りがないか再検討した。また第三者にも客観的意見を募り、一体君達が何をいっているのか知ろうとした。その結果わかったのは、オタクは低俗な人だということだ。
 オタクが何を評価するかといえば、美術用語でいえばローブロウ(無教養、low brow)なものである。いいかえると子供でも分かり、なんの予備知識もいらず、できたら思考そのものを使わないものだ。ところがどちらかといえばこの正反対の傾向を好む性質をもっている人にとって、これは無内容となるのだ。
 High browな美術の典型的なものはデュシャンの便器だ。オタクがみればただの便器に落書きがしてある様にしか見えない。だからオタクに言わせればそれこそ無内容なものとなる。アウラ(本物らしさ)の議論や、美術展の制度性、署名の付与する作家性への皮肉など、予備知識がないと理解できないのだ。
『けものフレンズ』の1と2を何度も見返し、このアニメシリーズ礼賛者が幼稚園児並みの知能だということは重々理解したのだが、まだ納得いかない部分がある。それは君みたいな似非上位者ぶっているその態度だ。これほど幼稚なものを理解することが偉いだなんてどうしていえると思うのか。このアニメはいってみれば園児向けだから大人がみたら、分からないのではなくて余りに幼稚すぎて呆れるというだけで、「内容が読み取れていない」のではなく、馬鹿でも分かりすぎるからわざわざ語るまでもないほどだ、というのに過ぎないのに、分からないのか? といっている方がいかれている。例えば或る園児がAちゃんを殴ったとか、Bちゃんと歩いたという。Cの場所まで行ってきたという。はいわかりました。それだけである。ところが君らけもフレオタクは、これをわざわざ「内容」だと称している。はっきりいって何にもいえていないのだ。それを並のIQの人は「中身がない」というのだ。
『新世紀エヴァンゲリオン』というテレビシリーズは、この『けものフレンズ』とどっちかといえば正反対の類型を含んでいる。つまりは複雑すぎて訳が分からないほどなのだ。それはハイブロウという意味でではなく、単に物語の設定が凝りすぎているのだ。次に簡略化してまとめてみよう。先ずエヴァンゲリオンは典型的な少年が救世主になるというロボットアニメとか少年漫画の設定を踏襲しているが、問題は仲間が病だか心の病だかを抱えていてそれらの少女らにも独自設定があって各々の物語が交錯する。またこの少年の父が総司令官みたいなのなのだが、敵は元々この父が作り出したという。しかもこの父は少年少女らに敵と戦えというのだが、この敵は地球外からやってくる化け物で全人類を殺しまくるつもりの堕天使かなんかで、倒しても倒しても湧いてくる。で父は実は少年をいけにえにするつもりかなんかで、本当は人類絶滅の計画中だという。父は神になりたいのだという。意味不明だ。この意味不明さは設定がおかしいのだがその複雑な状態で物語は先に進み、また父の不倫だかなんだか、また少女らと同居して主人公の自慰だかなんだか、軽薄な男と指導役の女がいちゃつくだかなんだか、まあ猥褻な現代人的描写も挟まれていて少年向けとして大分おかしい。しかし主人公は敵と戦う。その少年は臆病だが彼しか地球を救えないので父の厳しい期待に応えようとするが、段々とプレッシャーに押しつぶされていき、終に最後の敵だというところで発狂して終わるのである。子供向けアニメの終わりが、発狂エンド。私は当時中学生だったが、最終回が主人公脳内の走馬灯で終わると思わなかった。そんで、このアニメは伏線が無数に引かれていてどれも全く回収されないので映画版とかで謎が語られる形式で色々カネ儲けしていたのだが、父親は母となる使徒と一体化して人類を滅ぼすのが夢だか、仲間の少女は虐待を受けてただか、そもそももう1人の少女もクローンだか、とにかく酷く複雑なのである。
 それに比べてどうだろうか。『けものフレンズ』少年が動物園をさまよっててオオカミ(サーバル)らに助けられ脱出しました。『けものフレンズ2』少年が卵から生まれ家を探しましたがありませんでした。これである。内容がどうとかほざいているが、あんなの内容じゃないだろ。園児が動物園で獣とじゃれてるだけだ。けもフレオタクは自分達が幼児退行していることに気づいていないのだろうか? 一体全体、筋とほざいているその内容を語れるというのならどうぞ、ここに記述していただきたい。まあ私は当該アニメを何度もみて確認したからあっそ、としか思わないだろうけど、感動したというなら全部いえるはずだ。
 因みに私は『新世紀エヴァンゲリオン』のテレビアニメシリーズそのものをろくに見てなかったしファンでもない。友達が見てただけでいい作品だとも思っていない。そもそもアニメに興味がない。何がいいたいかといえばロウブロウなサブカルチャーでもけもフレで偉そうにする理由もないだろうという話だ。
 正直いって、君と、もう1人、前に絡んできた人、その2人しかこのテレビアニメシリーズを何らかの意味で褒めている人と若干なりとも会話したことはないが、私は君らを通じて、アニメ自体を軽蔑しはじめた。それ以前はそんな感情はもったことがなかったのだが。童話なら分かるが、余りに幼稚すぎる。それと、アニメファンだかオタクだかと呼ばれている人達も、今まで生まれて1度も軽蔑したことがなかったのだが、単に幼稚で周りについていけないだけの癖に裏返って偉そうにするというわけの分からない高慢ちきな態度を2度ここでみたことによって、今までそんな態度みたことがなく文化衝撃を受けた。私の今回受けた心理的ショック、それもオタクやアニメ文化の一部が差別主義者だか精神病者だか知的障害者だか犯罪者も含む、ある種の裏返った愚劣さの同調圧力地獄みたいな世界だと知ったことのショックはかなり大きく、一生消えないかもしれない。君らはいわば退廃的排他集団を作りたいだけなのでは?
 君らは美術界では村上隆、批評界では東浩紀その他をイデオローグとし、自分達の排他的衆愚に同調してくる愚者を仲間にし、それが無意味だと、裸の王様だ、低俗すぎる幼稚だと見抜き指摘してくる人を今回みたいに「可哀想」だか「偏見を持たずに見るべき」だかいってごまかしごまかしやってきたのでは? 私はジブリの宮崎駿作品は、『風立ちぬ』だけ間接的性描写が入ってるから家庭向けとはいえず評価しないが、それ以外は全部いい方だと思う。実際子供の頃から見てきた。そして彼のアニメに比べ、けもフレ1と2が格が落ちるのはいうまでもないが、テレビだからとか言い訳抜きでファンが傲慢すぎる。
 庵野秀明は宮崎の元にいたからこいつらの系譜だけ取り上げるのは卑怯で、たつき監督をけもフレオタは全力で応援しますというのだろう。そしてアニメ大好きジャパニーズは私がいってることを何一つ省みず永遠にガラパゴス愚民化地獄で心行くまで退廃か幼児退行したいのだろう。だが私は騙されない。
 私の恋人がいう。アニメオタクは虐めてくるのだと。それはこんな幼稚極まりない、或いは時に下品極まりない内容のアニメを「わからないの?」とか「まだみてないの」とかいって虐めるらしい。まさに君らのことだ。そんな子供じみた馬鹿げた虐めの手段にこんな下らない偶像劇画をしてるならすぐやめろ。低俗な馬鹿の癖に、高尚且つ道徳的な人を差別する衆愚根性がオタクの正体であれば、私はこの種のサブカルチャーを褒めてきた村上隆氏も東浩紀氏も、わが国文化の天敵と見なすのに吝かではない。今すぐここで宣戦布告まではせず、もう少し深慮しオタク連中を分析してからにするが、近いうちに復讐する。一体何に復讐するかといえば、私の恋人を嘗て虐めたオタクどもにだ。しかも今回も、1人ではあるが私に喧嘩を現に今ここで売ってきている。オタクの奴隷精神を叩きのめし、全世界の恥晒しとして児童ポルノ問題等を利用し地上から粛清するのは私の力なら容易にできることを知らないのだろうか?
 私が直々に丸2日、且つ昨日をかけて、一体お前らのほざく偉大な作品とやらがどんなものか詳細に確認し、熟慮を重ね批評までしてやったのに、何だこの態度は。お前は芸術家をなんだと思っているのか。アニメオタクの1人よ。お前如き愚物が、我々の芸術の殿堂の片隅にも入りえない様に神々と裁断する。
 本当にお前のいう、その偉大な作品の立派な内容とやらがあるのなら、私は1度見た瞬間その作品を崇敬し、全世界の全知識人に全才能を使ってありとあらゆる賛美を伝えていたに相違ない。実際それだけの意欲も力も能も、準備や根性さえ私にはあるのだ。お前は中身のないものをあるかのよう嘘をついた。
 そもそもだ、こいつらアニメオタクは見る目がない。同調圧力で動いている本物の愚物である。なぜなら、私は1も2もこいつらの意見を全く無視してみたが、はっきりいって2の方が美術として遥かに優れている。2は性格悪そうで不快な関西弁キャラがいるのがきついだけで、お前らは何も見れていない。自分の目では何にも見れない本物の愚物の分際で、周りの更なる愚物がほざいているどうしようもない謬見に群れ、三文以下の批評でもない監督脅迫なんかしている連中が、一体全体、なにゆえに私に絡んできたのか。私の恋人の仇であるばかりか幼稚アニメを偶像崇拝している。オタクどもの罪深さよ。
 わが国の12万年にわたる全史の中で、このアニメオタクだかけもフレオタだかが出現したのは、たったこの1、2年、いや最長でも手塚治虫あたりからだから最長で50年たらずではなかったか? それどころか今年4月に終わったけもフレ2を種に、恋人ばかりか私まで虐めつつあった。ばかなのか? 私の職業はなんでしょう。私は絵描きです。20年間くらい毎日の様に絵を描いてきました。それでありとあらゆる絵をみようと努力してきたし、全人類の絵画技術の粋を集め、最大限の審美眼を身につけようと日夜研究に励んでいたら、突然、けもフレ2オタの1匹(上記)が私に喧嘩売ってきたのである。
 それで私の仕事としているこの絵だが、古代洞窟壁画からずっと続いている。当然のことながら写実絵画も描ければそこらのバンクシーらしき落書きも描ける。全技法を修養して当然なのだ。そこからいうと、けものフレンズ1は顔の造形(目)がおかしいといった。2は直っているといった。すぐ分かる話だ。私は本業が絵なのだから物語なんざ実質どうでもいいくらいで美術として全世界をみているのであり、そこからいって、1と2でいえば2の方が圧倒的に美しい。これは単体で褒めているのではなく1に比べて、ということだ。その程度の質の差すらわからないのに、何をみているといえるのだろう。本当に。
 オタクの人々は「なにもみちゃいない」。これは私が一人のプロ、いや世界史上無二の巨匠として断言する。本当だ。もう二度とそこらのアニオタ一般とやらの美術眼は信用するな。2のオープニングでぐるぐる回って空にカメラが移動する場所と、2の最終話だか11話で海を背景に逆光で少年が話すところ。この2つの箇所だけみればいい。美術の進化度という意味で飽くまで1に比べてだが、先ずこのぐるぐる回ってカメラが上昇する描写は、映画のカメラワークを意識してると思うが初歩的な遠近法だ。大きなものは近くに見える作用で垂直的高さと、青い大気で地平線の広さを同時に表現している。しかしこれは美術界ではイタリア・ルネサンス期の手法なのでアニメは今頃やってんだね、って感じで千年くらい遅れているけれども1の全部をいれて他の稚拙な描写よりは現実感の意味で優れている。
 もう1つは海の煌きを背景に少年の顔を影で表現するシーンだが、これは明暗法というやつだ。これもルネサンスの少し後くらいでカラヴァッジオとかが流行らせた手法だからこれまた千年近く遅れている。つまりは美術とみて実に後進的でスーパーフラットとか無理いってるが基本を学んでないのが丸分かりである。それだから全体がのっぺりしていてキャラが浮いて画面を長い間みてられないのである。
 因みにジブリアニメはここまで美術が下手じゃない。勿論、ハイアートに比べれば単なる幻想感の表現に過ぎないから子供だましの下らない次元ではあるけど、少なくともどうしようもないなって感じではない。本当に下手すぎてびっくりなのは1である。2もうまいとは、上の2つ含めほぼ思わないけど。そもそもデフォルメされたキャラクター描写単体でみても1に比べ2の方が人物造形に無理がない。これは例えばピカソやベーコンやクーニングの人物画が美術の中では成立済みなのに比べ1は寄り目すぎて黄金比の点でおかしいでしょって次元だからこれまたレベルが低すぎる話なのだが。
 因みに断定してもいいが1~2の全部を通じてみて最も美術的にうつくしいといえるのは上に出したオープニングでぐるぐる回ってカメラが上空に行く所だ。ドローン撮影でミュージカル風の演出をした、みたいな感じでかなり新しいし、今言った様、遠近法が成立していてある種の優雅な立体感があるからだ。
 アニメ批評家ども(ウィキペディアに載ってる類の)はまともに美術の勉強すらしていない上に、サブカルしか見てないから子供でもできる感情論に耽っており演劇の批評言語ももっていない。それでこれまた幼稚な感想を述べているにすぎず、そもそもこれを原因としてアニメは美術ではないのである。
 上に書いたところで「下手さ」は、日本美術では「ヘタウマ」とか下手さそのものを評価する批評言語がある。だから下手なことそのものは否定的評価を伴うとは限らないのだが、ここでいってるのは1が素晴らしい、1は神とかほざいてる三流オタクは美術をわかってないね、何も見てないんだねというのだ。
 まあアニオタという輩は、そもそも僕は小学校のときクラブ活動で漫画読めるから漫画クラブとかいうのに入ってゆとりの時間だかなんだかに何読んでたか忘れたがなんか読んでドラえもんとか描いてたが、それ以来一切みてなかったけど当時の漫画読んでる子供より遥かにたちが悪くなっている。
(すごくどうでもいい情報だが思い出したので書くと、私が小学校のとき漫画クラブとかいうゆとりの時間に何でもクラブ入って遊んでていいですよという時間に読んでたのは、多分だが『YAIBA』だった。で、一つ思ったことがあるのでこれから続ける。
 先ずこの漫画の作者、青山剛昌はこの後、有名になった『名探偵コナン』に移る。ヤイバが終わって。しかし実はコナンは同時期に流行ってた『金田一少年の事件簿』のパクリなのが丸分かりで、先駆性からいったら金田一のが早かった。そしてヤイバとコナンを比べても、普通にヤイバの方ができがいいのだ。
 ヤイバの内容は伝説の剣士の家に生まれた侍っぽい少年(多分、中高生)が、修行の末に幼馴染の恋人を守り抜くという筋で、騎士道的な色彩だ。最後に空飛ぶ剣に乗りバイクでみたくしがみつく恋人とE.T. 風に月を背に飛んで終わる。
 金田一の方は『週刊少年マガジン』で連載してたからか、多少大人っぽい描写があり、知的な主人公を誘惑してくる恋人でない女が「あなたの存在証明(レーゾン・デートゥル)がほしい」とかいって関係を求めてくるみたいな場面があったり、そもそも殺人事件も子供がみるには怖いほどの残酷さがあった。
 で、青山剛昌はヤイバが終わってからコナンを描いたが、ヤイバ的な少年漫画らしさを金田一の構造、つまり探偵小説みたく次々起きる事件解決をくり返す型とくみあわせたのだ。それでこのコナンも続けて自分は当時読んでいたが、できが悪いわけではないけど、金田一の真似かよって感じで安直だった。
 しかし一般大衆は、ヤイバや金田一より、コナンに群れた。すなわち商業的ヒットって、作品のよさと必ずしも比例しないのだ。だから「人気度」で作品のよしあしをはかってる人は、判断を誤る。
 実はこのゆとりの時間あたりで、当時小学校3年だか4年くらいの僕は、クラスの棚にあった小説『吾輩は猫である』を読み出したのだが(もちかえってきてそのままになってる気がするが、時効にもかかわらず返した方がいいのだろうか)、例えば当時流行の『I"s』より普通にこっちの方が面白かった)
そもそも当時は同人誌の類もなく、きちがいじみた変態アニメみたいなのもなかった、もしくは広く知られていなかったのに加え今みたいに萌えだのコスプレだの下卑た概念もなく漫画といってもブラックジャックの延長上にある、シリアスかギャグか少女かくらいのパターン絵巻物みたいなものだったわけだ。
 皆さんは『週刊少年ジャンプ』という雑誌を賞賛している。だがあの雑誌も自分の時はドラゴンボール以外はろくなのなかった。どうでもいい情報だから省くけどわかめ高校とかいうのは全部読んだが。ドラゴンボール形式をぱくった『ワンピース』は完全に劣化版でしかなく、絵も恐ろしく下手で展開パターンが限られていて面白くない。鳥山明は、私はその後、美術の道に進んで本格的に現代美術の最先端(つまり私)まで網羅的に学んでからもう一度見直してみたけど、はっきりいって天才漫画家である。鳥山明は美術家がみても、高度な技法を使ってる場面も確認できるし、そもそも絵が恐ろしくうまいのは誰でもわかるが物語も上手だった。鳥山明は語り部としてはエロスを下品に表現する場面があるから、そこが彼の限界というかコミックではあるんだけど、近作ではおじいちゃんが主人公で枯れているから昔よりずっとましになっている。宮崎駿は逆に抑え気味ではあるが性表現を子供相手に最後にやってしまってるから老醜を晒した様に見えた。
 そんでだ、この手塚治虫から続く歴代天才だか漫画家らの列に、『風の谷のナウシカ』の次に『けものフレンズ』を並べられますか、という話なのだ。笑ってしまう。ナウシカ漫画版を勧められて読んだけど、宮崎駿は漫画の方が才能があった。彼はカネのために映画に行ってしまったと思うけど、たつきはいずれにせよ彼に匹敵するのは無理だ。けもフレオタが幾らひいきしようが、宮崎駿の圧倒的な描画と想像力の前ではこのしょぼすぎる3DCGでの筋の潰れきっていて内容を確認に何度も見直さないといけないどうでもいい話で対抗できるわけがない。だからいったのだ、これに夢中な大人は幼児退行してる病人と。先ず自分を疑った方がいい。
 言っておくがアニメなんて無数にあるのであって、『けものフレンズ』がどの程度の質のものかというと、『忍たま乱太郎』くらいのものである。忍たまも相当流行ったし、実際面白かったが、今も知っている人がどの程度いるだろう? ちゃんとアニメの質を確認しろといいたい。
 以下ここで絡んできたやつが言ってた「内容」の概念について、なぜ私のいう「内容」と解釈がずれてるのかについて講義する。
 先ず文学的ミニマリズムについて説明する。これははじめ美術でドナルドジャットとかが箱を並べはじめて、機械文明のリズムを表現するんだとかいいだしたことから興る。この単純な幾何学形態を連続配置する手法、本来のミニマリズムはそれまで彫刻が担っていた装飾性を拒否する、モンドリアンの新造形主義からバウハウス、で建築で言うロース『装飾と罪悪』を受けたコルビュジエの論理まで遡れ、「形態は機能に従う」機能主義の要請を受けた美術思想といってもいい。即ち当時の前衛建築家らが近代合理精神にのっとれば中世みたいなごちゃごちゃした装飾はいらないんですよと。簡素な造形、工場みたいに機能そのまま露出させてる形の方が寧ろ新しい美なのですといいはじめたのは彼らそれぞれの理由があったがまあ現実には新興市民、労働者の為に安物を作り始めたのだ。
 で彫刻家は建築装飾を古代ギリシア以来してきたので仕事がなくなっては困る、でジャットはじゃあ自分も装飾じゃなくてもはや建築資材みたいなのをそのまま並べたら新しい美じゃね? っていうのだ。Minimalとは最小・最低限の意の形容詞である。Ismとは思想、主義。ミニマリズムとはMinimal+ismで、直訳すれば最小主義だ。これを本気にして音楽家の世界でもミニマリズムが流行りだした。
 純粋音楽でいうと『チャイナゲート』という曲の作曲家ジョンアダムズとか、大衆音楽だとクラフトワークという音楽家グループのテクノ様式とかが現れ、単音または単純な機械音を並べ、美術概念を援用して近代機械文明の工場からする建設音みたいな感じをだしはじめた。で更にこれらを受け文芸でもまねっこしだす。
 文芸ではアメリカでミニマリズムが流行り始めたのだがそこは敢えて日本での動向に焦点をあわせ説明する。なぜかはのちわかる。でこの傾向の典型的なのが芥川龍之介『文芸的な、余りに文芸的な』で、この中で芥川は筋論と対比させミニマリズム的なものを賞賛する。「『けものフレンズ』を巡る対話」で書いたが、そもそも文芸は古代ギリシア詩劇の最大の批評書、すなわち最古の文芸・演劇論といっていいアリストテレス『詩学』以来ずっと筋論をしている。筋(英語でいうplot)は物語を進める流れで、登場人物に起きる劇的展開をいう。
 芥川は短編小説家だった。当時翻訳してた大長編『源氏物語』の大河的筋を賞賛する谷崎潤一郎に食ってかかり、いや、小説ってそんなもんじゃないでしょ。もっと色々あるでしょといい、芥川が好きだった志賀直哉を引き合いに芥川自身の前衛性を多分に含む実験小説群も擁護した、というのが典型的解釈だ。例えば『あばばばば』という芥川のミニマリズム的作品(実は最高傑作?)があり、タイトルからしてふざけているが、ここでは近所のタバコ屋の娘が最初は生娘っぽく応対してただそれだけだが突然、あばばばばといいだす。何かと思ったら店の中で子供をあやしていた、ああ母になったのか、という話だ。
 即ち文芸におけるミニマリズムは日常生活の淡々とした描写をする手法になった(で私は文学(芸)のそれを日常主義と時に意訳する)。これはつい最近、ジョブズらが余計な決断力を浪費しないため簡素な服装してたのを日本の非正規雇用者だかが質素な様式美としてまねし、服飾用語にした生活ミニマリズムとも意味のずれがある。
 そんで、サブカルチャーというのは無教養な大衆を相手に商うものだから上記みたいな知識人世界を相当遅れて、劣化させつつ顧客に卸す、有体にいうと昔の日韓、今の中国みたいなパクリ(盗作)業者になっている。漫画やアニメでミニマリズムが採用されたのはかなり遅い。いわゆる日常系というやつだ。元々日常系が典型的に使われ始めたのは日本でいう藤子・F・不二雄が『オバケのQ太郎』『パーマン』『キテレツ大百科』『ドラえもん』等で使いまわしていた某フォーマットがそれにあたり、延々小学生が終わらない。それ以前なら『サザエさん』や『天才バカボン』、『ブラックジャック』も要素はあった。
 で、なぜ敢えてミニマリズムの影響を日本に焦点を絞って語ったかといえば、日本ではアメリカとは違った展開をみせたからだ。
 例えば漱石の『門』も日常主義が使われ、冒頭と終わり部分は主人公の会社員が奥さんと縁側に猫だかと座り、爪きりだかし、奥さんは裁縫してて、春の庭をみながら雑談する。漱石はイギリス留学で鬱病だか神経衰弱だかになり、暗い現地の天気や、当時のうぶな途上国日本に比べ文明病じみた利己的国民性にさいなまれ、日本に帰ったら縁側で猫と寝て庭を眺めたいといっていたくらいだから、『門』は彼のミニマリズム願望が完全に表現された記念碑的作だ。で、実は『門』全体はただのアニメ的日常系ではない。この冒頭と終わりは実は『門』全体の作劇法上、筋にとって起承転結の起結(三幕構成でいう始終)になっていて中盤で起きる劇的展開、即ち妻の前夫(の親友)が家に来かけ主人公は焦って出家するが挫折し、自宅に帰って妻と和む場面対比効果なのだ。
 一方、アメリカで日常主義がどうなっていたかというと、ビートニクと呼ばれる世代から始まって、素で庶民の日常を描く手法として使われた。それまで物語といえば王侯貴族とか、特別な長所をもつ人が典型的だったのにそこらのアメリカ中西部のヤンキー生活をそのまま書いてもいいんだよとなったのだ。この意味でアメリカ版文芸ミニマリズムは自然主義という思想潮流が西洋のルソー『告白』くらいから起きてアメリカに影響したといえるけど、日本で自然主義は田山花袋『布団』から私小説の流れに入って別のものになったのと対照的だった。輸入業者としてアメリカ日常主義をぱくったのが村上春樹だ。どういうことかというと、薬物やって割と簡単に交尾し、車で走り回って下らない日常を過ごしてる典型的アメリカ人(いわばガチヤンキーの本場版。ガチとは相撲用語で本気の意。ヤンキーとはアメリカ人の愛称だが日本ではしばし不良に転じて使われる)の下世話な焦燥感を独白で内部告発的に書いたのがサリンジャー『ライ麦畑のキャッチャー』とすると、村上春樹は戦後、これを格好いいものと勘違いした。
 日本では花袋以後、主に東京文壇でダメ人間の変態性欲や自殺願望みたくどうしようもない愚痴や、悪徳告白をする様式が、私小説と呼ばれた。つまり西洋の自然主義は、捨て子のルソーが貴婦人の男娼状態で生き延びた過去を人権の種とし、赤裸々な感情を語ってくれよ、とする流れを独特に陰湿化していた。
 村上春樹は神戸で生まれ育つ中、米軍人が古本屋に売り飛ばした上記の小説が落ちていて、これを大人になってからまねて『風の歌を聴け』を書いた。つまり私小説や日本版日常主義じゃなく、アメリカ版のヤンキー日常主義をそのまま神戸人不良の描写としてやってみたら、まあまあうけてしまったわけだ。
 ほんで、何がいいたいの、若干複雑じゃありませんかとなってきたが、サブカルは例によって上記の文芸その他、純粋美術での流れを劣化コピーし、ヒトラー「大衆の一番程度の低い者に合わせて」演説する形式で金儲けしようとする。それがいわゆる日常系で、これは直接的には春樹コピーなのだ。(上に出した『サザエさん』的な終わりなき日常系は、これと区別するため古典的日常系とする)
 一体どこらから、日本版日常主義(作劇法的な場面効果を狙った日常描写)じゃなくて、アメリカ版日常主義の劣化コピーであるところの春樹コピーの、更に劣化コピーである「日常系」が始まったかというと、エロゲ(エロスゲームの略で性描写を含むアダルトゲーム)とライトノベルからだ。エロゲも実は他にも模倣先があって『ときめきメモリアル』という恋愛ゲームがそれにあたり、色んな恋人が出てきて意中の相手を射止めるとクリアという筋を描く為に、高校生だかの日常を、漫画での古典的日常系に近い形にした。そしてこれを春樹的に簡単に異性と寝るアメリカミニマリズムを真似た性描写にした。ラノベ(ライトノベル)は、春樹という輸入業者が南米(マルケス『百年の孤独』)などで流行ってたマジックリアリズム(幻想と現実を混ぜて描く手法)を流用販売しはじめた(『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』)頃からその劣化コピー版として流通し始めた。まあ実は遡ると馬琴『南総里見八犬伝』くらいまでこのマジックリアリズムの萌芽は日本の中でもみられたのだが、それを日常系と混ぜたのがラノベで、最近は転生物(日常を送ってたら幻想の世界に生まれ変わった)に展開しているわけだ。凡人の現実逃避の為の手段で。まあどっちにしても劣化コピーだ。(多少細かく言うと、「でも転生物はラノベの独創なのでは?」という論点についてだが『新世紀エヴァンゲリオン』最終回(夢が覚めて僕が救世主なんて全部嘘だったのか)とか、そもそもRPG『ドラゴンクエスト』が幻想世界の救世主として目覚めて始まる転生後の筋だから、原型は既にあったといえる)
 つまり文芸日常主義には
1.漱石的日常主義(作劇法上の演出で日常を描く)
2.アメリカ風日常主義(庶民の日常を描く)
3.春樹的日常主義(アメリカ風日常主義の模倣で、何らかの不良を描く)
4.古典的日常系(『サザエさん』『ドラえもん』みたいに延々日常が終わらない)
5.日常系(エロゲやラノベみたいに春樹的日常主義や古典的日常系の混成した模倣で、退屈な日常をほぼ無内容にくり返す)
の最低でも5つがある。
 そんで、結論をいうと、ここで俺に絡んできた人だかオタがいう「(お前には読み取れていないのが可哀想な)内容」ってなんですか、といえば、この春樹的日常主義の劣化コピーであるところのアニメ版日常系の、その取るに足りない戯れの幼稚園児版である。少なくとも『けものフレンズ2』は、そうだ。
 一体あなたは何がいいたいんですか? というと、これは最重要批評になるに違いないが、『けものフレンズ』(けもフレ1)の方は、実は上でいう漱石的日常主義の文脈で日常描写を使っている。即ち漱石『門』でいう劇的展開との対比になってるのが2話~6話と、8話~10話だ。いわゆるほのぼの描写。
けもふれ1では
1話 動物園をさまよう少年が獣と自分探しの旅に出る
(日常描写)
7話 少年はヒトと分かりヒトのいる園の外を探す新たな旅に出る
(日常描写)
11話 敵に襲われ少年が獣らをかばう
12話 獣らが少年を助け園外脱出
この「日常描写」部分に、芥川がいう「筋のない物語」、いわゆる文芸ミニマリズムが使われている。
 対してけもフレ2では、
1話 動物園で卵から生まれた少年が獣と家を探す
(日常描写)
11話 少年が海に落ち獣に助けられる
12話 少年は獣と園内でくらすことにする
この様な筋で、「日常描写」部分が1に比べ対比効果を伴っていない。いいかえれば日常系を素でやっていて、多少なりとも春樹化している。
 詳細にいうと、けもフレ1の日常描写部は、人類破滅後の世界を生き延びた絶滅危惧種であるヒトの子が、図書館で自分は何者かを知り、同種を探す旅に出ようとするものの、天敵に襲われ、無私の動物に助けられ生き延びる、という劇的展開の筋全体において、動物の無私さを強調する役割である。ところがけもフレ2での日常描写は、そもそも獣に助けられる筋書き自体が1の劣化した模倣に過ぎない上、1において使われた漱石的日常効果(しかしけもフレ1においても間延びしすぎて時間の無駄に近いことは既に書いた)を利用できていない。しかも劇的展開そのものがほぼ浄化を伴っていないのだ。
 これがけもフレオタどもが大発狂した訳、作劇法的に理論化した原因なのだが、端的に言うと文芸ミニマリズムの遡源というべき西洋自然主義(素直な感情や恥ずべき過去も語っていいさ、人間だもの)と、その応用編である日常描写の劇的対比効果を使えてないから、実は彼らはつまらないといい怒ったのだ。
 けもフレ1での日常描写はかわいい少女風の人型獣とたわける少年に同一化し萌えてた社会人オタが幼児退行の手段とし、精神療養の場になっていたろうと既に書いた。即ちそこでの無意味な戯れ(山奥までよく来たね、最近お客さんこないんだよ、そっすかみたいなの)を2の木村隆一監督は日常系と解した。なのでけもフレ2は1のたつき監督のと違って、劇的対比効果を筋全体であまり使わず、より日常系が延々と続く話にした。つまり「オタどもは仕事で疲れて脳死したいらしいから、こんなもんだろ」とわりかしB層扱いでなめ腐ったとまでは行かないが、無意味な戯れ自体を1と違ってひっくり返さなかった。1でオタが歓喜したのは、敵が無教養的労働者の脳死萌え世界を潰しにかかってきたので、唯一のヒトが救おうとしたら、逆に彼らの萌え対象の擬人化少女獣らが立ち上がって潰してくれたところである。地下アイドルファンのおじさん達が金貢ぐ相手だったアイドルらから逆に救われたら涙するみたいな感じ。オタ界からすると「あれー、俺たち搾取されてんのかな」って薄々感づいているがそれが幻想の中でひっくり返され、偶像が「あなた達のおかげで私があるの!」とほざく(勿論偽善だ。皇族が国民ありがとうみたいな)のに浄化があったのだが、2はそれがなかった。なんだただの日常系かよ? となったのだ。
 で。この俺に絡んできたオタが「(分からなくて可哀想な)内容」というのは、2における延々続く無意味な戯れの部分で、実際には私は美術的目線で見るのでその部分の方がましだといってるのである。なんでかといえば既に触れたがそもそも2の3DCGや美術技法の方が1に比べずっと高度で上手なのだ。別の言い方をすると、別の人もいってたよう、この2の無意味な戯れは典型的日常系を、アホ会社員どもが仕事から帰ってくるや深夜に脳死状態でボーっと眺めるのをマーケティング目的で標的され作られていて、本当に何の中身もない、寧ろ意図的に無内容こんにゃく情報(「こんにゃく情報」は『情報の文明学』での梅棹忠夫の語)にされているのだ。嘘だと思うなら子供に聞いてみるといいと思う。NHK教育テレビの動物紹介動画だってここまで無意味でアホ臭くはない。だから幼稚園児向けだといってる。園児くらいだと不確定に動くものを追いかけるくらいでも楽しいものだから、動いてるだけでわーとかいってる。作劇法上も無内容な部分ということだ。
 要するに、このオタはけもフレ2の日常系描写の無内容こんにゃく情報を「でも栄養あるんじゃ?」といってるわけで、こっちは「あのね、これ食物繊維の塊。全く栄養なくはないにせよ、あんたら労働者の底辺をナチス的社畜扱いで時間とグッズ搾取する為に意図的に仕込まれてんの」と教えてやってるのだ。
 補足すると、NHK教育テレビは現時点ではEテレかもしれんが、そもそもテレビみてないだろうからNHKの教育向けテレビチャンネルと表象化して書いた。あと村上春樹のアメリカかぶれの輸入業者ぶりは大江健三郎が芥川賞の審査員として、日本文化<アメリカ文化、じゃないでしょという批判を最初にしてる。
オタA「でもこんにゃく情報の美味しさが分からないなんて可哀想」
私「こんにゃくがうまいのはマンナンライフのこんにゃく畑だのしらたきだの、仙台の涼しい杉林の中の茶店で真夏に食う透き通ったくずきりだかで重々承知だが、無内容さを無内容さとして認められないばかりか威張り腐ってる理由は?」
オタA「けもフレ2の2話~10話を見返せ」
私「またか」
オタA「日常系で何が悪い。永遠に萌え少女擬人化獣類と戯れていたいのだ、おれは。お前は敵か。悔しいから見下しつつ差別してやる」
私「作劇法を全否定するのはいいが、だからといって無内容さが無内容でなくなるわけではない」
 まあ結局この絡んできた人が、自分に喧嘩売るみたいな感じで、まさに筋の通らないこんにゃく日常系情報を内容扱いせよとしてきた原因は、2の木村隆一が1のオタ受けを日常系脳死に違いないと拡大解釈し、作劇法を捨てたことにあるというのが上でやった私の分析だから、このオタAが無理いってるのだ。2のほぼ全体は1の平和感を演出する日常描写より更に無内容さを突き詰めたものゆえ、2を擁護する立場のオタAがいうべきなのは逆に「無内容で何が悪い」と開き直ることなのだ。それこそ日常系アニメが、例えば『けいおん!』とかで萌え的メイドカフェハーレム妄想みたいなものとしてやってたことだ。
 また、絡んできたお前は例えばテレビアニメ『ご注文はうさぎですか?』(ごちうさ)の日常系が甚だ無内容さを前面化してるものなのをどう説明するのか? いうまでもないがけもフレ2なんかこれに比べたら、つまり学力的低偏差値風だか幼稚化したメイドだかの極端なぶりっ子世界に比べ、わざと幼稚っぽくした様にしかみえないであろう。『ご注文はうさぎですか?』(私はアマゾンプライムにあったから1話だけ流してみた)の無内容さを強調する超絶ぶりっ子世界に比べ、けもフレ2のこんにゃく加減は「内容があるふり」をしてるだけまだ全然ましというか、一応筋っぽくしてある。ごちうさにおいてはほぼ全体が低俗な雑談でしかないのだ。
 ちなみに、無内容さを強調する手法なんざ、文芸界ではとうの昔にやられていてジョイスの出鱈目描写な『ユリシーズ』か更に筋をぶっ壊した破壊文体の『フィネガンズ・ウェイク』、ピンチョンのニンジャが出る日本もどき世界で格闘しつつ狂乱生活しまくる『ヴァインランド』あたりでぶちぬいてある。和歌の伝統に遡っても無心所着という無内容な句の連なりを評価する審美観もあるし、最初に絡んできたお前は「内容のなさ」を低評価と勘違いしているが、それは全くお前が劇だか詩だか語りだか、アニメーションの構成要素となっている諸知識を理解していないだけなのだ。無内容だから日常系というのだ。
 更に深堀りし説明してやろう。例えばRPG(テレビゲーム)の『ドラゴンクエスト』(ドラクエ)と『ファイナルファンタジー』(FF)シリーズでは本筋に無数の副筋(サブイベント)が枝葉みたいにくっついていて、それらを辿るとドラクエだと貴重アイテムと交換できる小さなメダル、FFだと特別装備みたいなのが手に入る。それでこれらの副筋は本筋にほぼ回収されないので辿っても辿らなくてもいい。これら副筋状にも無数の物語があり、プレイヤー(自分の演じる主人公ら)はこれらの小さな物語群も「副内容」と認知するとする。逆に本筋は「主内容」だとする。がこれらのRPGでは副内容の方がしばしば本筋より印象深い。最も代表的なのがドラクエ5で、主人公は成人後、幼馴染か、金持ちの箱入り娘か、(DS版だと且つその娘の高飛車な姉か)、の内からどれかを択ばなければならない。でこの後、結婚しなかった人らはそれぞれの人生を辿る。二度と会わなくてもいいが、プレイヤーは副内容に責任を持つことになるのだ。
 これで何がいいたいかというと、けもフレ2の日常系無内容さは、この種の副内容ですらない。すなわち本来、劇作でいう「内容」は筋にとってどんな意味をもっているかなのだ。だから形式(或いは様式、つまり表現の仕方。効果音、色使い、カメラワークとか)抜きで筋(内容)だけ抜き出して書けるのだ。
 けもフレ2の2~10話の筋ははっきりいえば破綻済みで、そもそも適当にくみあわせられていて必然的連関をもっていない。全く無意味とまでは行かないが、ドラクエでいえば中盤くらいの感じで、A地点からB地点になんやかんや移動していくみたいに馴れ合い状態である。それだから無内容にほぼ等しい。
 内容が素晴らしくある例でいえば、『ハムレット』をあげると、主人公であるハムレット王子が父の亡霊を見て、父は王座をのっとるつもりのいとこを恨んでいると告げ、王子は婚約者に「尼寺へ往け」と別れを告げると、いとこと再婚した母といとこを殺し自殺する。婚約者も発狂し王子の後を追い自殺する。(私がRPGでリメイクした『でんまーくのおうじ』もある)
 このシェークスピアによる詩劇の筋は全てが必然的連関をもち繋がっていて、いわゆる内容がしっかりしている実例だ。そして彼一流の言い回しの妙でこの劇全体が言葉によって紡がれるのだが、その修辞法が形式にあたる。
 まあシェークスピア版『ハムレット』は、正確には私が上に書いた筋ではない。上の簡約版は私の作で、筋にとって無用な複雑すぎる部分を除いたものだ(そもそも再婚者が王の弟という設定をいとこに替えてある。理由は自分でもよくわからないが、多分、近親相姦への禁忌か、(例えば伯夷・叔斉や義公との対比で)悌に反する部分は避けた方がいい、なぜならこれらは王位簒奪者による母との政略結婚、息子がみた母から父への親愛についての懐疑を曇らせる、余分な不徳さを憎しみの原因にしてしまう。つまり省いても作劇の本質上問題がないという判断からだろう)。しかし総じて全体の推進力は必然的で欠かせない部分だけでできているので、例にした。つまり、最初に絡んできた君が言うべき内容とはこの推進力だ。「内容がない」とは、詩劇の伝統的な意味では、ある筋を必然的に前に進め、登場人物らに劇的展開を巻き起こしていく語りの推進力が足りない、すなわちだらだらとしていて何がいいたいかも分からなければ登場人物らが何を意図し何を目的にそれぞれ動いているのか示されていない、故に退屈ということだ。
 一体君が「内容」をどういう意味で使っていたのか知らないが、私が再分析し上記で説明したところでは、
1.もともと内容とは劇作において筋(又は副筋)の必然的推進力の意味
2.日常系アニメはわざと無内容さを描くことで筋を進めない手法をとる
3.本来の日常描写は次の展開との対比効果が目的
で、私の推測で君が「内容」をどんな意味で使っていたかといえば、この日常系アニメのだらだらとした筋を前に進めるでもない馴れ合いの雑談や雑事を内容扱いしていたのでは? それは、劇作では装飾であり、内容ではない。正確にいえば「設定の作り込み」の様な部分で、且つそれはけもフレでは粗雑だ。
 設定の作り込みが最も徹底している劇作の例をあげれば、RPG『ドラゴンクエスト4』か映画『マグノリア』かもしれない。これらはそもそも主人公が頻繁に交代し、それぞれの主人公にも詳細な設定がしかけてあって全てが見える上に、途中から最後に全員が副人物として交錯するからだ。
 けもフレ1も2も、各地方で何らかの人型獣が出てきてそれらの個々にも何らかの事情があることが語られはするが、大概においてその場で別れなかなか再登場しないし、しかも一話24分内で語られている各々の物語が薄すぎて各キャラクターに主人公級の内容がないから、ただの萌えキャラメイド状態だ。例えば最低でも『ドラゴンボール』の主人公以外のキャラクターにおける「内容」をみてみるがいい。ブルマ、クリリン、ヤムチャ、天津飯、プーアル、ピッコロ、ラディッツ、ベジータ、人造人間16号、魔神ブウ、御飯、ミスターサタン、これらだけで全員凄まじい作り込み方である。同じテレビアニメだ。勿論、本物の漫画原作『ドラゴンボール』の方がアニメ版より素晴らしい出来映えだから、アニメはそれをコピーしたものに過ぎないが、ここでいいたいのは「内容」というべき代物をきちんと語っているといえるのは、キャラが雑談してるなんて当たり前のことで、彼ら個々人に魂が宿ってる必要があるのだ。
オタB「私の中ではけもフレの獣にも魂が宿ってるよ」
それは『ドラゴンボール』レベルの入魂度を知らないだけだ。
 色々書いたが、私はけもフレ1も2も、幼稚だと思うが特に嫌悪していない。寧ろ他の漫画原作深夜アニメ的なのより下品な要素が少なく、童話っぽく、まあオタク文脈中では相当ましだろうなと思う。又少なくとも2の美術に関しては再三書いたよう可愛い感じだし、1に比べれば評価している方だ。
 大体、3~4日かけ考察したが、『けものフレンズ』シリーズとは、物凄く肯定的な視点から一言でいうと、動物愛を通じある種の慈悲と友情を信じる人達が、萌え擬人化キャラにたわけているアニメーション作品だ。但し、とかく幼稚で退屈かつ冗長に表現されていて主にオタク向けになっている。
 結局4日も費やしてわかったのは、オタクの一部は明らかに詐欺師だということだった。「低俗なもの、低次元なもの、幼稚なもの、無教養なもの」をすぐ分かってしまって面白くないといっている知的な大人を、なぜか劣等感の裏返しで「こんなのもわからないのか」と蔑視する、いわゆる中2病(知的障害を除き、凡そ中学二年生くらいの精神年齢に留まっている大人を、子供じみているという文脈で揶揄する俗語)の性質だ。

(続き「なぜ動物愛護や生命倫理の観点から『けものフレンズ』が幼稚といえるか」)

※このブログURLは2019年6月8日に
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