2019/04/10

性愛の諸相を芸術と捉えた時にいえること

きのう「性行為は繁殖の為にするものだからそれ以外で必要ない」という内容のさえずりがあった。で、これについて考えた。
 シャルル・ラロ(Charles Lal)は、官能性・感覚的快楽性(sensualitè)に関わる構造と上部構造をなしているものとして、「愛し愛してもらう芸術」(ノーマルな性愛、プラトニックラブ、フェティシズム、性的倒錯等)を分類していた(青山昌文、坂井素思『社会の中の芸術』放送大学教育振興会、2010)。つまりラロの分類では、性行為を含む、性愛全般は、芸術の一種と考えられる。そこで問われているのは官能性や感覚的快楽であって、いいかえれば審美的なものだからだ。つまり現代人の一部は、繁殖以外の目的で、単に美的目的で性愛を享受するのだ。
 日本人(特に江戸・東京人)の芸術の中で、江戸時代の春画、現代でいう同人誌が描画対象にしているのは、実際この好色さの領域であり、もっと遡れば皇子を巡る乱倫的な情痴を描いた紫式部『源氏物語』とか、プラトニックなかぐや姫への求婚模様を描いた『竹取物語』とかも広義で含んでいる。一方で、仏教や儒教、キリスト教はこの官能性の追求を、全否定または部分的に否定する立場だった。それぞれなぜそうしたか訳がある。仏教では反出生主義による解脱をめざし、儒教では君子の性的な禁欲性を理想視し、キリスト教では神への奉仕が人(恋人や配偶者等)への奉仕より高い目的だった。日本では教養水準が低いと見なされてきた町人の階級、特に江戸や大坂の商人社会で、儒仏両思想からの影響が少なく、単に官能性を追求する娯楽的な社交界として遊郭というものが作られた。当時の様子の一部は井原西鶴等の虚構作品中で記述されている。現代でいえば性風俗や性産業がこれにあたるわけだ。他方、教養水準が高いと見なされてきた貴族の階級、嘗てでいえば皇族、公家、武士などの世界では、儒仏両教を学習していたので町人の遊ぶ遊郭的な官能性の追求を、程あれ下品なものと否定した。上級武士は政略上、上司が婚姻相手を決めていたこともあり、よりプラトニックな性愛の世界を含んでいた。
 封建時代(キリスト教等に基づき)プラトニックラブが成立した、というのは西洋と同じなのだが、日本の戦国期以前の武士の中では戦場に女性を連れて行けなかったため同性愛(衆道)の慣行があったとされている。
 つまり日本の貴族の間でも他国の事情や庶民と部分的に違う官能性の追求があった。
 平成時代の日本は、GHQにより貴族の制度が潰されたので皇族を除く全国民は同じ庶民にされたのだが、そこで主になった官能性は町人風のものだった。変態性欲とか性売買を含む、東京都民が全国・海外にばらまく直接的で下品な性の情報を主としていて、儒仏キリスト的なプラトニックさを否定した。
 で何がいいたいかというと、私が見てきた限り、日本で貴族精神の名残としてプラトニックラブは全く消え去った訳ではないが殆ど無視されている。実際、日本の高校生女子は米中韓と比べ世界一貞操を重視しないという調査(日本青少年研究所、高校生の生活と意識に関する調査、平成16年2月)がある。対象4国では唯一日本女性は男性より貞操を重んじておらず、この点では、貞婦というよりは、婚前交渉を7割が肯定する点で決して淑女的ではない。日本の高校生女子が婚前交渉を7割近く肯定しているなら、そこでいう性行為が、高校生くらいが考えそうな「好き」という単純な恋心をもつ相手との婚前交渉のことであるなら、必ずしも性を売り物にする娼婦の考えと一致はしていない。が淑女性はない。ここでいう淑女性は、婚前交渉を否定するばかりか婚姻後も、唯一の配偶者とのみ性関係をもつ考え方のことであり、それどころかそもそも性行為をなるだけ避けるべきものとみなす、いわゆる上品な態度のことである。寝室で配偶者と一対一の場面でもこの種の態度を保っている人物が、淑女的だといえよう。日本女子(或いは日本男子)と好対照なのが韓国女子(或いは韓国男子)で、韓国は儒教が国教だった影響からか、調査対象の4国では最も、淑女性なり(それの男性版としての)紳士性が高い。特に韓国高校生女子の約77%が婚前交渉を否定している。日本女子は7割が肯定しているので全く正反対だ。日本も韓国も、出生率は世界でも最低を争っている(日本は203国中184位、韓国は202位。合計特殊出生率、世界銀行、2016年)わけだが、その社会での官能性の有様は、全く異なっている可能性がある。日本は町人の肉体的快楽が、韓国は両班のプラトニックラブが延長している。自分が実際にみた日本女性の一部の脳内では、「好きな人と婚前交渉すること」は、殆ど正義と同一視されている。その妄信性は甚だ強く、他国の常識と余りに違う等と、部分的にでも否定されると発狂してしまうことさえある。何がこの様な激しい狂信の原因かは不明だが、メディアがそう洗脳したのだろう。「結婚においては当人の気持ちが重要である」と述べた佳子内親王は、表向き憲法でいう両性の合意のみに基づく結婚観を披露したに過ぎないが、内側には婚前交渉の肯定を含んでいるかもしれない。東京発の町人・商人世界観の中では、武士階級の女性にみられた貞婦らしさは全否定されているのだ。
 さらにこの日本女子の、俗語でいわば「阿婆擦れ的」「尻軽的」傾向は、日本男子にも伝染というか傾向が相関していて、彼らの町人・商人的性格の中では男性の純潔は否定してよいと考えられているのが上記の調査でもわかる(日本女子ほど極端ではないが日本男子の中でも6割が婚前交渉を肯定している)。私の経験でいえば、町人・商人世界の文化的伝統がある東京都に行った時、そこで生まれてはじめて純潔(東京人の社会では男性の純潔は童貞といわれ、『いきの構造』でいう遊里に通じていないという文脈で、否定的な価値とされている)を侮辱してくる大人(しかも専門学校の講師)に会った。この他にも東京都民中には複数、純潔を否定する者(不倫自慢の主婦等含む)がいて、かつ未成年から江戸時代同然日常的に性売買する者が男女共も多く、勿論これは風営法で性売買が禁じられ周囲に存在しない私の故郷の純愛中心文化とは全然違うが、都民はそれに全く気づかず自文化中心主義に耽っていた。逆に都民とか東京隣県の神奈川に住み都内に出入りする者にこの文化的差異を説明すると大発狂をはじめ、自己正当化の為、茨城県でいえば最大の都会に該当する水戸の事例(それも東京等からすれば遥かに地味なものだが)等をとりあげて、「日本中どこでも性売買が当然で皆やっている」等といいだすのだ。こういう国内での比較文化の見地からいっても、日本男子の中では純潔が6割において否定されているのに加え、東京・神奈川など町人文化の伝統が強い大都市風土ではさらに極端で、しばしば性売買含む女遊びぶりは自慢すべきものとなっている。この様な遊び人文化は他国と比べても特殊ではないだろうか。
 逆に東京都民の一部でプライドが肥大化しているばかりか思考力が欠けていて無知な人については、自文化中心主義を少しも脱せないばかりか中華思想に耽っており、「田舎はすることがない」などといいつつ、都内より遥かに性売買がはびこっている等という妄想を大真面目に信じているが事実は正反対だ。実際の田舎では、勿論全ての田舎がそうではないにせよ(『土佐源氏』とか「はちきん」が教えているよう、高知県のよう性の奔放さが肯定される可能性のある特殊な風土もあるかもしれないからだ)、大よそにおいて不倫などすぐ噂が広まって強固な人間関係から非難を受けるので不可能でそもそも性売買は風営法で存在しない。したがってそこで性愛の追求があるとしても、夫婦仲とか、未婚の未成年者を主として純愛(一人の人への愛)の範囲で恋愛関係として見られることがほとんどで、それは往々にして素朴なものであって、東京等の都会でいう複数相手との肉体的な性関係を含んだ不純な要素がないか、少なくとも非常に少ない。これが大体において出生率が田舎の方が高くなり、都会の方が低くなる理由で、要するに配偶者との安定した性関係を保障する風土はどちらかといえば田舎の方にあるのだ。そして都会には繁殖を除く官能性追求に都合がよい性売買、婚前交渉、その他の放埓さを許容する隣人性のなさがあるが家庭的ではない(都道府県別の合計特殊出生率ランキング、人口動態調査、2016年。都道府県別の20代女性30代女性未婚率ランキング、人口動態調査、2010年。他の年代でも変わらないが、総じて、女性の出産人口に該当する年齢層でも、関西圏や東京圏といった都会の未婚率が高い)。
 また「世界各国のセックス頻度と性生活満足度(41カ国)」(2014、Durex社)をみると日本が世界一性行為の頻度が低く、性生活の満足度も低い。「主要国の性行動比較」(1999、厚労省、国立国際医療センター戸山病院エイズ治療・研究開発センター)を見ると、日本は比較対象の欧米各国に比べ、過去1年間に売買春を経験した男性が最も多く、同性との性的接触経験が少ないというデータが出ている。
 結局、ここからわかるのは、日本人女性(少なくとも高校生女子)は米中韓に比べ性行為を結婚前に行ってもよいと極めて強く思っている可能性があるが、日本人男性は他国に比べ性売買によって官能性を追求する傾向があり(といっても14%の人達だが)、そもそも両性ともに性行為自体をしたがらない。したがって日本人一般の官能性の追求による「愛し愛される芸術」のあり方というのは、他国と非常に違った特殊なものになっている。歴史的経緯からいえば町人が商人となる中で性売買を合理化すると共に、貴族的なものであったプラトニックラブを、オタク・アイドルなどで萌え化し性行為を回避している。主に東京文化の一部として同人誌とかアダルトビデオ等で追求されている様に見える官能性は、実は日本人一般からすると観賞用の非日常的演劇である。また大都市部に見られる性風俗文化(広義で酌や歌舞をする芸妓も含む)は、繁殖を含まない官能性の商業化である。がこれらは性的満足度を下げている。性売買や猥褻物頒布は違法だが、同性愛者や両性愛者が肛門性交を通じた出血でエイズ感染するという傾向がある様で、発展場と呼ばれる同性愛者の集まりは嘗ての衆道が変形し延長したものと解釈できるとしても、その世界に対する避妊具の普及などの啓蒙は、行政側からすれば必要なのではないだろうか。
 ラロの言うことが正しければ、官能性追求で日本人一般の性的満足度をあげるには、他国同様に性行為の頻度自体を上げると共に、サブカルチャーによる性行為の回避を必ずしも理想化せず、性産業従事者が技術や満足を独占するという状態をより一般人の技術を高めることで開放する必要があるのではないか。
 ではお前はどうなのかというと、私は元々プラトニックラブの信奉者だったのでいわゆる純愛にしか主たる興味がなく(性的不能でもないのだが)、実際恋人とも一度も会っておらず文通しかしていないが、同調圧力や性的満足とは無関係に貴族精神を継いで生きている自由も尊重してもらいたいと思っている。
 また日本の非常に特殊な事情として、(上述の資料では)性売買が他欧米諸国より頻繁なのに加え、高校生女子の貞操が米中韓より遥かに低く唯一日本男性より低いという条件から、援助交際が有名な所で東京渋谷から発生していた。これは児童買春なので倫理的問題となるが、結局、官能性の誤解ともいえる。人類の女性は哺乳類として10代半ばから繁殖可能になって生殖能力が高まり、30代半ばくらいから衰えが始まる傾向があり、またある程度若い方が体力があり出産数も複数見込める等の自然的な条件から、若い女性の「繁殖能力」は高くなるわけだ。だが官能性は必ずしも繁殖能力ではない。日本人男性のかなりの部分は、日本女性に関する限り繁殖能力と官能性を取り違える傾向もあるかもしれない。なぜそうなのかといえば、日本女性一般の「愛し愛される芸術」の能力が低いからだといえるだろう。魅力的な年上の女性というのは、自分が見た限り例えばフランス文化では当然視されている。日本女性一般は「愛し愛される芸術」をどの様に追求すればいいかまず全く分かっていないので、知性的な振る舞いとか、異性なり同性の気を引く諸々の恋愛上の駆け引きとか、そもそも情事自体の中にある色々な感覚快楽の要素とかを軽視しており、繁殖能力だけに頼る。だから若い女ばかり人気になるのだ。今後、日本がフランス文化等、年上女性の官能性が当然視される文化から何か学ぶかはわからない。援助交際も一つの文化的風習だといえなくもないし(必ずしも倫理的ではないが)、JKビジネスやパパ活等と別に、合法内に単なる純愛(や性関係を含む恋愛)模様として年齢差のある官能性もありうると思う。何がいいたいか。「愛し愛される芸術」というラロの美学にのっとれば、繁殖を目的にした性行為から程あれ離れても官能性はありえ、「産めよ殖やせよ」のキリスト・ユダヤ教倫理や、解脱的な原始仏教からいえばそれは時に文化的退廃となるが、少なくとも芸術としては色々な性愛が存在しうるということ。
 ただ私は、ただ貧しいだけの子供なり女性が、やくざの経営している性売買の店で身売りし、望まない性行為で金を得るしかない、という社会的な構造は絶対に変える必要があると思う。この人達と、生活が苦しくもないが自ら性売買している単なる好色女は、次第に見分けがつきづらくなるが、実際違うのだ。娼婦ははじめ暴力的な社会構造から仕方なく身売りさせられてしまっても、次第にやくざに脅されたり、当面のお金はもらえることから次第にその職業になじみ、しかも性依存症となる中で自らその仕事を望んでいなかったことなど忘れて官能性の追求に耽り、朱に交わり赤くなってしまう場合がある。樋口一葉『たけくらべ』はその様な社会の暴力によって、娼婦に堕落させられてしまう少女の初期感情を描いた小説だったわけだが、自分がみている範囲では、いまだにこの非人道的な側面を、誰一人として批判的に指摘していないのではないだろうか。
 望まず性売買せざるを得ないまで追い詰められている人には、行政は進んで生活保護を与えねばならないし、そのことに対し世間は非難の目を向けるべきではなく寧ろ同情しなければならない。また職業に貴賎なしなどという俗諺を使い、この望まず娼婦になるしかなかった人を正当化もしてはいけない。日本では性売買は違法なのであって、非合法的にそれを行っているやくざが、腐敗した行政とつるみながら建前をかいくぐっているに過ぎない。合法・違法の厳密な線引きを警察が拒んでいるのはやくざと癒着し天下り先を確保しているからだし、このことを知りながら性売買を利用する人々が寄生している。結局、その種の少女なり望まなかった娼婦なりが社会の暴力の犠牲者なのは、行政、警察、やくざ、性売買利用者らの悪意が彼女らの肉体を生贄に、自らの快楽と金の為に利用しようとしているからなのである。まあ人身売買が巧妙に法の建前を使って合理化されているのだ。この構造は完全に潰すしかない。他の日本女性らはその種の貧しい少女なり望まぬ娼婦が生贄になっているのを知りながら、程あれ性的満足を得ながら金儲けしているのに嫉妬し、なんと彼女らを救おうとするのではなく差別的に見なし一緒になって虐待している。或いはなぜか模範ともちあげ「私にはできない」など神格化することもある。
 最後にいえるのは、この種の貧しい少女や望まぬ娼婦が犠牲になるしかない、という邪な日本社会の構造は、性売買は違法なのに建前を使って正当化している全日本人らの悪意によっているので、建前容認派を全員罰するしかない。同時に性売買を合法化したければこの種の事例を排除しなければならない。いいかえれば、単に貧しいとか、望んでいないのに(時には詐欺的に騙され、現場でやくざ等に契約書を盾に脅されるなどで)娼婦にさせられかねない状態は、完全になくさねばならない。行政・警察を一般国民がやくざから切り離し、厳格に監視・命令し直し、隠れ人身売買をなくし、生活保護を与えるのだ。この種の隠れ人身売買事例が最もはびこっているのは東京都であるから、他の自治体より優先し警視庁(東京都の警察)と東京の綱紀粛正をはかるのが最も効果的だ。貧しい少女とか望まぬ娼婦を社会が暴力によって人身売買するという公的犯罪は官能性追求とは全く別の話なのであり、区別されねばならない。一体どこからどこまでの性売買が合法化されうるのかについて国民が議論し、そこには上述の隠れ人身売買(貧しい少女や望まぬ娼婦)が含まれない様にした上で、性売買自体の倫理的是非を問うべきだ。官能性の追求が性売買を含めて行われるべきか? 成人女性自身が性売買したければ自ら望む必要がある。

※このブログURLは2019年6月8日に
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