2019/04/02

現代美術家は客寄せパンダより遥かに冷遇されている

あいちトリエンナーレは真の「男女平等」を求める人が多い、という意味で、キュレーションのレギュレーションをフェイントで極端な結果平等にした戦略があたっているということだな。スポーツ界と違って芸術界は女性と男性が同じ土俵で戦っているという点を、津田大介氏が実にうまく利用しているのだ。一般大衆からネット右翼まで、美術を全く語ってない上に気にも留めない人達が、無理やり1:1の完全平等にされると発狂したり、全力で擁護しはじめる、という政治的文脈を挟み込むことに成功した。ほぼ誰もアーティストや作品についてはまだ語ってないが、興行的には大成功でしょうね。
 問題はこの種の興行収入の為の客寄せパンダとなった国際展アーティスト達が、行政(愛知県)の手の平の上で踊らされてるということなんだけどな。そこで美術がただのお高くとまった娯楽装置(作家からは売名装置)として使われている、という既存の管理美術の構造は何も変化がない。(この節をのせたツイートに対し津田大介氏から、「国際展アーティストを客寄せパンダと呼ぶのは、アーティスト達や作家に協賛を集めている人達にも失礼にあたる」ので、取り下げていただきたいとの返信がありました。「そう思うのは自由だが、管理美術のしくみを「変える」ためにやっている」とも書いてありました。以下はそれに対する私の再返信です)
  ほぼ全ての展覧会は客寄せだと私は思う。そもそも管理する人がいる展覧会では、芸術家自身は役者で、主催者ではないでしょう。例えばバンクシーというアーティストはその既存の管理された展覧会・美術館構造を皮肉る為、路上に(違法な)作品をばらまいたり、博物館に偽の自作を無断展示していた。また詭弁に聞こえるだろうけど、津田さんはパンダを人間より偉いものだと思ってるのかもしれないが、人類の殆どはパンダみたいに人をひきよせられないのです。逆に県税でパンダを今、誘致するとかいっている私の県知事を思うと、茨城県北芸術祭をやった前知事の管理美術のがましだったとさえ思う。パンダを人間より偉いと思ってるのは私でした。訂正します。
 私が最初に述べた「管理美術」の客寄せ構造は、単にいずれかの国際展とかじゃなく、芸術家が金持ちとか貴族、権力者の茶坊主として使われてきた古代~中世くらいからずっと一緒なんですよ。したがって、私が今述べたことは、自分が金持ちまたは権力者でない芸術家全てに時代を超えてすべてあてはまることで、美術史の根底にあって各作家のオリジナリティを外部から統制してきた構造のことであって、どのアーティストにいっても失礼にあたらない筈ですよ。逆にパンダが伝統的な立場なのです。パンダについていえば、そこらの作家が展覧会をしても殆ど集客できないんだけどパンダがきただけでわんさか人がくるのですから、大衆受けする、人気を得るという目的では、客寄せパンダというのは褒め言葉になるんですよ。今述べたのは少なくとも私もその一員であるところのアーティスト側についての弁護ですが(たとえ行政とか金持ちのパンダであっても、ダビンチから村上隆まで皆そうだったじゃん、それが王道だよという意味で)、行政側は客商売する以外の目的があるという建前なのでしょうね? 経済効果もあると思う。現に、いまの私の県知事の大井川さんは、「費用対効果がはっきりしない」とかいって、茨城県北芸術祭という私の地域でやってたトリエンナーレっぽい試みを打ち切って、パンダを招致したいといいだしたのですよ。金儲けが目的ということなのでしょうか。私は主催者じゃないので内部事情を教えてほしい。
 なんらかの立派な、非経済的な目的、建前であれ本音であれ、何か文化振興じみた浪費的な目的があったとしても、それはそれで顕示的消費の一種となるわけです。何もしない方がお金がかからないのです。ですので、個展から国際展まで芸術に関するかぎり、興行性というのは全く無視できない側面なのです。我々が伝統的な古典、立派で典雅で完成された作品だと思っているルネサンス美術は金持ち(メディチ家)の罪滅ぼしだったわけです。印象派以後、近代美術全ては、新興市民が家を飾る為に流行った各傾向でした。パリのサロンとしての発祥から現代まで、作家の売名機関として展覧会はあるんですよ。日本の場合、行政が展覧会を開く、という独特の高い文化性の誇示の手法として色々な展覧会があると思うけど、ここで、作家側の意図は、なんらかの自作を展示することで売名機会を得てステップアップしましょう、ということは、村上隆さん著『芸術起業論』などでもちゃんと説明されてる公然たる話です。こういうことを思うと、村上隆さんは欧米美術界の同様の構図の中で自分が「猿回しのサル」の様なものだ、と同著で述べています。そこからすると、大井川知事がアーティストじゃ集客にならないからリアル・パンダを呼ぼうぜ、っていいだしたのは、私には衝撃でもあり、そうだよな、パンダのが偉いと。あいちトリエンナーレは、集客興行な意味でアーティストをうまく使って今のところ大変に成功しているのですから、それは作家側からするといい売名機会になり、相利的でしょう? 私はそこに何の問題もないと思うし、単に芸術家の地位は昔からこんな風に金持ちや権力の道具だったなと思ってるだけです。私は自分で展覧会を主催したことがないので、客寄せによる管理美術のしくみを継続する限り、逆に芸術家が金持ち・権力者として自ら展覧会を開くのに近いのはダミアンハースト(自分の画廊を作った)(村上隆さんとか自分も、その後、持ってるけど。自分についてはウェブ画廊だが)くらいだし、「その点では」何も変わらない伝統だろうな、と素直に思う。なぜ失礼なのです。
 もう一度津田さんのツイートを読み返してみたけど、「変える」と書いてあるのだけど、管理美術という私の言葉は、確かゲルハルト・リヒター(現役のドイツの巨匠)の『写真論/絵画論』にあった言葉で、彼は通俗的な快楽から距離をとる興行的な娯楽として今日のアートはあるんだなって悲しくいう。そういう客寄せパンダみたいに使われているだけの存在である、というのは、これまで歴史上にいたほぼ全ての芸術家がそうであったばかりでなく、巨匠やら雑魚作家(私だけですね)まで含めて丸々全部がそうなので、「変える」なら行政から一時的な報酬もらっても食えないわけですよ。まあすごく端的にいうと、一生食うに困らないかねを、主催者側はくれないでしょ? ということはパンダのほうが大分ましというか、ダビンチ化してもらって養ってもらってる分、遥かに状況が恵まれていますよ。私らアーティストを自称していて、世間から無職扱いされてるだいぶ可哀想な人達より。

リヒターの『写真論/絵画論』から直接、該当記述を引用します。
90年10月24日

「今日のアートシーン」はさんざんばかにされているが、もし我々がアートシーンにあやまった高望みをしなければ、それはべつに無害で、楽しいものである。我々が高く評価し、あるいは我々を高めてくれる伝統的な諸価値とアートシーンは何の関係もないし、そもそも芸術とはほとんど無関係なのである。だから、「アートシーン」は下劣でもないし、皮相でも無内容でもなくて、とぎれることなくつづけられる社会ゲームの一種として、一時的に繁栄しビジネスとして成功しているにすぎず、そしてその社会ゲームは、スポーツやファッション、切手を集めたりペットの猫を飼ったりするのと同様に、コミュニケーションへの欲求に応えているのである。


他に、リヒターは同著に収められている、「ヤン・トルン・プリッカーとの対談(1989年)」でも、次の様な返答をしてます。

(以下引用)

質問者「(前略)現代美術をみわたしてみると、こういう発言(注:芸術は絶望や無力さと関わるというリヒターのノートの記述)は妥当ではありません。芸術は、今日一つの社会ゲームにすぎないことがほとんどです。社会に似せられた環境での一種のレジャーで、なによりもそこで重要なのは、通俗的な快楽にたいしてエリート的に距離をとることなのです」
リヒター「まったくそのとおりです」

(引用終わり)

津田さんは「変える」とおっしゃいます。おそらく、私も主催者側に入ったら、たぶん、ここでリヒターが指摘してるようなどうしようもないほど(建前では理念を語りつつ)客寄せじみた、しかもプライドばかり肥大化している作家らを管理する仕事でとっても疲れると思う。何をどう変えるのですか? 
 管理美術は私の造語だったのかもしれないですね。でもいいたいことは、リヒターさんと一緒です。
 一生懸命アート活動をしていても、それはお金持ちや行政のなんらかの意図の上で踊らされる我々の役者としての活動であり、それは本当に古代豪族の洞窟絵画から今に至るまで何も変化がないのだし、わかってはいるが、近代芸術家としての自立意識からすると、或る限界を感じるのも事実だということです。近代芸術家達は、注文制作というのをやめ、自分が好きな絵を描き、或いはクリストみたいに自分で集金して大規模な作品を作ることにしました。一方「管理美術」は、パトロンの作る枠組みの中で自作を展示する構図であるから、この種の独自制作を含んではいるが、反権力の表現を排除してしまうんです。印象派は展覧会から出展拒否された若手画家たちが発祥ですし、近年でいえば会田誠さんが文科省批判の書道作品を展示しようとしたら東京都現代美術館から出品拒否にあいましたよね。これは管理美術のしくみに限界があるのです。管理者側に不都合なことはできない。金使って自虐、自殺行為は矛盾です。私が「変化しない管理美術の構造」という言葉でいいあらわそうとしたのは、上述のことのうち、お金持ちや権力者、或いは所属する会派や同志とか、展覧会場を提供してくれる貸し画廊まで含め、自作を展示する他の主体がいると、その人達に気を使い自由が限定される上に、大体において養ってもらえないってことです。かなり長い返信になってしまったけれども、私がいったことは、美術界に古代から現代まで一貫してある、制作の主体性を巡る伝統的な構図の批評なので、あいちトリエンナーレ2019という一展覧会を超えて、全世界の全時代の美術が、作家・展示主の間の駆け引きとしてもつ、既知の問題への指摘なのです。したがって、私はこの世の誰一人に対しても失礼にあたることをいおうとはおもってなく、逆に全人類の全仕事に完全な敬意しかもっていないのだけれども、わかっていただけたでしょうか? 管理美術問題というのは寧ろ、作家が主催者の邸宅等を飾る職人として使われてきた全伝統に対する批評なのですね。養ってもらえないという言い方をしましたが、嘗ては王侯や大名が有力な画家を召抱えたこともありましたが、最近の行政は各作家を一時的な使い捨ての被雇用者とするだけで、非正規雇用より条件は悪いほどなわけですよね。滞在制作型のものでもそうですよ。いずれ打ち切られて浮浪者に逆戻りですから。村上隆さんは狩野派という、嘗ての大名お抱え絵師集団を模して、カイカイキキという画家集団を会社化して作ってるんですが、彼は管理者側が各作家を選ぶ主体である(いつ捨てられるかわからない)という、作家の弱い立場をわかってるので、徒弟制度の形に近くして作家が死なない様にしている。愛知県はどうでしょうか。勿論、愛知県だけではなく、全ての展覧会主催者から各画廊まで、或いは会派や美術団体まで、作家を養って生活保障しているでしょうか。もししていないなら、それは作家をパンダより悪く扱っている証拠です。私(たち)よりパンダのほうがましな扱いではないかと思いますよ。
 もう一度津田さんのツイートを読み返してみましたが、「失礼」という言葉を、一体、どのような意味で使われているのですか? 私は、美術がもっている仕組みとか、その制度的な側面以外でも美術を世界一愛している作家の一人だろうと自認していますけれども、美術関係者に誇りというか、誇りというのがただの傲慢な意味を含むので語弊があるなら、同情というか、戦友みたいな意味でのある種の同志しかもったことないです。美術は確かに装飾とか思想の伝達といった精神的な意味を超えては全く役に立たず、福沢諭吉に言わせれば虚業の一部として真っ先に切り捨てられるだけの実に無力な存在です。しかし私は自分が15歳の時、この世の下らなさに絶望しきってもう自殺してもいいなとか思って今にも爆発しそうな思春期に、授業で絵を描く機会を得、美術部に行って自画像を描いたら自己救済できた。津田さんは私が、ひとかけらでも美術関係者に対してなんらかの「失礼」をしようと思っていると勘違いされたのでしょうから、それ自体はまあいいのですけれども、一つお伝えしておきたいのは、美術は或る人の中では命以上のものだということです。それは私がその一員なのでよくわかります。美術は、絵に関していえば、ただ画布にそこらの絵の具をぬりつけるだけという実に単純な作業ですが、なぜかはしりませんが、そこには自己救済するだけの力があったんです。そして私は画家として生きるしかないと思ってその後20年生きてきた。色々酷い目にあいましたけど、そのこと、つまり絵を描き続けることで少なくとも絶望の余り死なずに生き延びた結果を誇りに思っている。
 美術関係者の中にろくでもない人も多分いるというか確かにそれに似た存在は2人くらい見ましたけど(具体的にいうと問題があるのでいわないけど)、私が見てきた範囲では、彼ら2人も含めてほぼ全員が、純粋な人でした。絵が好きで絵をおいかけているのですから、心が無垢であって、なんといえばいいのでしょう、心は素直な人達なのです。ですから、私は美術関係者の人達が、現実の経済構造とか政治権力による非情な扱いの中でとても苦しんで生きているというのは、私自身もその一人ですので実体験として知っているのですが、彼らに対して失礼なんてするわけないですよ? だって私もその一人なんだから。失礼を別の意味で使っているの? お金にならないけれどもがんばる、とか、政治権力に利用されることでしか生き抜けないけど、がんばる、とか、それどころか無職扱いで世界中の誰にも理解されず完全な孤独で極貧だけどがんばるとか(僕です)、そういう現場で生きている作家をつぶさに見てきたかぎり、失礼なんてできるはずもないです。勿論、我々は人間であって神ではない。個別作品については、駄作を作ってしまってる場合、下らないの作って可哀想とか、うわつまんねーな、と思うこともありますが、それは自作もそうであろうから、別に仕方がないというか避けようもない話であります。各作家自体へはがんばれとしか思わないですよ。
 それと、トリエンナーレ形式で行政が主催する展覧会の場合、支出元が税ということもあって各作家に支払われる報酬は、自分がみていた範囲では制作費を含め10万~100万以内くらいだったと思います。これは1年の生活費にも足りず、選ばれる人は作家全体の何百万分の1ですが、それでこれです。各作家は殆ど奴隷にも劣る奉仕活動をさせられながら、それでも自作の宣伝・売名になれば次の仕事で食えるかもしれないと淡い期待をもたされつつ行政主催の国際展などに呼ばれるわけですよ。「変える」と津田さんは仰ってますけど、この行政主催の展覧会の予算的限界という面は一体どうやって変えるの? 同じ客寄せの仕事であれ、パンダは終身雇用ですけど、アーティストは奴隷にもとる奉仕活動をさせられながら、行政がけちって毎日、死の恐怖に直面しているわけですよ? 観客の方はそんなことついぞ知らないから、適当にきて賞賛だか悪口いって帰るだけだけど、一体全体、何をどう変えると言うのです。リヒターがいうとおり、業界の内部事情を知ればしるほど、絶望しかしない様にできている美術界で、各アーティストは殆ど死体だらけの戦場で今日も一円にもならないばかりか貯金が減り死の恐怖におびえるばかりの最悪の仕事をせざるをえない。私自身もその一人です。トリエンナーレで何を変えられるの? 勿論ここでいう死体は比喩ですけど、実際、余りに貧しくて自殺してしまったという画家とか美術家ってのはもうありふれるほどいるのであり、私達は常にそうなる危機の中で生きていると。餓死の恐怖でおびえているし周りには先人が自殺した死体ばかりが転がっているという環境なのですよ。美術界。トリエンナーレは展覧会として集客優先のしくみを作った結果できてきたものなんでしょうけど、各作家は以前よりさらに過酷な薄給の仕事を、使い捨てで(毎回違う人が選ばれる上に一回こっきりで)行うという最悪の状況になっている。パトロンどころじゃないわけです。極端にいえば利用されてんです。
 作家側にも原因がありますよ。村上隆さんの忠告通りに自作・自身を宣伝するべく薄給の、行政主体の展覧会に出てしまう。そうしたらますます相場が下がるのですから? 結果、食えないアーティストが公然と賞賛されてしまい、じゃああなたはもっとお金もらえなくてもいいじゃんと極貧が常態化する。
 津田さんはご自身の関わるトリエンナーレの主催者側を擁護する観点に立っているのだけれど、私が今いっていることはその個別の展覧会自体の話というより、トリエンナーレなど行政がアーティストを使い捨てにしてきた、現代の奴隷船みたいな構図に対するものです。実態に無知な素人を騙すべきでない。自分が出る展覧会を厳選し、搾取される一方だと判断したら絶対に出ないとか、ちゃんと報酬をもらうため取引相手を見極めるとか、そこまで賢く判断できる作家なんてほんと無数の星々の中にまぎれたご飯粒くらいいない。芸大美大でそういう教育はしないので。だからパンダ未満の奴隷状態を啓蒙すべきです。1回だけ招致し、100万以下の金を渡したところで、その絵なり作品制作にかかったお金以下だろうし、赤字なのに売名目的で出てしまうから、芸術市場が本来もっている価値以下の金銭的報酬しか我々はえられなくなっており(ゆえ作家は死ぬほど苦しい)、主催者である行政側にも深刻な問題があるんです。
 上記の様に、津田さんが「国際展アーティストを客寄せパンダと呼ぶのは、アーティスト達や作家に協賛を集めている人達にも失礼にあたる」といったことについては、アーティストに支払われる報酬が明らかに制作費を含む生活費としてたりなすぎるという事実を鑑み、終身雇用パンダに対し失礼と思います。私は好意をこめてパンダという実に可愛らしい動物の、我々作家自身より遥かに恵まれた立場にいる方々を、尊敬の余り呼んだのであって、そして実際に私の県知事はそのパンダ様を選び我々作家を死においつめようというのですから、私はパンダという言葉で、関係者を賞賛したのですよ? 嘘抜きでね。また、これは完全に哲学の話ですが、現実的にみて、パンダと人類のどちらに生存価値があるかについては、私は人類に生存価値があるという妄想については非常に疑問視しています。パンダに罪があるかはよく見てないので知らないが人には大いにあるからです。よってパンダは人と同格以上と思いますよ。パンダ様は、大衆を呼び寄せ沢山お金を落としてくれる上に可愛らしい、と私の県知事、大井川和彦さんは判断したわけです。しかし画家は食えない上にろくにわからない作品ばかり作り、私以外は特にかわいくないだろうし、要するに餓死させてしまえ、というわけです。サイコパスな知事ですが、一理ある。
 そういうわけですから、津田さんは私が上述の様に、どんな気持ちで「客寄せパンダ」という、尊敬の念をこめた文字を最初のツイートで置いたかについて、完璧に誤解しているわけなんですが、少しはわかっていただけたでしょうか? 文字を読むのはむずかしいですよ。真意は表面的には読めないのですよ。私達が行政から国際展に招致されるのと、中国のパンダが招致されるのとでは待遇が断違いであり、我々は非正規雇用どころか奴隷未満のお金しかもらえず殆ど燃えないゴミ扱いを世界中で受けてますが、パンダ様は終身雇用な上にちやほやされまくり子供からも女性からも大人気なのですよ。
 ここまで私側の真意を分かってもらおうと返信させていただきましたけれども、客寄せパンダというのは実に実に愛すべき存在なのであって、日本中がその死に涙するのは当然であって、最大限の愛と敬意をこめた意味に決まってますよ。逆に「アーティスト」とか言っても無職ニートといじめられますよ。世間の中での命の軽重は 客寄せパンダ>アーティスト なのが真実です。私自身がこの県から見捨てられ、明日死ぬかもわからないので真剣に言っています。ですので、管理美術内のアーティストが余りに無自覚で、客寄せパンダの代わりに奴隷的搾取を受けているのに無自覚なのが変わらないといってるの。私が今日餓死しました。一体誰が慟哭するでしょう。家族と恋人だけだと思います。親友はショックくらいは受けるでしょうが。しかしパンダは一匹死ぬだけで日本中が大発狂し世界中にニュースをばらまきますよね。大井川知事はサイコパス度が非常に高い判断をしてるけど、冷静に見たら正しいのですよ。
 余りに長くなったので、誰も読んでないかもしれませんけど、もう一度津田さんの返信を読み返して改めて思ったんですが、私はあいちトリエンナーレ2019に参加してる方々の作品は直接みてません。本谷さんだったかという人の絵だけ少し興味をもったくらいで、全然しらない。なので失礼も何もできない。
 私が最初に書いたことというのは、個別作家とか主催者側の協賛がどうとかではなく、上に少し説明した様な美術界の抱えている構造的問題(作家がパンダ未満の扱いで極貧自殺しまくり)の指摘なのであって、それは別に失礼・礼儀とかいう次元には属さない指摘だと思うのです。津田さんは誤読されてます。なので、私が書いた「興行収入の為の客寄せパンダとなった国際展アーティスト達が、行政(愛知県)の手の平の上で踊らされてる」という文章は、何を隠そうそのアーティスト達を救う為にいってることなのであり、行政側は不当に低い報酬で買い叩く側ですので、非難されて当然だという風に思いますよ。第一にアーティストをかなり少ない金で働かせる、という時点で私はそれが作家を馬鹿にしている行為だと思います。その生活できない報酬で働くのも、共犯だと思います。第二に、パンダやらアーティストやらを招致し行政が客商売をするのは、はっきりいって不必要な計画経済の一種と思いますよ。行政がどこまで経済活動に参加すべきかは政治思想で分かれますが、芸術界に行政が割り込んできて客商売しだすからこそ、訳のわからないほど不当に低い報酬で働く人がでてきてしまい、健全な市場がますますぶっ壊れてしまうわけでしょ? だから美術展自体は行政主体でやるべきでないと思う。
 津田さんは専業のキュレーターの方ではないので、私が今いった様な行政主体の美術展の構造的欠陥には余り関心をもたれてこなかったのかもしれないんですが、普通に現代アーティストはそういうのを研究しながら活動してるものですし、別に行政展はいらない、くらいで失礼なんていえないと思いますよ。私は上記の様に、津田さんの返信に対して考えたわけですが、そして自分の書いた文章が一体、誰かに対して失礼にあたるのか真剣に考察してみたんですが、普通に美術批評の一種としてはリヒターや村上隆の例をだしたけど国際的にも30年くらい前から行われてきてる次元だし、今更失礼でもないと思います。
 そういうわけですので、私が自分で最初に書いた文章の中に、おかしいところはなかった様に何度も読み返してチェックしてみても思いますので、今のところ取り下げません。パンダ云々は比喩なのですし、私の県で知事交代後、アーティストが突然パンダ未満の扱いになってしまったとユーモアに満ちた文脈を、ちゃんと読みとってね。
 もう一つつけ加えておきます。ジャック・デリダは「差延」という概念で、文字は主観的にしか読み取れないため常に誤解や異なる解釈が起こると説明しました。よって或る文字に、書いた側と読み取る側で違った意味を持たせていたり、或いは解釈が全然違ったりする。今回もそれが起きていると思います。
 私は自県の文脈(去年まで県北振興のため国際芸術祭が行われていたが知事交代で突然うちきられ、パンダ招致を県税で行うと知事がいいだした)から、そして私自身がその土地に住む極貧画家だがパンダの方が私の払った県税で優遇されているという事実から、「客寄せパンダ」を敬意を込めて使っている。既に上で述べたよう、パンダさんは可愛らしく、その魅力は子供だろうとわかるものであって、確かに私が誰にも分からない絵だかつまらない作品だかを描いて公募展に出そうにも落とされ、かろうじて全員展示してもらえる市の美術展に出しても大して集客できませんから経済効果も期待できない。こういった私自身の主観(いわゆる意識、脳)が属する世界観、現実感の事情から、私が「客寄せパンダ」という文字を使ったのは「パンダさんはすごいな、だって僕がなけなしのお金(全財産が30万くらい)から払った税金で、わざわざ億単位だかのお金で招致され、しかも終身雇用だもん」って意味ですよ。ここで「客寄せ」という文字は、アートを公開するときに生じる全ての影響力を含んだ意味で使われているのであって、全く不純な意味はないのです。古代洞窟壁画、ルネサンス絵画、或いは東洋の水墨画、仏画まで全部、なんらかの客寄せというか聖像も含め、人に感動を与える為に色彩で芸をするのです。「客」という文字は、白川静さんという字学者の方によると、廟中で神が降臨する場面を写した象形文字です。「寄」はここでは寄る、何かに近づくという意味で使っています。よって私が「客寄せ」と書いたのは、神霊があるところに近づく、という漢字の原義に近い意味を含ませつつ使ったんです。客寄せを誤解がより少なくなるよう別の言い方にかえてみると、「神々と呼ぶべきものが、ある芸術作品に近づいてくること」となるかもしれません。これは通俗的にはお客さんイコールお金を払う消費者という意味になってしまっているのかもしれないのですが、私は漢字の原義も含めて使ってるんですね。
 津田さんのお使いになった「失礼」とか、「変える」という文字についても、この事例と同じで、私と津田さんとでものすごく違った意味をもたせており、またかなり別の解釈をしている可能性があります。デリダリアンにいわせれば、その誤解を解くべく再解釈を続ける作業を脱構築と呼んでいるのでしょう。またヘーゲルという哲学者は、対話術という意味をもつdialecticを、弁証法と通例訳されていますが、哲学の基本的運動だと考えていました。ご存知だとは思いますが、これはお互いの考えのうち、正しい面とそうでない面をすりあわせながら、矛盾をこえた、より高次元な結論に達しようという考え方です。私達は全文字を、通常でない意味に使う場合に限り、或いは全て定義し直したところで、かなりの程度、書いた人の意図に対して誤解します(差延)。さらに脱構築によって書いた人の真意に近づこうとしても、差延が続くので漸近しかできません。が、それこそ弁証法(対話術)として理性の営みと思います。私が書いたことのうち、非常に大きく津田さんに誤解され、また津田さんのフォロワーの方は大変多いわけでして、一部の方が私の真意を全く誤解して「リツイート」「いいね」をされていることをみてとった為、これでは私の悲痛な叫び、悲しみ、憤り、諦め、開き直り、賞賛を含むパンダ愛が伝わりません。
 この様なわけで、私が「客寄せ」という文字列を使うのは、神格的霊の廟中への降臨という白川字学による漢字原義を含む敬虔な意味をもたせて使っていて、公的芸術は客商売ですがそこでいう客分はお金で快楽を得るとかいう話を超えた存在であるという意味がある、ということを説明させていただきました。「パンダ」については、自県が30万くらいしか全財産がない私が払った県税で数億かけて招致されるとのことで、通常の画家なら絶望か発狂で死んでしまうかもしれませんが、私は精神的に鍛えられてきたので、逆に反省し、私より尊い存在としてこの人より高いパンダを崇めつつあったので、使ったのですよ。
 これほど長い返信になってしまったのは私としてももっと短く、できたら1ツイート内にまとめたかったものの、私側の真意は背後にある美術界の事情なしには説明できませんでした。そして今後どうすればもっと美術家も観客も主催者もみなが幸せになれるか、公論の場で探るため書いたものです。

※このブログURLは2019年6月8日に
https://yuusukesuzuki.blogspot.com/
へ変更されます。