2019/04/03

公的展覧会は権威づけから客寄せへと潮流が変化しつつある

「現代美術家は客寄せパンダより遥かに冷遇されている」の続き)
さて、津田大介さん。私は改めてこの津田さんからのご返信の件について、議論の関連資料を読み返していました。村上隆さんのご著書『芸術起業論』(88頁)に「猿回しの猿」と村上さん自身を自称する部分が出てくると申し上げましたが、同氏『芸術闘争論』(241頁)にも同様の箇所がありました。
 わたくしは「パンダ」という言葉を、これ自体を多義的に解釈できる文脈で使い、主に次のよう意味づけしていた様に思います。
1.アーティストより優遇されている立場にある動物(茨城県北芸術祭が新知事により「費用対効果」の面で打ち切られ、代わりにパンダ誘致が掲げられた事実から)
2.(少なくとも日本で)人より優遇されている立場にある動物(人の自然死はニュースにならないがパンダの自然死はニュースになりますよね)
3.上述2つの観点から、日本人の一般大衆が人間より特定動物を愛玩し、命の軽重の価値判断において、非人道的な動物優先の考えを持っている事実(毎年千人以上の餓死者がいる日本で、パンダ一匹に大量の公費・私費が使われます)
4.通俗的な意味で、なんらかの客引きの通称として使われている暗喩(おそらく上述の文脈をお読み取りにならず、津田さんやそのフォロワーの方々の一部(計14名)は、この意味のみで解釈されたのではないだろうかと私は感じております。そして一般に、美術史上、美術家らがこの役割を金持ち、貴族、権力者、宗教団体、企業、新興市民などから仰せ使いこなしてきたことについては、上述しましたし、美術史の中で十分に解説されていることだと思います)
その他、色々な解釈が成り立つと思います。例えば
5.中国から連れてこられた動物にたかるという意味での文化的な落差
6.動物愛護論と人間中心主義の矛盾の観点から、他の動物を食べたり殺処分しているのに、見た目が可愛いというだけで珍重することの愚
など。もっと色々解釈できる余地があると私自身も思いつつ書いていたので、これらでは全ての含意には到底足りない例でもあり、読みうる意味の全体の本の一部ですが、ここでは少なくともこれから申し上げる議論にとって必要十分な部分だけとりあげました。
 私はこれらの意味の中で、2.の「人より優遇されている立場にある動物」という観点について、さきに少し述べたのですが、哲学的な意味をもたせて最初のパンダという文字を書きました。すなわち人間中心主義に対する疑義、という意味です。動物倫理学の発展や功利主義の拡張を試みている重要な思想家の一人にピーター・シンガーさんがおり、彼は動物一般へも人類が適用されてきた快楽原理を適用すべきという論点をとっている様に見えます。類似の先人にブッダ(釈迦、ゴータマ・シッダールタ)がおり、無益な殺生を戒めていましたね。私が最初に「詭弁と思われるかもしれませんが」と前置きし、また途中で「哲学的な話」として簡略化して述べた旨は、このことの延長上にある考えで、全動物に対し人間の方が優越し、価値も高いという人権的考えは洋の東西を問わず、人間中心主義に過ぎないのかもしれない、というわけです。パンダを愛玩する人々は、希少動物が人間のペットとして見目麗しいことに快楽を覚えそうしているといえるわけですが、すなわち、アーティスト(芸能人も役者という意味で応用芸術家ともいえるかもしれません)もある意味では人間界の希少動物です。パンダとアーティストはこの意味で競合者です。
 アーティスト達は芸をすることで、依頼主、顧客、専門家、愛好家、一般大衆など関係者に快楽(ここでは快楽を哲学的意味、功利主義の文脈で使っています)を与えるべく、客寄せの為に使われてきました。敢えて例を出しますと教会に祭壇画を描いたり、大名の座の背景に立派な大和絵を描いたりです。私がはじめに「客寄せパンダ」という言葉で申し上げたかったのは、上述の1.アーティストより優遇されている立場にある動物が、2.人より優遇されている立場にある動物と一致していて、しかも、その動物(ここでは人も客体的には動物とします)の集客力という面で、パンダの方が優秀というわけです。なぜなら、アーティストが欧米日のハイアートの文脈を背負っている時、元々「一般大衆には理解されがたい」「わけがわからない」表現、知識人や高い教養をもつ人々によってしか理解できない表現を期待される中で、教会、仏門、金持ち、権力者、企業などの権威づけに使われてきたからです。ところが、ビエンナーレ、トリエンナーレ、芸術祭といった公的展覧会は、芸術を利用した金儲け、即ちハイソサエティの偽装を施した金儲けというのが主催者側には常につきまとう経営的観点です(なぜ偽装かというなら、定義上、本当に「高度に」知的な社会なら一般公衆へのものでなく、少数向けになる筈だからです)。大赤字なら継続できないし、浄財や顕示的消費にしても予算は常に限定されているからです。村上隆さん以後、一部の高級ブランド(ルイ・ヴィトン)はアーティストと協業し、この公的展覧会と似た箔付けを行い成功しています。一方、今回、公的展覧会が、日本のネット・ジャーナリズムの中で最も有名な津田さんに白羽の矢を立てたのは、愛知県が上述の「客寄せ」的観点を重視したからでしょう。津田さんのあいちトリエンナーレ2019についてのインタビューを見た限り、「アートの素人」と自称されている為、主催者側は「わけのわからない」「一般大衆に理解できない」ハイアートの文脈ではなく、一般大衆に対する「客寄せ」の側面を期待しているのだと思います。そこで、私が最初に申し上げたかった美術批評的な観点にもどりますと、例えばYouTuberの展覧会を開けば、或いはパンダを誘致すれば、客寄せとして死ぬほど一般大衆が集まってきますが、権威づけにはちっともならないわけです。一方、(「現代美術家は客寄せパンダより遥かに冷遇されている」で)前述したリヒターさんのいう、「本来の芸術」は、理解しがたくわけがわからない前衛で(クレメント・グリーンバーグの前衛と同じ意味で)、いわばハイアート、いわゆる美術(fine artの訳語です)というものになるわけです。私が指摘したかったのは、この美術でないものが公的展覧会で要求されつつあるという流れです。
 私の最初に書いた短文、誰に向けてでもないメモのつもりで書いたのですが、それだけでは、私がこのスレッドで述べてきた含意の一部しか専門知がないと読み取れず、4.通俗的な意味で、なんらかの客引きの通称として使われている暗喩と「のみ」受け取ってしまうこともあるのだろうというのです。村上隆さんは、スーパーフラット概念で、ハイアートとロウブロウアート(サブカルチャー)を混ぜて使う流行を作り出しました。今回の展覧会でキュレーター(芸術監督)に専門家でないネットの有名ジャーナリストを愛知県側が抜擢したのも、思うにその流れではないかと思うのです。客寄せ重視で、です。また、このことも深く何度も考えていうのですが、私は最初の文で特定の誰に向けて上述の美術評論をしたのでもないのです。単純に国際展作家らが「(古典的ハイアートの)権威付け」から「(俗受けと金儲けを第一義とする)客寄せ」へと、愛知県による安倍政権の恩恵を最も受けたトヨタ納税額の浄財で、スーパーフラット余波に巻き込まれている現状を憂いつつ、大局的な歴史潮流は変わらないのだろう、といったのですよ。
 なぜこの様な歴史潮流が生まれているかについては、今まで述べてきたよう村上隆さんがサブカルチャーの輸出という意図の副作用で、日本でのハイアート自体を通俗化してしまった影響とか、資本主義美術そのものがポップアート以後そういう大きな流れを否定しきれないでいる、とか色々な点があります。
 ですので、私は自身の最初の文から含めまして、誰か特定の方に対して礼を失する様なつもりは毛頭なく、逆に、計14名の方に全く私の本意でもなければ美術評論の自由をファシズム的に弾圧しかねない津田さんからの取り下げ要求を拡散されてしまい、正直、言語を絶して名誉感情を傷つけられている。マスメディア関係者等も含めフォロワーが非常に多い人が、フォロワーの殆どいない弱者になにか不条理なことをいい、フォロワーが大挙してその弱者を集団虐待し、完全に名誉が潰れたり自尊感情が破壊されるところまで誹謗・拡散しまくった末に、最初の方は何も気にしていないという場面を見ます。
 津田さんは私が最初の文で申し上げたかったことを詳しく説明するまで真意を聴いてくださっているのでよいのですが、その種の有名ツイッタラーの中にはさっさと相手をブロックし、フォロワーによる集団暴行だけはやって平気でいる、という人も、ご存知かもしれませんが幾人かいらっしゃるわけです。津田さんからご返信をいただき、また津田さんのフォロワーらしき計14名の方々から、私の表現の自由を侵害すること明らかな取り下げ要求を拡散されているのを眺め、また真意を説明はしたものの、切腹を仰せつける時代でもないし、一体どうやって名誉感情を回復すればいいのか思案しております。
追記:津田さんも大層、色々な誹謗を受けてらっしゃる様ですし、周辺ツイートも少し読むとおそらく何かご立腹されることがおありになり、ちょうど私のツイート(返信でなく私自身のものなので私のページからご覧になったのでしょう)をみて、反射的にお返事されたのでしょうから、仕方ないのですが。
 (「現代美術家は客寄せパンダより遥かに冷遇されている」で)冒頭に書いた問題は、上記(アーティストが興行的な芸能人扱いされてしまっている。パンダと競合するばかりか、より冷遇されている)で大分、明らかになったとは思うんですが、更に深刻な問題もあります。純粋に前衛を探求していた本来の芸術はますます無視されているということです。この問題は別の所で、もし機会があればお話できればと思いますので、次の場に譲ります。

(前後関係はずれるが、ツイッター上で上記の返信をする以前、津田大介さんから、あいちトリレンナーレ2019の開催後、是非足を運んで下さいとの返信に、再返信して)
わざわざこれを言っても仕方ないので言うか迷っているのですが、私はお金がないので愛知県まで足を運ぶだけの費用がありません(全財産が30万円くらい以下)。なので行けません。またこれをいうとうざがられるかもしれませんけど、お金があっても行かないかもしれません。制作以外の時間は捨ててます。素晴らしい展覧会にしていただければ、皆様に喜ばれると思うので是非がんばっていただきたい。
(上記ツイートから翌日に追記して)
私が上述の断りをなぜ「社会常識の建前」抜きに申し上げたかをご説明させていただきます。ツイッターなのでお時間があったら読んでください。
  以前、知り合いの方に私の展覧会きてねといわれたのですが事情があっていけないとはいえず、あとから「こなかったね」といわれとても後悔しました。なので今後は、色々な周辺事情を省みて行けそうにないという展覧会のお誘いには、最初からきちんと断りを入れないとかえってお誘いくださった方に失礼になるだろう、と私は反省しました。それで、社会慣習からすればはっきりいいすぎなところ敢えて気を使いながらですが申し上げさせていただきました。
 ちなみに付け加えておきますが、私は私が最も敬愛する美術家のアンディ・ウォーホル展にすら行きませんでした。なぜなら私は食べられていない画家なので、自分の絵が売れるところまで全生命力を注ぎ込まないと、到底、自立することすらできないからです。息抜きもないほど猛勉強しています。
 決して津田さんや、その他の美術家の方々、或いは愛知県等の関係者の全員を含め、その仕事を軽視しているつもりで申し上げたお断りではないといわせてください。私に金銭的余裕がないかぎり、無理な相談ということなのです。
 津田さんも大変尽力されているため、あるいは形式を含めてお誘いくださった返信かとは推測いたしますけれど、大変心苦しいところではありますが、愛知県まで足を運ぶだけの時間的・精神的・金銭的ゆとりは私にはないのです。よって私のことは気にせずにお仕事をがんばってくださいねということです。

※このブログURLは2019年6月8日に
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