2019/04/01

津田大介さんによるあいちトリエンナーレ2019のキュレーションについて考えたこと

津田大介さんのあいちトリエンナーレ2019のキュレーションで、男女比1:1にしたら論争になってる件、色々考えてみた。
 まず非難側は実力のない女性作家が実力のある男性作家より優遇されるのはひいきだ、という悪平等論をとっている様に思う。
 次に擁護側は、欧米思潮のフェミニズムの文脈をそのまま日本にあてはめ、これまで男性作家が多かったのは運営側の恣意に基づく差別だったのだ、ゆえに男女比をイーブンに近づけるのが尤も、という結果平等論をとっている様に思う。
 このどちらの観点にも一理ある。したがって論争がやまない。
 一方、(津田さんのこのツイートによると)論客の一部は、一種の高踏的な態度をもち津田さんに失礼な言葉を浴びせた。これは美術界では日常茶飯事で、教授・講師からして正にそう(というかそれが職能)なので、批評にあったというわけだろう。(追記:津田大介さんから返信をいただき、「批評的な批判よりもっと酷いレベルのこと」をいわれたそうで、トリエンナーレが終わるまで胸の中にしまっておかれるとのことです。よってこの節は筆者(私)の勘違いを含んでいるけれども、下記にそれを前提に書いたことがあるので、今のところこのままにしておきます)
 ここでいえるのは、津田さんは上述第二の結果平等論、主にフェミニズム擁護の論点に立つキュレーションを行っているので、第一の悪平等論からの批判に、論理的かつ明晰に反論していないということだ。男女同権をめぐっては、機会平等(悪平等論)と結果平等の2つの点が同時にあるのが当然だからだ。結果平等に近づけたい、という津田さんの立場は、背後に、「芸術性を評価する」キュレーターの典型的な態度ではない、芸術性以外によるキュレーションを含んでいる。ここで非典型的なキュレーションに、専門家側はおそらく津田さんを部外者扱いしているわけだ。
(ちなみに、私は画学生として10代後半を過ごしていて美大芸大の受験業界とか、姉が美大卒なので美大生の世界も割と間近にみたけど、はっきりいって生徒の殆どが女性なので女性中心に回ってるぽい感じもあったし、津田さんはそれを体験してないので、男女差別があるというのは思い込みだといいたい)
で、美術展も創造的であるべきなら、津田さんの「結果平等」を目指すという男女比1:1となる展覧会を企画しても何も悪いことはないことになる。これまでと違う企画だから話題になってるわけで、この意味で茂木健一郎さんも書いてたけど、大変成功しているといえるだろう。
 ここまでは、他の人も、簡単化してはないのかもしれないが、直観的に気づいてることだと思う、で、さらに深く考えた。
 まず美術界というのは欧米と日本で分裂があって、欧米のハイアート界は金持ちや貴族の装飾品だった時期があるため確かに気高く、又しばしば俗物根性が介在している世界でもある。
 日本は明治期に欧米流儀のハイアートを輸入しようとした。こうして各地に、欧米をまね美術館が作られた。ここで展覧される世界が高尚なことを期待されるのは、元々それが欧米王侯貴族の宮殿の一室の真似みたいなものだからだ。ヴェルサイユ宮殿が典型的なものだろう。美術業界が高踏的なのは必然だ。他方で、日本にも皇室や大名が宮殿・居城を飾る需要として大和絵という世界があり、欧米でいうハイアートに近い高文脈な世界でもあったので、岡倉天心が明治期にこの日本独特のハイアートを存続させようと「日本画」という言葉を作ったというか、上述の欧米ハイアートと区別する意味で定義した。日本ではこの後、皇居を飾る装飾画をつくる画家集団として日本芸術院というギルドが政府によって作られた(日本画創案者であるはず天心の日本美術院は、明治政府の薩長藩閥に与する黒田清輝ら洋画派との芸大内政争で排斥され、民間で最大のギルドとして今も存続)。そこに独自の権威づけの文脈がある。
 茂木健一郎さんは以前、欧米ハイアートと日本ハイアート(日本画)の文脈が全然違うということを指摘しながら、「(日本は)ダサい」「お話にならない」という、軽侮する批評をしていたのだけど、確かに、このことは僕ら一般の画学生の中でも通例になっていて、特に油画専攻にとって当然視されている。けれども、日本画科というのを持っている美大芸大があって、そこでは上述の日本芸術院・日本美術院を頂点とした権威づけのギルド世界が脈々と作られており、そこは師弟関係や情緒的連帯をもとにした全く独特の世界で、確かに天心が存続させようとした大和絵的な高文脈は今も或る意味では息づいている。日本画的な高文脈は、欧米流儀のスパスパとした論理的展開ではなく、まったく情緒や感情論が主になっていてしかも人間関係を密接に含む、或る意味で大相撲的な、そして欧米流儀からみたら完全に腐敗しきった世界である。村上隆さんとか会田誠さんといった現代美術家が、この日本画ギルドの王道(天心の直系である芸大日本画)出身であるのにそこを腐りきった世界とか完全に消滅したとか侮蔑の色を隠さないのは、実体験する以外ないかもしれないけど、ある意味で真実で、吉本芸人の腹の探りあいよいしょ世界なのである。
 で、上述の津田さんの指摘にもどるけど、「自分たちが高貴なことをやっている」と思っている俗物根性を含むという美術界の一側面は、貴族でない庶民が大和絵・ハイアートの世界を鑑賞させてもらいにくる、というそもそもの美術界の構造からして、その庶民側に生じ易い精神的態度だといえると思う。それと、この指摘を最も先に気づいて、またとっくに反旗を翻しながら先駆けて批評的な作品を作ってきた人物が村上隆さんであって、彼は日本で、大和絵の直系子孫である日本画と区別された、庶民による庶民の為の芸術であるサブカルチャーの世界が、もっと面白いんじゃないの? と混ぜこぜするわけだ。いわゆる村上隆さんのスーパーフラット理論は、大衆商業美術である漫画がもつ芸術性は、その先祖にあたる浮世絵同様、見るべきところが多いのではないですか? 勿論あなた方のポップアートと似てますよね、卑俗でキッチュなので現代アートかな? と欧米人に紹介するべくして開発されている。したがって、津田大介さんが美術界の一部にある俗物根性(高尚さ自体ではなくそれを衒っている態度や、純粋に高貴というよりそもそも高踏的に庶民を見下す目的をもつ態度)を批評的に指摘しているとして、村上隆さんは自作でとうにしてきたといえるし、米ポップアートもそうやってはじまっている。そして私が気づいたのは、この欧米流儀においつこうとするキュレーションの一種として、津田大介さんの男女比1:1というフェミニズム思潮に基づく企画はあるともいえるので、或る意味では洋画的な文脈をもっている、ということだ。それで論争を呼んでいるのも、欧米的な面ともいえるだろう。
 逆説的に、日本画と呼ばれる世界は情緒的連帯として、欧米にはない人間的な優しさというか、誰のこととは言わないがものすごく下手な絵描きが、師弟関係の中で従順で狡猾に立ち振る舞った結果、なぜか精神的権威とされ芸大教授の頂点を占めてしまったりとかもするので、それが日本的なんじゃないか。
 そんで、なんで美術関係者が高踏的なのかというと、これは本当に自分もその一員だからよくわかるのだけど、我々は全くかねがない。金がないどころか権威も地位も身分もない。なにもないのだ。なにもないどころか殆ど浮浪者と変わらないくらいのものだが、膨大な美術史の知識とかゴッホの実例だけある。それで我々の大部分は、もうこんな食うに困る生活してたら子孫さえ残せないと思うんだろうけど僕の親友みたいにアルバイトはじめて子供を残し、どっかでバイトだか仕事だかして適当に食いつなごうとする。女性だったら結婚して同じ様に社会に妥協する。個性を主張させる教育からの違和感を覚えつつ。
 しかし、私みたいに完全に芸術道しかないんだと思いつめているか、それ以外できないほど不器用だと、今度は開き直りがはじまって、いわゆる侍状態になるのだ。武士はくわねど高楊枝式に、ひたすら気位だけが高い。笑い事かと思うのだが実際そうしないと自分の精神を保てないほど何もないのだ。こういうわけで美術関係者は、その人が本気であればあるだけ気位だけひたすら高いはずなんだが、おそらく、もし本当に気位が高かったら威張り散らすことさえしなくなり、今度は世間を冷厳にみはじめ(自分がそれなのだが)、世界をキリストみたいな目で眺めだす。コンビニ店員にありがとうと言うとか。要するに余りに世間から冷遇されきると、もうそれで傷つき続けるどころか、自分が世間とは違った存在なのだと思う様になり、自分を神格化しだすのである。金も何もないのに。
 これが美術家の人達の中で、ゴッホ化(運がよければダビンチ化)していく人達の精神の実態なので、虐めるのはよくない。逆に、美術家とか画家とかを世間が余りに冷遇し、食べ物すらろくにあたえず、無職と悪意で同一視して仕事をしても見るだけみて適当に悪口をいい、一円も払わずいじめまくったりするので、その様に美術家の人達は段々と高貴な態度をとるしかなくなってしまうのだ。そうしないと差別される一方だからだ。
 以上書いたことの中で、私は実名をいくつかあげたけど(津田大介さん、村上隆さん、茂木健一郎さん、会田誠さん、ゴッホ、ダビンチなど)、それらの人々の仕事に対して私は敬意をもちこそすれ、誰のことも貶めるつもりは当然ないので、単に美術批評の一種として捉えていただきたい。

※このブログURLは2019年6月8日に
https://yuusukesuzuki.blogspot.com/
へ変更されます。