2019/03/23

芸術家は生まれつき天性がある人しか大成しない

或る芸術家ワナビー(芸術家になりたがる人)に、自分は親切心から色々手助けをし、精神的にも見守って行こうとした。実際に物心両面でできるだけの世話をした。ところがその人物はサイコパスな上に世俗的な人物で、一般企業に就職してから手の平を返し私をそしりだす様になった。自分は芸術家になりたいといっている人を助けるのはやめることにした。
 似た様なことは親友や友人らからも経験した。なんとしても芸術家、それも最初に目指した道を貫けない人は努力を途中で諦めて勝手に消えていくし、果てには制作活動をしなくなり一般人のよう世俗化した末に、合理化(自己正当化、いいわけ)の為に裏切り行為をしてくるものだ。私は少なくとも数度、似た様な経験をしたので、「またか」と芸術家志望ぶっている人間の挫折後の醜態を眺めてもさほど傷つかなくなった。はじめは余りのショックに一ヶ月ほど寝込んでいたのだが。
 芸術家は天才でなければ、決して成れる者ではない。このことは私が15歳の時から絵を描き始め今に至るまで無数の志望者らの葛藤劇中でつぶさに見てきた、一つの真実だ。だから芸術家になりたい、といっている人物は先ず永遠になれないと言っておく。そうではなく、制作以外できない人が必然になるのだ。単に制作以外できないだけではなく、絶えず制作していないと少しも生きた心地がしない、寧ろ制作活動しないといつ死ぬかわからないほど不安でたまらないという種類の資質が、天才性と呼ばれるだろう精神の実態だ。自分もほぼそれに等しい性質にできているから、逆に制作しないと生きられないのだ。
 この世には偽者の芸術家というのがいる。その人達は商業作家であり、何らかのプロデューサーに操られる人形であり、実際には制作しなくても別の仕方で生きていける。だから偽者の芸術家達は自動的に市場から消えていく。彼らはその方が幸せだったのだ。プロデューサーに搾取されているだけなのだから。
 次の点について誤解している人がいたから書いておくが、真に天才性を生まれもった芸術家にとってスランプというものは全くありえない。なぜなら常に創作していないと我慢ならない人が天才であって、それは泉や滝の様な物で、寧ろ当人が作品にしとめられている部分はその想像の奔流の部分でしかない。自分の場合は、絵に仕上げられるのは想像の全体のうち極めて小さな部分でしかないから、絵だけでは自分のあらわすべきものが視覚的・二次元的にしか表現できなかった。この点についても誤解している人がいた。その人は芸術家は一つの表現手段だけで十分だといっていたが、これは全く素人の誤解である。
人によっても違うだろうが、自分の場合、先ず表現すべき或る直感的印象というのが知覚されていて、それは自分の脳内にしかないものなので、世間にはこれまで存在しない。そしてそれが必要だという或る神の様な自分の中の命令に従って、私の肉体は何事かを作らせられる。だがそれは絵だけで表現できる物ではない。自分の肉体はいずれ死ぬが、少なくとも自分はその神としかいえない様なある強い霊感によって動かされて、様々な手立てで世界にあるべきものを作らされているのだ。しかも元々その神の力は自分を超えたものだから、自分の死後も別の誰かの中で私のみている計画図の制作は続いていく。絵に限らずだ。自分は、その直感的に知覚される見取り図は、殆どあらゆる分野にわたってみてとれるから、「この建築はこうあるべきなのに」とか、「音楽は本来こうあるべきなのだが」とか、印象として常に浮かびつつ、自分が書き留めないとそれは誰にもこの世にあらわされない。だからしょうがなくやるのである。
 今書いたことの範囲でも、芸術家になる人と、商人になる人では全然その資質が違う、ということがわかるのではないだろうか。我々は何かが売れるかどうかとか、それで儲けがあがるかとか、世人に好まれるかなどということとは全く違う思考原理で動いている。単に、自分の霊感に作らされているのである。当然、我々は何らかの展覧会とかで賞をもらっても、その人が俗物でもなければそんなことはどうでもいいのである。少なくとも自分は受賞式に出るのが面倒だし恥ずかしいだけだから、成人後は一度も出てない。今後も出ない。そんな時間があるなら自分の作るべき物を作るほうが優先だから、これは正しい。自分は30代になるまでは、単に展覧会に出さなかっただけでなく、自分の作品を作っていても世間のどこにも出していなかった。実家に帰ってきて制作を続けていたら、親が展覧会に出してみろというので出したり、或る人達が見せてとか売ってみろというのでウェブページや画廊を作ってみただけでしかない。実際、世間の人がどういってこようが、その意見の中に、自分の今後の制作にとってかえりみるべき慧眼がない限り、100%どうでもいいことなのだ。これまで世間の人が言ったことに合わせてよい結果になった試しも1度もない。逆に100%自分の中の神の声に従って良い結果になったし、自分でも満足できた。経営学の概念ではプロダクトアウトというやつで、単に100%我々作家側がよい、と判断した物を作り続ける以外、我々の職能はありえないといっていいだろう。これはこの文章を読む芸術家の人達は本当に考えた方がいいことだ。スティーブ・ジョブズの様な商人ではないのだ、我々は。間違えない方がいい。私の絵も殆ど売れていないけど、それは商業的な面でのことで、幾ら経営学だの商店主、画商として販売面での工夫をしても、自分が職人・作家として満足できない製品を世間に出してしまうと大いに後悔しかない。現に自分はそうであって、売らなければよかったという思いしかない。だから自分が清貧さの末に死のぎりぎりまで漸近していても、絶対に自分の信じる理想の作品から離れず、その極限までの洗練に全神経を集中すべきであり、それを邪魔するいかなる者とも縁を断ち、ひたすら最高の作品を実現することだけに全身全霊を注ぎ込むべきである。自分は16歳から17歳の頃、『Process』という名前をつけた100号サイズの絵を高校美術部で描いたのだけど、その時は朝から晩までその絵のことしか頭になく土日すら美術部室に忍び込んで1秒の隙間もなく全精神をそこに注ぎ込んで、展覧会期日の直前まで描いて乾いていないまま出した。そういうことだ。実際自分はその後も全作品についてそれと同等の精神で作品に向かおうとしてきたが、或る世人の下らない助言で売り絵を描こうとした時期が1年間ほどあった(3年くらい前?)。この1年間は人生を無駄にしたと思っている。生涯で制作に使える時間は有限だから、読者は似た失敗を繰り返さないで欲しい。
 正直な所、世人は芸術に関して全くの素人同然であるから、彼らにはどんな助言のしようもないのである。それらは全て素人がいっている単なる印象論だの適当などうでもいい様な戯言で当人達もすぐ忘れてしまう。そうではなく、自分の中に私の場合と似た神的な存在がいる者は、その声だけに従うべきだ。ゴッホとか宮沢賢治のよう一生涯、作品が売れなかったりそもそも換金せずに、清貧の中で死ぬことを想定してみよう。しかしもしそうなったとしても自分が納得できる最高の作品を残したのなら、それは芸術家としては正しい生き方だったといえるのではないか。逆の例を想定し、自分の良心に従うべきだ。
下らない作品ばかりを世間に出して、それらはどれもこれも二流以下の産物であるが世人がばか騒ぎしている、そういう偽作家なら無数に実例が見つかると思う。下らないな、と少しでも思える作品があれば、正にそれが取るに足りない生き方をしている人の似姿である。本当にそれが模範の生か鑑みてほしい。
 自分の中の霊感みたいなものはありませんとか、あなたのいう神的な声だかそんなの精神病者でもなければいるわけないでしょ、という人もいると思う。そういう人がgeniusと呼べるかは疑問だけど、私の経験から何も言えることはない。実際、美大とか芸大とかいって見れば殆どそういう凡才もどきだと思う。自分を超えた者から命令されることなしに、困難な道のりを最後まで辿り着けるとは自分には思えないから、霊感の様なものを感じない人が芸術家として長い間仕事をしても、最後には天才達の神々の決戦の場には遥か届かず、歴史の舞台にも永遠に現れないかもしれないけど、それは自分の責任ではない。

※このブログURLは2019年6月8日に
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