2019/03/21

美術表現は言語表現ではない

(会田誠のよう「アーティストは批評家でないので説明能力は重んじない」のが許されるなら、低学歴で伝統工芸内に胡坐をかいていればいい、というツイッター上の評論に宛てて)
 言語的説明と、絵画的・現代美術的説明は違う、というだけの話。言語的説明を重視する美術はコンセプチュアル・アートと呼ばれその中の一分野に過ぎない。また表現活動の全てを言語表現に還元できないのが事実だから、批評は批評としてのみ成立する。そして美術を専業にする人に決して説明義務はない。

(上記の評論への返信として書かれた、会田誠らのスタンスは「欧米で失笑される」もので、自分のやってることを説明できないのは現代美術だけでなく「どんな仕事でもやばい」上に、「(西洋人に媚びないで日本のアートをやっているにせよ、その説明責任を十分果たさないので)ずっと放置されている気がする」、というツイッター上の別の方による評論に宛てて)
 勿論、欧米人の美術家でも、伝統的にも現代的にも言語的説明を十分行わない人が過半である(言語的説明の方が得意なら文芸を選ぶから)。思うに、ロゴス中心主義をもっている人が、コンセプチュアル・アートや批評を美術全体の傾向と誤認しているだけでは?
 欧米各国の美術史の文脈と、日本を含む他国美術史の文脈は違う。各国・各地で評価にはずれがある。この意味で普遍美術史といったものはまだ存在しない。欧米で最も評価されている北斎の浮世絵(当人から言語的に説明されていない)は庶民向けの版画で、日本では高文脈な大和絵に対する脇役扱いだった。北斎の浮世絵は後期印象派が遠近法を崩す段階で参照にされた為に西洋美術の中で評価が始まった。しかし日本側としてはイタリア・ルネサンスでダビンチが確立した遠近法の伝統がなかったので浮世絵は平面構成の延長上に量産型の装飾品として作られただけだった。「放置」「評価」は普遍的ではない。
 因みに、コンセプチュアル(概念的、言語説明的)な現代美術家として村上隆がいる。彼は意図的に欧米側(特に近代アメリカ)の美術思潮と日本の伝統~近代美術思潮をすりかえながら、皮肉や揶揄を交えた流用的な作風をもっている。会田誠もその様な作品はある。つまり会田が説明的でないわけではない。会田が「(おそらく欧米から)放置されている(とここで批評されている)」理由は、彼の作品の多くの概念がローカルジョークに近い為で、この意味で欧米模倣に終始している他の美術家とはかなり違う、国粋的傾向だといえる(ラディンに扮した作品や、某現代ドイツの巨匠を喜劇的に模倣した作品など)。会田作品で最も説明的・コンセプチュアルな作品は、自分の知る限り殴り書きの様な書体で大きな布に書かれた文字のみの『檄』全文) かもしれない。ここでは絵画的表現は書道の文体だけしかない。内容は批判対象が日本の教育だから、ここでも国内的なコンセプトになっている。

※このブログURLは2019年6月8日に
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