2019/03/12

音楽も純粋芸術を志しひたすら崇高な表現を目指すべきだ

15歳くらいから20年位ミスターチルドレンという人達の音楽を聴いてきて今思うのは、この人達の愛の歌はつまらないということだ。私的な恋心など当人以外にとってどうでもいいことだし、擬似恋愛で発情してる女にしか意味をもっていない。この人達が最も前衛的だったのは『ディスカバリー』の頃だろう。『ニシエヒガシエ』という曲がこのミスチルという人達が残した全作品で最もましな歌だと思う。その内容は主に思春期の疾風怒涛の時期の様な反社会的な感情をあらわしたものだろうけど、それ以後のこの人達の曲に社会批評的な意味があるかといわれれば余りない。ファンと群れているだけの金儲けの歌だ。尾崎豊が『15の夜』で歌っていた様な反抗期的内容を表現していたわずかな瞬間はロック音楽的な社会批評性があったと思うけど、それ以後は耳障りのよい大衆歌を大量にまきちらして終わっている。商業的成功はしているのだろうけど、音楽史に何かを貢献したかといえばそうはいえない。
 それで自分は15歳の時に、中学校の帰りにたまたま、はまや書店という今はない本屋の店先のCD自動販売機という珍しい物体の中にあった『ディスカバリー』というアルバムをお金を入れて落としてから、今までこの人達の変遷をおおよそ追ってきて思うのは、商業的成功は芸術的に無意味だということである。
 芸術的に意味があること、というのは確かにあって、音楽家の偉大さというのはその芸術的意義を次々更新していくところにある。ミスチルは息が長いけどその他の消えていった流行歌の担い手であったポップミュージシャンらは、殆ど意味をもっていなかった。自分は小学校低学年だったかの頃に『カローラⅡに乗って』という小沢健二のCDを買ってもらったのが初めてCDを買った時だったけど、あれ以後、小沢健二の変遷を辿ってきて、最近は単なるポップ音楽に回帰してるけど途中の進化はかなり興味深かった。特に『毎日の環境学』。
 自分は主に絵を描いてきたけど、他の分野も或る程度勉強した。音楽も自分で作ってみた。そこからいえるのは、このミスチルという人達は彼らが10代の頃にポップ音楽の文法を学んでからは一歩も進歩していない、ということだ。小沢健二は一進一退している。より偉いのは後者だ。芸術はそういうものだ。
 俗受けする文法というものが各芸術分野にはある。それを運よく手に入れた人は作れば金が儲かるから進歩しようとしない。それで芸術的には無能なサロン作家、通俗作家というものが生まれる。その種の人達は同時代では人気と金をひたすら手に入れているが死後はすぐ忘れ去られる。意味がなかったからだ。一般大衆は芸術を本気で求めていないから通俗作家と一流の作家を見分けていない。しかし両者をきちんと見分けられる人もいる。芸術には感覚論ではなく、過去の傾向をのりこえた進歩の質、という或る客観的な評価軸がある。それは商売としての成功、金儲けの度合いとも全く関係がない。独自基準なのだ。各芸術の文法に進歩をもたらす作家は、芸術表現の可能性を広めるという意味で、専門家の間で高い評価を受ける。素人はその一流と呼べる作家を知らないこともある(寧ろ基本的には知らない)。自分がいいたいのは、自分が芸術に興味をもってきたのはこの文法の革新に或る知的な興奮を感じるからだ。
 自分が「面白い」と感じるのは、その各芸術における文法の革新であって、大衆受けしているとか、感覚的に新しいとかいう、通俗的な批評家もどきが言っている様な曖昧な基準では全然ない。はっきりいえば、その種の主観的感覚論を美術批評だという人は二流以下の批評家であって何もわかっていないのだ。芸術の立派さはきちんとした判定基準があり、それは極めて学問的な秩序の中で論理的に説明できるものなのだが、偉大な作家自身は言語化できているかとは別に、その判定基準を突破しているのだ。世界の美術・芸術史は作品の意義についてその種の公正な判定を行っていて、賞や売り上げでカバーされない。大衆受けしているか、金を儲けているか、二流以下の批評家らがつどう感覚論や主観が支配した文化サロンから賞を俗世で受けているか、作家が国家や権威から勲章をもらったか、大きな仕事を受注したかなどは、全くこの種の真の芸術的意味と無関係である。そして我々芸術家は一流のものを見分ける。芸術の歴史的意味が理解できる人は、その人自身の趣味(審美眼)の水準は作家自身と同じところまで進んでいるから、技術さえあれば一流の作家にもなれるだろう。ただ審美眼だけあっても一流の批評家や収集家、画商等にはなれる。しかし芸術の歴史的意義が分からない場合は、勉強不足といえるだろう。
 なぜ冒頭にあげたミスチルというミュージシャンらが、『抱きしめたい』というデビュー曲の文法から殆ど何も進歩が見られないかといえば、彼らの勉強不足か、そもそも一流の音楽家になるつもりがなく俗受けできればいいと考えている文字通りの大衆歌の担い手達なのか、どちらかである。逆に小沢健二という音楽家は、『eclectic』や『毎日の環境学』、『シッカショ節』など、アダルトオリエンテッドロック、環境音楽、民族音楽(民謡)など、既存の傾向ではあるが多様な表現を追求してきており、ただのポップミュージシャンではないのがわかる。前衛的というよりは懐古的、中衛的だけど。
 何がいいたいかといえば、確かにミスチルは尾崎豊やサザンオールスターズの後を受け一時代を築いたし、彼らの文法を踏襲した後裔というべきバンプオブチキンとかアマザラシとかいった人気ロックミュージシャンを日本に生み出したのだろうし、よくできた歌を残したんだろうけどつまんないなという話だ。自分が聴きたいのは魂を揺さぶる様な、自我の真相に迫って時代の本性をえぐりとり、斬り捨てる様な表現であって、それは同時に芸術的文法の革新を兼ねているものである。イギリスでいえば『KID A』でレディオヘッドがしたことだ。ミセスグリーンアップルの『WanteD! WanteD!』はロックをなめている。音楽は大衆受けすればいい、というものではない。金欲しいからそれでいいんです、女にもてればいいんです、と二流のミュージシャンはいうんだろうけど、そんなのがアーティストとか名乗ってたら笑える話だ。実際冷笑してるけど。音楽ってそんなものなの? ばかなの? としかいえないと思う。一般の視聴者はウゲウゲいって大喜びして金を貢いでいるでしょう。けれども1日も音楽を聴かない日はない(これが事実)、というくらい真剣に音楽芸術を聴取している自分みたいな本当の音楽狂からすると、KPOPの方が日本の俗受けミュージシャンよりまだましじゃないかとしか言いようがない。ファレルウィリアムズが『Happy』とか『Freedom』で、チャイルディッシュガンビーノが『This is America』で表現してる類の社会批評性が、少しでも昨今の日本音楽にあるだろうか? あったとしても拝金主義礼賛くらいではないか? 基本的には無意味な金儲け歌詞と耳障りのよい偽物しかないと思う。
 まあインディーズ音楽にとっては無料で届けられるYouTubeとかいう便利な装置ができたから、本来、もっと色々な音楽が出てきていい筈なのに、見当たらない。検索に出てこないだけだろうか? 嵐とAKBなんちゃらとTWICEしかチャートに出てこないって、日本音楽おわってるでしょう? 日本音楽を終わらせたのはJASRACの締め付けがYouTubeとかSpotifyとかのビジネスモデルに乗り遅れたからというのが通説だろうけど、それならインディーズの人らが元気でなければおかしいわけで、これも嘘っぽい。本当は普通に雑魚しかいなくなったんではなかろうか? 大衆歌手ミスチルのせいだろうか?
 自分がシーンを見てた限りLOOP H☆Rと、noriakiという2組の音楽家らが最も前衛的な傾向をもっていた。しかしYouTubeはインディーズにとって死地で、一円も入らないからかすぐ引退解散してしまった。とにかく生き残って創作を続けて欲しい。商業音楽、大衆音楽を本気で潰すというのが大事なのだ。自分の主戦場な絵の世界では、漫画やアニメという大衆商業巨大市場があって、殆どの絵描きはそこで金欲しさにうろついているし、芸大とかいう下らない国税大出ても俗受け狙って漫画描いてる人さえいる。だから自分はそれを潰そうと本気で戦ってきたし今後もそうしないといけない。音楽も同じだと思う。
 チャイルディッシュガンビーノの『This is America』のMVの中で、騒ぎがおさまって黒人男が車の上で踊っていてそれを黒人女が一人で眺めている場面があるでしょう。究極のところ、芸術はそれで十分ではないか? 1人だけでも観客がいれば、それで十分すぎる営為といえるだろう。寧ろ客0でもやれと。実際、ジャングルの中で自分ひとりの無人島でも、気分がよくなって歌をうたう、といったことがある筈で、それが最も原点に遡った音楽なのだから、レペゼン地球的なホストクラブみたいな俗受け社交パーティ世界みたいなのは本当に邪道だと私は思う。あれはビートルズから始まった堕落の行き着いた果て。
 漫画とかアニメとか、ただのアイドル系ポップ音楽とかが「下らない」のは本質的に金儲け目的に子供だましのことをしている、というサーカス性だといえる。必要な芸術ってそういう使われ方のものではないと思う。低俗な娯楽は愚民化と亡国にしか繋がらない。真の芸術は人類を目覚めさせるものである。死刑囚が刑務所の中で最後に聴きたがるのは、彼らの聞き慣れているはず大衆歌ではなく、古典音楽だという話があった。なぜかというと、俗世を超えた崇高さに触れ一生を離れる心の準備にしたいのではないか? 同じことは芸術自体にも言えると思う。それがあれば生の意味は満たされた、といえる作品だ。下らないの対義語が素晴らしいなら、確かに生の欲望に肉薄した大衆歌は中身がなくて下らないだろうし、逆に純粋音楽が目指している全人類史を更新していく崇高さは素晴らしい筈だが、一体、何人が後者の存在に気づいているだろう? 音楽家は素晴らしい作品を残すことに集中した方がいい。生は有限だ。
 追記。きのうミスチルをつまんないといったけど、自分が一番好きな曲はシングル版『I'LL  BE』で多分、全人類で一番多く聴いてると思う。

※このブログURLは2019年6月8日に
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