2019/03/25

自由を貶める悪意は単なる荒らしの嗜虐快楽

やっとわかった。某人物が「無職」を差別しているのは、その人の広めたい常識の中では、人は24時間なんらかの組織に縛られていないと悪さをするものだ、という妄想なり偏見があるからなのだろう。自由業者・自営業者を、無職と誤認させられると踏んで、自分が労働者なことを合理化したかったのだ。思うに、当人の中でも本音のごまかしがはじまっていて、本心では自由に生きたいのにその真逆の方へ(周りの人に流されて)自分が進んでしまっていて、そこから離脱する勇気がないのではないか?
 無職を差別する、という労働者的な考え方には、当人達が自分の生き方を合理化する目的と、背後に皇室政府が国民を納税奴隷化する悪意がある。「勤労・納税の義務」という憲法の文言は、建前では経済成長を謳っているが日本のそれは長年、最下位級である(2017年度は、191か国中157位。IMF)。派遣法以後は更に労働者が搾取される一方だ。結局、労働者が資本主義と組み合わされた天皇制下では納税奴隷に過ぎないという現実から目を背け、無職や自由・自営業者、その他の被雇用者でない人達のうち経済弱者とみなした人間を匿名で差別することで、自分達の惨めさをごまかそう、というのが当該人物のしようとしていたことだったのだろう。
 世界史の中で自由人はなんらかの資産の裏づけがあって、商業活動等の生産労働から解放されていた。私有財産か公共財産かの違いはあっても、貴族と呼ばれる人達の殆どは、その種の自由時間、つまり暇を、換金できる価値の生産と無関係な活動に費やしていた。それが顕示的消費の一類型にもなっていた。現代日本でも同じことは程あれ言える。労働者は資産の裏づけがない人達で、私有・公共財産で生活費を賄えないので望むと望まざるとに関わらず、くらしを維持するため被雇用者になるしかない。
 むしろ社会主義でないからこそ自由度が高い個人と、そうでない個人がますます二極化するのではないか?
 ところで現代の自由は資産の多寡と、暇の多さという2つの面に大別できる。両者の場合わけをすると
1.金持ちで暇
2.貧しくて暇
3.金持ちで忙殺
4.貧しくて忙殺
この4つのうち、某氏は1と2を意図的に差別していたといえるのではないだろうか。そして3と4の忙しさを合理化していた。資本主義の中で私有財産の蓄財に成功した人のうち(相続財産も含む)、営利追求を外部委託した程度に応じて金持ちで暇になる。一方、金持ちだが忙殺されている人達は営利活動を自ら行っている。ロバート・キヨサキの分類に倣うと、1は資本家(権利収入者)、3は商人(労働収入者)となるだろう。
 一方、2の貧しくて暇、という類型の人達は、金持ちで暇な人より一層、労働者的な考え方をもつ人達の差別の標的になり易い。生活保護を受けて暮らしているとか、親等に養われているなど経済的には弱者なことが多いので、3や4の忙殺が本音では不満な人達が手軽な社会的迫害の対象にしているわけだ。インターネット上の匿名で経済弱者を迫害し、集団虐待して遊んでいるサイコパス度が高い人物、いわゆる荒らしの人達は、この2の類型に該当する、貧しくて暇な人達を3や4の忙殺状態にいないという点でいじめの標的にしている。なぜそうなのかといえば、恐らく2は3+4より数が少ないのだ。
 しかしながら、この世では経済資本以外にも文化資本とか人的資本とか色々な資本財というのがある。清貧な人物が希代の芸術家だったり偉大な学者だったりも、世界史を省みると当然あることなのだ。むしろ人類を進歩させた偉大な発見は、暇な人が知的なときに生まれている。研究は金儲けではないからだ。過去の学術的発展は金持ちの道楽であったり、暇人の趣味(金儲けという他人に奉仕する拘束から離れた、自由で真剣な遊び)であったりした。今後も恐らくそうではないかと思う。1・2の人達は、3・4の人達から見ればしばしば別の人生を生きている様に見えるだろうが、暇人も巨視的には有益なのだ。日本の伝統では2の人達が貴族階級だった。公家や侍(武士)として、農工商という生産活動や金儲けを外部委託し、自身は学芸とか恋愛ごっことかなんらかの暇つぶしをしていた。よって現代では1は資本家、2は貴族(但しニート・無職等としばしば差別されている)、3は商人、4は労働者となるのかもしれない。
 現代が過去の時代と違うのは、貴族階級である筈の人達(貧しくて暇な人)が、なぜか他の人達から差別や迫害を受けている場合があるところだろう。自分が見てきた限り、これは2ch(5ch)の匿名電子掲示板文化の影響が大きいと思う。そこはサイコパス度の高い荒らしの住処となり、上述の少数派いじめの発祥地だからだ。現状の日本ツイッターも、他YouTubeやYahooニュースのコメント欄等もかなりの程度、匿名を悪用する荒らしの住処となってしまっているが、荒らしはネットユーザー全体の6%程という研究があり("Trolls just want to have fun" Erin E. Buckels etc. 2014参考ブログ)、サイバーカスケードによって世論を捏造している。また彼らの荒らし行為の目的は同研究でただの嗜虐快楽と考えられている。つまり彼らの捏造する世論に倫理的整合性は元々ない。貧しくて暇な貴族が生産労働と離れ文化的活動を担う、という既往の日本の伝統は、現実には社会的迫害・差別でも不動なのだ。
 結論を言うと、貧しさと尊さは別の概念だし、既に日本の伝統内で確立されてきたよう貴族はむしろ清貧を誇る。これは仏教・儒教が昇華された結果だが、営利活動を他階級がするものとして避ける、という生き方の差異化ルールが日本流の貴族精神なのである。結果、利害を離れ政財界を自由に批評できる。荒らしやその中に潜む嗜虐快楽のサイコパス、或いは彼らに扇動された資本家、商人、労働者といった人達が幾ら悪意から貴族を差別していても、全くそれに迎合せず、完全に無視することが有用だ。むしろ金儲けを下に見て、ただひたすら自分の自由に生きるのが、この国の貴族のまっとうなありようなのだ。金儲けでない活動をする人が私有財産で生きるのに限界がくれば生活保護になるだろうという観点から、生活保護者は貴族とは呼べないじゃないか、と荒らし側は臆断しているわけだが、私有財産がなくなりきるまでの期間を意図的に省略しているのが間違っている。生活保護者はある種の没落貴族なのだろう。
 現実的に現代の貴族は、資本家か商人が私有財産の範囲で、金儲けしない人達を養う、という形でありえる。皇族もこの意味では自分で金儲けしていないので、貴族だ。しかし私有財産が少ないほど没落までの期間は短くなる。つまり貴族的自由は部分的に資本主義原理を利用する、顕示的消費の一類型なのだ。
 また「生産的」という概念は、上述のことから、「金儲け」と、そうでない「純粋な生産(金銭価値に換算されない芸術や学問、その他の活動)」が混濁している。資本家・商人・労働者のいう生産は、今日殆どの人達が農工商でいう商に属し、GDPの定義からも「金儲け」に置き換えられているといえる。この為、貴族が何かの文化財やその他の価値あるものごとを生産していても、それが換金されないと金儲けにならないという意味で非生産的ともいえるのだが、虚業という概念を使えば、貴族にとっての生産性はしばしば虚業的なものであって、金儲けに限らない、といえるだろう。

※このブログURLは2019年6月8日に
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