2019/02/13

誤りの修正力

ある人の知性を測る最も端的で合理的な方法は、彼らの意見のうち、明らかに間違っている点を指摘した時、彼らがそれを即座に修正できるかどうかだ。孔子「過ちて改めるに憚ることなかれ」「過ちて改めざるこれを過ちという」
 尤も、その種の誤りが質疑側にとってしか正しくないとか、より正しい意見があって彼らが独善的にそれを維持しているので質疑側が自身の実は誤った観点にすぐなびかないことを以ては、相手の知性を推し量れない。
 少なくとも、科学的な議題は、事実を客体化しその分析をはかるものだから、常に論争の中にあって懐疑的にしか真相に接近できない。つまりそこに主観の入り込む余地は元来ない。科学的議題に反対意見が無数にあるのは、反証主義という観点では寧ろその真実性に必要な担保の一つでさえある。だから誰かの科学的知性を知るには、彼らのもっている科学的見解(それも実は全て仮説なのだ)と違和するあらゆる意見を彼らにぶつけてみるがいい。それら全ての実証性なり反証性なりに冷静で、しかも客観的な見解を述べる人でなければ、その人はその種の知性が劣っている。
 議題が後自然学的なものに及び、信念として主観的見解の差が生じる余地がある場合、それぞれの意見の共通性とか、全ての意見の上位にある普遍性とかを抜きに、単に主観的見解が異なっていることだけを以て相手の哲学的知性を推し量れない。つまりこの場合も、意見の相違を認め、自らの意見を含むそれぞれに客観的解釈を付け加えられる能力が知性の一つの目安となる。哲学的知性が科学的知性と異なるのは、最終的な見解の根拠が実証性や反証性という形をとるとは限らないことである。
 誰かが意見の相違、特に質的に高度なそれを反省的契機とし、さらに普遍的な見解を探求する様子がなければ、その人はもともと知識を深めたり、自らの知性を高めるつもりがないといってもいい。対立意見や遠い異見を好んで見聞きしない人、この種の学者はもどきであって、自前の知性が低いのだ。
 高IQが寛容さに正相関しているといった一般論は、思想間の大小に渡る諸矛盾を多く記憶し、適宜に比較検討できるという多様な分析面に、寛容さの知性にとっての有利さがある、といいかえることもできるかもしれない。これがツイッター等で、ブロックを好まない知識人がいる実際的理由だ。