2019/02/14

日本の一部にみられる知行合一説的な考え方の批評

理論の価値を行動(実践)の価値と混同している人が日本の一部にいるのは、知行合一なる陽明学の思想によっていると思う。当然ながら理論は理論として価値がある(例:地動説や相対論の発見時にその応用的価値は必ずしも必要でない)。王陽明は明で官僚階級にみられた儒学(特に朱子学)の形骸化をより実践哲学に再統合する文脈で知行合一説を用いたのだろうが、現代日本ではこの文脈を無視し、単に理論的価値を貶めるか実践性と混同する用法がみられる。特に政治的マキャベリストにこの傾向がある様に見える。曰く勝てば官軍と。
 アリストテレスにとって理論の価値は実践の価値の上位にあった様、理論を実践より高く評価する考え方もある。近代科学が西洋圏で発達した一要因も、西洋で知行合一説は先ず知られても採用されてもいなかったので、単なる理想としての単なる理想としての(自然哲学を含む)哲学や純粋理論の探求が容赦なく可能だった為と思われる。
 知行合一説は思想の一形態ではあるが、王陽明の孔子解釈(『論語』為政第二「先行其言、而後従之」)としての意味を超え実践性を伴う理論しか存在すべきでないと極論化し考えてしまうと、諸々の弊害が出てくる。理想の低さから来る保守性とか、基礎科学の未発達とか、自由な発想の阻害などだ。行動(実践)の価値と理論の価値は違うし、また両者の中間に位置する技術の価値といったものとも違う。従ってこれらそれぞれの価値を混同しているのは、無知の一種だろうと思う。本来的に比較できないものを比べているからだ。
 またもしアリストテレスの考えが正しければ、動物は言語知能の未発達によって人並みの理論をもてず寧ろ実践(行動)的な存在でしかないので、同じことは人間界の中でもあてはまるかもしれない。つまり言語知能の低さが、知行合一説に寄託して実践価値と理論価値等の混同をもたらす原因かもしれない。

※このブログURLは2019年6月8日に
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