2019/02/05

脳という情報島

我々が賢愚とみなしているのは自分の脳との差、特に認識型の或る方向性への類似濃度の差ではないか。この観点に基づくと賢愚は主観的かつ自己愛的な判断となる。
 賢さは自分の知能と一定程度近い人が、自分にできない程度の高度さを達成している時に感じられる差異である。ところが自分の知能との差が大きく離れていると、それを賢さとは認知できず、理解不能さとして感じられる。脳はその理解不能な相手の高度さをしばしば誤解し、言い訳(防衛機制の合理化。すっぱいブドウの論理)として気が狂っているとか、むしろ自分より愚かだからそうなのだと自分に思い込ませながら素通りしようとする。
 天才とは非典型知能(その集団で最も平均的な知能、いわゆる凡人と、大差がある知能)が社会的有益性を発揮した分類で、狂人は非典型知能における社会的有益性より有害性が大きい場合の分類である。これらの定義の上で、賢愚に自らの脳との類似性に基づいた観測範囲があるとすると、その範囲外にある圧倒的賢さを、人々はよく気が狂っていると見なす傾向にある。これが、凡人が天才を狂人と誤認する理由だ。天才と狂人は実際には非常に違っていて、狂人は天才の様な偉大な業績を残してはいないのだが、両者の知能は凡人の観測範囲外にあるので凡人には見分けられない。だから天才の最初の評価者は大概、類似の天才か、彼らに近い秀才いずれかである。凡人から狂人と誤解された天才の悲劇は史上に無数にありすぎるのでここで詳述しないが、狂人自身を理解できる者もいて、主に精神科医がその脳の研究をしてきた。因みに私個人はこの道理を直観的に知っていたので、天才と狂人を偏見なしに共に興味深いものと見て、天才はそのままで、狂人は社会の側がその不適応へ対処し直すことで、どちらの類型も凡人になしえない社会的進歩の契機となると考えている。
 ところでおなじく脳の観測範囲はあらゆることにあてはまり、高尚な人は低俗な人の考えがよくわからないしその逆もいえれば、大人は子供の心がよくわからないしその逆もいえる。だから賢愚とは情報の島国の様なものだ。その島に近い範囲なら何とか見えるが、離れるとかすんで見えない。我々が全知をめざすなら、自分の脳という情報の束を世界最大の大陸にしなければならない。より抽象的にいうと、脳に理解不可能な範囲をできるだけなくすよう、あらゆる情報体系に気を配って、それぞれの体系内での高度さを達成し続ける必要がある。現実に人生時間は限られていて、理解に要する学習時間の面から全知は無理なので、達成できるのはある程度の博学さである。
 博学さを達するにあたって最重要なのは、理解に値する分野をどう択ぶかという自己知能の体系性だ。脳が情報島なかぎり類比にしたがって他者を理解するので、時代を経ても廃れない普遍的な知恵、かつ、同時代で最大範囲の知見を得たければ、全世界で最も共通の分野に詳しくなるべきである。特殊な専門性は理解できる人が少ないので多くの他者からは賢さと思われない。その結果、専門家は高踏的な俗物根性に耽りがちである。専門知も賢さの一種ではあるにせよ、全知の部分でしかないので、同時に普遍知も探求すべきである。普遍知は理解できない他人がいない、という場所まで進むのが理想だ。
 現実には共通知の範囲をできるだけ広げるのが人体の限界だから、自分と全く違うため理解しがたい人間の研究を続ける必要があるだろう。この前提に何らかの偏見や権威に訴える論証、その他の臆断を置くべきでない、というのが、賢愚を己の脳という情報島から見た有意な差と捉える有用性だ。

※このブログURLは2019年6月8日に
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