2019/02/05

排他主義の分析

排他主義が多様性を減少させると、その集団全体にとって不利益なことが多いとき、排他主義的主張をする或る人が集団Xを好きでも嫌いでも、大抵、公害なのは変わらない。勿論、排他主義的主張が公益的な場合もあるが、それは集団Xへの好悪と相関するとは限らない。
 排他的な多様性の縮減、一様性の獲得は、多分その集団の一律な行動が有益な場合に限って正当化できる。一方、通常の社会は変化する環境に対し最もふさわしい問題解決をみいだすためできる限りの意見のばらつきが有用で、しかも何らかの少数的特徴の必要性がある場合が多いので、一様性が不合理となる。排他主義の理由を対象集団Xへの好悪にしている人は、大概、集団X自体が内在する不合理や誤りを改善しようとする自集団への批判的意見を排除する為に、この客観的批評性を感情論とすりかえているのだろう。排他主義者がその様なふるまいをする訳は、客観認知力が足りないか身びいきな悪意があるのだろう。
 では実際にこの排他主義者が、集団Xから排除された場合を考える。この人は基本どの集団でも自己愛的全体性を求めるから、多様性がその人の集団との一体感にとって心地よい程度に縮減されるほど快適に感じる。つまりある程度の一律性がある排他主義者同士で小集団になる。同類相憐れむわけだ。
 他方、集団Xに属しつつ自集団から不利益をこうむっていたり、大勢の主義と異なるため同感できなかったり、欠点をみいだして改善を求めている人、そして単なる自己嫌悪の厭世主義者がいるとする。彼らは自集団へ批判的な考えをもっているが、その集団の進歩を直接・間接的に促す人も混じっている。まれに自集団へ悪意を持つ犯罪者もこの中に混じっているだろうから、集団Xへ多少あれ嫌悪感を感じている人々すべてが有益だということはできない。しかし集団Xに属しながら自集団を嫌悪する人達は同類相憐れむといった一様性、特に全体主義への志向とは違う方向性へ集団を導こうとするのは確かだろう。自集団嫌悪者を排除したところで、或る集団に何も欠点(自集団から被る不利益)がみいだされないという状況は、構成員の生における位置づけ(年齢などの特徴や思想内容など)も環境も常に変化している場合、殆どありえないだろう。いいかえれば自集団嫌悪を排除しても、何れ一様性は崩れてしまうのだ。
 これらの場合における想定から、排他主義者にとって快適な程度の一様性を維持するには、その排他主義者が自分の主義と同質の小集団に属した方が合理的だということになる。他方、自集団嫌悪者の中には犯罪者を除き、自集団の進歩改善に有益な者が混じっているので、集団Xから排除しない方がよい。後者は犯罪を集団全体の共通善に基づいた同集団の法に由来するものと仮定した場合だが、この法的排除が他者への有害性として必要十分、かつ個人の自由にとっては最小限度のものであるべきだ、というのは上述のことで分かるのではないか。自集団への正しい批評や習慣の進歩が改善の契機になるからだ。自集団嫌悪はしばしば有益である。
 排他主義者が一体化する全体性の獲得は到達できない当為だ。結束主義国家の、多数政を執る国々による解体はその一例を示している。排他主義の傾向をもつ人は無個性な世界、つまり達成できない目標に向かい自集団を一様化しようとするより、同質的小集団に自己を埋没させた方がより合理的ということだ。
 もう少し詳細に考えると、排他主義者の一部がなぜ到達できない全体性を自集団に要求するのか(が為に彼らは自集団への好悪を愛好のみに絶対化したがる)、そのわけは、そもそもこの人は集団的全体性が達成不可とは信じていないんだろうと思う。集団的全体性は現実にありえない認識の錯誤でもあるし、妄想の一種なのだが、達していて当然な自明の前提の様な思い込みとして、絶対的結束集団というものが或る国の単位で実現されていくのだ、という大いに誤解された集団意識を、この排他主義をもつ人はどこかで身に着けてしまったのかもしれない。集団的全体性を当為として自集団に要求すると、必然的に集団浅慮が起きる暗愚な少数の仲間とつるむ結果になるだろうから、遠からず彼ら排他主義者はなんらかの集団的失敗に巻き込まれもするだろう。結局、強度の排他主義は集団的不適応の一種なのではないか。軽度のそれは縄張り本能かもしれないが。