2019/02/06

絵の非再現性による理念の表明について

絵や彫刻は再現芸術の中で偶像を作る。しばしばそれは種族を超えた愛を喚起させる為でもある。偶像崇拝を禁じる宗教の中で、種族を超えた愛は禁忌になっている。再現芸術への根本的批判はこの禁忌を主な根拠としている。
 私自身もこの問題を長い間考えてきた。「偶像崇拝は邪習ではないか」と。
 旧約聖書を書いた人の中で、自集団増強の為の生殖の正当化が偶像崇拝禁忌の理由だったなら、今日、性的魅力を脳に誤認させる芸術作品の制作がやはりこの目的に反しているのは事実かもしれない。オタク差別は、現実にはこの非生殖主義的な偶像崇拝の禁忌から直感的に行われていたものではなかったか。
 会田誠は美少女を小動物視させる作品を幾つも残してきた。彼のこの目線は当然、女権論者全般に評判が悪い筈だ。単なる児童性愛やオリエンタリズム、女性差別への倫理的批判を越えて、神学的にこの嫌悪感は旧約聖書の神が「この世にあるものの似姿を作るな」と創世記冒頭で述べてからずっとある。人型の神をもつ多神教の直系としてのヘレニズム(ギリシア思潮)が、イタリア・ルネサンスを端緒にして偶像禁忌を部分的に解除するまで、西洋圏でもオタク差別と同様の嫌悪感は存在していた筈だ。
 私はおととし、「偶像」としての秋篠宮佳子内親王を、一見して偶像と分かるよう平面的背景の元に描いた。描写による幻想性を虚構としてしか表示させない様に。その絵は神道国家としての日本の偶像崇拝を象徴的に、つまり絵の現代までに得られた矛盾した構造を用いて、皮肉にあらわす為に描いたのだが。
「再現芸術は偶像崇拝の変種だから、この神道国家としての日本全体も、単なる少子化として非生殖主義の悪徳に陥っているのでは? 何しろこの絵は偶像でしかないのに、あなたはこの絵に描かれている人を崇拝しているのでしょう? そして、本当にそれが美しいものなのですか?」
私はその佳子の絵を、自分にできる範囲で、できるだけ普遍的な若い女性像にしようとしたが、そこに本質的にこめられている皮肉、日本国全体への宗教改革的批評を市の美術展覧会の審査委員らが理解していたかは定かでない。完全に理解していても賞を与えていたろうか。再現芸術が描かれた内容に対する偶像崇拝だとしても、非再現芸術は描かれた形式に対する偶像崇拝だ、という点も、ごく重要な問題だ。このことは専門家の間でポロックの絵が高価なのが素人の中では理解不能なのでわかる。抽象画全般が形式的偶像崇拝なのだ。
 装飾以上の機能をもたない絵が、漫画や具象画に見られた何かの再現的説明性を超えて、より高度に理念的な抽象画にふみこんだのは、人類の絵画史にとって決定的な進歩の一つだ。写真の登場に起因した再現性との決別が、より高度な抽象概念の表現に適合するよう絵自体の自己変革を促した。ところが、形式主義者は今度は抽象の形式にこだわって、この好機を十分生かしきれていない。その典型がハーストのスポット系ペインティングに見られる、文脈主義的な遊びだ。形式を微変させても色々な装飾的壁紙を超えた効果を抽象画には持たせられないからだ。
 カントが既に『判断力批判』で述べていたよう、理念の表現が絵の目的だと考える方が、今日、絵の可能性に新たに生じた状況を正しく使いこなしていると言って差し支えないだろう。アリストテレスの形相論がいうよう、絵自体の現実態の中から最高の理念が立ち現れてくることも十分ありうる。
 プラトンがいうよう性愛が善のイデアに向かうものなら、絵にとってもそうだろう。非種族的な愛の中には、芸術への愛も含まれる。
 我々は純粋絵画の中で再現芸術を過ぎ去った過去として省みることはなくなるかもしれないが、非再現芸術の形式主義や文脈主義も、それらが単なる特定形式や特定の文脈上の位置づけへの評価といった偶像崇拝に陥るかぎり最高善と異なる理念に違いない。より正確に言えば絵を構成するただの要素だ。
 我々は純粋絵画の中で再現芸術を過ぎ去った様式として省みることはなくなるかもしれないが、非再現芸術の形式主義や文脈主義も、それらが単なる特定形式や或る文脈上の位置づけへの評価といった偶像崇拝に陥る限り最高善と異なる理念に違いない。より正確に言えばそれらは絵を構成するただの要素だ。重要なのは絵自体が最も普遍的な理念の表示となることだ。ある形式・文脈は理念の本体ではなく、その表示の仕方に属する要素である。絵はこの理念の伝達媒体となる或る固有の形である。我々はその絵が伝える理念、特に最高善を目的にしている。絵そのものとしての最高善。それがありうるならだが。
 我々はゲルニカと言ったとき、あるいはモナリザと言ったとき、キャンベルスープ缶と言ったとき、それらが本来示していた対象ではなく、理念の方を思い浮かべることができる。ブロードウェイ・ブギウギと言ったとき、思い浮かべる対象は非再現的なものでさえある。絵の進歩はこの筋道の上にあると私には見える。私に何か立派な絵が残せるなら、同時代や後生の人はその絵を固有名詞として理解し、そこには偉大で崇高な理想が乗せられているはずだ。