2019/02/05

いじり文化やいけず文化は、単なるいじめの正当化を含んでいる

関西地方の人達は、吉本芸能の影響からか、集団いじめをいじりといって正当化する場合が経験的にしばしばある。いじり文化というのは、京都系ではいけず文化と混じって陰湿な色彩を帯びる。これらの文化は弱者叩きを不快に思う(関西人自身を含む)異文化の人にとっては、しばしば公害と感じられる。
 ごく大まかに分析すると、関西地方のいじり・いけず文化と、それ以外の文化の間には摩擦があると思う。吉本興業に所属するお笑い芸人の人達は、いじり・いけず文化を当然の習慣として他文化の人にふっかけることがあるので、これらをいじめの一種と感じる非関西文化の人達は大変不快な思いをしてきた。
 吉本芸人の人達は、関西文化圏や東京圏を中心に、いじり・いけず的な弱者の揶揄でお金を儲けている面もある。つまり生活の為にこのいじり・いけずをしているわけで、彼らが自文化中心主義者であった場合、いじり・いけずをいじめの一種と感じ受けつけない人達を必然的に傷つけていく。
 いじり・いけず文化というのは、現実にはいじめを笑う側のため正当化しているだけという面が含まれている。大阪で子供がいじめ自殺した事件で、加害者が「いじりだと思っていた」と言っていた。同じことは、いじめ発生率が長い間最下位(最多)の京都でよくある、いけず文化についても言えると思う。
 弱者を嘲笑する慣習が下品なのは、いじり・いけず文化の外からはおよそ自明のことなのだが、この文化の内部からは場の空気が働いて、いじめに類した弱者叩きを集団に強要する。そしてこのいじめを行う加害者側自身が、弱者をからかい笑う罪悪感を軽減するため、いじり、またはいけずと自己正当化する。
 いじり・いけず文化の笑いは、この文化集団に属していながら加害者から虐げられる弱者への心無い嘲弄であって、いわば嗜虐快楽の一種だといえるだろう。笑われる側が場の嘲笑を喚起するための自己卑下を好まず、加害者の嗜虐性を不快に思ったり、単なる集団虐待と感じた場合、拒否権は当然あるべきだ。
 いじり・いけず文化は、関西地方における文化的慣行の一部を構成しているが、いじめ自殺した子が加害者のいじりをいじめと感じていた実例があったり、京都の子供にはその一定部分がいじめと認知されているはず現実から、単にいじめの正当化と混同された、加害者集団の悪意をしばしば含んでいると思う。
 なぜ吉本芸人を代表格として、いじり・いけず文化風の嗜虐嘲笑が常套的に用いられるかというと、恐らく脳内で共感性や思いやりの低い人達が多いからなのではないだろうか。
 公然と相手が嫌がることを平気でやって、自分の手柄にかえてしまい、被害者を言いくるめるため「(被害者の立場は)おいしい」(つまり被虐を我慢すれば観衆が嘲笑するのでいじめを受け入れろ)と定義する加害者は、いってみれば誰かを傷つけて遊んでいるだけである。
 共感性や思いやりが一定より高ければ、誰かを虐げる嘲笑は不快でしかない。吉本興業の喜劇を好んでいる人達も、或いは関西地方の人達も、共感性や思いやりが一定より高ければ、こういう非人道的嗜虐の不快さに耐え切れない筈だ。それが劇内で行われた虚構でない限り、現実では行ってはならないと思う。
 もっというと、関西地方の一部の人達は、吉本興業の劇中での作り事と、日常生活での他者の人格的尊重という常識を、殆ど境目なく混同しているのではないか。同じ現象に、東京圏の人達や、関西芸人がいじり・いけず劇をするテレビ番組等を見る人達も、程度こそあれまきこまれつつあるのではないか。