2019/02/05

日本画論

「日本画」は天心が芸大から排除されたことで出現した、洋画(欧米美術の文脈を汲んだ表現)に対置した古典主義的絵画の総称だとすれば、擬古的表現をその名がつく学科に倣っている人達が使ってるのは問題にならないと思う。
 日本画分類が、村上隆氏のスーパーフラットによる欧米美術接続以後は実質的に無効化しているから、この擬古表現(見てないから正確にはいえないが多分そうなんだろう)に日本・欧米両方での文脈上の意味が特にないというのはそうだと思う。
 ただ会田氏が指摘しているのは、芸大日本画専攻の2018卒展に出された作品の彩度が一様に低いため、そこにある画一性が同調圧力の様に働いているのは作家としての自立を妨げるみたいな意味だろうし、擬古的表現は日本画風ではあってもそれだけで現代の日本画表現とは言えないでしょうって意味だと思う。
 いいかえると、日本画専攻してる人らが擬古表現を使うのは天心以来の「日本の古典の延長上にある文脈」を踏襲してるからとも解釈できるので(現物見ずにいえる範囲だが)、問題なのは無個性さであって擬古表現ではないと思う。その低彩度や擬古表現に意味がないかどうかは個別の作品によると思うけど。
 芸大卒展みた御仁がなんでお怒りなのか、現物みてないからさっぱりわからんけど、きっと何か意味があるのだろう。しかし絵は斯くあるべきという考え方は恐ろしい。それが天心を芸大から排除したのだし、芸術界を無益有害に政治化してしまう懸念がある。日本画と洋画の分裂は今日も後禍そのものだ。
 公募展以外の場で日本画・洋画分類の禍を知る機会は中々ないが、この薩長藩閥と旧幕府方の政治闘争を反映した文化上の差別は、欧米中心教義を自明の前提とする日本文化の特徴につながっている。しかも日本人が描く洋画という意味不明な分類が不可能とわかっているのにいまだに制度化されたままだ。
 英語だとJapanese paintingというのは、オリエンタリズムの目で日本国内の絵を見るという意味を持っていると思う。これと日本画は意味がずれているけど、天心は自覚的に外の目であるJapanese paintingを内の目である日本画と同定しようと踏ん張った。
 天心に由来する院展や、明治政府に由来する日展は、ある意味天皇直属の御用絵師である日本芸術院会員の地位を競ってきた同業組合で、日本画はこの人達が自己の擬古表現を自国文化の粋かのよう権威づける方便になってきたと思う。日本画が消滅したと会田氏は述べているけど、相変わらず公募展の分類や、日本芸術院の分類に残っているので、国内的にはまだまだ続くと思う。そして更なる問題は、村上隆氏も草間彌生氏も、欧米美術の中で恐らく異国情緒のあるJapanese paintingの一種という評価しか受けていないかもしれないことだ。
 なぜ日本人の描く絵を、欧米中心教義に幾らかの影響を与える外部的なものとしか評価しない傾向があるかというと、日本国内の普遍的な美術史を作る力(美術批評の質)が弱いからでもあるし、その原因の一つは日本の高い芸術市場が競売市場を含む欧米規模より小さすぎることだ。
 だから国内でかなり大きな市場規模を持つに至ったが、元来サブカルチャーだった漫画アニメの方がJapanese paintingになっている。このことを自己批評的な現在進行形で、高文脈の中で表明しているのが村上隆氏、Mr.氏(ミスター氏ってのもすごい)、また抽象表現主義やポップアート、オールオーヴァー絵画の後継者って意味では奈良美智氏らである。

※このブログURLは2019年6月8日に
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