2019/02/05

老人の描写

愚かな老人は悲惨だ。貧しい老人は同情を買いはしても、我々はその老人に軽蔑を感じないが、老いて徳のない人は尊敬を得る機会そのものがない。愚かな老人が人前に出ているだけで、また耄碌した見解を述べて追従者の間であれこれ自慢しているのを見ると、我々は密かに軽蔑を感じざるを得ない。
 また老人が金満家だと、我々は幾らかその人に侮蔑の念を感じる。それは使い道のない金をすぐに必要とする多くの人々がいるのに、単にその貪欲な老人の死が遅れているだけに見えるからだ。このため金持ちの老人が死ぬと、我々はどこかでほっとする。
 死が惜しまれるのは高徳な老人だ。単なる形而下学の知識を幾らもっていても、その知識はいずれ誰かにみいだされたものなので、科学者らの死は大して惜しまれない。芸術家の中にも偉大さの差があって、殆ど希な例だが、老いてのち前衛性が明らかな人であるほど死が文化的危急に感じられる。単なる模倣の集積である保守的傾向の作風はその人以外のものも山ほど残されているので、サロン作家や公募展作家は死が若手に喜ばれるほどだし、そもそも生前から後進にとって邪魔者扱いされているものだ。
 ある個人と不可分に紐づけされていて、それが長い経験や得がたい修養によってのみ達成される徳で、しかも利他性が高いとき、この徳から公益を受けていた多くの人々にとって老人の死は大きな自損につながる。徹頭徹尾利己的な意味でさえ悲惨なのだから、高徳な老人と親密だった多くの人々にこの死が嘆かれるのは想像に難くない。聖人の死が最も崇厳だと感じられるのは、こういう理由によっている。

※このブログURLは2019年6月8日に
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