2019/02/12

中道は低成長に応じた質素な社民主義社会である

ガウタマは死を美化していた。Nirvanaがnir(打消語)+va(吹く)+na(過去受動分詞を作る接尾語)で「吹き消されたこと」すなわち意味の似た漢語でいえば「無欲」の意味で、涅槃がnirvanaの音写なら、無余涅槃と呼ばれるのは単なる死後である。仏教は生前は乞食生活を正当化し、死後を理想とする。
 生前の強欲を正当化する資本主義は現代商人の殆どが信仰している新興宗教だが、この考え方と仏教は本質的に対極に位置している。美術から派生し音楽や生活様式に援用された最小主義minimalismは、実際のところ仏教精神の再獲得を目指していたように思う。そこで求められているのは無欲だからだ。アップル社やスティーブ・ジョブズ、建築の世界では妹島和世やSANAAがミース・ファン・デル・ローエや安藤忠雄らの後継者として行ってきた最小主義的設計は、深沢直人らによる無印良品の家具に見られる工業設計の世界にも同時代的に相互影響を及ぼしていた。ユニクロの服が流行っていた時代背景だ。
 Jim McGuiganのクール資本主義という概念の中では、資本主義の中にいながら不満を資本主義自体に統合することがクール(米俗語でcoolは涼しげなさまを美意識に転用したもの)とみなされると定義されている。梅原宏司は2014の論文「フレドリック・ジェイムソンのユートピア概念について」でこの場合のクールという価値観が商品経済の機構へ完全にまきこまれていることを指摘し、そこに資本主義の中における人間の想像力の限界があると指摘した。マクギガンと梅原の指摘が正しければ、ジョブズの哲学の本体は禅宗を通じ彼が得た仏教的無欲の価値観を、商品経済の中に組み入れることだったといえるかもしれない。その現実化した姿が彼の属したアップル社が生み出したMacやiPhoneといった商品群だった。と同時に彼の限界も、商品経済自体にあった。
 開祖ガウタマの時点で彼がめざしていたのは、生前には(後に仏教用語で有余涅槃と呼ばれる)少欲の生活であり、これを仏教的最小主義といいかえることもできる。ジョブズが資本主義の中では求道僧の様にみなされていたわけも、これで正しく理解できる。彼自身が仏教を理論的にわかっていたかとは別に、そこで商品設計に生かされたのは物への執着を戒める価値観だった。仏教語ではこの洞察を色即是空と呼ぶことがある。
 資本主義の中で、商品経済を洗練させる手段となった仏教的最小主義は、元来の美術思潮を拡張して人生様式そのものに適用され直し、特に日本では長期にわたるデフレ不況や非正規雇用法の元で過当競争に疲れ果てた若者に好評を博しだした。宣伝を主とした情報の過剰に苦しむ様になった条件も重なり、貧しくとも装飾を廃した簡素な生活を維持すれば十分と、低消費社会に新世代が順応しだしたのである。
 生活における最小主義の行き着く果ては、もともと資本主義とは対極にある仏教的な乞食暮らしと死の美化だろう。これが嘗ての世捨て人の様に暮らしたり、プロ無職やネオニートを名乗るなど、営利生活を思想として否定する人々が現れてきている時代背景だろう。マクギガン説を超えてクールが商品経済の外部まで拡張されたともいえる。いいかえれば稼がないこと、そして公的活動として金銭取引しないことを、資本主義市場の中に生きるよりクールとみなす価値観の拡張が、恐らくそこにはある。日本人の一部の中で、徐々に旧資本主義からの脱却が図られている。
 一方で成金根性を突き詰める様に行動している人もいて、シンガポールやドバイといった租税回避地へ進んで移住し、インターネットを使った商売や投資などで矢継ぎ早に蓄財している。彼らは新成金new richとも呼ばれていて、IPOを通じた会社売却や暗号資産技術の興隆も手伝い短期間で億万長者となる。
 結局、仏教的最小主義の追求者と、新成金的資本主義の追求者とは、前者が無欲を、後者が強欲を理想視しているという意味で、対極に分かれた思想家達といえるだろう。一般大衆はどっちつかずでふらついているか、特に中道を意図しているわけでもないので、何も考えずにただ状況を眺めている。
 ではこの一般大衆といえる人達は何を目的に生きているのか? 彼らのうち日本人一般は特に思慮があるわけでも思想があるわけでもなく、第二次大戦後の地球の中で資本主義市場に適当に参加し、半ば嫌々ながら給料をもらって生活、儲けの上前を天皇に税で貢納し相変わらず王朝ごっこをするだけなのか。実際、彼ら労働者と呼ばれる人達の生態には、単なる集団浅慮しか見当たらないといえるだろう。合衆国という植民地で清教徒思想から抜き取られた資本主義の原理をGHQにより部分的に植えつけられ、天皇に相変わらず洗脳されたままで、なんとなしにその日暮らしをしているだけで、特に生きる目的はない。会社組織も日本人的に窮屈で不条理に満ちているので、普段溜まった鬱憤をインターネット上で匿名のまま第三者にぶつけるため、ありとあらゆる悪知恵を働かせている。それが日本人一般大衆の全てだろう。他にこれといった要素はない。卑怯さを恥じることもなかった町人階級の末裔なのだから、当然だ。生きる目的がない一般大衆なので、ミニマリストにも新成金にも成りきれず、かといって自分達を正当化せずにはおけないので、労働者の暮らしが最高だと自縄自縛の論理に帰る。こうして自称インフルエンサーの脱社蓄の煽りに怒り心頭し、フリーランスを嫉妬混じりに貶しつつツイッター偽名アカウントを操る。
 平成人の全生態は、この様に大まかに分類された。1つは最小者、1つは新成金、1つは大衆である。自分がここで言わんとしたのは、これら3分類の中に真の中道はありそうにない、という道徳的洞察だ。最小者は死に、新成金は悪徳で自滅し、大衆は搾取されるだろう。これらの生き方を超えねばならない。
 日本国内で資本主義の死がみられるだろうことが、恐らく真実だろうと私には思える。少子化や飽和した物質社会の果てに一体どうやって貨幣経済を維持するつもりなのか。そんなことを試行錯誤している暇があれば新興国に移住し、そこで商った方が遥かに効率も収益率もよいのである。日本の経済成長率は長らく世界最低レベルを継続しているし、それが変わらない限り貨幣経済は徐々に自然死に向かい、代わりに社民的社会に移行していくのだろう。基礎所得basic incomeの欠点を改良した一律信用universal credit等で公的に生存権を保障しなければ、格差社会で貧困化しつつ増えていく最小者たる若者や壮年者の出生率はさらに下がる一方だからだ。新しい社民社会への移行を妨げているのは、旧資本主義秩序の回復へ躍起になっている高度成長期の経験者達である。日本では自民党員の殆どがそれであり、彼らを支持する人々も同じ懐古趣味に耽っている。これらの人々がどう転んでも印中はじめ新興国の跳躍にまさりはしないので、悪あがきでしかない。一般大衆の中では、新興国商品の質的向上によってこれまで安逸に耽っていた日本企業の業績が低下し続けたり、移民らとの公平な労働市場で敗れたりして、現状の生活レベルを維持する為にすら過労せざるを得なくなり、次々最小者へ鞍替えしていくものがふえてくるはずだ。
 一方で新成金は、国際的非難によって租税回避地が徐々に狭まる中で次の金儲け先をみつけだそうとするはずだ。ケインズは『一般理論』の中で既にこのことを予想していた。曰く、金利生活者は意見の分かれ得る期待収益を予想することに辛うじて生計の途をみいだすだろうと(16章4篇)。彼ら自身はその役割に自覚的でないこともあるが、資本家の本旨は資本の限界効用を平準化することだ。需給の不一致という市場の歪みを見つけ、先に危険な賭けをし、供給不足という歪みが資本により正されるか、結局正されない中で収益と差し引きした資金を回収、撤退していくのが、その職責である。いいかえれば、世界の中に失敗し収支が負になる可能性のある事業体が残っていれば、資本家の役目は残ることになる。新成金も、現実にはこの仕事に携わる重責をさらにますべく金儲けしているのだ。
 大衆は最小者が主となり、新成金はケインズの予知が正しければ徐々に収益率を下げ、それと変わらなくなるのだろう。新成金の中で賭けに負けた者はもっと早く最小者に成り下がる。対して最初から最小者を目指していた者は、公的扶助などを得て死を免れることさえできれば、質素さに満足できるだろう。資本主義の前線は新興国に移る。そして旧先進国にかえってはこない。このことを知っていれば、中道が何かも分かる。それは自らの期待収益を予想する能力に応じた新興国等への投資に励んだり、国内経済の低成長に適応し、公的扶助を要請しつつ身の丈にあった少欲な暮らしを心がけることである。慎ましくとも最小者ほど苦行に漸近せず、新成金ほどの危険度をとりはせずとも少々の投資収益を新興国等から受けることは、努力さえすれば恐らく可能だろう。また自民党政権という高度成長期への懐古趣味を脱却し、より公的扶助を充実させた新体制へ社民主義のもとで進歩していくのが現実的な生き方だ。

※このブログURLは2019年6月8日に
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