2019/02/09

死を恐れるな

文明社会の中で、自分が利己的だと示すことは下品さの証明であり、その種の人にたかっている人達も自分達が他人より己を優先すると表明している点でつきあうに足る人格とはいいがたい。私はこの数年、商売の真似事をしてみたが、結局それは無駄だといま悟った。なぜなら商人が対象にしているのは低俗な人々であり、自分がそうなりようもない私には商業界はかかわりようもない世界だったのだ。
 他人はいざ知らず、私が商売にかかわると逆に虐げられ、貶められ、餓死に追い詰められた。現代の町人全般は商業化の果てに金儲け以外を仕事でないとみなし、迫害し、差別し続けている。私はこの数年間、彼らがどういう生態をもち、どの様な性質の持ち主かを嫌というほど観察した。結果わかったのは彼らは侮蔑に足る人達だということだった。なぜなら彼らは利己心で動いているからだ。
 自分が下衆な商人の一員になって貪り暮らすくらいなら、餓死に追い詰められる方を択ぶというのは、自分に良識があればこそ当然の選択であろう。これは私一人のことではなく、私と同じかそれ以上に高潔な芸術家達にとってもやはり同じであるに違いない。伯夷と叔斉の例を引くまでもなく、わが国には侍という貴族の前例があったというのに、なぜ今日の知識人が自分から堕落できよう。自分自身の中に高貴な魂が宿っていることを知っていればこそ、自分より貧しい人々がすべて生活保護を受け、下賤な皇族や公務員らの不正な横領を完全に粛正しきってから、自分が最後に飯を喰らうというのが、わが国の貴族のとるべき生き方なのは疑いようもない。先憂後楽と烈公が既に述べていたのに、なぜ水戸家の統治下にあった士人が数世代でその徳を失えるものか。私は自分が単に商売が下手なだけかと勘違いしていた。現実にはそれが自分に感じられる限り汚いことであるから、やりたくともできないのだ。内容が低俗すぎるのである。利己心を動機にしている。
 勿論、私に一般大衆の気持ちなど理解できないし、彼らの日常をみているとあまりの卑俗さに驚く。だからいずれにしても大衆向けの商売など自分の職責ではないことが明らかである。そもそも私が好むところのものは、大衆全般が好むところのものとあまりに違うらしく、相手をできるはずがない。先日、無教養な上に悪意に満ちた衆愚が、アリアナ・グランデというポップミュージシャンを大変に貶めている現場に居合わせた。その現場の卑賤さといったらない。神が彼らを滅ぼし去るだろうことも疑い様がない。だがそれが通俗芸術家が金儲けをしている現場なのだ。どうしてそこに自分が混じれよう。
 私はいま気づいた、死を恐れることそのものが臆病さの一種なのだ。餓死は名誉ある死に方なのである、少なくとも天皇政府が一般国民を搾取し、経済弱者を次々生み出しながら搾取し、生存権を侵害する無法者の集団であるからには。低俗で侮蔑すべき作品を残し、それで少々のカネを頂戴し、意地汚く生き残ろうとしている全ての通俗芸術家は、断言するが三流の人達なのだ。彼らは商人とその性質において何も違いがない。死を恐れ、汚い天皇政府に媚を売り、さらに汚い大衆一般の愚かさに迎合しているのである。
 自分に経済能力がないとは到底思えない。寧ろ大衆全般が下らない買い物をしたり、明らかに非効率な仕事をくり返しているのをみて呆れているほどなのだから。単に商売というものに違和感をおぼえ、本能において忌避しているのだ。それが自分の魂にとって到底携わるべくもない下賤な迎合だからなのだ。
 まだ完璧にこの商業と芸術の全く真逆の違いという真理が分析しきれたとはいえないが、おおよそこの方角で、自分の仕事はまちがいない様に感じられる。そうと分かったからには、只今をもって私は商売から足を洗うつもりだ。やめるならすぐにやめねばならない。善は急げなのだから。自分は仕事が速い。今日から明日の間中に一切の商から撤退し(最近1円も売れていないが)、一切の広告を撤去し(大した数ではないし元々収益は0だ)、寄付先も削除し(1人しか寄付した人はない、しかも恋人)、自分が1円も手にしていないのは自分の仕事が商売ではないからだと堂々と述べる他なかろう。
 自分が戦っていたのは大衆の無知や悪意というより、自分の中の死を恐れる臆病さだったともいえる。これは自分でも認めがたいことだが。といっても、この2、3年で済んだのだからまだましだった。ミューデとかいうアメーバ・ピグにいた東京女に唆されたからとはいえ、誠に無駄足を踏んだ。この2年くらいで誤って絵を売ってしまった人は、2、3人はいたように思うが、それについては回収できないのであきらめることにする。

※このブログURLは2019年6月8日に
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