2019/02/06

前衛性について

全人類を救済する絵画。だが、その様なものが可能なのか?
 リヒターが言っていた、絵の前で泣く人がいるのはどう思うか聞かれて「それは音楽の方が向いている」と。Benjamin H. D. Buchlohによる1986年のインタビューの最後にでていた。絵は単なる色による平面だから、その平面が伝えることで自分を救済できるとしたら。
 一体、宗教はなぜ嘗て人類を救っていたのか? 救いとは何か。
 下らない絵は誰も救わない。偉大な絵は確かに我々を励ますだろう。
 単なる職業として絵によって色を塗りかねを儲けるということに救いの機能の全てがあるのではない。看板屋と純粋美術の前衛画家の中にどんな違いがあるのか? ウェブデザイナーの救いは商業的なものでしかないのかもしれないが、私は代価を得る意味での救いをここで救済と呼んでいるのではない。村上隆は公的美術というゲームを遊んでいるだけで、絵自体の問題を扱っていない。遠近法の崩しと中間芸術が「フラット」という概念で駄洒落になる、というアイデアは、彼個人のオタク嗜好を正当化するのには役立ったのだろうが、そして彼にとっては内向的オタクの被差別的状況を救うつもりだったのだろうが、私はこれになんの感慨もない。勿論、私にはなんの救いの機能も果たさない。
 絵自体の問題の中に、私にとっての救いがある様に見える。そもそもそれは私が15歳の時、放課後、美術部に入ろうとして最初の自画像を油絵の具で描いたとき既に、かすかに感じとれるよう目に見えていた。私はそれを何とか達成しようともがいていたが、今も状況は同じだ。
 ダヴィンチの全ての絵は世間が言うほど優れているとは限らず、彼の博学ぶりがその作品を過剰評価させている可能性がある、と或る男が私に気づかせた。その男はダヴィンチの絵が好きではないといった。遠近法の完成とか、聖像から離れ人間像を描いた脱宗教的な面といった前衛性と、絵そのものの上品さは確かにあるが、作家が神格化されることによって絵自体の冷静な評価ができないのは大いに問題だ。
 村上隆は著書『芸術起業論』でピカソは天才ではないとか、ゴッホは発狂事件が評価に影響しているんだろうと思ったなどといっているが、村上の解釈は非文脈的なもので、この素直な子供の様な無垢な解釈が本当は絵自体を問う観点なのだろう。だからスーパーフラットという運動自体も、我々にはどうでもいい。彼個人の課題を解決し、彼にとって憧れの漫画形式を純粋美術の中でも堂々と表現できる様にした言い訳にすぎなかったのだ。qpという同時代の絵描きが、どこかで「絵は文脈的なものである必要はない」といった趣旨のことを述べていた。文脈主義そのものなハーストのスポットペインティングを、一点ずつアクションペインティング風に手書きらしく揺らがせて置いてみたからといって、だからなんだというのか?
「今日のアートシーンは通俗的な快楽から距離を置く社会的ゲームに過ぎないことが殆どです」と、リヒターが言う(Jan Thorn Prinkerによる1989年の対談)。日本では同人誌の作家やアニメーターが、この真逆の類型を実践中だ。今日のオタクアートシーンは通俗的快楽に耽る享楽的ゲームに過ぎない。動物化。
 私はオタクほど低俗になれないしなるつもりもない。一方、文脈主義に前衛性という高尚な伝統を認めつつも、それ自体に意味がないのではないかと疑っている。
 以前、私は、姪っ子をモデルに、地元の海の前の防波堤に彼女を座らせた絵を描いた。なぜあの絵を描いたかというと、文脈主義をのりこえる為だった。単に絵としてよいものとは何かを問い、しかも内容自体に注目するという、形式主義からの離脱をはかろうとした。結果は伝言性を帯びた写実画という自分が17歳の頃に描いた初歩的な様式と変わらないものに近づいて、「今はやりの」平面性を換装した装飾的な海の絵になっただけだったが。絵を見る人が文脈性の中にみいだすのは前衛性の一部であって、それを同時代に理解できるのは殆どが専門家だけだろう。全ての人を救済するなど、文脈主義の表現では不可能なのではないか。
 親友がスポットペインティングを六本木ヒルズの美術館で見た瞬間、思わず「うわあ、ぶっ飛ばしてえ」といって、私は隣で「なんで?」と聴いた。親友は「うそ、うそ」といってごまかしていた。それは我々が21歳か22歳の頃で、彼が文脈主義を批判的にみていたからなのだろうが、当時の私は文脈主義がおよそ王道的な美術思潮なのではないかと思っていた。会田誠が巨匠風の格好で哲学書を読みながら、抽象画もどきを描くというジョーク作品は、批判的なものではあるにせよ、文脈主義の上での悪い冗談にしかなっていない。では会田がどんな作品を真剣な芸術だと考えているのか。彼のカラスと電柱を構成した松林図風の朦朧体の絵は、彼のこれまで残した全作品の中でも恐らく最も真剣な作品だと私は見たが、これさえ日本画の文脈主義の延長上に自分を位置づけているだけなのではないか。春草の『猫に烏』は現物をみて私はその上品さにとても感動した。今でも過去に生まれた日本画の中で最高の作品の一つだと信じる。一体、都会のカラスの邪悪さや恐怖感を表現するという真剣さが、本当の問題なのだ。本当の問題と、専門家同士にだけ通じる高尚な遊び。春草も琳派風の装飾性への回帰によって、朦朧体の桎梏から更に進歩しようとしたのではないか? だがその当時の文脈性ではなくて、絵そのものだけが私にとって感動的だった。柿、カラス、白猫、菊だけを正方形の中へ対で構成し、ある長閑で上質な空気をつくる装飾的な金屏風。普遍的で時を超えた空間。
 qpや二艘木洋行の絵がオタクアートの破片としての漫画的具象画の変種だと日本の世間になんとなく受けとられているとしたら、そこでやっていることは梅沢和木や藤城嘘らのスーパーフラット風アンフォルメル絵画とほぼ同じことなのではないか。村上隆の後継者としてポストオタクに位置づけるつもりなのか、東浩紀がカオス*ラウンジを後援してきたのを私は観察していた。しかし彼らも私の求める理想を何ら体現していないと私はずっと感じている。オタク的、日本画的、いずれのガラパゴスな国内文脈主義も児戯に類するほど幼稚なのも確かだが(私には読んだことのない涼宮ハルヒシリーズの断片化などどうでもいいからだ)、バンクシーの裁断絵がフォンタナと関連づけられ語られる様になってからも、欧米文脈主義がただのごっこ遊びなら興ざめだ。親友はあのとき何を「ぶっとばし」たかったのか? ハーストの金儲けを? 機械的に作られた様に見える薬物中毒と重ねられたミニマル絵画のもどきを? あの作品はそこらの100円ショップで売っている水玉模様のシャワーカーテンと、装飾性の質は何も変わらない。「いい商売だな」といいたかったのか。
 高い芸術(ハイアートは、高尚さと高価さのダブルミーニングだ)は、文脈主義に基づく限り、真剣な冗談なのだろうか?
 バブルラップ展のステートメントを村上はインスタグラム上で英訳させていたが、It is serious art that can be purchased by the average consumer at a “buyable” priceと和文とは違うニュアンスで「真剣な芸術」を語っていた。この意味でのシリアスアートは「日用品芸術」と呼ぶ方が適切ではないのか。高い芸術が真剣でないとは到底いえないのだから。より重要なのは、グリーンバーグの時点で文脈主義の根拠は西洋美術史に対する前衛性であったはずなのに、村上の中ではそれが中間芸術らしさと混同されているということだ。超平面イデオロギーはポストオタクらにとってただの足枷だと思う。この枠組みは奈良美智もただのオタク作家に矮小化してしまい(私個人は奈良のカタログレゾネを全てみて彼の前衛性は『雲の上のみんな』時点で停止していると思っている)、大衆芸術と高い芸術を混同させ、全てを中間芸術化する。
 文脈主義も超平面主義も、非文脈主義も、芸術本来の自由度にとって邪魔で有害な考え方だろう。勿論、これらは救いと何の関係もない。どうでもいいことだ。絵自体にもどれ。それを解釈するのは画家の仕事ではない。
 写実画の人、名前は忘れたがあの同時代人は、日用品芸術で相当金を儲けた様だ。がそれがなんだというのか。商人はもっと儲けている。絵自体が写実主義の亜種でしかない、という凡庸さ、つまりつまらなさや下らなさになんの解決もみいだせていないなら無意義な仕事だ。俗受けなら漫画の方がよくやっている。勿論、そこに普遍的救済などありようはずもない。私がいいたかったのは、グリーンバーグが米国の抽象表現主義を西洋美術の正統後継者と定義するため使った前衛性の枠組み、これが私にとっても何らかの影響を与えてきたということだ。ずっと。前衛性は偉大さと誤認されてよいものなんだろうか? 私本来の絵の目的と違う様にも思う。自分が世界美術史の中に最も大きな項目で名を残すという野心は、絵の目的とは違う、単なる卑俗な利己心ではないか。ピカソが天才でなかったとはそういう意味だ。絵自体を丁寧に扱っていた、単なる野獣派のマティスを村上が賞揚するのはその為だ。文脈内の前衛性はヒット数の様なもので、作家の様式美と直接関係はない。これも十分いいあてているたとえではないが。「あの愚劣な前衛性から逃れられれば、絵画はもっと自由になれるだろう」。私は世界の最前線に進み、誰もやったことのない手法で何かを表現し、誰も理解しないので餓死する。
 これは自分でもおかしな話だと思うが、無余涅槃と前衛性が一致しているなら、餓死の為に前衛絵画を描いているのか? 冷静にみれば近代画家らが差異化のため色々な表現を探求していた時代の名残に過ぎないかもしれないのに、ポストモダンの後にお前は更に前進し、未踏の地に冒険していこうとする。自尊心の為か。最前線の更に先に進んで、もはや自分ひとりしかいないのに、更に前に進んでいくつもりなのだから、お前は救いという名で何を探求しているのか? 妹島和世氏も前衛的なモダニストだと私は思った。そこが彼女の最も優れた点だ。昔、親友ともうひとりの友人(ツイッターにもその友人はまだいるが、なぜか私を無視してるが)と、三人で次の様に話した。自分が前衛として道を拓くので、親友は中衛で、もう一人の友は後衛でついてこいと。確かに私はこの約束を実現しようとしていると思う。
 死を避けながら前進することしかできない。前衛性に価値があるという私の思い込みが間違いでなければ、何かが発見できるはずなのだが。

※このブログURLは2019年6月8日に
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