2019/02/13

正しい生き方によって差別される田舎の側から天皇を含む都会の悪意を批判せよ

田舎を差別や侮辱、軽蔑したりしている人達が、同時に都会を崇拝や称賛、尊敬したりしている時、彼らは第一次産業(農漁業)を第三次産業(商業)より軽視している。いいかえれば彼らは自らが同類への搾取を目的にした反社会的な悪意の持ち主であると知らずしらず吐露しているのだ。性の悪い人は農漁業の果実なしにはその日の飢えをしのぐことすらできないのに、農漁民を買い叩き、自らは安楽にくらそうという悪意をもっている。そしてそういう人達が集まると、商業地を形成する。我々が都会と呼んでいる場所はその種の悪意の集積にすぎない。
 茨城県、嘗ての常陸国は水戸の徳川家の農本主義によって、又彼の家が主導することで開拓された北海道に次ぐ農業生産高を達成し、耕地率が日本で最も高い。しかも首都圏に属するので、耕地率が最低の東京と対比され易く、商業主義の持ち主は東京を崇め茨城を貶める地域的偏見を持つ傾向にある。
 その種の搾取を目的にした悪意の頂点に位置するのが、天皇である。飛鳥時代に奈良で政権をもってから、彼らは京都に移転し、そこで彼らをとりまく公家と呼ばれた既得権共々生産を行うことをやめた。天皇が再び農業をまねだすのは、水戸の徳川家二代目光圀にとって晩年の隠居所であった茨城県の西山荘を昭和天皇が訪れ、そこで儒学の修養から農本主義者であった光圀が自らの食べる米を生産していたのを知ってからである。平成天皇は先代がまねた光圀をさらにまね、皇居内で田植えをしている。
 しかし、千年来、天皇が農業を離れそれを実質的に農奴にまかせ、自らは小中華思想(天皇の住んだ京都や後の東京を日本版の自文化中心主義的な首都とみなし、そこから離れた土地やそこに住まう人々を野蛮とみなす差別的偏見)のもとで安逸を貪ってきたことが日本人民衆に与えた風土的悪疫は大きかった。平成期の東京都民は嘗ての京都市民同様、天皇が中世以来もちつづけた小中華思想を多かれ少なかれ体現しだし、自らの住まう商業地を文化的・経済的・政治的中心地と思い込む自己愛に耽りはじめた。同時に、彼ら東京人の驕りの裏面である差別心の中で、華夷秩序意識も復活し、田舎、つまり農漁業を主に行う人々や彼らの居住地をただの悪意から卑しめはじめたのである。彼ら都民自身は十分な理論的根拠をもっていないが、その差別的仲間意識の根源にあるのは、搾取の悪意と、天皇の中華思想である。
 ところで中華皇帝制を模倣した天皇は別に、特に第二次大戦後、主な戦勝国側に属したイギリス王室(イギリスの当て字英吉利から英王室ともいう)を模範としてきた節がある。その英王室はというと、各領地を公爵以下に与えてきたことや、ある種の保守主義によって農漁業を主とする田舎を尊重する文化をもっている。少なくともチャールズ皇太子はその種の田舎紳士country gentlemanが貴族化してきた歴史に繋がる田舎主義を著書 "A Vision of Britain"(『ブリテンの展望』)や、英国等の田園地帯を描く水彩画集 "H. R. H. the Prince of Wales Watercolours" (『ウェールズ公殿下水彩画集』)で巧みに表明している。チャールズ皇太子は著書の中で近代都市(調度、古い建物が東京大空襲や関東大震災でほぼ一掃されてしまった東京を典型とするだろう)の醜悪さを大変強く批判しており、それと対比させ、自然と調和した田舎の伝統的な美質を様々な角度から称揚している。つまり、日本の中世的天皇と正反対の思想なのだ。
 貴族の親分ともいえる王族の思想が対極なので、日英の民衆がもっている田舎のイメージも全く正反対のものとなっている。日本では天皇や彼をとりまく都会人の中華思想に基づいて田舎を後進的で侮蔑すべきものかのよう差別しているが、英国では愛すべき故郷を含む伝統的貴族の住まうお屋敷と捉えている。
 ここで最初の命題、「都会人が田舎差別することは同時に商人による農漁民への同類搾取の悪意を知らずしらず正当化する」にもどるが、これが中世天皇のもっていた封建制だったのを我々は知っている。そして平成時代でも、日本では同じ構図が無思慮に焼き直されているのである。日本国憲法では門地差別の否定として、出身地を含む門地(家柄、生まれ)等での同国民間の差別は基本的に人権侵害とされている筈だ。ところが中世の歪んだ伝統、つまり中国皇帝制を模した天皇制の小中華思想をひきずっている民衆の側は、このGHQがもたらした人権思想を正しく身に着けられていない。それどころか、商業の壟断(物価差を利用した流通による金儲け)が正当化され象徴天皇制度の維持を容認している以上、日本人商人の中でイギリス的田舎主義や儒学的農本主義が宿している道徳性というものは、ほぼ縁が遠いもののままである。彼らは寧ろますます都会に密集し、都市問題を蔓延させている。
 当の模倣元であった中国の方では文化大革命後、清国や日帝のくびきを自ら外し共和国を建国した。このため中国憲法上でも中華思想の否定がはかられ、多民族間の互助が謳われている。チベット自治区に対する論争を呼ぶ点はあるにせよ、中国に皇帝はいない。逆に日本の方が中華思想に固執しているのだ。
 奇妙な世界史の転倒があるのがこれで分かるだろう。日本は11万年近くの長い間共和政の世界で、これといった王族はみあたらなかった。弥生時代に中国移民が本格化させた水田稲作や、鉄器による防衛力を用いた蓄財で幾つか大富豪としての王権が現れ、それらの武力抗争を勝ち抜いたのが古代の天皇だった。つまり日本に皇帝という中華風の存在が輸入されたのが飛鳥時代、その確立とみられる大化の改新が645年、平成にあたる2019年からさかのぼること1374年前だ。わずか1400年ほどの間に価値観の転倒が起き、嘗ては中国のものだった華夷秩序を日本側の民衆が癖づけてしてしまい、中国側は共和政に帰った。
 また2度の世界大戦を通じ、植民地侵略の最終勝者となった連合国軍の王座に君臨してきたのが英王室とすると、彼らはもともと日中の中華思想といった考えはもっておらず、逆にしばしば田舎好きの都会嫌いであって、日本人全般がもっている中華思想に由来した都鄙差別はもっていないのである。いいかえると、もともと遣隋使の小野妹子に「日の出ずる処の天子」と自称する書を送らせ煬帝から無礼とされた聖徳太子がその第一人者として、中国大陸に日本人特有の優劣感をもつきっかけとなった中華思想というものは、世界史の中でもう日本人にしか残っていないともいえる。中華思想のガラパゴス化。
 この中華思想のガラパゴス化が、日本的な全体主義に基づく集団いじめと混じって、違憲な人権侵害である門地差別をいいかえた田舎差別として表現されているのが、都道府県魅力度ランキングなどによる茨城県等への東京都民らからの諸々の名誉毀損や侮辱、誹謗中傷といった悪意なのだといえる。この様にして天皇含む日本人の考え方を分析すると、中国や英国などから進んで悪い面までまね、中英その他が既にその悪癖を脱してからも、日本にだけは諸外国の嘗ての暗面が凝縮された悪徳が残存してしまっている、といえよう。
 これがなぜ日本人全般が都会を妄執的に崇拝し、田舎をそれと対比させ確証バイアスのもとやたらと侮蔑しているかの訳である。端的にいうと古代中国人の自己中心性という幼稚さをまね、いまだにその悪い癖をひきずっているからだ。天皇の存在そのものが古代から中世にかけて中国人が肥大化した世襲王政をとっていたことを真似たものに過ぎなかったが、地球の僻地というべき立地にあった孤立した島国であったので、幕府やGHQといった強烈な武力によってさえ、彼らの祭政政治と呼ばれる島民への洗脳状態を一掃しきれなかった。
 しかし、平成日本人らがいまだに古代・中世中国からまねている悪癖、すなわち都鄙差別につながる天皇中華思想が合理性を著しく欠くものであるからには、遠からずこの種の蛮風が淘汰され、消滅していく運命のものであることもまた確かに思う。そして何が彼ら日本人全般の妄執を具体的に除去していくかといえば、単なる資本主義の経済合理性だろうと私はみる。現実の東京は過密からくる諸々の弊害が生活の幸福度を致命的に損なうところまで進展しているが、中華思想の悪癖を自ら脱却できない一部民衆は天皇崇拝の元で自縄自縛の道を歩んでいる。地球の世界史を隈なく眺めればわかるよう、永続した王権といったものは嘗てなく、それは天皇制についても同じだろう。既に彼らの先祖が作った平城京は草花の生い茂る平地に還り、平安京(今日の京都)も主に堕落した仏法僧が寺への観光収益を分捕るといった有体の一観光地に過ぎなくなっている。同じことは徳川家康が干拓した砂上の楼閣であった江戸、その後継にあたる東京についても恐らくあてはまるのだろう。商業地が矢継ぎ早に綻び易いのはあらゆる帝国の残滓や、古代遺跡が示している通りなのだ。日本人民衆は天皇の亡びた後もこの島国に住み着く者が恐らく殆どだろうから、単に共和国にもどるのだろう。そしてその頃にも中華思想や華夷秩序、都鄙差別といった旧体制の悪意が残っているかといえば、答えは恐らく否であろう。天皇がいなければ同じ日本国民を無意味に差別する意味などないのだから。
 天皇自身は心理学でいうプロスペクト理論に基づいて最後まで教皇的権威または実質的な最高権力者としての地位を保身し、今度は英王室の田舎主義をまね、都会を捨てて田舎暮らしをしたがるかもしれない。神道信者を含む彼らへの日本人信者は、今度は田舎崇拝と対比させ都会差別をはじめるかもしれない。結局、自然とふれあいながらくらすのが人類のほぼ全期間に渡る生活様式だったので、緑のない過密都市の人工的環境に暮らすより、田舎暮らしの状態にある方が低ストレスなのは一定の科学的検証が示してきたことだが、天皇は皇居の周りに小型の自然公園を作りこれを便宜的に回避しているともいえる。ところが一般都民が自身の集合住宅を自然に囲ませる経済的余裕はないので、そこで生じるストレスを田舎差別にむけかえ、合理化している節がある。曰く田舎は田舎い(ダサい。洗練されていない等の意味をもつ俗語)、都会がより高級で、自然に接するのは趣味で、金が儲かる商人の日常が最も優れている。満員電車にすし詰めにされ、痴漢の恐怖と戦いながらへとへとになって会社にたどり着き、嫌な上司や無能な部下とおしあいへしあいしつつ帰宅までをやり過ごし、再び雑踏を抜け自宅に辿りつくも疲れて何もできず寝ると、再び翌日というサイクルをくり返す。これが平成都会人の理想とする生活様式である。彼ら都会人、特に都民は大企業の後援を受け広告やテレビ・YouTube等の番組を作るので、ますます自らの中華思想を糊塗し易い。そしてその種の都鄙差別に洗脳された田舎生まれの若者はこぞって都心を目指す。結果、朱に交わって赤くなり、類似の都会人として華夷秩序の差別的偏見で自己正当化を行う。
 平成時代に起きていた全社会現象は、凡そ上記にまとめて示された。天皇の自己神格化を通じた皇帝政の確立を目的とした神道という奈良時代につくられた新興宗教は、土着の自然崇拝を巧みに大陸風多神教の中に擬人化して織り込みつつ、今日まで命脈を保ってきたとはいえ、結果は信者の奴隷化だった。日本国民全般は、この神道信者らによる天皇に貢納する労働階級としての自己正当化に端を発し、都鄙差別を当該目的にとって原理的なものと思い込んでいるわけだ。東京圏が田舎の農工業者から搾取し、天皇が分け前を召し上げ贅沢し、その顕示的消費から余った税を田舎の住民に従わせるべく再分配する。斯くして天皇制は人権が理解されている今日、既に稚拙なものでしかない。それを採用している国民の出来もさることながら、自己奴隷化に躍起な信者については信仰の自由があるとはいえ、自滅的と形容する他ないであろう。
 人類はその種の天皇奴隷制に不合理さしかみいだせず、遠からず脱するだろう。単なる中国大陸からの弥生移民の、恐らく混血した末裔と呼ぶべき天皇の奴隷となることに、本来日本国民全員はなんの道義的根拠もないのだから、退位法に関しても主権を天皇の忖度命令で侵害されている平成末にあって、全会一致の幻想による違憲立法に自覚的でないのは国民の無能以外何も示していない。
 また我々が多少なりとも知的な存在であるなら、東京圏または旧京都圏の住民らが天皇制に基づく華夷秩序に加担している場合、反人道的な人権侵害にみえるだろう。端的にいって児戯に類し、大人はその種の悪業を相手にもしていないだろうが、天皇自身もその構図の一部なのが現実だ。万人の生活様式の本質的等価と、商業的換金価値のみに基づく差別とは全く別のものだし、後者がただの商業主義なのは明白だから、国民の一部がくらす土地に原発等の公害施設をおしつけ平気な都民その他は、傲慢であるのみか単に人権を理解していないだけなのだ。
 英王室の田舎主義は背後に封建領主に公的統治権を与える王威という利己的な訳があるとはいえ、その別の面には民衆に非商業的な価値観や郷土への誇りをもたらし、近代都市への人口過密化を避けるよすがとなるといった美質も多くある。単に自然を愛することそのものが人間的善良さの印とカントは考えた。自然の中には人間的悪徳と呼べる都会的な暗面、例えば環境破壊や詐欺、過度の搾取、児童買春等はまだ見当たらず、狩猟採集時代のよう単に同類と協調する人間の素朴な状態が投影され得るという浪漫主義的な考えによっているのだろう。同じ素朴さは自然とより近い田舎の中にも確かにあるので、我々はそれが都会人の驕る洗練と称した諸々の悪徳より道徳的価値の高いものであるとみなせる。都会ずれした下品さや、退廃した意図で善良な人を陥れ、自らの商魂の為に騙し合いを演じている都市住民には永遠にその種の美質はかえってこない。
 今日の日本で為すべき生き方は、中華思想の差別的偏見や悪意をもった都会人が最も軽視し貶めている茨城県の様な田園地帯に住まい、その固有の美質を最大限に表現し称揚しながら、天皇を代表とする都会人の悪徳を最大限揶揄し、批判し、日本国民全般にかけられた神道教義の洗脳を解くことである。この宗教革命は単に神道という民族宗教がもたらした日帝という禍々しい過去への反省を意味するのみならず、その災厄から精神面で真に自分達自身を復興し、本来の共和政へ我々の多数政治をより一層推し進め、国民自身の幸や誇りを再獲得する政治改革でもある。実際、都民は全日本人の約1割でしかない。たった1割前後の悪意の為、9割の日本国民が差別され、虐げられ、我慢を強いられ、挙句の果てに原発公害や凄まじい搾取を堂々とされているとしたら、それは到底正しい国とはいえない。神道教祖を兼ねる自称皇帝の単なる傲慢な人が持つ、中華思想が落ちきるところまで堕落しきった成れの果てでしかない。
 正しく生きることができれば、都鄙差別という日本人特有の卑しい悪癖も、それを本源的にもたらした中華皇帝の猿真似をしてきた天皇一族の疎かな悪意も、自らの徳の力で浄化されることだろう。