2019/02/17

の、ん、む、ぬ、の研究

「の」は終助詞として1.柔らかい断定(例「私は知らないの」)、2.問いかけ(例「何がすきなの」)、3.命令(例「だまって食べるの」)と3つの意味がある。一方、関西弁の終助詞「ん」(例「うちは知りませんねん」)はこの「の」が訛った形であるとする。
 ところで標準語の「ん」 は、古語で推量などの意の「む」と、打消しの助動詞「ず」の連体形であった「ぬ」が混同されながら崩された助動詞としても使われている(例「どうなんだ(推量。上代東国方言「なむ」と、連語「なむ」の混同)」「俺は知らん(打消し)」)。
 ここで、関西弁の助動詞「ん」(例「わしは知らへん」)は、上述の標準語の終助詞「の」が訛って使われている時としばしば混同され、上述の終助詞「の」の3つの意味(柔らかい断定、問いかけ、命令)と、更に「む」から推量、「ぬ」から打消しの意味が加わり、多義的で曖昧になっている。
 まとめると、関西弁の終助詞・助動詞「ん」が含んでいる意味は、
1.柔らかい断定
2.問いかけ
3.命令
4.推量
5.打ち消し
と5つあり得、この語の意味を知るには文脈に依らねばならない。
 また、標準語の終助詞「ん」は、古語では推量の意味で助動詞「む」か、打ち消しの意味で助動詞「ぬ」として使い分けていたので、平成時代の時点で、短歌や俳句など擬古文の詩語として残るこれら「む」「ぬ」という日本語は、本来伝えたい意味を文脈に依存せずより明晰に伝えるのに有益である。

おべっか使い

トランプの心の壁を省みずアメリカ二軍でおべっか使い

死が救いである為には限界まで利他的に生きるといい

自分が死を救いと感じられるよう生きるがいい。生前に己の限界まで利他的に生きていたら死は恐れるものでなく、その労苦からの解放となる。自殺した人はこの理屈に悟っていなかったので死を恐れつつも急いでしまった。利己の為に生きる意味は見いだせない。死についても同じだろう。

魅力はもともと主観的で絶対のものだから、媒体に情報操作された誰かと同じ魅力の感じ方は疑わしい

きのう、ある学者(誰かいわなくてもわかるかもしれないけど)が、北海道をべたぼめしてるのをみて、とてもこんな低俗な人には関われないと思ってリストから外してしまった。その人は実用的な投稿と専門的な投稿、しばしばひどく低俗な投稿を織り交ぜる特徴があって、最後のが自分には耐え難い。
 北海道、沖縄、京都、(あるいはしばしば東京や横浜)をやたら魅力という観点から持ち上げ、逆に茨城、佐賀、群馬、栃木、埼玉、名古屋市などを貶めるというのが、ブランド総研という都内の会社等によると平成日本人一般がもっているらしい確証偏見なのだが、この人も完全にその偏見を述べていた訳だ。
 私はこの中で茨城に住んでいるが、『常陸国風土記』を読むと、奈良時代の段階で今日の茨城県にあたる常陸(ひたち)の国は、当時の大和王朝の高級官僚から極めて最上級で褒められている。冒頭を読めば分かるが、天国(常世の国)といわれてさえいる。僕は前、冒頭だけ訳した(拙訳『常陸国風土記』前文)。
 ではなぜ、今日この真逆の貶めの様なことが、今度は日本人の一般大衆の一部から行われているか。僕は0歳の時から北茨城市という所に住んでいて、ここは海・山・川・湖に恵まれ田園と里山に隣接した小都会で、いわゆる天然にできている田園都市といえる。エベネザー・ハワードが郊外開発の類型として金儲けを含めて作ろうとしていったものではなく、最初からその様にできているものである。
 で、そこで子供の頃、目の前は開けた野原で、春は菜の花やたんぽぽが咲き、夏はばったを草原の中で捕まえて遊んだり隣の家の庭にひまわりが大きく開いていて、秋はトンボがすすきの中を飛んでいて指で目を回して遊んだりしていたし、冬は一面の雪化粧で足跡をつけ回り雪だるまや雪合戦で遊んでいた。思い出は数え切れない程あるのでここでは書き尽くせないが、あるのどかな春の日、山あいの田んぼに両親と車でいって山菜をとったり、ある夏の日に、幼馴染の秋田君と近所の川に入って遊んで、近くにあったスパーというコンビニで冷たいおそばを買って、二人で川辺に座って食べた。とても涼しかった。沢山、僕らの小都市の周りに湖の様な沼があるので、そこにマウンテンバイクで友達と放課後に直行して、ブラックバスの釣りをやったりしていた。野口雨情生家の前の海でも、友達と釣りをした。夏は海や川や清流で遊べるので、家族で山奥の冷たい清流にピクニックにいって、ヤマメを釣ったり、おにぎりを食べたりした。東京や千葉からおじさんらが実家に帰ってくるので、一緒に川であゆ釣りにいった。家で塩をふって、小さな川魚を焼いて食べるとこの上なく自然の滋味というものがわかる。
 中学校の頃、友達とみんなで友達のお父さんのトラックの荷台にのせてもらって、風をきって花園神社がある山奥の清流に遊びにいった。透き通る川の水にみな崖の上から飛び込むのだが、僕は町育ちの都会っ子なのでその種の野蛮な行いはやったことがなく、無意識にびびって足がもつれ、飛距離不足で崖にあたりそうに落ちたので、すぐ柴田君が川に飛び込んで助けにきた。その後、学校で某土方の子(名前は何だっけ)にそのことを笑われた。
 中学校2年だか3年だか忘れたが、夏休み、市内であった花火大会の終わりだかなんだかに皆で磯原の海まで自転車でいった。潮風がとても涼しくいい香りがし、日の暮れかかった海は浮かぶ二つ島ごと静かに青く、徐々に暗くなりつつあるのだが、いや夕暮れを反射しながら言葉にいいあらわせない色に変化していって、途轍もなく綺麗だった。そこにみなで自転車を留めて、なんかを話したりしていたかだった気がする。その場に柴田君もいたのだが、その柴田君が好きだった女子もその場にいたかなんかで彼はテンションがあがり、いきなり海に飛び込んで、下半身ごとびちょ濡れになりながら騒ぎだした。僕はそこでみなと腹の底から愉快で笑って眺めていたのだが、その時の感じは他の場所で得られたとは全然思えない。
 僕が19歳だか20歳くらいの頃、芸大受験で落とされ、必死に東京・池袋の美術予備校でデッサンの練習し、やがて猛勉強して美術系大学がいんちきだと悟り、そのころ同じ都内の保谷という場所に住んでいた田中隆央君と煮込みうどんを食べにいき、「芸大受験やめる」といってなぜか彼に泣かれた後の話だが、そのころ僕はデ・ステイルやモンドリアンの新造形主義の研究をしていて、それは建築に絵画・彫刻を装飾的要素として統合しようという考えだったのだが、それなら最も時間がかかりそうな建築を新たに学ぼうと決心していた。それで実家に帰ってきて毎日、建築に必要な数学や物理を新たに勉強していた。
  毎日僕は、気分転換に海へ散歩に行き、そこをネット・ウォークマンだったかツタヤで買った500円の音楽プレイヤーだったかで音楽を聴きながら、真っ暗になるまで走った。海は毎日表情が違うし、砂浜も形を全く変えて行く。朝・昼・夕・夜と海は色も姿も違う。そこには宇宙そのものといえる無限がある。学科は通ったが、実技について自分は型にはまったことをさせられるのが苦痛だったが、自分では完璧に手本通りの設計図を書いている筈なのに結局、5、6回落とされた。で、僕はその間、主に東京の調布という場所に住んで朝から晩まで一人で勉強し、たまに地元の北茨城に帰ってきたりしていたのだが、ある夏の日だったと思うけど、僕は果てしない勉強にも疲れ果て夕暮れの磯原の海辺に座り込んだ。空に満月に近かったかは定かではないが一つの月が浮かんでおり、あたりには誰もおらず、潮騒だけが耳に聞こえた。あたりはオレンジに近い色に染まって、徐々に夜になりつつあった。
 それは自分が寝ている砂浜が、周りはもう涼しさを通り越して徐々に寒くなっていく夜の穏やかな海を背景音に、ほのかに温かいということだった。それまで僕は砂浜は冷たいものだと思っていた。死んでいると思っていた。地球は無生物で、あの大都会と同じ物体だと思っていた。それは大きな間違いだった。
 勿論、日の光を地球が吸収し、内部熱として保っているだけなのだけど、現実にその温もりを自分が全く不意に感じてみると、地球は、そして自分の地元の海は、常に自分を、ほかのあらゆる生き物と同じよう温かく見守ってくれていたのだと気づくことになった。僕は芸術の道を歩みだしてから、殆ど誰からも無視され、時には狂人と間違われながら、酷く孤独だった。しかし子供の頃からきちんとしつけられ、真面目な自分が探求を諦めるべくもない。その時、地元の海で僕は一人で涙を流した。この星の人間達は僕にとても冷たく、誰も僕を助けてはくれなかったが、少なくとも、この星は僕を助け、支えてくれていたのだと気づいたからだ。母なる星は自分がこの市、この町に生まれてから、一度も休むことなく僕を見守り、密かに父なる太陽と共に自分を温め続けていたのだ。音楽はやんでいたが、海の奏でる潮騒の方が遥かに素晴らしく、とめどもなく尽きせぬ曲だった。あお向けになった格好のまま、手の平を砂浜の中に突き入れてみると、星の温もりは確かだった。しばらく、計測できないほどの時間そうして海の歌と、地球と、月が僕を見守る中で休んでいたが。それで自分は安心し、上半身を起こし、涙を拭いて、真っ暗闇を国道の車のライトが切り裂く中、帰途についた。
 僕はその他にも数え切れないほど、表現し尽せないほど、地元にあたる北茨城市や、それを包む茨城県の思い出を色々ともっている。だから自分を産み育てた母であり父にあたる茨城を、日本人の都内の報道機関とかが、ブランド総合研究所という都内の会社の会員にあたる一部の人達の意見をうのみにし、魅力が最低と何年間もしつこく毎年いわれても、単なる侮辱にしかきこえないし、実際に僕への激しい侮辱にあたるのではないだろうか。
 僕は北海道にも沖縄にも行ったことはないし、行く予定もないが、京都には何度も行ったことがある。修学旅行で1回か2回、個人旅行で1回行った。で世間が京都を至高の観光地みたいに言っているのはよく知っているし、『源氏物語』も『枕草子』も読んだし、自分が見た範囲で詩仙堂だの桂離宮はまあまあよかったけど、僕個人の趣味からいうと、あまり好きではなかった。公家が国税で贅沢三昧していた証は、正直いって低俗な悪趣味だと思った。なぜそういえるかというと、茨城の水戸弘道館や西山荘、或いは佐竹寺を僕は知っているからで、水戸弘道館や西山荘の示している質素の美学や、佐竹寺の雄壮で堂々とした古典的構造による茅葺建築の愛民的素朴さという意味で、今あげた京都の建築物より遥かに善い趣味を示しているとわかっているからだ。
 しかし世間の人々は低俗な趣味を好むものだから、僕が幾ら偉大な文化遺産を茨城の中に知っていても、或いはかけがえのない絶対的価値というものを実体験として十分に知っていても、ブランド総研会員やその他の日本人全般が、それに気づくことは多分、今後もないのではないだろうか。人の行く裏に道あり花畑、と相場格言でいうけど、これは好みについても全くあてはまると思う。皆が東京や神奈川に鬱積し、東横線の満員電車で隣に座った会社員が性風俗の話を公然としだした時はあまりの汚さに吐き気がした。が都会にはじめからくらしている人は無感動になっていて、何も感じないのだ。
 ある日、僕が都内から普通列車で地元に帰ろうとして、常磐線にのって車窓を眺めていたら、スーパーひたちに乗っていたのでは気づかなかった一面の緑色の稲穂に感激したり、途中で筑波山がみえてきたので駅でおりると、そこに豊かな水を湛えた霞ヶ浦が果てしなく広がっていて、大いに感動した。その霞ヶ浦の周りを散策してみたら、調度夕暮れ時で、無音の湖を鏡写しにした上を、白鷺が絵の様に飛んでいった。その飛んで行く先には、夕陽で紫色に染まった筑波山がシルエットになって映っていて、夢の様に美しい景色にしばらく唖然とするほど見とれていた。これほど素晴らしい景色が、あの喧騒とごみで溢れた大都会東京の本のすぐ近くにあったのだ。ある日、東京の渋谷駅で会社員がゴミ箱から、自分が読む為の新聞だか雑誌だかを漁っていたのを見た時は、カルチャーショックを受けた。僕は急ぎすぎ、特急列車で大事な地元の美質を見過ごしていたのだった。
 その霞ヶ浦の周りを散策してみたら、調度夕暮れ時で、無音の湖を鏡写しにした上を、白鷺が絵の様に飛んでいった。その飛んで行く先には、夕陽で紫色に染まった筑波山がシルエットになって映っていて、夢の様に美しい景色にしばらく唖然とするほど見とれていた。ついさっきまであふれる人混みと雑踏に紛れ、死んだような目つきでその間を擦り抜けて抜けてきた東京の新宿駅と違い、辺りには誰もいなかった。湖の中にいる筈の魚達さえ一言も話さない。しばらく目を開いて行くと、堤防の上のあぜ道を、地元のおばさん2人がウォーキング用のカシャカシャいう白い化学素材の運動着を着て、子供だか親戚の子だかの芸大受験かなにかの話をしながら歩いていた(取手に芸大校舎があるので近いからだろう)。ここでは目を見張る景勝が、普段の景色なのだ。
 これほど素晴らしい景色が、あの喧騒とごみで溢れた東京の本のすぐ近くにあったのだ。ある日、渋谷駅で会社員がホームのゴミ箱に手をつっこみ、自分が読む為の新聞だか雑誌だかを漁っていたのを見た時は、カルチャーショックを受けた。僕は急ぎすぎ、特急列車で大事な地元の美質を見過ごしていたのだ。後に、僕は『常陸国風土記』や『万葉集』にも奈良時代や平安時代の人達が似た様な感動を述べている詩句を見つけ、古代から同じことだったのだと悟った。恐らく僕のこの記録も、未来の人に参考にされ、やはり筑波山や霞ヶ浦の美に魅せられ憂いをなくした時に、思い出される筈だ。
 北海道や沖縄、勿論、京都や東京にも素晴らしい景色は沢山あるし、そこで生まれ育った人達には絶対的な価値がある筈だ。だがそのことは、茨城についても全く同じで、それは他の地域と比較して評価できるものではない。好みが或る集団で偏るという現象は、或る意図の媒体に情報操作を受けて生じる。
 パリ症候群(憧れから花の都へ行った人が現実の醜汚や文化差に失望し鬱状態になる現象)は、絵が情報操作の媒体となった影響があると思う。印象派以後、エコール・ド・パリの画家らが主にパリ界隈の風俗を美化した絵ばかりを残し、それが近代化のはじめに日本へ輸入されたのと同時に、首都パリのあるフランスが日本人にも一般に知られはじめた。これが日本人にとってパリの印象を決定づけていることは明らかで、今もその影響が残っている。​茨城県は首都圏整備法で首都圏(多極分散型国土形成促進法によると南部の一部は東京圏)に位置し、都内のテレビ放送が基本的にほぼ全て受信できることもあり、民放の会社がない。なくとも情報受信に関する限り不便が全くないからだ。これが一般大衆向けの茨城情報を外部に進んで表現しない既定条件となっていて、水戸学に含まれる孔子的「人の己を知らざるを憂えず」式の君子道徳、奥ゆかしさもあいまって、そもそも自分達の優雅な暮らしや日常を他人に商売だかなんだかを目的に激しく喧伝するのは下品なことだという風土がある。
 いいかえれば茨城情報は県外に先ず知られていない。実際にここで生まれ育ち体験的に知っている自分の様な人は、外部の無知さから受ける多くは悪意ある偏見だか差別だかに驚嘆する。なぜなら東京がテレビ局など大衆向け報道機関を通じ、捏造した悪意ある虚像にあてはまる時だけ茨城をとりあげるからだ。
 同じことは北海道、沖縄、京都、或いは佐賀、群馬、栃木、名古屋などにもあてはまる。東京都民が自文化中心主義で自分の確証偏見を裏づける偽情報を適当に捏造しているので、何でも色をつけ放題なのだ。都民は9割が商人で、江戸時代に大坂商人を家康が呼び寄せたところから町がはじまっているので、大まかに商業や大衆的な大都市文化を自分と似ているので称揚し(例えばロンドン、NY、パリ)、農工業や貴族的な田園文化を貶める傾向がある(いわゆる全世界の田舎全般、荘園等の田園都市)。つまりこの偏見の目的、都民の自己愛に都合がいい方向へ、国内外の情報は歪んで伝えられる。
 ここまで書いてやっといえるわけだが、自分が感じたのは、冒頭に書いた或る学者の好みは、この東京的自文化中心主義によって裏づけられるのではないか、ということだ。
 自分は北海道を日本人一般だの、それを越えて人類全般がやたらと魅力的だ! と褒めそやしていたら、先ず怪しいと思って現実に魅力がない点を進んで探そうとするだろう。逆に茨城をやたらと魅力がない! と貶めている人が多かったらその魅力を自分で探しに行く筈だ。魅力は主観的印象なのだから、なんらかの先入観をもっていると、世間の多数派を占めている誰かに操作された好みと知らずしらず似通ってしまう筈だ。裏を返せば、自分が偏見から自由に物を感じ、真理を直接捉えられれば、世間の好みとしばしば違う結果が出るはずだ。比較文化論の見地からいっても、或る文化が全面的に魅力的であるとか、他の文化と比較してそうだとかは全然いいえないのであって、単に他文化と異なる要素があるだけである。個人的好みが主観的経験に左右されている以上、ある地域文化の魅力は絶対的価値をもっており、それを単に称揚はできない。いいかえれば別の文化と比べてここがこの様に異なっている、とはいえるが、それらの間に上下とか優劣の価値づけをしようとするのは間違っている。或る地域の魅力を他に対して称揚することは、単なる自分の思い込みを確証偏見で上書きし、他文化を差別する恥知らずな世界観に過ぎないのだ。
 中華思想が中国から日本に伝わり、天皇がそれをまね、奈良や京都、東京で自文化中心の帝国主義的中央史観に耽ってきたと既存の日本史は知らせているが、世界史の本でこれは無残にも打ち砕かれ、逆にしばしば欧米中央史観で蹂躙されてしまう。勿論どの中央史観も間違っているのだが。
 北海道がなぜ都民に人気の観光地なのかといえば、東京という過密都市と正反対の大自然が広がっているという、各媒体に情報操作された空想からだ。同じことは沖縄にもいえる。そして京都の場合は、近代都市である東京と違う、中世都市の名残があると、都民の媒体的空想の中で信じられているからだ。対して、茨城や佐賀の大部分は関東平野・佐賀平野という広大な穀倉地帯であり、いわゆる田畑が地平線まで広がっている。特に茨城の関東平野は日本最大の平原であるばかりか耕地率も日本一なので、夏には稲穂が地平線まで広がっている。奈良時代の官僚が当時の米経済に理想郷と見たのは想像に難くない。
 ところが金銭経済に入った東京商人の大半は、米を商品価値が大して高い物とは感じておらず、しかも彼ら自身は観光を通じ各地を自らに都合よく利用したいと考えている。西洋圏では荘園領主の伝統もあり農家滞在等のグリーンツーリズムも流行ってる様だが、元々町人の末裔たる都民にそんな高尚さはない。しかも都民の殆どは農工業の現場に接した経験がないので、田畑や工場が何かすら知らない。或る都民は米はコンビニに落ちてくるものだと考えていて、水田の稲から脱穀されると知らなかったりする。又私は別の都会かぶれな長野県出身の女が収穫後の冬の田畑を荒野と言っているのを見て驚いたことがある。彼ら都会で生まれ育った人達一般は、自然を近づき難く恐ろしい対象だと考えていて、川は都内でそうあるよう下水だと考え、親から近づくなといわれ育っているのかもしれない。海はヘドロの積もった東京湾でなければ南の島の透き通る水どちらかで、自然のイメージが極端化され引き裂かれているのである。
 そうであるから、天然または人工の田園都市、田舎町がもつ中庸性、つまり大自然や大都会ではないが程々に人為的な里山や田畑に囲まれ、中小都市の中にそう極端でなく自然と接してくらしうるという特徴を、東京都民は正しく認知できない。都心から大自然か古都か、観光地としてしか外部の世界を見ない。
 これが茨城を代表として、佐賀、群馬、栃木、或いは名古屋といった田園都市的な中庸性をもつ類型の地域を、東京から情報操作された日本人全般が魅力がないと思い込む、差別的偏見の分析結果である。そして北海道、沖縄のよう雪国・南国という、東京の関東的風土から遠い類型の自然がある地域や、京都のよう異国情緒のある地域を、観光的消費地という客分のまなざしで魅力的とみなし、無闇に美化して賞賛するのが、この偏見と表裏一体の裏面である。
 某学者の吐露している偏見に見える大賞賛も、私が第一印象で直感的に感じた限り、この東京中心教義の媒体を通じた強化活動の裏づけになっている様に思う。我々にとって差異という認知の基本的な構造から、真の知識として役に立つのは、その種の既存の偏見を反証してくれる情報の方なのだ。
 まとめると、私は北茨城市という茨城最北の町で生まれ育って、そこに我々人類を含め、家の前の空き地の土の中に住んでいたオケラや、磯にひそんでいるアメフラシや、山奥の清流にひっそり生きているイワナなど、沢山の命が生きているのを知っているから、彼らの為にも魅力がないなどとは到底いえない。で、東京都民は自分が観光先に択ぶ地域をやたら美化して宣伝し、航空会社とか観光業者の肩代わりとなる情報を流すので、日本人全般は洗脳されている。だが現実の茨城には涙が出るほど美しい景色だとか、ここで書かなかったけど恐ろしく美味しい食べ物とかはしぬほどある。県外人は知ろうともしないが。
 Aを大賞賛するのは、しばしば、その他大勢であるところのBを間接的に貶める宮廷風の嫌味な修辞である。某学者がその種の嫌味を意図していたかは定かでない。ただ、私がいいたいのは魅力という言葉で、或る地域文化全体を称揚したり貶したりするのは元々間違っているし、実は不道徳なのだということだ。皆が京都を「全て」誉めそやしていたら、その一部には魅力的でない部分もあるではないかと考えたり、皆が茨城を「一般化して」貶していたら、その考え方自体が思い込みではないかと疑義を呈したりするのが、今日の知識人が、比較文化論を経てやるべき仕事ではないか? 広く文明の比較論として。
 ま、その某学者が民俗学とか比較文化論みたいな比較的新しい分野に無知なまま歳とってしまった偏屈な俗物なだけでしょ、と誰かにいわれればそうかな? と唸ってしまうけど、そう言ってくる人も今の所いないので、植民地主義がひっくりかえった様な開拓地礼賛に、なんか妙な違和感を感じ書いてみた。アイヌが本州・九州・四国の和人にどういう扱いを受け今に至るかを思えば(アイヌの妻がいた間宮林蔵みたいな時代を先駆けていた和人もいたが)、某学者みたく急に手のひらを返し北海道礼賛を始めるというのは、いかがなものか。旧和人側に都合がいいので誉めだすなら最初から侵略するなという話だ。もし本当に北海道が豊かな自然に恵まれた美しい北の大地であったら、そこは本来、アイヌの暮らす場所であった筈で、旧和人側の末裔というべき某学者が、その土地の特徴を過度に美化して語るのは、植民地主義的な恥知らずではないか。アイヌに所有権があるべき筈だったものをとりあげてから、自賛する。
 まだ僕がその某学者のツイッター投稿に感じた強い違和感の全てをうまく書けたとはいえないが、大まかな部分は書けたかなと思う。
 そしてその大礼賛投稿を見たせいで、自分の中では北海道の印象が物凄く低下してしまい、少し前まで北海道新幹線で行ってみるかと思ってたけどもうやめた。誉め殺しだ。パレスチナ問題でイスラエル軍を一方的に賞賛するビデオを見せた被験者は、3割が考え方を変えたらしい(Boaz Hameiri et al. 'Paradoxical thinking as a new avenue of intervention to promote peace' 2014)。特定都道府県を誉め殺しするのは同じ効果があるのかもしれない。

2019/02/16

050から始まるデータSIM通話でも緊急連絡可能に政府は制度改良せよ

050から始まるデータSIM通話でも、通常の電話と同じく110番や119番という緊急連絡先へ通話可能と義務づける様、政府は制度を改良すべきだ。具体的には発信者情報をGPS等の位置情報で警察・消防側に自動で通知するか、それが不可能な場合でも口頭で位置を伝えればよいとし、旧制度を変える必要がある。

ゼロカット制度を全証券会社と取引所に義務づけるべし

政府が為替取引において追証を制度的になくしたゼロカットを義務づけるのは、単に極端な値動きによる市場の不安定化を防ぐ流動性の確保という本来の為替取引の目的に照らし、証券会社が不安定な通貨・商品で被った損失の責任を取引者側に転嫁し、暴利を貪る国内業者の悪癖を断罪する為に必須である。
 同じことは暗号資産を金融商品化し、為替取引風にてこ(leverage)を用いて短期売買を可能にしている取引所についてもあてはまる。いいかえればゼロカット制度の義務づけは、政府が取引所を新金融機関として公認するのと同時に、既存の証券会社にも等しく適用しなければならない。これは現物取引については資産以上の損失がありえないので適用されない。てこを含む為替・商品・暗号資産等の取引で、本来、価格不安定な取引紹介の責任を負うべき金融機関側が、利用者の資産以上の負債を追証扱いで責任転嫁する負の外部性を内部化する為、ゼロカット制度が国民財産保護に不可欠だ。

暗号資産を他の金融商品と同等に扱い、租税回避は法定通貨ごと取り締まるべし

BTC系の非中央集権の暗号資産、NEMの様な匿名資産、ADKの様な無税資産、これらは無政府資本主義を内在化しているので、法定通貨を発行する国家権力側が単なる無理解や未知への恐怖を感じつつも弾圧に逸る実には一定の理由がある。勝手者(libertarian)と非中央集権系暗号資産は極めて親和性が高い。ブロックチェーン技術の派生物には、民間企業Ripple社が既存の国際銀行間通信協会(SWIFT)の代替手段として開発したXRPを主とした中央集権系暗号資産もある。主に法定通貨からの一方向への交換のみが可能な商取引に使える企業発行のポイント等は電子通貨と呼べ、広義で電子取引上の法定通貨も含む。
 ところで、日本政府はこの中央集権系暗号資産が、電子通貨以上に円等の法定通貨の商圏や税制を脅かすものではなく、寧ろ電子通貨より一層商取引を合理化し、国内・国際経済活動を促進するばかりか、徴税についても公開台帳により透明化できると知らない。
 SBIグループの北尾吉孝氏がXRPを用い国際送金を合理化しようとしているのは、それがSWIFTを経由するより国際商取引を高速で手軽にするからだろう。これ自体に既存の法定通貨や徴税機構と矛盾する所はなく、寧ろ匿名性のない(資産の送受双方を特定できる)XRPが使われれば、経済活動も税収も上向く。一方で、現参議院議員の藤巻健史氏が銀行口座をもたない20億人を世界経済にとりこむという名分を掲げているのは、実際には、法定通貨に釘打たれた電子通貨を除き、非中央集権・中央集権系どちらの暗号資産をもこの範囲に含めているので、無政府資本主義的な要素を多少あれ含んでいる考え方である。
 ここで国が問題にすべきなのは、非中央集権系の暗号資産は、特に匿名資産の場合、徴税権を働かせる為には送受双方の特定が厳密にはできないばかりか、暗号化されてもいるので、取引所を経由し換金された分がどこにしまわれても鍵なしには取り出せないということである。いいかえれば非中央集権系の暗号資産の内、匿名性が高い通貨は国の徴税権を工夫次第で逃れられる状態が既にある。そして地下的需給として一部の暗号資産、具体的にはADKが租税回避目的の勝手者を魅惑している資産価値の源泉のもそこにある。ADKは取引所自体が一か所しかない上に、発行者兼取引所側ははじめから租税回避市場を含め当該匿名通貨を流通させようとしているので、彼らも藤巻氏の名分と同じ目的を掲げてはいるが、実際には勝手者が最終的に各国の徴税権から資産を隠す用途が想定されている。
 結局、徴税権の維持を或る国が重要視するなら、国法で非中央集権系の暗号資産の内、送受側の特定が不可能となる通貨の取引を国民に禁止するべきことになる。現状では送受側を特定でき、国内取引所で口座の持ち主や法定通貨換算額が分かるものもあるので、匿名通貨自体に問題があるのではない。しかし厳密には他国や租税回避地に取引所を置けばそこで法定通貨と暗号資産を交換可能なので、この禁止は実際には国内での暗号資産への一部の制限に過ぎないともいえる。が、パナマ文書等の既存の租税回避自体にも脱税目的がみいだされる限り、法定通貨にも租税回避地を使った際の罰則が必要である。
 そして先をみれば、単に日本法が一部の送受特定不能な非中央集権系暗号資産や租税回避地を用いた脱税へ罰則を設けてからも、他国はそれに準拠していない以上、日本国民以外には徴税権が働かない、という事態があり得る。よって財務大臣・中央銀行総裁会議を通じ、地球規模で類似法を作る必要がある。藤巻氏のいう20億人余の銀行をもたない人々の市場は、スマートフォン等の浸透で暗号資産による商取引が半ば自動的に一般化するので、特に中央集権系の通貨の内、銀行と釘打ちするする必要がないXRPの様な通貨を中心として実現し、また興隆していくだろう。これは単にこれまで銀行の果たしていた役割を、取引所が果たす様になるだけであり、Ripple社のよう中央集権系暗号資産の発行者が民間企業として銀行に代わる役割を果たす様になるだけなのだ。法定通貨は、単なる実用性の面で、最終的にはXRPの様な民間の暗号資産にほぼとってかわる様になるはずだ。なぜなら通貨発行権を政府がこれまで中央銀行に管理させてきたことは、為替の流動性に関わる市場の不安化要因や、集産主義的な非効率性、中央政府の肥大化に伴う皇室・公務員等の浪費や傲慢など諸々の弊害、特に赤字国債発行による財政危機などを招来してきた。それを民営化してしまえばよかったのだ。
 したがって今日の政府が為すべきことは、暗号資産の各取引所にこれまで銀行に付与していたのと同等以上の権限と管理義務を与え、預金保険制度によって取引所破綻時の法定通貨に換算した分の暗号資産を、各取引所に全額補償させることである。また一般の金融商品と同じ税制を暗号資産に適用し、法定通貨・電子通貨・中央集権系暗号資産、及び非中央集権系暗号資産の一部の間の為替取引を活発化するよう鼓舞する中で、実質的な民営化の範囲で十分な通貨間流動性を確保し、より商取引を自由に賢くできる様、金融政策の発想を転換せねばならない。
 最後に、新たに通貨の概念が変わりつつある今、政府が専ら優先するべき金融政策は、各取引所に特定口座と同じ制度を容認させ、利用者側の利便性を最大化しながら、納税の義務を取引所に代行させることである。これは証券会社へ既にしてきたことなので、凡そ同じことを取引所に許可すればよい。

経済の目的としての需給の完全一致は、市場全能説による私利の追求では果たせない

経済の本来の定義はそれが経世済民の略語であるよう、需給の完全一致をもたらしあらゆる人々が自らの欲しい物事を十分に手に入れられる様にする作業である。しかし資本主義者や自由至上主義者はこの本義を忘れ、自己利益の最大化が経済の目的としばしば思い込んでいる。彼らの信仰の根拠は、アダム・スミス流の見えざる手(『国富論』4編2章の意味で、或る個人の勤労価値を彼ら自身が最大化しようとする結果、それは彼ら自身が気づかぬ内に公共の利益を達成させるという文脈)なのだが、その手は限定的な一部の需給を効率化するものに過ぎなかった、というのが今日まで社会実験の結果わかったことだった。これを完全に実証したのが日本でのトリクルダウン理論の実践への反証的結果であり、金持ちを更に金持ちにしたところで貧しい者が豊かになりはしなかった。即ち市場は万能でなく、寧ろ政府等の公共性をもつ非営利組織の助けなしに、救貧すらままならなかった。これをアダム・スミスの見えざる手が国全体など人類集団の巨視的単位で否定されたという意味で、市場全能説の破綻、見えざる手の不完全性と名づける。いいかえれば自由市場はそれを極度に推進しても、金持ちをますます金持ちにし、貧者をますます貧者にするばかりで、経済の本義にもとる結果になる。
 市場全能説はしばしばより包括的な概念として市場原理主義ともいいかえられているが(George SorosがThe Crisis of Global Capitalism (1998)の中で用いたmarket fundamentalismの訳語として)、特にその考え方の中で私利の追求が公益を兼ねるのは全ての場合ではない、という観点を指して呼ぶことにする。負の外部性や、法定通貨をめぐるゼロサムゲーム性、或いは所得や資産、人間関係・文化・社会資本等に渡る貧富の格差がハンディキャップなしで多かれ少なかれ世代間に固定化する場合(特に皇室を含む世襲の階級やガラスの天井等の差別)を考えれば、この説の間違いはあまた実証されている。つまり公共福祉のなんらかの合理化(防衛機制の意味ではなく、ここでは制度的な合理性を意味する)による充実なしには、経済本来の目的である需給の完全一致は不可能である。

厳密性も抽象性もふわさしい時と程度がある

厳密性が必要な時はそれにふさわしい程度に厳密であれ。抽象性が必要な時はそれにふさわしい程度に抽象的であれ。

科学信者の愚

自然学の分析手法を後自然学の総合手法にも直ちに適用しえないことから、後者の当為性が真理性の一部でないと思い込み易いのが科学信者の愚だ。実証主義を信仰の一部とすら刷り込まれている場合、その科学教徒が一部の当為を含む社会学や、後自然学野の大部分に及ぼす有害さは甚だしくなる。当為を単なるイデアとして検討する能力がないのは、後自然学の対話術(弁証法と訳されているdialectic)や助産術等の基本的な学び方を知らない為である。
 ソーカル事件は後自然学の手法が自然学の手法と同一でないことを証明したに過ぎず、それは間接的に後自然学の非厳密性、即ち抽象性を意味するだけである。詩劇を含む文学は後自然学の一部だが、そこで虚構や詭弁、言葉遊び、非科学的な言辞は全くの自由だ。当為にとってこれらが役立つなら、寧ろ修辞の全てが肯定される。ある科学信徒がソーカル事件をポストモダン哲学の誤謬性と同値に扱っていたので、私はその者が愚物だと思った。当然、ソーカル事件自体は取るに足らない自然学の分析性と、後自然学の総合性をいれかえることによる皮肉な遊びでしかなく、冗談の一種としかいえないものだったのに、その者は自らの科学教を確証偏見で強化する為にこの非科学的言葉遊びを侮蔑していた。私自身の小説作品もそうだが、言葉遊びや信頼できない書き手といった虚構を発展させた手法群は文学の中で単なる言い回しの一種としてしばしば何らかの効果を目的に用いられうるものなのであって、それは比喩を用いたり、科学的言説を含むなんらかの可謬性を直接示す目的で、倫理についての学(ここで学は知識の体系という意味)の様な哲学的著作中でも使われることがある。一体、ダイモニオンとかエロスという擬人的神の概念を用いて己の思想を展開したソクラテスやプラトンが、或いはゴッドやアッラーといった一神教の概念を用いて詩的な比喩表現を残したイエスやムハンムドが、ポストモダニストといえると思うのか。
 そのソーカル事件とポストモダン哲学の誤謬性とやらを同一視していた者がもっていた科学信徒としての愚かさは、単にその者一人でなく、理科教育を中心に受けてきた人々にかなり普くみられる傾向でもある。彼らは実証論文間のメタ分析に過度の信頼を置くが、感情知能を扱った社会の善美についての詩や物語とか、民俗学、倫理的な課題、当為自体の検討など人間生活にとってより現実的で重要な問題を全然学ぼうとしないのである。これは彼らの受けた教育が片寄ったものであって、自然学を超えた学について無知なままにされてきた為でもあるのだから、彼らがわずかであれ、総合的な教養学の機会があればその種の愚を避けられたであろう。

客観主義の芸術観はプラトン思想を通俗化したもの

アイン・ランドの芸術観は大衆芸術を意味しているに過ぎず、アリストテレス形相論以前のイデアの写しというプラトン思想をより通俗的に言い直しているだけだ。形相として芸術は後自然学的なイデアの模倣ではなく、イデアと一体不可分の現実態・可能態なだけだ。

大衆向けの表現には俗物性が必要

自分は一般大衆向けの表現を今日で終わりにする。今後は専門家にしかわからないとしてもさらに専門性を深める方へのみ、自分の力を集中すると決めた。
 私がツイッター上で一部の通俗学者に少し正論を述べてみたら、彼らは尻尾を巻いて逃げ出した。専門知を大衆向け商売の具にしていると朱に交わって赤くなり、馬鹿と変わらなくなってしまうとよく分かった。今日以後ツイッターを見るのも控えるかも知れない。そこにあふれている殆どが二流以下の文化人らしいと分かってきたからだ。
 同じことは中間芸術の一切にも当てはまる。二度と自分は一般大衆に向け表現活動をしないだろう。

2019/02/15

聖俗を繋ぐのは他人に任せた

Goodbye human, I'll back to God. -- myself
 日本の教育の最大の問題点が減点法にあるのが今分かった。自分のツイッタープロフィールに書いてた英単語のスペルに簡単なケアレスミスが見つかって、こういうので英語使うのをためらうんだなと。羞恥心を罰刺激とした公教育が、日本人の英語力が低く、揚げ足とりばかりする最大の原因だと悟った。日本人全般を反面教師にすると、英語の少々の間違いで生じる、義務教育からしつけられてきた無意識の羞恥心を全く無視するよう、自分を真逆の方向に思いっきり引っ張らないといけない。非母語でミスしないことを最優先すると、多言語話者には遥か遠のく。伝達可能性に集中しないといけない。
 文科省の公教育は非実用的な文法学者になる為にはよかったかもしれないが、自分が正文法(学部で一応満点程度のもの)でアメリカの中学生少女と会話してたら、そんな使い方しないといわれた。たぶん正文法は学問的なものでしかなく、日用的ではないのだろう。減点法も文法中心の学び方も実用的でない。
 日本語圏は縮小中の上、サブカル地獄で純粋芸術の人間は生き残れないが、英語圏に参加するのに言語障壁が高すぎる。村上隆や奈良美智らはうまくその障壁をのりこえたが、自分は両言語圏の間で、どちらにも商売として着地できず引き裂かれている。日本には純粋芸術の市場、前衛美術の市場というものは先ず基本的に皆無だと思う。辛うじてあるのは公募展作家の写実画市場とサブカルではないか。自分は両方とも試してみたが、自分の知能だと余りに幼稚な作業に感じて結局無理だった。自分より遥かに愚かな相手へ無理に合わせる苦悩は凄まじい。
 村上隆が『芸術起業論』でいっていることは、結局、欧米美術市場に適合する作風で国内の純粋美術を輸出産業化しようという試みであって、カイカイキキの人達は部分的に成功したが、一般化したわけではない。彼がやっている輸出業の本質は岡倉天心が五浦派の中で既に試していたことの焼き直しでもある。バブルラップ展で村上は戦後美術を体系化しつつ整理し、もの派とスーパーフラットの間に位置した人々をバブルラップと命名した。それはこの間の諸美術を欧米側に新商品として紹介する機能を潜在的に意味している。
 自分はスーパーフラット以後の世界を既に探求してきたのだが、同時に、村上らスーパーフラット主義者がもっていた中間芸術的・商業的側面をどう扱えばいいか決めあぐねている。清貧な芸術家像を国内前衛画家は背負わされる。一部のサブカルが大儲けし大衆芸術が主流化しても、自分は馬鹿になれない。単に欧米、特に米英美術界で地位を確立したからといって、それが自分の本来の仕事だと感じない。日本人の名誉を高めたとかいうどうでもいい様な終わり。天皇だの右翼だの僕を全然助けなかった人、サブカルに大金を貢いでいた日本国民全般に自分の命を利用される到着点で終わりたいとも、全く思わない。
 僕の元来の仕事は、自分が世界史の中で未来永劫、最高の芸術家として、人類が残し得た全作品の中で最も優れた作品を残すことではないかと思う。自分の中にはその種の使命が宿っていて、自分を操っている様な感じもする。
 海辺を散歩していたりすると、たまにそういう自分を超えた力が自分の中で出たがっているのがわかる。そしてその神の様なものが、自分に何かを絶えず表現させていて、自分はただその奔流にしたがっているだけだ。僕は芸術家以外に成れなかった。それは神らしきものが自分の中で自分を操っているからだ。正確にいいあらわせているかは怪しいが、確かにその種のことが自分の中であるのだ。自分は無意識に何かを表現させられていて、それは自分の力を超えているので、自分の肉体の方がついていけていない。だから常に技術を高めたり、知識を補強したりしないと、言いたいことがいえない様な感じがする。「道同じからざれば、相為に謀らず」(『論語』衛霊公第十五40)と孔子はいっていた様だが、自分と村上隆も多分、志自体が違うのではないかと感じる。自分は狩野派みたいなものを残しそれを日本美術の伝統にするという様な、僕の目から見れば世俗的な目的はない。単に世界で最も優れた絵が見たいのだ。
 自分が今言っていることは傲慢に聞こえるかもしれないが、これは僕自身の声というより、自分の中にいる神の様なものが僕の肉体を使って語らせているみたいなものなのだ。僕個人の主観を超えた話なのだ。僕がいてもいなくても、ミューズ的なものが、同じことを誰かにさせ、いわせたのではないかと思う。
 多分、ジェフ・クーンズや村上隆、ダミアン・ハーストといったキッチュな商品美術の作り手らがミューズ(美の女神)本来の高貴さをけがしているということも、自分が純粋美術界に呼ばれている原因の一つだと思う。自分は一時期建築の研究を本格的にし、建築家の方面に進んでいたが、行く手を阻まれた。もともと自分の中に神的なものが宿っているというのは確かにそうだった。それで世間の人達と自分は全然違うとずっと感じてきて、人間界からできるだけ離れて暮らしてきたのだから。
 ただその神的なものを仮にギリシアの伝統に倣ってミューズと置くと、彼女は自分を或る方向に引っ張っている。自分があらぬ方に行くと、彼女は術策を弄してその行く手を阻むことが多い。ただの気のせいで、単なる妄想というか後認知バイアスかもしれないが。何度もそういうことはあった様でもある。詳しくは別のところで自叙伝みたいなのに書こうと思うけど。
 まあなんでもいいが、とにかく自分は日本圏にも欧米圏にも全然属していないというか、多分両方とも自分本来の居場所ではないんだなと思う。村上隆は藤田嗣治を村上自身みたいだ、どうしたらああならずに済むか考えたと書いてたけど、自分はそれとも又違う。人間界が自分の世界とは思えないのだ。なぜ人間界が自分が属する世界に感じないかというと、そこで生きている人達が動物か何か、低次元な存在に見えて、全然親しめないのである。「なんでこの人達はこんな愚かなことをしているんだろう」としか見えないのだ。ダニング・クルーガー効果については知っているが、実際そう見えるのである。自分が神の世界に参加するきっかけというか、ボタンがあったら今すぐ押すだろう。ためらいなく。自分は人間界には先ず全く興味がない。この肉体で人間風に生まれてきているから、仕方なく道徳なども学んだり考えてきたが、人間界が今日なくなろうと全く悲嘆しないだろう。僕の世界ではないんだから。
 藤田や村上の苦悩なんて、僕が抱えている人間界への本質的な違和感から比べたら本当に人間的な次元のものだ。欧米と日本の文化的橋つなぎなんて簡単な話で、両方に通じることをなんかすればいいだけでしょう。
 自分は人間界に通じる橋の様なのが最初から殆どなくて、ミューズみたいなのが神の世界の方に常に呼んでいるのである。まあその呼ばれている方の世界というのは俗界の逆の方角で、素直にそっちに進むと世間と没交渉になって、通じる要素すらなくなるのではないかと思う。純粋芸術界は、確かにそのミューズの世界と人間界をつなぐ橋がかかっているので、自分は美という通路を通って両者を毎日行き来し、情報を伝えているわけだけど、伝わっているかは怪しい。人間界の俗語は自分には縁が遠いし、俗界の好む悪趣味も自分にはうまく使えないからだ。
 で、ここで何がいいたいかというと、自分はこれまでその人間界にミューズの世界(多分、プラトンでいえばイデア界、理想の世界と言い換えられる)の情報を橋渡しするという役割をしてきたのだけど、もう疲れたからやめようと思っている。しかもミューズ自身がもうこっちきたら? といっているのだ。プラトンの表現を使うと、自分がこれまでやってきた仕事は、人間(可死的なもの)を神々(永遠なもの)へつなぐエロスの仕事だったといえるだろう。が、どれだけやっても、少なくとも日本人はミューズの属する神々の世界(理想の世界)の方に来る気もなければ関心もなく、動物みたいなものだから最初から神々の方に近づくのすら無理だし、作業全体が無意味なのである。
 まあこの説明の仕方で十分言い得ているかは分からないが、大体そういうことなので、僕はもう十分、人間界、少なくとも日本人達に向けてやるべき仕事はやったと思う。今後はもっとそのミューズのいうことに素直に従って生きるつもりなので、動物的な日本人達に伝えることは少なくなるかもしれないが。自分は最低でもそのエロス的仕事を古典的な正格にのっとって表現しようと、まあ芸術家として実にまっとうな方法でやってきたので、美術の正統的理解がある人なら必ず分かるようにしてきた。これは間違いない筈だ。だから伝わらないってのは杞憂で、単に大衆的な世界から離れますよといってるんだろう。別に外人に伝わる言語で表現しなくても、絵とか音楽とか建築なら普通に通じるわけだから、日本語話者の母数が少ないので高尚なことが分かる人が少ない問題というのは、言語表現にしかないといえる。その言語芸術の中で、僕はもう大衆向けのことはやらない。疲れたのだ。無意味だった。それだけのこと。要するに哲学的な探求をこれまでより遥かに容赦なくやるので、日本人の一般人には全然分からない様なことばかり書く様になると思うけど(そもそも最大で数人しか読んでないと思うが)、それはもう僕が悪いのではなく日本人全般が馬鹿なせいなんだから僕の責任ではない。英訳できないかもしれないが(誰も興味がないまま捨て置かれる可能性の方が高い)、これも僕の責任ではない。なぜなら僕はミューズに従う方が僕本来の使命だと分かっているからで、一般人とか世間に通じる様な表現を使うのはもっと人間界に近い人がやればいいからだ。天職の違いだ。

報道における普遍性がありうるか?

茂木健一郎氏のツイートにあてて。内容はNHK朝7時のニュースの並びより、ネット上のヤフーニュースの並びの方がBBCの報道姿勢に近く、ニュース価値を適切に重みづけしてあり、まとも、という主張)
自文化中心主義性は大概の国営放送に普通にある。BBCにもそれがある(中東文化の後進視や東亜圏へのオリエンタリズム)。茂木氏個人がイギリスびいきだから常にBBCをもちあげるのであり、アルジャジーラやCNNやNHKからみたらBBCがイギリス中心史観なのは明らか。漱石が茂木氏を見たらたぶん怒る。なぜニュース価値の整列を茂木氏が正当化できると思っているのか? その客観的中立性とか普遍性、重要度はどうやって定義されているのか? 単なる出羽の守だったらどこの国の報道についても異文化として自分のひいきする側に寄せて非難できるわけで、第三者にわかるよう定義してほしいと思う。
 漱石は「洋行中に英国人は馬鹿だと感じて帰って来た。日本人が英国人を真似ろ真似ろというのは何を真似ろというのか今以て分らない」(明治39年10月23日狩野亮吉あて書簡)とか、「むやみにカタカナに平伏する癖をやめさせてやりたい」(大正5年8月21日久米正雄・芥川龍之介あて書簡)と書いていた。漱石は「ましてその頃は西洋人のいう事だと云えば何でもかでも盲従して威張ったものです。だからむやみに片仮名を並べて人に吹聴して得意がった男が比々皆是なりと云いたいくらいごろごろしていました。他の悪口ではありません。こういう私が現にそれだったのです」(『私の個人主義』)とも言っていた。
 漱石の憂慮は西洋人へ無批判に妄従する日本人の愚かさだったのです。まさかこの種の西洋かぶれ、英国かぶれが茂木氏であるという単純な結論になる筈もない。ニュース価値の整理になんらかの普遍的公理の様なものがあって、それを第三者にも説得力をもって伝達できるなら、是非とも一筆認めて頂きたい。

有害税

皇族の有害税を吾払う

違憲立法邪教祖大権

天皇は大権用いて政治をし国民主権を侵害中なり
邪教祖の皇に洗脳受けしたみ大権信じて人間魚雷す
皇族の政治利用を公然と行う安倍氏は賄賂の共犯
国民の主権を侵害できる自由など天皇に少しもなからん
退位法違憲な立法命じける天皇大権独裁国家ぞ
皇族を平気で政治利用する京都市長と京都府知事
天皇は既に大権あらずして国民主権で民に従う
天皇が公的接待拒否しける鳩山内閣濡れ衣着せらる
小沢氏に大冤獄をもたらせる天皇大権悪の元凶
天皇が政治家ならずというのならすぐに政府をやめるがよろしき
邪教祖が政治家の長兼ねながら無答責とは言い訳がましき
国税を浪費す地位を維持しつつ政教一致で邪教に用ゐる
天皇と名乗る侵略犯の子は日本を惑わし税に寄生す
われ毫も神道信ぜず天皇の権威も祭らず皇室を嫌ふ
宮内庁2階に陣取る記者クラブ民を洗脳しつつ税取る
皇族の税の浪費を隠しつつ都内の家無し餓死さす邪教ぞ
性差別人種差別に門地差別差別の塊天皇陛下は
国税に寄生し愚民洗脳し侵略罪して国を乗っ取る
天皇の神祖は先住日本人にあらず中韓移民にあらしゃる
侵略者王朝ごときの末裔が暴力団で日本人脅す
真の国天皇なくして日本は11万年ここにあらまし
万人が等しく重く尊ばれてこそ真のわれらが祖国ぞ
天皇と名乗らせ特別扱いするものは差別で民を軽侮するなり

日銀は日本株を民間に早期放出し、新政府は救貧機能の回復のため民間委託先を厳選せよ

地球の人達は、殆どが自分の利己心を中心に生きている。だから彼らは自らの益となる他人を、その分だけ賞賛するが、決してそれ以上のことはしない。これは資本主義化した国々ではより一層顕著な風習になってきている。
 この様な地上で畏敬の念をもたれる様な人は先ずいない。他人が誰かをほめるのはそれが自分の為になる時だけなら、自己犠牲的な人が最も先にむさぼられ、死んでしまうからだ。死後に聖人として祭り上げられた画家や詩人らは、この種の利己的人類に屠られたのである。勿論、それは悪意によるのだが。無知という名の悪意は全面的に自己正当化しきっているので、大衆全般にとって生きる上で自明の前提となっている。彼らは経済弱者とみれば虐げ尽くし、なにも罪恥を感じない。先進国と自称している社会でその傾向はいよいよ強化され、利己主義の野蛮さが当然の様に共有されている。客観主義的、自由至上主義的な利己性が全面的に採用された世界は、単なる弱肉強食で、原始共産制であった古代よりずっと悪い社会だろう。インドのカースト社会の現場がこれに最も漸近している様に思う。最小国家主義、無政府資本主義論者は自分が経済強者に入ることを前提に物事を組み立てすぎている。商才と偶然のなせる業でたまたま生き残った人は、元々それらが欠けていたので虐げられるままになった人を搾取する立場を、自身の生存への祝福や、有能性の証拠として合理化しがちである。勿論これはただのうぬぼれで、彼らは利他性という意味では最初から甚だ無能であって、生を呪われている。
 ここで問題なのは、元々イエスやガウタマといった聖人が定義していたアガペーは、利己主義者が金儲けを含む生存競争等で虐げる弱者も等しく救う概念だったということだ。勿論この種のアガペーは、資本主義市場自体には十分内在化されていない。需給の一致は政府の補佐なしに必要分も果たされなかった。アメリカかぶれの日本の一部経済学者らが、政府の生存権保障という公的機能を更に削減しようと試みているのは、彼らが資本主義自体にアガペー的救貧機能がないと気づいていない(つまり神の手を信じていたアダム・スミス程の遅行度)か、元々彼らはアガペーの必要性を感じないサイコパスだからだろう。宗教原理主義による反資本主義運動が発生している原因は、アガペーによる救貧機能を果たせない米国的社会を米政府が世界におしつけている反動であると私は思う。日本の一部経済学者は、この悪意に無自覚か無反省である。彼らが社民的福祉国家やそこでの高幸福度を侮辱か無視しているのはこの為である。
 逆に、資本主義市場の効率性は、需給の一致を部分最適化して行う為にしか向いていなかったともいえる。簡単にいえばブースト装置の様なもので、北朝鮮の今後の発展を思えばこの加速機能を全面的に使わなくとも結局、経済発展は行われ得る筈となる。ただ効率が悪いだけだ。そして単なる資本主義市場の元では、全需給が一致はしない。貧しければ欲しい物が手に入らないし、金持ちも金で買えない物がある。収益が上がらないが公益性をもつ交通機関や日用品の売り場ですら、すぐ撤退してしまう。少しも万能ではない。単に全体のごく一部の商品奉仕を競争的に供給できただけだ。
 結局、集産主義の非効率性の批判というハイエク教義は、過剰生産の防止や市場の大勢としての需要の予測という株式投資術の為にあったもので、完全競争市場が全需給を一致させるという新自由主義的共同幻想は、もしトリクルダウン説をいまだに信じている人がいるならだが、既に敗れ去ったといえる。必要なのはアガペーによる救貧機能の回復や、資本主義市場は全需給を一致させえないというその部分最適化を意味する加速機能が本来もつ限界への経済学的認識である。前提として、先進国民が共通善かのよう思い込んでいる利己主義は、利潤追求が至上目的と胴元の天皇や株主に洗脳された結果でしかない。
 現実策として、救貧機能は北欧諸国等の社民的社会が最もよく前例を示しているので、その福祉的事業体を競争的に民間委託する制度を改良しつつ取り入れていけばよい。また資本主義市場が万能でないとの認識は、効率と無関係に公益をもつ事業を収益抜きに供給する必要があると国民一般に気づかせる。具体的には、水道や救命、不可欠な交通、最低限度の衣食住の供給といった生存権に関わる公的機能は、もしそれが自由放任市場下の民間企業が十分よく果たせていなければ、市町村や都道府県、国の役場がなんらかの供給を講じる必要がある。効率性を期待するなら、民間委託先の企業や個人の能力にである。
 私は安倍政権がやってきている企業国有化を正当化しているのではない。寧ろその反対で、自由市場の効率は最大限に利用せねばならないのだから、少なくとも日銀の保有する日本株は早期に市場放出すべきと考える。それとは別に、政府は福祉を削るよりその拡大を図るべく、民間委託先を厳選するべきだ。
 どれほど立派な絵を根気を詰めて仕上げても、日本人にそれを買うだけの家計消費力もなければ、米国にある美術品の寄付に関する減税措置すらない。元々不利な環境で更に餓死までおいつめようと悪意の衆愚が責め立ててくる。全て、彼らの業の悪さと無知による反人道的な資本主義全能説の狂信なのである。救貧機能をもたない、または益々その機能を軽蔑し、削り去る結果、インドの道端で腕のない子供が親から乞食させられている様な光景が実現しつつある。東京大阪横浜等の大規模貧民窟の一部では既に類似のことはあると思う。なぜこの種の野蛮な非人道的大都市模様が放置されているか。日本が悪意だからだ。内需が7割程を占める日本(2017年UNCTAD貿易依存度27.45%)で、一部の外需企業からのおこぼれに預かろうなど結果無理だったではないか。安倍独裁打破後に、国内市場の健全化を行い、同時にまっとうな内需を主とした企業収益から公共の税をとり、それを最も消費の必要があるより恵まれぬ国民に調整する。
 日本国民全員の内でも、最も恵まれない民が泣いていない、少なくとも国に感謝しているという状態こそ、美しい国といえるのだ。独裁政で金持ちを更に金持ちにしたところで、成金ユーチューバーは経費節税を兼ねた贅沢三昧し子供が真似、借金を返さぬ婚約者共々皇族は米英留学で国費流出したではないか? しばらく前、安倍独裁政が最も意気軒昂だった頃、ネット上で或る悲哀に満ちた事件を私はみた。そのことについて記録に残す為、同題材を扱ったロール・プレイング・ゲーム『ひきこもりのだるま』を私は作った。貧者の死はいたたまれない。皆がそれに気づいてからでは手遅れだ。因みにその事件のことは、私が関連URLも添えて官邸にメールで意見を出し、二度と類似の事件が起きぬよう救貧機能の欠如を早期に改善するよう願い出た。官邸からは意見を拝読したとの返事をもらった。子供の相対貧困率は安倍政権下で下がった様でもあった。が全体として事態はさほど改善されていない。日銀を通じた株価操縦での日本株投資家への国税供与(しかも中期投資とみられる売買代金で6割(更に短期的な先物取引なら7~8割)と過半が外国人投資家の収益。日経2017/4/6「相場のそもそも(3)日本株の主役は? 海外勢、売買6割占める」より)、大企業優遇、生活保護・障害年金削減等で、実質の所得・資産格差拡大自体は更に続いているともいえる。

地球の荒野

「地上のみなにお別れしなさい」と母が言った。ぼくは頷くと、「さようなら」と言った。
 それから宇宙船がゆっくり浮き上がると、やがて地上が小さくなって消えた。あとには何も残されなかった。――ユミオ・デリウス『地球の荒野』2074年、彼のブログ・アーカイブより

天皇制ファシストの隔靴掻痒

長州閥松陰流の一君万民論で明治に退行
天皇の独裁結束盾にして無責任なる全体主義政治
人権や国民主権を踏みにじり独裁政を求める安倍友
安倍友の隔靴掻痒天皇の大権求む国民奴隷制
安倍友の官尊民卑果たすべく憲法改悪天皇独裁
天皇の違憲立法退位法国民奴隷化もう始まれり

博愛でさえない日本の性的魅力差別バレンタインデー

性的魅力には偏りがあるから、日本のバレンタインという商業風習は、イエスの博愛の考えとずれている。バレンタインという名の司祭が、ローマ皇帝クラウディウス2世により士気の維持のため結婚を禁止されていた兵士らに、内密に結婚させていた伝説がこの日の由来とすると、当初の文脈すら消えている。

李下の冠

李下に行き李を爆食い安倍友と

About my study

I can see the calling on art. I cannot say it well yet.
  It is like a mission. It continues to call me front of him or her over too much difficulties.
  Many fellows of painting student went somewhere. Maybe they changed their study object.
  Before I get goal may I die in poverty. Although I've been also studying money making to continue my mission. However to earn too much money isn't the calling.
  In my brain or heart, unconsciousness, I have an important idea. But I am not able to show it well yet. So studying.

Animal's beauty

Animals are beautiful in their nature.

On art, was the concept of capitalism really dirty?

(To a tweet of Takashi Murakami, about saying Gerhart Richter 'Money is dirty'.)
What was the pop artist? Was commercialism dirty in him?
  I have almost none money (honestly say under 500 thousand yen now), but Mr. Gerhard Richter and Mr. Takashi Murakami have far much more money than me.
  I am sad because may I cannot continue my life for poverty.
  You are famous contemporary artists, however I have nothing.
What was dirtiness on money? Why Mr. Murakami cannot say money is dirty? Is it really dirty? Why does Mr. Richter say so?
  I read Mr. Richter's interview, he said like 'Gogh is not my  ideal. I like more success artist'. And he has become to one of dirty commercial aritsts?
  What is dirtiness on him. Capitalism itself? Or commercial arts? Is it including some of his pieces on him too?
  'Honorable poverty' was a key concept in Bushido ethics. We Japanese know it more or less unconscious.
  Mr. Murakami wrote in your book, an antithesis of the ethics. Mr. Murakami was amazing that Mr. Richter was saying anti-mammonism word. And Mr. Murakami said he still couldn't say so. Perhaps, maybe Mr. Murakami recalled a part of Bushido ethics unconsiously.
  Wasn't the fine art a part commercial cultures? If it was really, was also the pop art a part of dirty meme? Or, should fine artsts criticize capitalism as dirty part of us?
  I haven't the source of Mr. Richter's this video, so I can't say that confidently, but parhaps this context is an irony of contemporary fine art. Mr. Richter had come from East Germany. And he has been seeing mammonism art like a to z.
  On the contrary of him, may Mr. Murakami is more pure on art statement in heart, you would like to say same word honestly like old Samurai concept of honorable poverty.
  Samurai learned from confucianism and buddhism, sometimes a part of them keeped their poverty to show altruism as aristcrat. Like a puritan.
  I guess there is a link among a traveler view of life to West from East Germany, and Bushido ethics in you.

安倍首相ダークトライアド説

安倍晋三首相の性格は、ダークトライアドにほぼ当てはまる。ダークトライアドとは、ナルシシズム(誇大性、自尊心、利己主義、共感の欠如)、マキャベリズム(対人操作、搾取、道徳観への冷笑的無視、自己中心、欺瞞)、サイコパス(継続的な反社会行動、衝動性、利己主義、無反省)を兼ねた悪の気質。

2019/02/14

衆愚に向けたポスト真実が独裁政権の非難に使われた時それは正義のものか?

2019年2月12日、五輪担当大臣の桜田義孝氏が池江璃花子選手の白血病公表に関し「本当にがっかりしている」と発言した部分を含むインタビューの全体報道に寄せて
与野党関係なく、自民党支持者であるところの有権者の殆どは安倍政権を保守する確証バイアスばかり集める予定なのだから、ポスト真実の確証性というのはどうせ関係ないんでしょう? 報道側が何を意図していたかはよくわからないが、どうせ日本人全般は自民寡頭政で自滅していくのが望みなんですよ。
 違憲立法連発する安倍政権や今上天皇を支持して恥じない衆愚の国なんだから、そういう愚民の質にあわせたポスト真実報道で十分じゃないですか。どうせ真実を報道しても安倍政権を保守する嘘になびくでしょうに? 日本人に向けどんな不都合な真実を報道しても、安倍政権の保守とか自民党支持の口実にするだけでしょ。これまで散々みてきたでしょう? 天皇の悪政を暴いても天皇制ファシズムを狂信してきたじゃないですか。だから日本向けの報道なんてポスト真実で十分だというのは立派な皮肉だと思う。実際そうだ。
 ここで問題なのは日本人大衆の愚かさをどの程度に定めるか、どの程度のポスト真実を好むかという報道側の技術論であって、科学的真実性とか道徳的誠実性は全然問題になってないと思う。何しろどちらにしても安倍独裁政が有利になるこじつけに国民の多数派側が固執するのは目に見えている。
 いいかえると、この報道をした側は明らかに独裁政の暗面を示している安倍政権に不利なポスト真実を報じた。国民側にその真偽を誠実に正すまでの知能がないことは既にわかっている。じゃあこの報道は正義か? という話です。私は「それは報道の作り手の自由」だと思うけど。企業倫理としてまだ善い方。腐敗した一党支配体制を保守したがる非常に愚かな国民に向けた大衆報道を作る側の倫理という問題だけど、このポスト真実報道がNGだったら(単なる企業の報道が真実を報じるとはかぎらない)、一体どうやって独裁政権に退廃した世論が妥協している致命的錯誤を、衆愚側に気づかせられるというのか?
 勿論、真実を問い質すことで世論が正しく安倍独裁政の腐敗を認識し、改善しようと考えを改めるならいいけど、そこまで日本人大衆って賢くないでしょう。森加計事件で十分すぎるほど分かっている話だ。いくら真実を誠実に報じても反省しない衆愚へ、どうやって現状に危機感を感じさせるか?
 私個人は正直かつ誠実に真実を報じる報道機関なり報道記者も別にいると思うし、このテレビ報道について記者クラブ系なんだろうけど多分、企業倫理が狂っているとはあんまり思わない。むしろ安倍内閣の圧力に負け政権称揚してた少し前までの報道からは、進歩していると思う。ポスト真実の使い方が技巧的に洗練されたのでは? 大衆向けのテレビ報道なんてそもそも切り貼りした嘘しか流していない様な物なのだから、最初から一部の大衆になんらかの偏見を作る目的しかないわけで、その偏見が公徳の面から狡猾な正義の一部であった今回の様な場合は、その企業の作り上げている大衆側の妄想を歪ませる劇場みたいなもんでしょう?
 もっと深く考えてみると、もしある報道機関が、誠実に、正しく、あった事実をひたすらニュース報道してたとしましょう。この様な報道機関が一般大衆に好まれるかといったら、答えは確実に否でしょう。なぜなら科学雑誌などがそういうことを目指しているが大衆は真実なんて見ようとしないからですね。
 この映像にかぎっていえば、報道ステーションを流しているテレビ朝日の主要株主はテレビ朝日ホールディングスで、朝日新聞共々、村山美知子さんという方がそれらの会社の主要な持ち主になっている。テレビ朝日はこの村山さんが好きな情報を流す自由が程度あれあるし、必ずしも真実性は期待できない。
 報道機関が民間企業だった場合、放送法四条で一定の縛りはあるが、それを超えた部分についてはそれぞれ色があるというか好きに報じる自由があるので、一種の劇場と一緒でしょう。だからポスト真実性が前提であって、気に入らなければ見なければよい。なぜ怒るのか? 営利企業の宣伝活動に?
 桜田大臣はまあまあ気の毒であって、善意で発言した揚げ足をとられて謝罪する格好になったが、もともと安倍氏の不正行政や独裁体制の一翼を担うという意味では公害な存在でもあるから、テレビ朝日系の報道機関が自らの社会正義に基づいて、隙のある発言を問題視してもおかしくはないと。よくある話だ。
 結局、この件にかぎらず、営利企業のやってる娯楽的な宣伝活動に過ぎない大衆向けのテレビ報道なんてのに、真実性も誠実性も最初から殆ど期待できないわけで、それに一喜一憂してる愚民の側に大きな誤解がある。基本的に目的があって流される情報媒体についての正しい認識が欠けているのだろう。民営テレビ局は公器の建前をとるが現実には利潤追求が目的の情報娯楽媒体だから、これも政治家の失言を半ば無理やり捏造して、一般大衆の炎上を狙っただけの話で、やっていることはそこらの炎上インフルエンサー業と変わらないというか炎上商法でしょうね。冷静に安倍独裁政を監視し批判すればよい。

小沢一郎氏の悪夢に関する皮肉は一つの英雄詩である

小沢一郎氏の「安倍晋三氏にとって民主党政権が悪夢であったなら、もう一度、安倍氏に悪夢を見てもらうしかない」という趣旨の発言(2019/2/12、自由党定例会見)について
きちんと元の発言を辿ればわかると思いますが、これは現状の安倍政権が真の悪夢だという皮肉であって、安倍政権から見れば悪夢⇔日本国民から見たら目覚め、となる政権交代を何とか実現しようじゃないか、という小沢氏の意図だと思いますね。
 私は福島原発の近くに事故以後も住んでるが、自民党にもどってからの方が悪夢です。何しろ福島原発事故はまだ収束してないが、安倍氏は嘘をつき収束したといい、その後は放置されています。その上、無反省にすぐ近くの東海第二原発(東京都の会社、日本原電の所有物)へ再稼動を認可までしている。もともと、福島原発など旧式原発の点検保守を国会答弁で安全とのたまい怠っていたのは安倍氏でした。あるいは原発を全国にばらまいたのも自民党でした。
 たまたま大震災と大津波がきたのが民主党政権時でしたが、科学的思考力がある我々現代人が天譴論を信じるはずもないわけです。雇用状況の回復がはじまったのは、リーマンショックも重なっていましたが麻生政権でどん底まで落ち、福祉等へ選択的に公共投資を行った鳩山民主党時代からでした。菅直人政権が暴走してしまったことと(長州閥を気取る安倍氏と彼は自称同郷ですが)震災がたまたま重なったのは不運だったと思います。菅直人政権は脱原発を最も早く実践しつつあったということが、彼の功績では最大のものかと思います。命と金は比較できるものではありません。これは人としての良識の有無です。
 大震災は自然界の偶然によっているものですから、当時の政権の様子と同一視する中世人の様な妄想は、私にはできません。
 野田政権を経て、安倍政権にもどってから、原発再稼動がつづき、事故の反省は何も行われないまま、目先の株価を国税による買い上げ操縦で吊り上げるといった朝三暮四の手法で、扇動され易い国民の一部を騙す経済政策がとられました。日本株の投資家は資産を上積みできたが、庶民の景気は低迷しました。
 私がみてきたかぎり、より政治として悪夢に近いと申しますか、悪夢より更にひどいのは、菅政権より寧ろ安倍政権だったと思います。特に違憲立法と思われる秘密法、共謀罪、退位法を連続で強引に可決させ、法治国家の体裁すらとらなくなったのは近代国家以前への逆行でした。安倍氏は紛れもない独裁者です。外交面では沖縄県の辺野古を米国へ、北海道の北方領土をロシアへ進んで譲渡しつつ、近隣諸国との緊迫した対立関係や米軍依存度を更に深め、GHQ以来のアメリカ属国化と領土売国を同時にしていたのが安倍政権でした。経済面では共産化(日本企業国有化)を進め、市場の効率を害してしまいました。少なくとも、東電の国有化によって、世界最悪の大公害を起こした会社をいまだに存続させているばかりでなく、そこから多大な政治献金を受け、事故を再び起こす可能性がごく高い近隣の老朽化した原発の再稼動を実質的にあとおしするなど、反国民的で悪夢の恐怖政治が安倍政権下の史実だったと思います。
小沢氏「彼(安倍晋三氏)にとってはそう(悪夢)だろう。それなら、もう1度、(首相には)悪夢を見てもらうしかない」
小沢氏の同発言は、国民が悪夢を見るという意味ではなく、「安倍晋三氏という独裁者にとって、反国民的な恐怖政治をさらに維持できるという果てしない独裁の野望を打ち破られ、善政を求める国民の勝利が果たされる」という英雄的・革命的な意味でしょう。小沢氏を正義の主人公と見、悪の大魔王を安倍氏と捉えれば、同発言の意味が理解できるのでは。それが単純化した見方だというのは分かっていますが、小沢氏は英雄詩的な意味で「悪夢」に関する皮肉を言われたのだろうと思います。

救国論――安倍独裁政の維持の方が小沢新政より不安と日本人全般に感じさせるべし

この文章(小沢一郎(事務所)氏の或るツイート。内容は国会答弁の際に不都合を指摘された安倍晋三氏の感情的な反発や、人格攻撃にすりかえ詭弁に耽る癖を、大衆的な表現で指摘したもの)は「国会としての議論を安倍晋三氏はしていない。自民党の政治について問いただされると人格攻撃にすりかえ、詭弁を使ってごまかしてしまう」という公益に類した指摘であって、人格攻撃の意味はない様に読める。寧ろその様な論理のすり替え(詭弁の手法の1つ)を行う安倍氏が、国会議員としての資質を欠いているというのである。それは単なる議論の基本的ルールに対する啓蒙でしょう。安倍氏にその種の討論の前提となる能力や最低限度の知識がないのは皆が知っていることですが。また、安倍氏が常態的に嘘をついたり、異常な良心の欠如や、責任感のなさが見られるというのは、安倍氏がサイコパス(精神病質)的な脳をもっているせいだろうと、第三者からはみえる。恐らく精神科医に診断させればそう判定されるだろうと思います。サイコパスは政治家やCEOなど組織の上役にも多い。
 確かに日本国民の体たらくぶりをみていると、この次の選挙で安倍独裁政権を打破できなかったら「最終章」以後の国の破滅に至ることは目に見えている。本当に問題なのは愚民の側の異様な自民党支持率で、不安症的な脳の群集心理障害の様なものが安倍独裁政の原因。民族的資質の欠落なのかもしれない。戦中に敗れているのがわかっているのに、一億総玉砕といっていたときと、平成日本人らの安倍自民党支持は非常によく似ている。恐らく同じ全体主義的群集心理に走る原因が日本人全般の脳に障害としてあって、その障害は「不安神経症」に一定程度似ている。セロトニン不足の遺伝子が関係していると思う。セロトニントランスポーター数不足の脳遺伝子をもつ、過度の不安感に駆られ全体主義的群集心理に走り易いという日本人全般の持つ脳障害は、まだはっきりとした名前が与えられていないが、天皇制ファシズムや、今回の安倍独裁政権への消極性を装った狂信的支持率の共通の原因として存在すると思う。
 小沢氏はその種の日本人全般がもっている群集心理障害を、幸運にも免れている稀有な政治家の一人だ。二大政党・多党制を一党支配の腐敗解消に合理的とみる基本的政治学や、政権交代程度で不安がらない健常な脳を前提とした欧米的政治風土であれば、日本人政治家で小沢氏しかまともには見えない。日本国民全般のもっている、おそらく将来、脳障害と定義されるであろう群集心理が、安倍独裁政権のもとで、戦中と同じ破滅をもってくる、というのは、もう目に見えた末路でしょう。だって日本人全般は脳の遺伝子に症状の原因があって、生得的な過度の不安から、多数派の就く独裁政権に群れたがるから。
 天皇制ファシズムの元で1度国を滅ぼし、日本国民全般のセロトニン・トランスポーター不足脳という同じ遺伝子を原因とした不安障害が何も改善されないまま、安倍独裁政権で2度国を滅ぼすのではないでしょうか。私はその対策、対症療法というものは今のところ思いつかない。原因療法なら混血でしょうが。小沢氏を代表として、少数派であるが、その種の日本人全般の恐らく遺伝的な不安障害を免れ、正しい道を指し示していた、先進国で健常的とされる脳の持ち主は確かにいたわけです。これは戦中にもいたのでしょう。問題はその正しい判断力の持ち主が、権力をもてないという制度のほうですね。
 因みに、原因療法として挙げた混血ですが、セロトニン・トランスポーター遺伝子の、国民ごとの保有率の確かさは母数が200人~500人程度だから十分確実とはいえないにせよ、既存の研究ではアメリカ人(系統分布は全人口と類似)と日本人(山陰地方)の分布比は違っている。
(根拠となる研究論文:アメリカ人の場合、Klaus-Peter Lesch 'Association of Anxiety-Related Traits with a Polymorphism in the Serotonin Transporter Gene Regulatory Region' 1996. 参考先
日本人の場合、Fumiyo Murakami et al 'Anxiety traits associated with a polymorphism in the serotonin transporter gene regulatory region in the Japanese' 1999. 参考先
上述のうち、山陰地方に住む19歳から81歳までの501名の日本人を対象にした1999年のMurakami Fumiyo論文の調査では、不安に強く楽観的とされるL/L型遺伝子をもつ人は、3%いたみたいですね。これと自由党の支持率を見ると、或る程度の擬似相関があると私は思う。つまり、日本人は政権交代を恐れやすい。不安に極度に弱いS/S型遺伝子の持ち主は、同調査では同山陰地方に暮らす日本人の65%にものぼっている。同遺伝子の持ち主は上述1996年のKlaus-Peter Lesch論文によればアメリカ人では18.8%に満たない。逆にアメリカ人でL/L型遺伝子を持つ人は32.2%もいる。米国は日本の10倍以上不安に強い人が多い。
 日本人(飽くまで一調査の示すところではあるが)にこれほど極度に不安を恐れる遺伝子の持ち主が多いかもしれないということが、政権交代を怖がり、一党支配の腐敗が明らかなのに、安部独裁政権にしがみつく、という致命的錯誤を国民全体におしつけてきている可能性がある、と私は分析する。
 結論:安倍独裁政権がもたらす日本の破滅からこの国を救うには、日本国民全般に、現状維持の方が政権交代後の新政より遥かに不安だ、と感じさせねばなりません。

天皇による違憲立法ファシズムの打破について

天皇の違憲立法ファシズムを無答責では本陣遠のく
共和政確立するに皇室の1400年打倒するべし
皇室が散りぢりとなりて漸くに日本の平和もどるよしなり

反出生主義による資本奴隷制への抵抗に寄せて

芥川描きし河童仏陀らは扶養の義務をいかにか覚えん
自己責任論で虐げ尽くしつつ自殺するなと奴隷貪る
苦役なる生を厭える若者を搾取す資本主義のカースト

日本の一部にみられる知行合一説的な考え方の批評

理論の価値を行動(実践)の価値と混同している人が日本の一部にいるのは、知行合一なる陽明学の思想によっていると思う。当然ながら理論は理論として価値がある(例:地動説や相対論の発見時にその応用的価値は必ずしも必要でない)。王陽明は明で官僚階級にみられた儒学(特に朱子学)の形骸化をより実践哲学に再統合する文脈で知行合一説を用いたのだろうが、現代日本ではこの文脈を無視し、単に理論的価値を貶めるか実践性と混同する用法がみられる。特に政治的マキャベリストにこの傾向がある様に見える。曰く勝てば官軍と。
 アリストテレスにとって理論の価値は実践の価値の上位にあった様、理論を実践より高く評価する考え方もある。近代科学が西洋圏で発達した一要因も、西洋で知行合一説は先ず知られても採用されてもいなかったので、単なる理想としての単なる理想としての(自然哲学を含む)哲学や純粋理論の探求が容赦なく可能だった為と思われる。
 知行合一説は思想の一形態ではあるが、王陽明の孔子解釈(『論語』為政第二「先行其言、而後従之」)としての意味を超え実践性を伴う理論しか存在すべきでないと極論化し考えてしまうと、諸々の弊害が出てくる。理想の低さから来る保守性とか、基礎科学の未発達とか、自由な発想の阻害などだ。行動(実践)の価値と理論の価値は違うし、また両者の中間に位置する技術の価値といったものとも違う。従ってこれらそれぞれの価値を混同しているのは、無知の一種だろうと思う。本来的に比較できないものを比べているからだ。
 またもしアリストテレスの考えが正しければ、動物は言語知能の未発達によって人並みの理論をもてず寧ろ実践(行動)的な存在でしかないので、同じことは人間界の中でもあてはまるかもしれない。つまり言語知能の低さが、知行合一説に寄託して実践価値と理論価値等の混同をもたらす原因かもしれない。

アメリカかぶれの老人達が福祉削減で日本企業を共産化し一億総貧困の格差拡大政策をいざなっている

あの老経済学者は、自由市場と民間委託福祉主義が両立すると認知できておらず、小政府がすなわち新自由主義的な競争環境をつくり、自己責任論や最低限度の安全網という名目の水際作戦で貧民を役所からおいかえせば、勝手に最低賃金の低下により企業の国際競争力という名分で株価から収益が得られる、と考えている。要するに日本人全般を貧しくし、代わりに一部の金持ちがますます肥え太るを理想視している。なんと古い考えだろう。
 この老人は国連幸福度の様な指標に殆ど意味をみいだしておらず、株価から人件費削減によって勤労者をより貧しくした分け前を掬い取るだけの利己心で、国民全体を不幸にいざなう悪意が、経世済民の本義にもとるとは全然気づいていないのだ。
 寧ろ自由市場と福祉主義は大いに両立する。 外資や移民を積極的に入れ完全競争市場に近づけようとする経済環境づくりは、同時に、そこから得られる税収を持たざる者の生活程度の向上によりよく調整するのとなんら矛盾しないからだ。しかもこの調整的役割がすなわち政府の行うべき本義であって、市場から日本株を寡占する共産経済を行っている安倍政権は、最初から新自由主義的ですらなかった。安倍共産経済の失政は後禍をもたらし、日本人らを不公平で非効率な国内大企業のカルテル、すなわち経団連の不当な管理価格上昇で襲う。しかもそこから得られるわずかな、徐々に減っていくだろう収益は日本政府にとられてしまうし、他の経済通を自認している某議員のよう福祉を削って更なる格差拡大を行いつつ自らの政商行為で儲けようとする一部政治家の悪意は、その取り分を議員給与か皇室財産、最低でも経費節減という名目で日銀に国債償還させ国庫へと召し上げてしまい、消費の需要があるはず民間一般のより貧しい側には殆ど還元されないので、国内は健全な経済環境からますます遠ざかるのである。
 自由市場と民間委託を前提とした福祉行政の充実が、小政府・大政府の単純な二元論に還元されない視野であるのは明白だが、それを私が少し上述の理論を教えたらツイッター上ですぐにブロックしてしまった某老経済学者も、或いは他の福祉削減論者の某議員も、知らない。彼らは考えが古い上に、あまりにアメリカかぶれで、日本の安倍共産経済下での市場の健全さが米国よりずっと悪いのを知らない。しかも国連幸福度などの指標が、所得格差の低い社会の方が人々の生活満足度が高いと示していると知らないので、一部の金持ちの金の上積みを貧困者の自殺を含む少子化を伴う福祉軽視など全体の損失のもとで続けることが米国の猿真似として正しい政策と思い込んでいるのだ。
 私は或るノルウェーの友人が、「ノルウェーでは一般に米国をばかだと思っている」といっているのを聴いた。彼女はいう。
「ノルウェーはノルウェーだし、他国の真似などしない」
「私達の国を資本主義化したいとは思わない(米日風に自己責任論のもとで、貧者を徹底的に搾取する新自由主義化をまねたいとは思わないの意味)」
そしてこの種の当然の認識が、某老経済学者も某福祉削減論者の議員にも全然ない。端的にいって、彼らはアメリカかぶれで偏った考えの卑しい拝金主義者でしかないし、しかもその拝金目的にとっても、貧者をさらに貧しくし国内経済を沈没させていくだけの自己責任論をとる格差拡大にはなんの正当性もみいだせないのである。

最高の知能

人は自分より愚かな人や自分より卑しい人と接さねば幸せでいられる。だからその種の愚物と最大限接さないようあらゆる気を使うしかない。
 卑しさとは道徳的知能、特に利他的知能の低さからくる愚かさの一種といえる。愚物は同時に卑しいことがある。
 自分より遥かに愚かな人は説法で反省などしないから、期待するだけ無駄である。賢人のみに説教の意味がある。上智と下愚とは移らず。諸々の知識の中で最も高貴なのは倫理学である。全哲学の最終段階として人が得るのは単に道徳性に違いない。だから道徳を説いてそれが分かる者は先ずいない。道徳的知能が高い者があらゆる知識人の中で最も希少で最も高度なのは確かだ。それは自然と社会の全現象を含む全知識の総合としてしか、それらを生きる応用的知恵としての高徳さに到達できないからだ。

科学者でも卑しい人がいる

自分より愚かな人を相手にするのはやめよう。少なくとも自分より尊い人を見習い、自分より賢い人の知識を得よう。賢い人が道徳的とは限らない。だから科学者から習うのは知識だけでいい。

2019/02/13

原発搾取場

東京人利権と賄賂の果てに建つ金儲け五輪原発搾取場

札束五輪

呪われし賄賂五輪の上にいて踊る皇族札束と逃ぐ

違憲三昧

独裁者安倍と天皇手を組みつ違憲三昧愚民は崇む

カルト長

カルト長千四百年国独裁大量虐殺指揮後象徴

邪教国

大丈夫
だれもお前など見ていない
だれもお前に関心などない
この国民の関心は全て自己愛
他人がどうなろうと死んだ様な目で見るだけだ
その証拠にテレビもユーチューブも
死ぬほど退屈な自画自賛であふれている
贅沢自慢の餓鬼が小学生へ無意味な広告をみせ
ますます労働者をこばかにし成金になる
だからお前は絶望している
だがそれもお前だけのこと
この国民の関心は全て自己愛
贅沢自慢の天皇が無職から無意味に税を貪り
毎日テレビ政治に称賛させる邪教の国

Japrison

労働を監視しあえる奴隷ども苦行しあいつ皇に納税

自民党極右政権の言論弾圧

戦中に特高指揮も全権を持つ天皇と極右政権

国民監視特権

著作権原理主義者が特高に国民監視の特権与える

呪われし五輪

偽物の利権のレース経て建てしザハの墳墓と呪われし五輪

ツイッター上のブロック姿勢についての分類

ツイッター上で異見をブロックする人達って、同調に価値をみいだしているわけだから、孔子のいう「同じて和せずの小人」ではあるんだろうけど、一体その人達は同調の何に価値があると思っているのだろう? コピー的な自見を複数眺めてなんの意味がある?
 以前ある知り合いが「セロトニン・トランスポーター不足の脳遺伝子が多い日本人全般が無意味に同調を求め群れるのは、生得的な不安を解消する為」といった説を唱えていた。ツイッター上でブロック癖がある人も、これと同じ症状というか脳内現象があるかもしれない。文化依存症候群の様な面もある。
 自他の意見が違って当たり前という世界常識から大変ずれていて、自他の意見がほぼ同じでなければすぐブロックし、排他的集団内で確証バイアスの強化に取り組む。政治的にはファシストのやっていたことで、ある種の宗派が排他性をもっているとき似たことをする。しかし日本人の一部にも似た症状がある。自分の意見(自見)の無謬性を信じているとしたらその人が暗愚なのは明らかだし、仮に他人の意見(他見)になんらかの優れた点があっても排除してしまえばそれ以上、自見をよりよく修正できない。異なる意見(異見)の中で最善のものから常に学ぶしか、自見の修正可能性は先ずないほどだ。異見の排除は視野を狭くし、自らの妄想や思い込みを正す機会をへらしてしまう。
 以前これについて「卑俗な情報を避けつつ反証的情報をとりこむこと」という小論を書いた。単に卑俗なだけの情報を好んでみてとる必要はないが、自見に対して反証性がある情報は全て有益である。我々が驚くのは、世間的に高学歴と自称している様な人達が、進んで異見の排除をしていたり、反証的情報の持ち主を簡単にブロックしているからなのだろう。その種の人達が三流の知識人、つまりは学者として凡愚なのはこれまで分析した範囲からはほぼ確かだろう。進んで卑俗なアカウントをフォローしなければその種の有害情報が頻繁に投げ込まれることも多分ないだろうし、有名人はもしかするとそれが驚くほど多いのかもしれないが、少なくとも一々ブロックしていたらとても手間が足りないはずだ。つまりカジュアル・ブロッカーは無能か適度に無名どちらかとなる。同調主義者はカジュアル・ブロッカー(異見の人を簡単にブロックする人)をさらに強化した類型で、自見への同調者が多いほど満足し、かつそもそも向上心や向学心、科学精神をもっていない。だから彼らは異見をすぐブロックするだけでなくイエスマンや、自分と似た意見の人達をひたすら探している。同調主義者たちが科学的知性という意味では最低級の分類なのは明らかで、そもそも彼らはポスト真実とか嘘、ただの迷信でも見た目の同調者が多ければそちらを真理より採用しがちの人達ではないか。アッシュの同調実験で75%の人が1度以上サクラに同調し、同調確率は約33%だったとされている。恐らく同調主義者達の正体は、この種の同調圧力に通常より弱い人達であって、しかも元々のIQが低いため偏見に陥り易い等なんらかの理由で異見の多様性に寛容さをもちづらい人達かもしれない。これらに加えセロトニン不足の傾向も脳自体にあるのかもしれない。
 大まかにブロック界を分類すると次の様な種類がみつかる。異見への寛容さの高い順に

非ブロッカー(寛容主義者)>下品系アカウント限定ブロッカー(上品主義者)>カジュアル・ブロッカー(排他主義者)>同調主義者

寛容主義者>上品主義者>排他主義者>同調主義者

このうち非ブロッカーが下品な表現も避けていない点が気になる。それは正しいのか?
 確かにどうしようもないほど下品なアカウントというのはあって、その下品さという認知が自分の思い込みかもしれないと思ってしばらく眺めてみるが、遂に耐えられなくなって縁を遠ざける、ということはツイッターにはよくあると思う。非ブロック原則は無視によってブロックの手間を避ける。無視よりブロックの方が認知費用がかからない時、この下品系ブロック(できたら相手側に気づかれないミュート)が有益だ。それは下品さが明白で、また無視するまでもないほど内容が有害な時に当てはまると思う。自分でその種の基準を決める必要があるが、相手の悪意が明らかな時がそれなのではないか。
 茂木健一郎氏は「荒らしの情報」を手にする為、ブロックせずに泳がせるとブログで述べていた。自分の経験上、この種の情報にもきりがない。おぞましい卑しさを見ずに済ませられないのは精神の健康にとって望ましくない。そもそも下品さとは何か、仏教語としては愚かさのことだ。結局、致命的な危険のあるアカウント(犯罪を意図的に犯している)とか、悪徳的であることが明らかな悪意のアカウント(炎上商法をしている)等は、慎重に検討し目に触れない様にしたほうが、認知費用が安く済む様に、自分は思うが。無視とどちらが高くつくかは総合的判断によっているだろう。
 自分は他SNS等での荒らしに対する実験で、ミュートの有益性を十分に知っているのでこの様にいうのだが、荒らし一般はサイコパスや嗜虐趣味なので完全無視によって最もよく撃退できる。しかしその間、こちらは暴言の被害を受け続ける。ミュートは最初からこの認知費用を0にできるのだ。また自分は他SNSでの経験で、ゼロ耐性がかなり有効だということも知っている。どうしてもつきあう必要がなければ、明らかに自分へ悪意あるふるまいをするアカウントには一発でミュート判定をしても問題は起きない。その種の人はいずれ似たことをするものだし、善良な人はその種の悪意をもっていない。
 ツイッターでもミュートが無視より楽に荒らしを撃退できるかどうかは、まだ実験途中なのではっきりとはしていない。が、自分の今の意見では、認知には費用がかかるから、日々の無視費もばかにならない。よって相手の悪意がはっきりした時点でミュートすればより簡単に認知費用を削減できると思う。完全な荒らしでない者(が少なくとも悪意を嘗て1度以上示した者)を誤ってミュートしてしまう場合があるので、どうしても必要ならミュートを解除して再びそのアカウントのふるまいを確認すればよい。その相手を見間違えていたという場合も、自分は先ず慎重に見るのでまれだろうが、あるかもしれない。
 ここまで書いてきてわかったが、恐らく同調主義者たちは悪意と単なる異見を誤認しやすいのではないだろうか。両者を見分けるにはかなりの共感知能が必要だ。
 悪意あるふるまいをするアカウントの行動を追跡するということが真に、その一発ミュートより合理的かについては今後も研究したい。


東京五輪は天皇の悪業ごと呪われている説

福島原発から東電株で都庁は大儲けしてきたのに、石原慎太郎都知事という人がその金をますます東京の利益追求に使うため五輪招致をはじめた。「津波は天罰」と石原氏は言っていたが、道徳的な因果応報があるなら、東京の強欲に天罰が下るべきだったということになる。東京五輪は呪われていると思う。福島の東電原発、青森の東電原発、新潟の東電原発、茨城の原電原発、どれも東京都民の持ち物で、それぞれの県民には公害を止める権利すら与えられていない。都民が一方的に再稼動を要請し、自民党や日本政府と共謀し立地自治体の国民を虐待し、強欲に金と電気を貪りたがる。神なら都民を罰するはずだ。
 まあこの件にかぎらず、中国・朝鮮系移民の末裔ともいえる天皇は先住日本人であるところの東北人や関東人をはなはだ差別し、自治権を侵害し、手ひどく搾取してきた。今日に始まった話ではない。飛鳥時代から平成時代まで変わらないのだ。天皇にも1400年分の天罰が下るべき時はきていると思うのだが。

ツイッターは不寛容な相手が自動でブロックしてくれる機能がある

ツイッターは意図せず自分にとって有害な相手が勝手にブロックしてくれる機能がある様に思う。ブロック癖のある人は異見を不快な雑音とみなす傾向が激しく、要するに寛容さが低い。恐らく生得的IQも低いことがあるので、年の割に幼稚な傾向もあるかもしれない。自分が何か間違ったことをしでかしたのでない限り(ツイッター側に想定されていたのはその場合の方が多い筈だろうが)、ツイッター上で誰かにブロックされたとして、不寛容で狭量な相手がより正しい異見に目をふさごうとしてそうした場合がある。

東洋大学で公益を図る意見を弾圧された学生へ宛てたさえずり

素晴らしいご活躍だと思います。閉塞した同調圧力の悪意に反旗を翻すことで多くの日本人らは公権力を乱用し、さらに陰気な弾圧をはかろうとするでしょうが、少なくとも私は貴君の勇気ある正論に、正義を認めます。今後の東洋大学が貴君のご指摘をなきものとしようとしても、私は語り継ぐつもりです。

同調圧力地獄

赤の他人足を引っ張る日本人普通を崇め個性を弾圧

誤りの修正力

ある人の知性を測る最も端的で合理的な方法は、彼らの意見のうち、明らかに間違っている点を指摘した時、彼らがそれを即座に修正できるかどうかだ。孔子「過ちて改めるに憚ることなかれ」「過ちて改めざるこれを過ちという」
 尤も、その種の誤りが質疑側にとってしか正しくないとか、より正しい意見があって彼らが独善的にそれを維持しているので質疑側が自身の実は誤った観点にすぐなびかないことを以ては、相手の知性を推し量れない。
 少なくとも、科学的な議題は、事実を客体化しその分析をはかるものだから、常に論争の中にあって懐疑的にしか真相に接近できない。つまりそこに主観の入り込む余地は元来ない。科学的議題に反対意見が無数にあるのは、反証主義という観点では寧ろその真実性に必要な担保の一つでさえある。だから誰かの科学的知性を知るには、彼らのもっている科学的見解(それも実は全て仮説なのだ)と違和するあらゆる意見を彼らにぶつけてみるがいい。それら全ての実証性なり反証性なりに冷静で、しかも客観的な見解を述べる人でなければ、その人はその種の知性が劣っている。
 議題が後自然学的なものに及び、信念として主観的見解の差が生じる余地がある場合、それぞれの意見の共通性とか、全ての意見の上位にある普遍性とかを抜きに、単に主観的見解が異なっていることだけを以て相手の哲学的知性を推し量れない。つまりこの場合も、意見の相違を認め、自らの意見を含むそれぞれに客観的解釈を付け加えられる能力が知性の一つの目安となる。哲学的知性が科学的知性と異なるのは、最終的な見解の根拠が実証性や反証性という形をとるとは限らないことである。
 誰かが意見の相違、特に質的に高度なそれを反省的契機とし、さらに普遍的な見解を探求する様子がなければ、その人はもともと知識を深めたり、自らの知性を高めるつもりがないといってもいい。対立意見や遠い異見を好んで見聞きしない人、この種の学者はもどきであって、自前の知性が低いのだ。
 高IQが寛容さに正相関しているといった一般論は、思想間の大小に渡る諸矛盾を多く記憶し、適宜に比較検討できるという多様な分析面に、寛容さの知性にとっての有利さがある、といいかえることもできるかもしれない。これがツイッター等で、ブロックを好まない知識人がいる実際的理由だ。

脱原発を前提とした維持可能な社民主義国への時代の質的転換について

原発の近くに住んで石ころなんていってられると思っているのですか? 命を奪われているんですよ、我々。国家権力の悪意で。大公害で。日本国民が公害を金儲けの為に同じ国民におしつけ、平気な顔で一党支配の寡頭政に耽る愚民というのはよくわかったのだけど、小沢氏の主導する政権交代以外の方法でその悪政を覆す方法があるなら是非ともここで述べてみていただきたい。こちらは命と財産を奪われているのですよ、悪意の日本人全般から。東京都港区だの千代田区に東京原発があっても「脱原発は石ころ」といっていられるならまだ分かるが、金儲けと権力を混同し、世界最悪の大公害をまきちらして日本国民を次々虐殺しながら自分のみ蓄財してみたところで、あとに残るのは大量死と国土の荒廃、そして消えない重い罪だけでしょうよ。
 なぜ二大政党という先進国で当然の定期的政権交代の合理性が理解できないのか? 一党支配で腐敗せずうまくいくと、幼稚なことを本気で思っているの? 「小さな政府」が必要って、安倍政権の生み出した格差は放置するつもりなのか? 原発の近くにいる国民は公害で虐殺? 時代を読み誤ってると思う。定期的政権交代すら実現せず政党政治なんていってる意味は何もないでしょう。小沢氏が最も正しい意見をいっている。
 対して小さな政府といい新自由主義に走り、中流没落で経済成長率は最下位級。そんな古い考えも日本凋落の原因でしょう。自分さえよければ原発公害で虐げられる人がいてもいいって、どの時代はそんなに野蛮だったのですか? 外部不経済の内部化と教科書にすら載っていますよ。私は安倍氏の共産経済(日本企業の日銀・GPIFを通じた国有化)に反対で、市場の流動性と競争の健全化のため日本株を市場に早期放出すべきと思うが、それと、格差縮小の為に民間委託を含む福祉の充実に励む政府本来の役割を重視する事は、全く別のことですよ。あなた(某経済学者氏)はこの両者を混同していますね。勿論、既に述べた通り、原発で国民の命と財産を脅かす公害を容認するなど以ての外で、単なる法定通貨を取り合う金儲けと政府による人権保護という比べ物になりようがない2つの課題の重要度を完璧にとりちがえているでしょう? 金より命が大事なのは、通貨が命にとって道具なので明らかですよ。
 恐らくいっても分からないと思うからこの辺にしておくけれど、ケインズ的な建設投資を政府が選択的にするかどうかと、福祉の充実によって格差縮小をはかることを混同するというのは、非常に稚拙なまちがいであって、その種の誤認を一般民衆に与えることの悪疫からいって、知識人として問題がある。現状の経済状況が国内の相対貧困率をアメリカに次ぐ状況にし、その改善が第一の課題といってもいい今、小沢氏はじめ良識的な政治家が新自由主義の批判に先駆けているのは当然なのであって、いまだにトリクルダウンに基づく小さな政府論をしているのは時代から出遅れ過ぎなんですよ。政治的信念が国民の生活が第一と既に小沢氏は述べてきたではないですか? その為に各政策の合理性を検証していくのが政治家の役割なのである。国民の生活を悪化させるあなたの信じている新自由主義的・小さな政府的な格差拡大政策だとか、一党支配の悪習で寡頭政を維持するのは、政治の目的ではない。第三セクター等のケインズ的な建設投資によって、国家社会主義政策をとってきたのが自民党の伝統的手法だったというのは皆が知っているとは思うが、今後その方針を縮小していったとしても、ただちに小さな政府として相対貧困を自己責任論のまま放置するのは、単なる内需の減退という意味でも悪手なの。
 つまりは国家社会主義的自民党政治から、社民主義的福祉国家への質的転換を、税による民間委託で新政党が主導していく、というのが時代の王道的な進歩なんですよ。これ以外の方法で内需を保つ方法がないんですから。勿論、原発公害を脱却し、維持可能な再生エネルギー立国になるのは必要条件ですよ。
 まあ敗戦劣等感をもっている上に、社民主義を国家社会主義と混同しているか両方の基本的理解もない戦後世代の経済学者達が、北欧流を米国流より国の進歩として正しい方向性だと理解するのは難しいかもしれない。だからその世代に何も期待していないが、原発公害の後処理をする次世代にとって有害です。

天皇には世襲独裁政による侵略や搾取等の蛮政について日本人その他に謝罪の必要がある

今上天皇(平成天皇、明仁)いわく「桓武天皇の母は朝鮮の人と『続日本紀』に書いてあり、韓国とのゆかりを感じている」
 天皇が朝鮮人の末裔なのはこのことで陛下ご自身自認されていらせられる。もしなんらかの理由で朝鮮人(朝鮮民族)という分類の人々に謝罪する必要がないとしたら、一体誰が? 天皇という朝鮮人の末裔(現在では日本人と自称している)が誰かに謝罪する必要は、もし或る朝鮮人に誰かが謝罪する必要がないとしても、やはりあるのでは?
 勿論、人種・民族・国籍等での差別は単なる偏見からきた人権侵害なので、私はそれを根拠に誰かが誰かに謝罪の必要がないとは思わないが。
 天皇は神道教祖を兼ねた世襲皇帝という地位から、先住日本人を侵略し搾取し奴隷化してきたことが大化の改新以後、1400年近くに渡る日本史から明らかだが、その種の蛮行について日本人一般が天皇による謝罪を要求していないとしても、やはり天皇側には道義的責任がある様に私には思える。つまり、天皇が朝鮮人の末裔として、彼が先住あるいは奈良の外にいた渡来系日本人や、彼の先祖の郷里の一つにあたる韓国の人々へ、その他の彼自身の権限による帝国主義的侵略戦争下で、嘗て自らの権力を乱用し侵略等の暴政で殺め傷つけてきた人々やその子孫へ、謝罪する必要は私は道義的にあると思う。このことは天皇が朝鮮人の末裔としての血統を現にもっているか否かとは全く関係なく、彼には1400年近くに渡る日本・アジアその他への侵略史があるのだから、それについて歴史的反省が必要なのは事実だし、遡及処罰まではいかぬとしても、人道的な意味で彼の先祖の蛮行や、現今の独裁を謝罪すべきでは?
(ツイッター上での「李明博元大統領も天皇に謝罪要求したり、もし誰かが謝罪したとしたとしても、朝鮮人は結局ぶり返すだけなので百度謝っても同じ」との意見を受けて)
 謝罪は単なる謝罪であって、相手の譲歩を自分に有利なよう引き出すといったなんらかの手段では本来ないと思う。それは謝罪ではなくただの説得の技術というべきだろう。例えば閻魔の前で罪を軽減されるため謝罪してみせるといった演技をすれば、当然その罪はさらに重くなるだろう。
 天皇は罪悪感がない精神病質(サイコパス)で、謝罪する意味を相手へ許しを請う自身の良心の呵責への補償だと考える知能がない、と、あなたは仮定しているのかもしれないが、もしそうだとしたら、ますます天皇一族の罪を弁護する理由はないといえるのではないか?
 国民の象徴と憲法上に規定又は自称している人達が、単なる精神病質的な罪悪感を覚えない特殊な脳遺伝子の保有者だというのは、もしそれが真実であれば地位と現実に必要な判断の齟齬に極めて問題があることだし、もしそれが必ずしも真実でなければ、天皇を過度に精神病質視しすぎというべきではないか? 天皇一族が遺伝的に精神病質度が高いという意見には、確かにそう思える節は多分にあるので、可能性は十分にあると思う。原爆投下を見送って後に昭和天皇が仕方なかったと思っていると述べたことなど、良心の呵責を健常者と同様に感じていればにこやかにいえた義理ではなかったろう。
 恐らく、あなたは謝罪を相手の譲歩を引き出す説得の技術と捉え、一般人が使う懺悔という意味では用いていないのだろう。今回、韓国国会議長側の述べている謝罪とは、現実には懺悔を要求しているのであって、その種の政治的策謀を意図しているのではないと思うのだが。
 もう一つ、あなたのいっているのは「日本文化では罪は禊等の伝統的観念によると、謝罪(含む懺悔)によって祓われ清められ、罪が消えると考える」「しかし韓国側にこの種の文化観念はなく、謝罪(恐らく懺悔を含むもの)によっても罪が祓われたり、清められたり、消えたりしない」という比較文化では? もし謝罪・懺悔などの禊(みそぎ)的儀礼によって民衆の倫理観念の中に許しが生まれ、日本では再び共同体にこれまでと似たように参加できる、という一般論があるとしたら、これは決して全能のものではないでしょうね。前科のついた人へ、陰に陽に行われている社会的偏見が残るのを見るとよくわかる。
 私は韓国側の文化にはあまり詳しくないから、韓国側に禊的な許しの観念が全くないとも思えないけど、もしかすると本当にそういう面が少ないのかもしれない。であれば、天皇が韓国文化側、または日本含む侵略被害者側にとって本当に罪を許されるにはどうするべきだということなのか? もし天皇の精神病質度が十分低くて、自らが先祖共々1400年間近く日本周囲に侵略主義的な帝国を作ってきたことを含め、現状も国民全般を納税制度によって搾取し祭政一致的な封建君主の地位を維持している中世的な蛮行を反省できるなら、許されずとも謝罪や懺悔は最低でも必要な祈りではないかと思うが。
 まあよく考えると、天皇が本心から懺悔しているかどうかを確かめるすべは天皇以外の人からはないから、これは天皇自身の課題であって、我々一般日本国民が十分なしうる業ではない。表面的な謝罪を彼がするときが来ても、それが政治的策謀なのか、単なる反省なのか見分けもつかない。少なくとも、日韓両国民、或いは旧日帝の統治下に置かれていた諸国民全般は、天皇がこれまでアジア一帯にもたらしてきた侵略史を十分かつ相互に歴史学的・実証科学的検証の元で確認しつつ、天皇には今後も真摯に反省と謝罪を要求していくしかないと思う。一方で天皇自身が世襲独裁を自ら反省したり、象徴の地位を撤退するのはプロスペクト理論の見地からも難しいので、彼自身の利己的な精神病質性との戦いになるんだろう。それについて我々が思い悩むのは無意味だし、最終的に天皇自身の内面的な反省力によっているのだから、彼に懺悔を強制できない。

理想より高い世界

次に何を置くのだ
その次は
けれどお前の喜びとしていた世界は
今なお歪み
陸でもない人々が溢れているではないか
一体どうやって彼らを変えるのか
彼らに悲しみが分かるのか
下賎なだけの衆愚だ
私は尊さに住んでいる
だれも私を知らない
それでもまだ宇宙は広い
だれも私を知らずに死ぬ
次にお前が置くのは
理想より高い世界だろう

かねを捨て遊べ

自分につくれるどんな未来も手元にある
あとはそれを徐々に実現していけばいい
だが日本人は邪悪すぎ
お前の前途を塞ぎながらかねを与えない
だからお前は死につつあると思っている
現実にはただの脅しだ
労働者が競争で振り落とした相手がお前で
奴らはお前を自殺させたがっている
理由は自己正当化だ
奴隷階級を誇るため経済弱者を貶める
実際の奴隷は遊ぶ暇さえなく
お前を虐げるほど余裕もない
だからお前はかねを捨てて歩むのだ
もう誰もいなくなるまで遊ぶのだ

正しい生き方によって差別される田舎の側から天皇を含む都会の悪意を批判せよ

田舎を差別や侮辱、軽蔑したりしている人達が、同時に都会を崇拝や称賛、尊敬したりしている時、彼らは第一次産業(農漁業)を第三次産業(商業)より軽視している。いいかえれば彼らは自らが同類への搾取を目的にした反社会的な悪意の持ち主であると知らずしらず吐露しているのだ。性の悪い人は農漁業の果実なしにはその日の飢えをしのぐことすらできないのに、農漁民を買い叩き、自らは安楽にくらそうという悪意をもっている。そしてそういう人達が集まると、商業地を形成する。我々が都会と呼んでいる場所はその種の悪意の集積にすぎない。
 茨城県、嘗ての常陸国は水戸の徳川家の農本主義によって、又彼の家が主導することで開拓された北海道に次ぐ農業生産高を達成し、耕地率が日本で最も高い。しかも首都圏に属するので、耕地率が最低の東京と対比され易く、商業主義の持ち主は東京を崇め茨城を貶める地域的偏見を持つ傾向にある。
 その種の搾取を目的にした悪意の頂点に位置するのが、天皇である。飛鳥時代に奈良で政権をもってから、彼らは京都に移転し、そこで彼らをとりまく公家と呼ばれた既得権共々生産を行うことをやめた。天皇が再び農業をまねだすのは、水戸の徳川家二代目光圀にとって晩年の隠居所であった茨城県の西山荘を昭和天皇が訪れ、そこで儒学の修養から農本主義者であった光圀が自らの食べる米を生産していたのを知ってからである。平成天皇は先代がまねた光圀をさらにまね、皇居内で田植えをしている。
 しかし、千年来、天皇が農業を離れそれを実質的に農奴にまかせ、自らは小中華思想(天皇の住んだ京都や後の東京を日本版の自文化中心主義的な首都とみなし、そこから離れた土地やそこに住まう人々を野蛮とみなす差別的偏見)のもとで安逸を貪ってきたことが日本人民衆に与えた風土的悪疫は大きかった。平成期の東京都民は嘗ての京都市民同様、天皇が中世以来もちつづけた小中華思想を多かれ少なかれ体現しだし、自らの住まう商業地を文化的・経済的・政治的中心地と思い込む自己愛に耽りはじめた。同時に、彼ら東京人の驕りの裏面である差別心の中で、華夷秩序意識も復活し、田舎、つまり農漁業を主に行う人々や彼らの居住地をただの悪意から卑しめはじめたのである。彼ら都民自身は十分な理論的根拠をもっていないが、その差別的仲間意識の根源にあるのは、搾取の悪意と、天皇の中華思想である。
 ところで中華皇帝制を模倣した天皇は別に、特に第二次大戦後、主な戦勝国側に属したイギリス王室(イギリスの当て字英吉利から英王室ともいう)を模範としてきた節がある。その英王室はというと、各領地を公爵以下に与えてきたことや、ある種の保守主義によって農漁業を主とする田舎を尊重する文化をもっている。少なくともチャールズ皇太子はその種の田舎紳士country gentlemanが貴族化してきた歴史に繋がる田舎主義を著書 "A Vision of Britain"(『ブリテンの展望』)や、英国等の田園地帯を描く水彩画集 "H. R. H. the Prince of Wales Watercolours" (『ウェールズ公殿下水彩画集』)で巧みに表明している。チャールズ皇太子は著書の中で近代都市(調度、古い建物が東京大空襲や関東大震災でほぼ一掃されてしまった東京を典型とするだろう)の醜悪さを大変強く批判しており、それと対比させ、自然と調和した田舎の伝統的な美質を様々な角度から称揚している。つまり、日本の中世的天皇と正反対の思想なのだ。
 貴族の親分ともいえる王族の思想が対極なので、日英の民衆がもっている田舎のイメージも全く正反対のものとなっている。日本では天皇や彼をとりまく都会人の中華思想に基づいて田舎を後進的で侮蔑すべきものかのよう差別しているが、英国では愛すべき故郷を含む伝統的貴族の住まうお屋敷と捉えている。
 ここで最初の命題、「都会人が田舎差別することは同時に商人による農漁民への同類搾取の悪意を知らずしらず正当化する」にもどるが、これが中世天皇のもっていた封建制だったのを我々は知っている。そして平成時代でも、日本では同じ構図が無思慮に焼き直されているのである。日本国憲法では門地差別の否定として、出身地を含む門地(家柄、生まれ)等での同国民間の差別は基本的に人権侵害とされている筈だ。ところが中世の歪んだ伝統、つまり中国皇帝制を模した天皇制の小中華思想をひきずっている民衆の側は、このGHQがもたらした人権思想を正しく身に着けられていない。それどころか、商業の壟断(物価差を利用した流通による金儲け)が正当化され象徴天皇制度の維持を容認している以上、日本人商人の中でイギリス的田舎主義や儒学的農本主義が宿している道徳性というものは、ほぼ縁が遠いもののままである。彼らは寧ろますます都会に密集し、都市問題を蔓延させている。
 当の模倣元であった中国の方では文化大革命後、清国や日帝のくびきを自ら外し共和国を建国した。このため中国憲法上でも中華思想の否定がはかられ、多民族間の互助が謳われている。チベット自治区に対する論争を呼ぶ点はあるにせよ、中国に皇帝はいない。逆に日本の方が中華思想に固執しているのだ。
 奇妙な世界史の転倒があるのがこれで分かるだろう。日本は11万年近くの長い間共和政の世界で、これといった王族はみあたらなかった。弥生時代に中国移民が本格化させた水田稲作や、鉄器による防衛力を用いた蓄財で幾つか大富豪としての王権が現れ、それらの武力抗争を勝ち抜いたのが古代の天皇だった。つまり日本に皇帝という中華風の存在が輸入されたのが飛鳥時代、その確立とみられる大化の改新が645年、平成にあたる2019年からさかのぼること1374年前だ。わずか1400年ほどの間に価値観の転倒が起き、嘗ては中国のものだった華夷秩序を日本側の民衆が癖づけてしてしまい、中国側は共和政に帰った。
 また2度の世界大戦を通じ、植民地侵略の最終勝者となった連合国軍の王座に君臨してきたのが英王室とすると、彼らはもともと日中の中華思想といった考えはもっておらず、逆にしばしば田舎好きの都会嫌いであって、日本人全般がもっている中華思想に由来した都鄙差別はもっていないのである。いいかえると、もともと遣隋使の小野妹子に「日の出ずる処の天子」と自称する書を送らせ煬帝から無礼とされた聖徳太子がその第一人者として、中国大陸に日本人特有の優劣感をもつきっかけとなった中華思想というものは、世界史の中でもう日本人にしか残っていないともいえる。中華思想のガラパゴス化。
 この中華思想のガラパゴス化が、日本的な全体主義に基づく集団いじめと混じって、違憲な人権侵害である門地差別をいいかえた田舎差別として表現されているのが、都道府県魅力度ランキングなどによる茨城県等への東京都民らからの諸々の名誉毀損や侮辱、誹謗中傷といった悪意なのだといえる。この様にして天皇含む日本人の考え方を分析すると、中国や英国などから進んで悪い面までまね、中英その他が既にその悪癖を脱してからも、日本にだけは諸外国の嘗ての暗面が凝縮された悪徳が残存してしまっている、といえよう。
 これがなぜ日本人全般が都会を妄執的に崇拝し、田舎をそれと対比させ確証バイアスのもとやたらと侮蔑しているかの訳である。端的にいうと古代中国人の自己中心性という幼稚さをまね、いまだにその悪い癖をひきずっているからだ。天皇の存在そのものが古代から中世にかけて中国人が肥大化した世襲王政をとっていたことを真似たものに過ぎなかったが、地球の僻地というべき立地にあった孤立した島国であったので、幕府やGHQといった強烈な武力によってさえ、彼らの祭政政治と呼ばれる島民への洗脳状態を一掃しきれなかった。
 しかし、平成日本人らがいまだに古代・中世中国からまねている悪癖、すなわち都鄙差別につながる天皇中華思想が合理性を著しく欠くものであるからには、遠からずこの種の蛮風が淘汰され、消滅していく運命のものであることもまた確かに思う。そして何が彼ら日本人全般の妄執を具体的に除去していくかといえば、単なる資本主義の経済合理性だろうと私はみる。現実の東京は過密からくる諸々の弊害が生活の幸福度を致命的に損なうところまで進展しているが、中華思想の悪癖を自ら脱却できない一部民衆は天皇崇拝の元で自縄自縛の道を歩んでいる。地球の世界史を隈なく眺めればわかるよう、永続した王権といったものは嘗てなく、それは天皇制についても同じだろう。既に彼らの先祖が作った平城京は草花の生い茂る平地に還り、平安京(今日の京都)も主に堕落した仏法僧が寺への観光収益を分捕るといった有体の一観光地に過ぎなくなっている。同じことは徳川家康が干拓した砂上の楼閣であった江戸、その後継にあたる東京についても恐らくあてはまるのだろう。商業地が矢継ぎ早に綻び易いのはあらゆる帝国の残滓や、古代遺跡が示している通りなのだ。日本人民衆は天皇の亡びた後もこの島国に住み着く者が恐らく殆どだろうから、単に共和国にもどるのだろう。そしてその頃にも中華思想や華夷秩序、都鄙差別といった旧体制の悪意が残っているかといえば、答えは恐らく否であろう。天皇がいなければ同じ日本国民を無意味に差別する意味などないのだから。
 天皇自身は心理学でいうプロスペクト理論に基づいて最後まで教皇的権威または実質的な最高権力者としての地位を保身し、今度は英王室の田舎主義をまね、都会を捨てて田舎暮らしをしたがるかもしれない。神道信者を含む彼らへの日本人信者は、今度は田舎崇拝と対比させ都会差別をはじめるかもしれない。結局、自然とふれあいながらくらすのが人類のほぼ全期間に渡る生活様式だったので、緑のない過密都市の人工的環境に暮らすより、田舎暮らしの状態にある方が低ストレスなのは一定の科学的検証が示してきたことだが、天皇は皇居の周りに小型の自然公園を作りこれを便宜的に回避しているともいえる。ところが一般都民が自身の集合住宅を自然に囲ませる経済的余裕はないので、そこで生じるストレスを田舎差別にむけかえ、合理化している節がある。曰く田舎は田舎い(ダサい。洗練されていない等の意味をもつ俗語)、都会がより高級で、自然に接するのは趣味で、金が儲かる商人の日常が最も優れている。満員電車にすし詰めにされ、痴漢の恐怖と戦いながらへとへとになって会社にたどり着き、嫌な上司や無能な部下とおしあいへしあいしつつ帰宅までをやり過ごし、再び雑踏を抜け自宅に辿りつくも疲れて何もできず寝ると、再び翌日というサイクルをくり返す。これが平成都会人の理想とする生活様式である。彼ら都会人、特に都民は大企業の後援を受け広告やテレビ・YouTube等の番組を作るので、ますます自らの中華思想を糊塗し易い。そしてその種の都鄙差別に洗脳された田舎生まれの若者はこぞって都心を目指す。結果、朱に交わって赤くなり、類似の都会人として華夷秩序の差別的偏見で自己正当化を行う。
 平成時代に起きていた全社会現象は、凡そ上記にまとめて示された。天皇の自己神格化を通じた皇帝政の確立を目的とした神道という奈良時代につくられた新興宗教は、土着の自然崇拝を巧みに大陸風多神教の中に擬人化して織り込みつつ、今日まで命脈を保ってきたとはいえ、結果は信者の奴隷化だった。日本国民全般は、この神道信者らによる天皇に貢納する労働階級としての自己正当化に端を発し、都鄙差別を当該目的にとって原理的なものと思い込んでいるわけだ。東京圏が田舎の農工業者から搾取し、天皇が分け前を召し上げ贅沢し、その顕示的消費から余った税を田舎の住民に従わせるべく再分配する。斯くして天皇制は人権が理解されている今日、既に稚拙なものでしかない。それを採用している国民の出来もさることながら、自己奴隷化に躍起な信者については信仰の自由があるとはいえ、自滅的と形容する他ないであろう。
 人類はその種の天皇奴隷制に不合理さしかみいだせず、遠からず脱するだろう。単なる中国大陸からの弥生移民の、恐らく混血した末裔と呼ぶべき天皇の奴隷となることに、本来日本国民全員はなんの道義的根拠もないのだから、退位法に関しても主権を天皇の忖度命令で侵害されている平成末にあって、全会一致の幻想による違憲立法に自覚的でないのは国民の無能以外何も示していない。
 また我々が多少なりとも知的な存在であるなら、東京圏または旧京都圏の住民らが天皇制に基づく華夷秩序に加担している場合、反人道的な人権侵害にみえるだろう。端的にいって児戯に類し、大人はその種の悪業を相手にもしていないだろうが、天皇自身もその構図の一部なのが現実だ。万人の生活様式の本質的等価と、商業的換金価値のみに基づく差別とは全く別のものだし、後者がただの商業主義なのは明白だから、国民の一部がくらす土地に原発等の公害施設をおしつけ平気な都民その他は、傲慢であるのみか単に人権を理解していないだけなのだ。
 英王室の田舎主義は背後に封建領主に公的統治権を与える王威という利己的な訳があるとはいえ、その別の面には民衆に非商業的な価値観や郷土への誇りをもたらし、近代都市への人口過密化を避けるよすがとなるといった美質も多くある。単に自然を愛することそのものが人間的善良さの印とカントは考えた。自然の中には人間的悪徳と呼べる都会的な暗面、例えば環境破壊や詐欺、過度の搾取、児童買春等はまだ見当たらず、狩猟採集時代のよう単に同類と協調する人間の素朴な状態が投影され得るという浪漫主義的な考えによっているのだろう。同じ素朴さは自然とより近い田舎の中にも確かにあるので、我々はそれが都会人の驕る洗練と称した諸々の悪徳より道徳的価値の高いものであるとみなせる。都会ずれした下品さや、退廃した意図で善良な人を陥れ、自らの商魂の為に騙し合いを演じている都市住民には永遠にその種の美質はかえってこない。
 今日の日本で為すべき生き方は、中華思想の差別的偏見や悪意をもった都会人が最も軽視し貶めている茨城県の様な田園地帯に住まい、その固有の美質を最大限に表現し称揚しながら、天皇を代表とする都会人の悪徳を最大限揶揄し、批判し、日本国民全般にかけられた神道教義の洗脳を解くことである。この宗教革命は単に神道という民族宗教がもたらした日帝という禍々しい過去への反省を意味するのみならず、その災厄から精神面で真に自分達自身を復興し、本来の共和政へ我々の多数政治をより一層推し進め、国民自身の幸や誇りを再獲得する政治改革でもある。実際、都民は全日本人の約1割でしかない。たった1割前後の悪意の為、9割の日本国民が差別され、虐げられ、我慢を強いられ、挙句の果てに原発公害や凄まじい搾取を堂々とされているとしたら、それは到底正しい国とはいえない。神道教祖を兼ねる自称皇帝の単なる傲慢な人が持つ、中華思想が落ちきるところまで堕落しきった成れの果てでしかない。
 正しく生きることができれば、都鄙差別という日本人特有の卑しい悪癖も、それを本源的にもたらした中華皇帝の猿真似をしてきた天皇一族の疎かな悪意も、自らの徳の力で浄化されることだろう。

2019/02/12

神的なものとは道徳性である

自分の中に神的視野や神慮、つまり人間としての目線を超えた目線があるというのは感覚的には真実なのだが、それを導いたのはRPG、特にドラゴンクエストを小学校中~高学年に夢中で遊んだ経験の様に思う。少なくとも自分にとって、その神の様な眼差しの精度をより高めることが人生の目的の様に思う。のちにアリストテレスが確か『ニコマコス倫理学』で、観想についての意見として同じことを述べているのを私は知った。彼は神的なものが人の中にあるなら、それにできるだけ長く留まるのが人生の目的だと考えていた。哲学的生活とは、彼によれば理性による観想の生活である。自分は高校生の時、たまたま美術の授業や美術教師に直感的な興味を感じ、きょうだいも美術大学に進学していたのでその道を辿って今に至る。がアリストテレスの意見が正しければ、これ自体遠回りだったのかもしれない。神になるということは、理性の認知領域を拡張することでしかないのかもしれない。美術は何かの手段であり、アリストテレスのいう形相の中に理想の現実態をみいだす活動である。ではその作品は最高善の姿でありうるだろうか?
 なぜ神的なものが重要かといえば、我々の肉体は亡び去るし、人間界では不条理なことが多すぎるので、そこに適応などできないからだ。神の世界があるなら、少なくとも私はすぐそこに入って人間をやめるだろう。アリストテレスが前提としていた通りもしそれがあるなら、だが。ドーキンス流の無神論に一定の理を認めるとして、では我々が神的なものと呼んできたのは一体なんのことだったのか。それは人間の中にある非獣的な要素である。理性と呼ばれてきた特徴はその代表的なものだったが、多重知能仮説が正しければ知能自体に多岐にわたる進化があるだけで、特定の理性だけがあるのではない。たとえば芸術的知能も理性と呼ばれてきた特徴を含んでいる。
 結局、我々が神的なものに到達したければ、知能の発達の中にある既存の獣に見られない特徴を悉く探りながら、しかも最善の統合性を身に着けねばならないことになる。万物の霊長との自認がただの誇大妄想でなければ、人たるものの最高の長所が、この神らしさにあるというのがまちがいないだろう。
 茂木健一郎氏がブログで「全知の質感(クオリア)はそれ自体として立ち上がるもので、必ずしも全知そのものではない」と述べていた。端的にいえば全知のほぼ全ては妄想なわけだ。可能な神らしさは博学さに留まるだろうし、それもどれほど抽象化されていても、限定的かつ選択的なものでしかない。
 では私が探求すべき神性とは何か? 一体何をあらゆる学習可能性の中から厳選し、どの様に生きればその最高度を達せられるのか。
 RPGは箱庭のデジタル要素全てを、自らが理解できるプログラム言語の範囲で操作できる。だからゲーム作家には神の比喩として創造者の名義が鳥嶋和彦氏によって使われた。私が子供の頃感心したのはドラゴンクエストやマザー2などRPGの世界の中全てが或る道徳的秩序でまとめられていることだったのだろう。ゲームデザイナーとして堀井雄二氏や糸井重里氏、FFシリーズなら坂口博信氏らは神が業を操作する様な役割を果たしていた。そして全体としてその世界は或る調和をもっていた。悪しき者に罰を与え、善き者に賞を与えるといった勧善懲悪の作劇法(ドラマツルギー)が彼らの作中では通底されているのだが、主人公を自らが演じ、主導的な役割を果たさなければその世界の浄化(カタルシス)は果たされない。
 現実の世界は必ずしも彼らの作品の様にできてはいない。それは神の役目をもつ最高の良識が業の全てを操作していないからだ。その種の神通力は個々人の信念に任されている。しかも権力が弱い時、良識的個人が勧善懲悪を実行するには時間がかかってしまう。時効がきて復讐が果たされないこともある。
 私が手に入れたいのは、実際のところ、この神通力の様なもの、いいかえれば勧善懲悪をこの世の業のできるだけ全てにきちんと果たす力なのかもしれない。恐らくそれは現実には、政治権力ということになるのかもしれない。元も子もない結論だし、哲人王のプラトン思想にもどってしまうだけになるが。現実政治で力をもつ為には、現状の制度では民衆から信望を受けねばならないし、私にその種の才能は恐らくないだろう。私は通俗的大衆を理解する能力が低いし、その様な卑俗さの学習を元々好んでいないのだ。
 だからRPGとか、芸術作品の中で、箱庭的に理想世界を実現する方が手っ取り早いことになる。もし私に機会があって、最高権力者としての国連事務総長になれればそれに越したことはなく、自らの力を使って強国の軍事的侵略を諫め或いは罰したり、恵まれないが良心をもつ人々の善果に次々報いていけばいいのかもしれない。少なくともこれが不可能なら、芸術作品の中で同じことを仮想的に実現するだけだが。少なくともこれが不可能なら、芸術作品の中で同じことを仮想的に実現するだけだが。
 神らしさとは、自分が子供の頃に先人から薫陶を受け、人の業を道徳的に秩序づけたいという欲求がその中で最高のものなのかもしれない。哲学の世界は、善悪の判定を行う為にますます複雑で思慮深い定義を用いるよう進歩していく。いいかえれば哲学自体を正しく続けるだけでも遠からず業を正す起因をつくることはできる。アリストテレスが自認していた理論的役割がこれにあたる。哲学、わけても倫理哲学は総合性において最後尾にあたる諸学の王なので、哲人王が現実の権力をもっていなくとも神的な役割を果たすことは実はできるし、アリストテレスのいう最も神に近い仕事、最も精神的な仕事は人間としての肉体を労することが最少な純粋に理論的な仕事といえる。RPGなどのコンピューターゲームも、デジタル絵画も、実はプログラム言語の連なりだから、表現方式が違うだけで理論的なものともいえる。しかし重要なのは倫理性だ。そこに表現された業の秩序が完全であればあるほど、模範としてのよい影響を社会に対して持つといえるだろう。国連事務総長となって演説するのも、一哲学者として、或いは一画家、一作家として倫理を語るのも、形式こそ違えど実は内容の優れ方が大事なだけといえる。神的なものがより多く含まれている理論であればこそ、業の操作者として創造的であり得る。
 私が生涯を懸けて追い求め、部分的にしか実現してこなかった神らしさの正体は、以上のことで少しは解明できた。それは物理的因果を含む倫理的な業の秩序を、より調和のとれた善美な配列にするという理論的な仕事である。いいかえれば世界をより善い秩序につくることである。現実に全知全能全徳の神に到達できないとして、一歩でもその当為に近づこうと私は全力を尽くしてきているが、これまでわかった限りでは、法という共通善を通じ普遍的な善の一部を実現できるので、世界を倫理的により善い場所にするという文明人の理想は、程度あれ徐々に叶うということだ。我々がすべきなのは優れた倫理的秩序を理論化し、或いはなんらかの形で表現し、それを社会に伝える中で、法に生かそうとすることだ。人を超えた神に近い役割があるとして、その種の業の作り手になることだといえる。神性を人間化したものは精神性と呼ばれるが、少なくとも神が人間の善悪を超えた性質をもっていて、また賞罰に及ぶ人の業を支配するものであるからには、博学度としての哲学的能力、すなわち道徳性が高ければ高いほど、精神的威力によって人間界を実質的に支配し得るのだろう。

中道は低成長に応じた質素な社民主義社会である

ガウタマは死を美化していた。Nirvanaがnir(打消語)+va(吹く)+na(過去受動分詞を作る接尾語)で「吹き消されたこと」すなわち意味の似た漢語でいえば「無欲」の意味で、涅槃がnirvanaの音写なら、無余涅槃と呼ばれるのは単なる死後である。仏教は生前は乞食生活を正当化し、死後を理想とする。
 生前の強欲を正当化する資本主義は現代商人の殆どが信仰している新興宗教だが、この考え方と仏教は本質的に対極に位置している。美術から派生し音楽や生活様式に援用された最小主義minimalismは、実際のところ仏教精神の再獲得を目指していたように思う。そこで求められているのは無欲だからだ。アップル社やスティーブ・ジョブズ、建築の世界では妹島和世やSANAAがミース・ファン・デル・ローエや安藤忠雄らの後継者として行ってきた最小主義的設計は、深沢直人らによる無印良品の家具に見られる工業設計の世界にも同時代的に相互影響を及ぼしていた。ユニクロの服が流行っていた時代背景だ。
 Jim McGuiganのクール資本主義という概念の中では、資本主義の中にいながら不満を資本主義自体に統合することがクール(米俗語でcoolは涼しげなさまを美意識に転用したもの)とみなされると定義されている。梅原宏司は2014の論文「フレドリック・ジェイムソンのユートピア概念について」でこの場合のクールという価値観が商品経済の機構へ完全にまきこまれていることを指摘し、そこに資本主義の中における人間の想像力の限界があると指摘した。マクギガンと梅原の指摘が正しければ、ジョブズの哲学の本体は禅宗を通じ彼が得た仏教的無欲の価値観を、商品経済の中に組み入れることだったといえるかもしれない。その現実化した姿が彼の属したアップル社が生み出したMacやiPhoneといった商品群だった。と同時に彼の限界も、商品経済自体にあった。
 開祖ガウタマの時点で彼がめざしていたのは、生前には(後に仏教用語で有余涅槃と呼ばれる)少欲の生活であり、これを仏教的最小主義といいかえることもできる。ジョブズが資本主義の中では求道僧の様にみなされていたわけも、これで正しく理解できる。彼自身が仏教を理論的にわかっていたかとは別に、そこで商品設計に生かされたのは物への執着を戒める価値観だった。仏教語ではこの洞察を色即是空と呼ぶことがある。
 資本主義の中で、商品経済を洗練させる手段となった仏教的最小主義は、元来の美術思潮を拡張して人生様式そのものに適用され直し、特に日本では長期にわたるデフレ不況や非正規雇用法の元で過当競争に疲れ果てた若者に好評を博しだした。宣伝を主とした情報の過剰に苦しむ様になった条件も重なり、貧しくとも装飾を廃した簡素な生活を維持すれば十分と、低消費社会に新世代が順応しだしたのである。
 生活における最小主義の行き着く果ては、もともと資本主義とは対極にある仏教的な乞食暮らしと死の美化だろう。これが嘗ての世捨て人の様に暮らしたり、プロ無職やネオニートを名乗るなど、営利生活を思想として否定する人々が現れてきている時代背景だろう。マクギガン説を超えてクールが商品経済の外部まで拡張されたともいえる。いいかえれば稼がないこと、そして公的活動として金銭取引しないことを、資本主義市場の中に生きるよりクールとみなす価値観の拡張が、恐らくそこにはある。日本人の一部の中で、徐々に旧資本主義からの脱却が図られている。
 一方で成金根性を突き詰める様に行動している人もいて、シンガポールやドバイといった租税回避地へ進んで移住し、インターネットを使った商売や投資などで矢継ぎ早に蓄財している。彼らは新成金new richとも呼ばれていて、IPOを通じた会社売却や暗号資産技術の興隆も手伝い短期間で億万長者となる。
 結局、仏教的最小主義の追求者と、新成金的資本主義の追求者とは、前者が無欲を、後者が強欲を理想視しているという意味で、対極に分かれた思想家達といえるだろう。一般大衆はどっちつかずでふらついているか、特に中道を意図しているわけでもないので、何も考えずにただ状況を眺めている。
 ではこの一般大衆といえる人達は何を目的に生きているのか? 彼らのうち日本人一般は特に思慮があるわけでも思想があるわけでもなく、第二次大戦後の地球の中で資本主義市場に適当に参加し、半ば嫌々ながら給料をもらって生活、儲けの上前を天皇に税で貢納し相変わらず王朝ごっこをするだけなのか。実際、彼ら労働者と呼ばれる人達の生態には、単なる集団浅慮しか見当たらないといえるだろう。合衆国という植民地で清教徒思想から抜き取られた資本主義の原理をGHQにより部分的に植えつけられ、天皇に相変わらず洗脳されたままで、なんとなしにその日暮らしをしているだけで、特に生きる目的はない。会社組織も日本人的に窮屈で不条理に満ちているので、普段溜まった鬱憤をインターネット上で匿名のまま第三者にぶつけるため、ありとあらゆる悪知恵を働かせている。それが日本人一般大衆の全てだろう。他にこれといった要素はない。卑怯さを恥じることもなかった町人階級の末裔なのだから、当然だ。生きる目的がない一般大衆なので、ミニマリストにも新成金にも成りきれず、かといって自分達を正当化せずにはおけないので、労働者の暮らしが最高だと自縄自縛の論理に帰る。こうして自称インフルエンサーの脱社蓄の煽りに怒り心頭し、フリーランスを嫉妬混じりに貶しつつツイッター偽名アカウントを操る。
 平成人の全生態は、この様に大まかに分類された。1つは最小者、1つは新成金、1つは大衆である。自分がここで言わんとしたのは、これら3分類の中に真の中道はありそうにない、という道徳的洞察だ。最小者は死に、新成金は悪徳で自滅し、大衆は搾取されるだろう。これらの生き方を超えねばならない。
 日本国内で資本主義の死がみられるだろうことが、恐らく真実だろうと私には思える。少子化や飽和した物質社会の果てに一体どうやって貨幣経済を維持するつもりなのか。そんなことを試行錯誤している暇があれば新興国に移住し、そこで商った方が遥かに効率も収益率もよいのである。日本の経済成長率は長らく世界最低レベルを継続しているし、それが変わらない限り貨幣経済は徐々に自然死に向かい、代わりに社民的社会に移行していくのだろう。基礎所得basic incomeの欠点を改良した一律信用universal credit等で公的に生存権を保障しなければ、格差社会で貧困化しつつ増えていく最小者たる若者や壮年者の出生率はさらに下がる一方だからだ。新しい社民社会への移行を妨げているのは、旧資本主義秩序の回復へ躍起になっている高度成長期の経験者達である。日本では自民党員の殆どがそれであり、彼らを支持する人々も同じ懐古趣味に耽っている。これらの人々がどう転んでも印中はじめ新興国の跳躍にまさりはしないので、悪あがきでしかない。一般大衆の中では、新興国商品の質的向上によってこれまで安逸に耽っていた日本企業の業績が低下し続けたり、移民らとの公平な労働市場で敗れたりして、現状の生活レベルを維持する為にすら過労せざるを得なくなり、次々最小者へ鞍替えしていくものがふえてくるはずだ。
 一方で新成金は、国際的非難によって租税回避地が徐々に狭まる中で次の金儲け先をみつけだそうとするはずだ。ケインズは『一般理論』の中で既にこのことを予想していた。曰く、金利生活者は意見の分かれ得る期待収益を予想することに辛うじて生計の途をみいだすだろうと(16章4篇)。彼ら自身はその役割に自覚的でないこともあるが、資本家の本旨は資本の限界効用を平準化することだ。需給の不一致という市場の歪みを見つけ、先に危険な賭けをし、供給不足という歪みが資本により正されるか、結局正されない中で収益と差し引きした資金を回収、撤退していくのが、その職責である。いいかえれば、世界の中に失敗し収支が負になる可能性のある事業体が残っていれば、資本家の役目は残ることになる。新成金も、現実にはこの仕事に携わる重責をさらにますべく金儲けしているのだ。
 大衆は最小者が主となり、新成金はケインズの予知が正しければ徐々に収益率を下げ、それと変わらなくなるのだろう。新成金の中で賭けに負けた者はもっと早く最小者に成り下がる。対して最初から最小者を目指していた者は、公的扶助などを得て死を免れることさえできれば、質素さに満足できるだろう。資本主義の前線は新興国に移る。そして旧先進国にかえってはこない。このことを知っていれば、中道が何かも分かる。それは自らの期待収益を予想する能力に応じた新興国等への投資に励んだり、国内経済の低成長に適応し、公的扶助を要請しつつ身の丈にあった少欲な暮らしを心がけることである。慎ましくとも最小者ほど苦行に漸近せず、新成金ほどの危険度をとりはせずとも少々の投資収益を新興国等から受けることは、努力さえすれば恐らく可能だろう。また自民党政権という高度成長期への懐古趣味を脱却し、より公的扶助を充実させた新体制へ社民主義のもとで進歩していくのが現実的な生き方だ。

待ち人

戦い
苦しみ
それも終わり
だれもいない夜
夢と雪
君のいとしむ花の中で
時は月の一部となり消える
わかりきった結論で
ほぼ意味のない一瞬
喜び
悲しみ
それも終わり
君の愛する時の中で
空は宇宙の待ち人となって眠る

ツイッター利用法の分析

ツイッターみたいな俗界との接点は、僕には苦痛なんだが、この苦痛は意味がある苦痛なんだろうか? 自分が感心して学ぶことは少なく、どちらかといえば何でこんな集団浅慮を持ってる人が多いんだろうと思うことが多い。 きのうまで、僕はツイッター上で他人の愚かさの様に見えるものが自分の勘違いではないかと疑っていて、なるだけその愚かな発言をしている様に見える人達の側に正当性がないかに注意深くなろうと努力していた。それで、苦痛ながらツイッターを眺めていた。
「この人の方が本当は正しいのに、自分が愚かだからある種の偏見で、相手の方が愚かと思い込みたいだけではないのか? もしそうなら、とりあえずこの愚かなことをいっている様にみえる人の正当性を隈なく再確認してみるべきだ」と、自分にいいきかせて、それで頭を使ってツイッターを渉猟していた。結果、今の時点までツイッターの殆どは僕には苦痛だった。再検討した意見を一々反証していっても、見るべき成果の様なものがあまり手に入らず、どちらかといえば意見の誤りが見つかって、一々それを見逃しにする苦痛から逃れる為になんらかのより正しい意見を記述せざるをえなくなってしまった。
 ツイッター上に浮かんでいる多くの意見というのはなんらかの科学的検証に耐えたものではない。単なる個人の偏見がほぼ全てだ。科学者と名乗っている人がツイッター有名人として易々と記述していることも例外ではなかった。しかもそこに見つかる誤りはすぐ分かるほど初歩的なことさえあった。
 大体2ヶ月ほど真面目に参加してみてわかったのは、ツイッターは基本的に参加しない方がよいということだ。なぜならここに何かを書いている人達は気軽にウソをついている様なもので、それらの信憑性など特に気にしてなどいない。いわばポスト真実の集まりだったのだ。個人の手帳みたいなものだ。
 ツイッターの最も正しい使い道は、恐らく興味のある知識人、文化人など(まあそれでもあまり一流の人はいないのだが)をフォローし、彼らの最新の動向を見るのに使えるということだ。他に投資をしている人は最新の企業情報を即時的に調べるのに使っているだろう。だがこれくらいが自分が見た有益性だ。いわゆる一般人のさえずりというのは愚にもつかないし、みるべきものもなければ科学的認識の誤りがあまりに多い上に、殆どは同調圧力か何かに負け誰かのツイートに同調しているか、さもなくばネット右翼の様な人が自画自賛の幼稚な称揚とか自己愛の吐露をしているといった始末で、無意味である。特に同調的さえずりの無意味さといったら元ツイートと内容が同じなので情報価値はほぼ0だから、そういうのが溢れかえっている場であることを考えると、誰かの返信を読むのは基本的に時間の無駄だとみなしてもそれほど間違っていない。優れた批評というべき返信の割合が少ないので流すだけで一苦労だ。
 ツイッターをSNSに使うにしても、1.5億人が日間アクティブユーザー数らしく、その10倍くらいいるフェイスブックに母数が見劣りする様だ? そのうえ匿名・偽名が多いツイッター情報の信用性は低い。勿論、中には偽名を使ったよい意味で非常識で反社会的な批評があって面白いこともあるのだが。
 ツイッターの面白さがあるとしたら、それはニッチな言論、すきま的な例外の言論がたまに見つけられることかもしれない。そういう人は他の場所ではあまり見つけられない。いいかえるとツイッターは想像以上に同調圧力が弱い場なのだ。フォロー数にさえこだわらなければ、ある程度例外的なことがいえる。かつては見つけられた個人ブログは、アフィリエイター達の赤い海で検索上位にあまり出てこなくなってしまった。ツイッターのリツイートやいいねを辿ってその種の特殊な言論にたどり着く可能性のほうが今では高いのかもしれない。
 愚かさを愚かさとしてみることを簡単にできる人は愚かなのだろうか? 私はツイッターで他人を安易に愚かとみなすのが難しい(大抵の人は当人の脳で生きているだけで、いわゆる科学的信憑性に価値や信頼を置いていないし、そもそも主張する以前に深く物事を考えた試しがないのである)とわかったが、それは誰かの「単純な愚かさ」を一体何と捉え直したのだろう? 反証主義とか弁証法といった学問的思考の様式を程度こそあれ身につけている筈の人が、今度はツイッター上で宗教を一様に迷信とみなし悪し様に攻撃している場面を私はみた。これにも大いに失望させられた。誰のことか言わなくても分かるかもしれないが。その人はただの科学教徒だった。
 賢愚にも質がある。単純に全ての脳は違うということとは別に。「単純な愚かさ」を定義できれば、大抵のツイッターアカウントを無視できる様になるのだが。科学を相対化して考えた時、一体何を認識の誤り易さとみなせるのだろう? 質の高い賢さとは何か? 同類相憐れむ様に、成金にたかっているかねの亡者らは儲けの機会欲しさにそうしているか、同調すれば自分も金持ちになれると信じているのだろう。そして知らずしらず貧しさを侮蔑する偏見を身に着けていく。貧富と貴賎は、当然違う。この様に成金の認識は既に誤っている。そこには単純な愚かさがある。
 既に軽く示唆していることだが、「科学知識の精度」とか「科学的思考力」は賢さの一種ではあっても全てではない。これらの確かさが完璧でないのに加え、芸術、競技、商業、政治など科学に包括できない数多の賢さがあるからだ。複雑な賢さがより賢い。科学の賢さは単純すぎるのだ。極めて価値の高いツイートは、その種の複雑な賢さに基づいている。それは哲学的な賢さといえるかもしれない。そしてこの哲学的な賢さが真に賢いといえるのは、そこには定型性がなく、しかもあらゆる面から物事をまとめて検討するものだからだ。逆に俗受けするツイートは、哲学的ではない。ある偏見を強調している場合が殆どだ。逆に俗受けするツイートは、哲学的ではない。ある偏見を強調している場合が殆どだ。いわば殆どの人間は単純に愚かなのだろう。
 質の高いツイートは箴言的なもので、世界を縮約してあらわす。そして一部の脳に英知を与えるが、一般人は理解できない。英知自体に触れられる人自体が少ないのだろう。どんなツイートが愚かで他がそうでないかについては、単純で定型化した認知でははかりきれないのだろう。世間で高い学歴を示している学者のツイートを実際にみてみると、驚くほど稚拙でびっくりしてしまう。その人達は定型学習はできたかもしれないが、普段の思考は単純に愚かなのである。複数の賢さの体系を同時にのりこなし、しかもそれらを場面ごとにふさわしく使える知性が、最良の知性である。この意味で、「単純な愚かさ」は全ての場合に定型的な思考しか使えず、しかもその賢愚の体系が単一的ということになる。ばかの一つ覚えというやつだ。
 ツイッターに疲れるのはそういう単純に愚かなアカウントを見分けるのに手間がかかる為なのだろう。有名さやフォロワー数は、真の賢愚を見分けるのに何の役にも経たない。ツイートの質は哲学性によっているのだ。
 結論としては、ツイッターを有効利用したければ、フォローするアカウントのツイート内容が哲学的洞察という意味で比類ない必要がある。誤り易さをもっている限りそのアカウントは賢くない。数度以上、暗愚な発言がみられたらフォローしない方がよい。賢者が偶然でなく間違えることは少ない。

日本での処世術

日本国内で失礼じゃない人(貴族)に会うことは先ずない。驚くほど教養のない庶民、もっといえば下衆の国。消耗する一方なので失礼な人を相手にしない、すぐ離れて関わらない、避けられないなら動物か何かと思って手早くやり過ごす、というアドラー心理学的処世術はこの国で生きたければ極重要。全体主義や集団浅慮に耽り罪悪感を持たない日本人衆愚に反省力は先ず期待できない。

日本国の歴史は短い

日本列島は連邦国だったので日本国は明治以前に未成立。例:江戸は武蔵国、大阪は河内国、京都は山城国。

自由主義経済と社会主義政治は両立してきた

自由主義というのは市場放任を目指す経済思想であって、社会主義にはある程度の幅があって公的セクター(官業)の領域を増やすという意味での国家社会主義と、公的福祉を充実させる(必ずしも官業に限らない)という意味での民主社会主義などがあるが、基本的に政治思想。自由市場と両者は両立可。例:北欧は社民主義的(社民党が与党)政治で自由主義市場と両立。日本は国家社会主義的(自民党が与党)政治で自由主義市場と両立。

2019/02/11

強弱を善悪にすりかえるマキャベリアンは単なる野蛮人

強弱と善悪は違う。両者を混同するマキャベリズム(権謀術数主義)は、暴力を正義より優先する一部の人が好む野蛮な考え。

平成天皇職にあった明仁氏の違憲・違法政治と世襲独裁の謝罪について

退位法を忖度させて天皇大権を国民主権の上位に位置づけてる明仁さんは、普通に違憲立法を願い出てたでしょう? 内閣の助言による習近平氏との公的接受拒否事件まで起こしたでしょう? 戦前と変わらない傲慢な人治の独裁者というのが現実に明仁さんがやっていることでしょう。歴史の話でいえば飛鳥時代に大和王朝から朝鮮系移民の暴力団体を使って各地の日本人を侵略しだしてからというもの、蝦夷、隼人、熊襲、東夷、アイヌ、琉球人など日本全土の日本人を異民族扱いしながら人種差別し、奴隷化してきました。その種の帝国主義的侵略罪、国民主権の侵害はまだ続いている。
 単に明仁さんは平成天皇として無法者状態なのが2019年2月現在です。退位法が違憲なのは明白でもう天皇とも呼べないと思います。摂政を置くとちゃんと典範に書いてあるんです。勿論、天皇一族が日本含むアジア一帯にやってきた侵略や独裁の罪は筆舌に尽くし難く、我々日本人にも謝罪賠償して頂きます。
 明仁さんは天皇職として、公的接受を突然わがままいって拒否し、小沢氏に大冤獄のきっかけとなる濡れ衣を着せ始めましたね。宮内庁舎2階に陣取る宮内記者会とつるんで。そんな蛮行で日本国政を悪戯に破壊しつつ、これまで二千年近く政教一致の邪教で全国民洗脳をくり返してきた悪業がごまかせますか?

幸福な情報としての純粋芸術

有用さは快楽そのものや、幸福より価値が低いとアリストテレスは考えていたが、有用な情報についても同じことはあてはまる。時として目的の手段となる快楽の最上の形態は、視聴覚にとって単に感覚的である他の複合要素を含まない純粋芸術が典型として表現している。幸福な情報とは目的の情報であり、それは人として最高の能力である道徳的な情報である。最上の芸術も善い趣味という橋を通じてこの表明に携わる。いいかえると、純粋芸術がなしうる最上の功績は道徳表現によって世界の幸福を増すことである。

相対主義は正義の質を認めていない詭弁

相対主義(全ての正義が各々対立しあうだけで全て同等と無判断に帰着する考え)は正義の間に質的差がないことを前提にしている詭弁で、より高い正義とより低い正義がある(例えば推定無罪は冤罪を含む喧嘩両成敗より高い正義)以上、成り立たない。

かね儲けせず奉仕することが青い海の正体

かね儲けを人生の目的にしていた人達は、結局その過剰なかねを慈善事業に使う他なくなった。聖書箴言28:8の「利息や高利によって貴重なものを殖やしている人は、立場の低い者たちに恵みを示す者のためにそれを集めているにすぎない」は、ことここに限っては確かだった。逆にかね儲けを避ける人は、その人の行う全てが同時に常に他人の為になるのだから、純粋に全利的な存在である。
 単に自分のかね欲しさにかねを手に入れようとしてはならない。それは同時に常に他人の持分を減らしていることだからだ。かね儲けは有限の法定通貨の取り合いであれば常にゼロサムゲームである。だからこの遊びをする者は、常に他人の敵意と戦わねばならない。かね儲けを市場の歪みを利用した法定通貨の寡占ゲームと考え、その練達を仕事にする商人は、結局赤い海から逃れられない。
 人が市場で救われるにはプラスサムゲームの参加者となるしかない。少なくとも芸術はその種の仕事である。芸術作品はあればあるほど何らかの知能の発展に益し、それが換金さえされなければ法定通貨を奪い合う羽目に陥らずに済む。だから芸術家の中でも商業作家は、やはり商人と同じ悪徳に陥ってしまう。商人は利己心という悪意の故に他人を搾取する。彼らの動機は他人を貶め、自分が他人よりかねを集めたいという幼稚なもので、建前は全てこの利潤追求の言い訳に使われている。商人世界の中では無限の奪い合いという競争原理が働くので、その市場では労働の苦しみが限界を迎えるまで相互収奪が進む。投資や不動産運用等の知的労働においても事態は同じで、ラットレースは赤い海が血だらけになっても続けられ、結局そこでの勝者も慈善事業によって世間のねたみを晴らすしかできない。死の競争が商業界の全てである。ネット商人の一部は、飽くまで商業界の拡張を意図し、ニッチ商品の開発でかね儲けにしがみついている。そして大勢の商人がここに追随しようと殺到している。だがこれも赤い海の中での出来事だ。
 根源的に地獄を逃れるには非商業的な行いを仕事にするしかない。つまり奉仕においてかね儲けをしないことだ。しかも、できるだけ優れた奉仕活動をするようあらん限りの知能を働かせ全人類の幸を増すよう知恵を絞らねばならない。それが真の青い海に泳ぐ最良で唯一の方法なのである。かねをとらないことを鉄則にした全力を使った奉仕活動によっても、自分の食べる分が誰からか供用されなければ、その国は生きるに値しない国であることが明らかである。他人を奴隷化している国民、他人を奴隷と思っている非人間的な悪徳商人は、奉仕された相手を利用するだけして見殺しにする。

共和党立党論――平成末の国政において新統一政党たる共和党をつくる為の建言

日本の多数政治は、ほぼ完全に衆愚政と呼ぶべき状態で間違いなさそうだ。そこに改善の余地も希望も見当たらない。衆愚の側は利己心に耽り、多数派同調バイアスや正常性バイアスで違憲立法や不正行政を連発する独裁者安倍晋三氏の肩をもつばかりか、政権交代を恐怖し、更なる悪政を後押しする始末だ。震災と原発事故、菅直人氏の暴走という3つの偶然が重なったことを民主党の責任にしたてあげ、正常性バイアスで愚民を騙し、自らの独裁政治による不正をごまかす安倍氏による詭弁。腐敗した一党支配を維持する為、愚民に同調できる程度の詭弁を弄するとは、言語道断。又この程度の詭弁で簡単にだまされ、自民党の寡頭政治を安易に正当化してしまう愚民の側にも重大な責任がある。この国の愚民と呼ぶべき国民の質にして、この独裁者あり。改善の余地なし。
 ​日本の多数政治は、ほぼ完全に衆愚政と呼ぶべき状態で間違いなさそうだ。そこに改善の余地も希望も見当たらない。衆愚の側は利己心に耽り、多数派同調バイアスや正常性バイアスで違憲立法や不正行政を連発する独裁者安倍晋三氏の肩をもつばかりか、政権交代を恐怖し、更なる悪政を後押しする始末だ。
 同調目的の衆愚政(アリストテレスでは国政politeiaに対する民衆政democracy。多数派が公益に対して私利をはかるという意味を強調する為、善い多数政治としての共和政republicに対して、ここではよりわかり易く、悪い多数政治として衆愚政mobocracyの語を使う)、自民党の寡頭政、安倍晋三氏の独裁政として、多数政治、少数政治、単独政治の全面で堕落しきっている平成末の日本の政治は、およそ世界史上でも最悪の状態を表しているといっても過言ではないだろう。これこそ最悪政治kakistocracyと呼ばれる状態の一つの典型になるよう私には見えるし、世界史もそう評価する様に思う。
 さらに悪いことに、平成天皇が違憲立法を全議員に忖度させ、全会一致の幻想で退位法を立法させてしまっているので、天皇大権が事実上復活し、国民の代表者である安倍氏のさらに上位に、国民主権の法治体制を実質的に破壊する無法者の天皇が人治・超法規的に君臨し統制不能な世襲の独裁政となっている。
 日本の国政は平成末よりどう転んでも堕落はできないだろう。裏を返せば、今が最悪の状態な以上、国民の中に一人以上、公益を私利より優先する者がいれば、少なくとも改善の余地があるともいえる。その代表者が、専ら政権交代を主導する小沢一郎氏だといえるだろう。但し、多数者が堕落した衆愚であって、自民党による寡頭政を望み、さらにその寡頭政の内部でも安倍氏の独裁政を望み、その安倍氏という独裁者が平成天皇による違憲立法下での無法な政治を望むという連鎖は、衆愚自身によっては断ち切れないだろう。天皇含む全衆愚を外部から統制する必要がありそうだ。
 野党がどれほど偉大な革命家を有していても、国民一般の側が結束主義的な集団浅慮に陥っている場所では支持されず、政権をもてないからだ。内政干渉はある堕落した国政を内部から否定的に評した言葉で、外部統制がそれを外部から肯定的に評した言葉といえる。
 今日、天皇や安倍氏を含む日本国民一般が数多の不正に対し全体主義的自己正当化に耽る傾向があり、彼ら自身の反省は難しく、制度の自己改善は困難と思われるので、良識的日本人らは米国、韓国、中国、北朝鮮、ロシア、中華民国、或いは国連などに直接働きかけ、外圧で国政の悪を正すべきと思う。わが国法には刑法81条に外国の武力行使を助けた際に死刑を求刑する外患誘致罪がある。しかし、自由な言論を用い、諸外国の立場から国政を論じることについては、各国法に倣うことになっている。したがって諸外国の立場から国政の異常を批判することが、最も合理的で最も端的に衆愚の不正を暴くと思う。
 古代ギリシアのアテネで多数政治がペロポネソス戦争の敗北を経て、隣国であったマケドニア王国に滅ぼされた経過は、ポリビオスの政体循環論に示唆を与えていると私は思うが、現実の衆愚政を脱却するには色々な手立てがありうるだろうし、必ずしも優れた単独者によるとは限らないとも私は思う。
 公徳、政治的洞察力という意味からいって、現状の全日本人の全政治家でそれが最高度なのは小沢一郎氏で先ずまちがいがないだろう。問題は彼が76歳と高齢であり、同時に天皇と衆愚側による冤罪が祟って未だ党勢が十分とはいえないことにある。小沢氏が新首相に就けば国政は正される。筋書きが必要だ。
 諸外国の自由言論の範囲から外圧で平成天皇と安倍氏による独裁政の腐敗を暴き、同時に、国内からは小沢首相による政権交代後の新政を着々と準備実行していくというのが、最も合理的で成功確率が高い筋道だ。寧ろそれ以外にこれといった道がない。恐らく日本人が賢ければそうなるだろう。
 現状で最も国政の妨げとなっているのは、立憲民主党首の枝野幸男氏が政権交代を実現できるほどのカリスマ性や英雄的資質をもっていないのにも関わらず、自らの立ち上げた新党党首の座にしがみつき、排他主義で野党の勢いを弱め、国政を正す大義に殉ずる気配がないということである。できるだけ早い時点で枝野氏の党を解散し、立憲民主党・国民民主党・自由党という旧民主党の分裂状態を解消し、その他の少数政党と全面的な選挙協力を行いつつ、政権交代後に共和政を執る統一政党をつくりなおす必要がある。この際、法治主義に基づき天皇大権を否定し国民主権をとりもどす必要がある。したがって退位法を違憲立法審査にかけ、摂政の立場に皇太子を置くか、皇室典範自体を憲法改正によって退位可能に変えるか、さもなくばこの改憲の際、皇室自体を制度的になくし、今後は民間の宗教法人として扱うか、いずれかが必要である。この間に、秘密法や共謀罪といった違憲立法の審査も必要だ。
 新政党は共和党という名でいいと思う。共和政治は再公共を意味するrepublicの訳語だが、多数政治を常に公益の為に作り直すというニュアンスが込められており、現実にアメリカにも二大政党の一つとしてその名があるため、諸国の理解を受け易い。また天皇発の公的接受拒否事件から起きた大冤獄の暴政で分裂させられた、国民の主権から成る旧民主党勢力を、共に公益を目指す目的で再びまとめる意味でも正しい言葉の使い方と思われる。
 共和党首を小沢氏とし、幹事長を枝野氏とし、自由党、国民民主党、立憲民主党を統合する。この後、社民党、共産党、維新の会などの少数政党と、比例代表を含め全面的に選挙協力し、同時に自民党から反安倍政権の離党議員を厚遇条件のもと募集すべきである。と同時に、共和党は公明党には安倍政権の山ほどある不正をあげつらいつつ、これまで公明党が自民党安倍政権の悪政の片棒を担いできたことについて、一般の創価学会員や公明党員から取り上げた声の証拠を引き合いに責める。現状の悪政は公明党にも同罪があるのだと。創価学会員も大変悩んでいるのだと。かつ、政権交代後に、単なる党利党略を超えた世界の公益を図る政権運営を、共和・公明の両党で相互に矛盾なきよう最大限に数の上で協調的に行うとの公約を立て、共和・公明連立盟約を選挙よりずっと前に結ぶべきである。
 橋下徹氏についてだが、この人物の私徳に落ち度があるのはみな知っていることだ。しかし彼はテレビ等での発言を通じたかなりの大衆扇動能力があるので、政権交代までに世論を作る段階で役に立つ、と小沢氏は考えているよう、私には見える。しかし橋下氏が国政の中で力をもってからの負の影響として、私徳(少なくとも性的潔癖さから遠く、慰安婦に関する歴史認識が甘いということが過去の発言から明らかになっている)に欠けた人物が上位者に就くと、単に国内風紀に悪い模範としての影響があるのみならず、国際問題の種火が広がり易い。副作用を考慮すると、猫の手を借りるよう橋下氏を共和党の中に位置づけるのは、国政にとって新たな憂慮をふやしてしまうともいえる。よって、橋下氏の扱い方は慎重を要する。できたら彼には民間のタレント系弁護士という立場から、共和党の支持者となってもらう方が長期的に賢明かもしれない。

卑しさと呼ばれる思考の癖について

卑しい人のいうことやその人の悪解釈の癖、誤解の仕方、無知さはほぼ理解できない。が脳が情報島で賢愚がただの差なら、自分からみて卑しいと感じられる人の脳はその人特有の情報咀嚼の癖をもっているだけとも捉えられる。この処理法の他害性が高いと我々はその人を卑しいと感じ、育ちや生まれを疑う。卑しさはこの意味で愚かさの要素を含む脳内の他害的体系である。我々が卑しい人を理解できないのは、相手の脳内のこの体系が想定外にあるからだ。
 私は卑しい人をも尊い人を学ぶよう理解できないか試したが、それがほぼ無理だと知った。なぜなら愚かさには不定形で偶然の誤解や、妄想といった他人には窺い知れない要素が多分に含まれる上、悪解釈の癖は当人の他害性への性向で、元々この悪徳を避けようとしている善意の人がなんの予備知識もなしに身につけたり、想像したりするのはとても難しいからである。辛うじて悪徳というものは想像で補えるだけだが、これも自分に実体験できることを超えているので、我々は卑しさと呼ばれる思考の癖について、もし大衆の研究として意味があるなら、改めて抽象化し再学習する必要がありそうだ。

On Ume

Yesterday morning I found snowing out of window. Wintersweet bloomed in my garden. My father said he planted it, because the flower was loved by Tokugawa Mitsukuni (who was great daimyo, he self-stated vice syogun). I made a tanka for the first impression (Tanka is most traditional short poetry style of Japan). 義公愛で父の植えける蝋梅が春に先駆け我を励ます means "This wintersweet encourage me faster than spring the flower planted by my father and loved by Tokugawa Mitsukuni too".
  The reason why Mitsukuni loved kin of Ume (Japanese apricot) -- by the legend, old era in China. When an Emperor learned hard next it bloomed. But when he forgot to learn it didn't bloom. After Mitsukuni knew it, he learned more hard, to rule well my country Hitachi province and the Japan. We know his book "Great History of Japan" (Dai Nihonshi) made one of the today's most traditional Japanese history views.
  After Mitsukuni's rule period, his clan's children Tokugawa Nariaki loved also the flower kin of Ume, and he had also a studious personality. He made new academy in our country Hitachi province's main city Mito, the academy called Mito Kōdōkan. In there, he taught new philosophy to Samurai (meditarian nobles of Japan). It brought Meiji-restoration directly, the thought was to unity of all Japan and encourage modernization. So he was saying 'Our Hitachi province is the world's vanguard', it mean a poetical analogy in one of the first blooming flowers. The Ume blooms in winter, like the avant-gardes from spring. Of course, it was a metaphor with Mitsukuni and Emperor's philosophical kingdomship too.
  After all, their era they didn't know the wintersweet was not a real kin of Ume. The wintersweet is a family of Calycanthaceae by today's taxonomy. However I knew it through Wikipedia a while ago. Maybe I've been also encouraged by my father and great ancestors of my country, Hitachi -- Ibaraki prefecture.

2019/02/10

学ぼうとしない者

自分より遥かに愚かで悪意の人に仕事中に絡まれ、うんざりしている。私に不幸を持ってくるのは常にこの種の愚物だった。その人物は、私にわけのわからない誹謗をしてきて、相手にすることもなかったのだが、詳細に内容をきいてみると、相手がひどく無知で、卑しい誤解と妄想を重ねているだけなのがわかった。「自力で勉学せよ。私に迷惑をかけるようなら今後は無視する」と教えたが、恐らくこれも学ばないだろう。
 学ぼうとしない者は救いがない。

慈愛の欺瞞と次善

この世で毒にも薬にもならないばかというのは、なぜ生きているのだろう。なにかの数合わせなのか? そういう連中が他人のブログに、全く愚にもつかないコメントを残しているのをみると、一体この人達はなぜ生きているのだろうと真剣に思う。しかも無数にそういう人がいるのだ、目には見えないだけで。
 慈愛と呼ばれる性質は、まったく欺瞞的だ。一体人がどれだけの細菌を日常的に殺しているのか? うがいせずにくらせるのか? それと同じことは人についても実はいえるのであり、都会人は情報の入らない田舎に公害をおしつけ平気で搾取自慢している。勿論その種の都会人の破滅にも同情の余地などない。
 自分の私的鬱憤晴らしに政治闘争を外野席から罵倒している連中。この人達も完全に反省力がない。彼らは政治家の給与を払って、三文芝居をみせられているだけなのに。
 尤も私利だけを目当てに租税回避地や山奥に移住した人を眺めている限り、その種の逃亡が人類の進歩に逆行しているのも確かだ。
 民衆に反省力があれば、一度正論をきけば道に悟るだろう。だから説教や説法をくり返したところで全く意味はもっていない。無駄なのだ。私は嘗て同じことを試したが、結局、その場の民衆は昼夜を徹した私の説法を何も憶えてはいなかった。しかも彼らが例外ではない。愚民の現実に悟らねばならない。
 慈悲が生命の保全、特に苦痛の軽減につながるのは分かっているし、寧ろ慈悲心の強さがその人の善良さの最大の面だろうから、この全生命に向けた仏教的理念が最高善に近いものなのも知っているが、それでも微生物界に対してはまるで意味をなしていないといえる。ピーター・シンガーとブッダは微生物や植物の苦痛をへらせるのか? 有機体の苦痛をどう定義しているのか? 原核生物をどう扱うのか? 腸内細菌や生殖細胞にも苦痛があるなら?

絵画論

絵画は空間をつくってはならない。単に色彩を表示しなければならない。しかも、その色彩が何事かを伝えていなければならず、できるだけ単なる無彩色の平面を超えた視覚的効果をもっていなければならない。

蝋梅

義公愛で父も植えける蝋梅が春に先駆け我を励ます

政道をはばむもの

思うに、一般国民は、民主党政権への失望から消極的に自民党を支持。が安倍政権に問題があるのは分かっているので安倍氏のもとでの改憲にはおよそ反対している。と同時に、安倍氏は不誠実で人格的問題があり、できればより良識的な人材へ党首交代してほしいと感じているが、派閥に阻まれ実現しない。
 インターネットやメディアの一部では右翼的論客が目立つので、安倍氏が消極的に党首を歴任してしまうことが正当化されているが、一般国民は自民党政権の方が民主党政権よりは少なくともましだろうと臆断しているだけで(違憲立法や不正行政が連発しているのでこれ自体誤りなのだが)、右派ではない。
 自民党内の派閥が固すぎ、安倍政権の異常な独裁に内部から自浄できない。大部分の自民党議員らも保身を図るため忖度してしまう。
 こういう状況があるので、政権交代が必要になっているが、立憲党首の枝野氏は狭量で、他党との選挙協力を一部拒否し、自党の政治思想によって排他的結束を図っている。
 少数政党である自由党の小沢党首が政権交代を優先事項に掲げ、一切の選挙協力を含む全野党の大同団結でもっぱら安倍独裁政権の打破を図ろうとする一方で、最大野党の枝野党首は立憲民主党の私利の為に大団結を拒んでしまう。結果、政権交代の可能性がますます低くなり、安倍政権の悪政が止まらない。安倍氏は元々人物に精神病質的な良心の欠如や、法治的知性の欠陥があり、反省は期待できない。つまり安倍降ろし以外で悪政を正すことはできない。とすると、現状で最も国政の改善を阻んでいるのは立憲の枝野党首だということになる。
 故に私はこの枝野さんを説教・説得してみた。が、どうも彼は知恵が足りない人物で、国政の致命的危機を理解していないか、大義に殉じる志はなく、党利党略の方が政権交代より優先と考え、比例代表選での非協力の立場を変えたがらない。さてどうしたものか?

A dying message

I die in seeking relief
I die in eternal relief
To die we live
To back in nature of the universe

徳の命令

一般大衆を一切相手どるな。彼らは金とひきかえにお前を陥れ地獄に引きずり込む。下衆な人間は反省しない。金儲けに衆愚が夢中になっているならそこから最大限離れるがいい。この世で悪徳に満ちた人々とは幸福にくらせない。卑しい人は蛮行で墓穴を掘っている。
 徳が命じる方へ赴け。誰一人いない方へ歩め。群れるな。誰もついてこれないよう歩め。貴人は一人であればこそ尊い。卑しい人々と全く違う考え方をもっていれば、一般大衆に理解されなければそれは既に尊い。下賎な者が貶める者は既に彼らと違っている。

正しい言葉

正しい言葉などどこにもない

密かな怠業

貧民を使い捨てにす日本の社会に密かな怠業きたりし

絵画論

無私さを描くこと。
 私は革命家だ。革新的な考えと実行力で世界をこれまでと全く違う、圧倒的によりよいものへ変える。私にはその為の力があふれている。私以後の世界、私を含む世界は、優にこれまでの不条理の大部分を解消していく。この革命の威力こそ、我々にとって最も助けになり、必要不可欠で、第一の需要だ。
 世界をつくる力。もともと、模倣はこの為の練習でしかなかった。
 絵は世界の範型だ。ある絵が理想的であるには、その美が瞬時に最高善を伝えるものでなければならない。

餓死を強要する日本人

生存権迫害しける日本人邪悪のきわみで国民餓死さす

脱資本主義

資本主義サーキットで競争している人達を眺め、その外に生きているということが、私にとってラットレースというものへの最善の対策で、適応だった。

2019/02/09

対資本原理主義について

一般大衆の中で認知され、しばしば人気を得ている人をよくみると、彼らの中の暗愚で卑しい要素が俗受けしているのが分かる。皇族や金持ちの卑賎さが、悉く民衆を歓喜させている。人は同類相憐れむので、商人は彼らと同じかそれ以上に利己的な人を好み親しむ。
 純粋芸術は商業的でない着地点を持たねばならない。私が「救い」と呼んでいたものの正体もそこにあると思う。資本主義は非人間的な宗教で、多くの愚者をほぼ完全に洗脳しているが、彼ら商人は経済弱者を搾取する一方で、少しも救わない。資本主義信者はいわばただの野蛮な動物だ。
 芸術は言いたいことをいう。そこに他の夾雑物は必要ない。他人がどう思うか、他人に受けるか、他人が喜ぶか、他人に買われるか、他人がカネを出してまでそれが欲しいか、株価収益率をあげるか(株主にとって下げるか)、内部収益率をあげるか、これらは私の仕事にとっては積極的に排除すべき対象だ。
 資本主義経済を信じその中で生計を立てている全商人達は、自分のみるかぎり完全に新興宗教に洗脳されている愚者でしかない。この邪教の禍々しさは天皇を筆頭とする(表面的には象徴と名乗る宗教的権威に偽装した)神道権力に匹敵し、多くの人間を奴隷化し資本家の立場で搾取し続けている。商人は搾取罪を正当化する為それを付加価値と呼び、持たざる者を収奪する。勿論全て利己の為、経済弱者である他人を犠牲にする目的しかない。これは悪意なのだが、商人はその悪意を資本主義信者の間で合法化している自己利益と同一視しているので、決して反省しない。だから彼らは貧者を虐げ恥じない。
「資本主義を信じさえすれば他人を奴隷化できる。持たざる者から収奪し放題になる。だからお前も金を儲けろ、他人を原価以上に搾取したら付加価値と名づけ自己正当化しろ。この信仰はお前を世界一の金持ちにする為だから永遠に競争し続ければ救われるのだ」資本主義教義の中身は貪欲。他にはない。
 ユダヤ教とイスラエルは米国政府を背骨に世界中を資本主義教で洗脳していこうとしている。この流れは高学歴の風儀と相対的に高IQな遺伝子のもとにあるユダヤ人の選民性にとって都合がいいのだ。アングロ・サクソンの一部、特に米英の利己的な一部の人はこの教義を採用し、彼らの仲間になることにした。
 天皇は自身の教祖兼皇帝権力が最大化されることを望み、敗戦後は米英とイスラエルの野望に妥協し保身をはかった。日本人らは象徴と偽装された天皇権力と資本主義の両方に洗脳を受けはじめた。さらに利己的な人はリバタリアンとなりシンガポールやドバイへ逃げて行った。日本国内には宗教に洗脳され易い衆愚が残った。彼らは天皇奴隷制と呼ぶべき国民全般への増税や、経済弱者の生存権弾圧を当然と思い、それを自己責任論と呼んだ。平成時代の末期に生きている私に分かっている現代史実はここまでだ。
 私がなんとか資本主義や神道の洗脳を自力で解けたのは幸運だったのだろう。他の商人や一般大衆にそれができているとは到底思えない。勿論、政府を構成している公務員や皇族にも。
 資本主義の邪教さを象徴的に表現する美術作品を、私が十分制作できてきたか。10年位前、コカコーラの空き缶をカッターナイフで破壊し、芋けんぴの入っていた生協の空き缶の中に、接着剤で留めた作品を作って、確か『対資本原理主義』と名づけ自分のホームページに掲示してきた。私は当時、十分に理論化した言葉をもっていなかったので彫刻でその様にしか表現できなかったのだが、誰も私の意図に気づかなかったので、今に至るまでその作品も私も完全に無視されてきている。だがそこで表示されていた理念は、資本主義教の悪意をのりこえようとする偶像破壊であったのだろう。侍が一刀両断する様コカコーラの空き缶を切り捨てるイメージが、私にその作品をつくらせたのだが、今寝床の横にあるタンスの上に埃をかぶってあるその作品は、多分すでに錆びてしまっているだろう。さび止めを塗っていなかったし、誰かが似た様式をすぐまねられるので、画像が残れば十分と思っていた。

非大衆性は最高善の必要条件

我々に大衆性がないということは、寧ろ長所だと自覚せねばならない。大衆的商業性には、同時に低俗さに伴う諸々の悪徳が付いてくる。が非大衆性、特に少数者のみ理解できるか、自分以外に理解されない性質は、最高善に漸近する可能性をもっている。しかもそれが実際の最高善に至る為の必要条件である。

生活保護捕捉率の負の鼓舞

生活保護の捕捉率が低い自治体があれば、その割合に応じ、当該自治体の全公務員の給与を差し引き、かつ、天皇と全皇族含む日本政府の全国家公務員の給与も差し引くことが必要だ。これを生活保護捕捉率の負の鼓舞と名づける。

死を恐れるな

文明社会の中で、自分が利己的だと示すことは下品さの証明であり、その種の人にたかっている人達も自分達が他人より己を優先すると表明している点でつきあうに足る人格とはいいがたい。私はこの数年、商売の真似事をしてみたが、結局それは無駄だといま悟った。なぜなら商人が対象にしているのは低俗な人々であり、自分がそうなりようもない私には商業界はかかわりようもない世界だったのだ。
 他人はいざ知らず、私が商売にかかわると逆に虐げられ、貶められ、餓死に追い詰められた。現代の町人全般は商業化の果てに金儲け以外を仕事でないとみなし、迫害し、差別し続けている。私はこの数年間、彼らがどういう生態をもち、どの様な性質の持ち主かを嫌というほど観察した。結果わかったのは彼らは侮蔑に足る人達だということだった。なぜなら彼らは利己心で動いているからだ。
 自分が下衆な商人の一員になって貪り暮らすくらいなら、餓死に追い詰められる方を択ぶというのは、自分に良識があればこそ当然の選択であろう。これは私一人のことではなく、私と同じかそれ以上に高潔な芸術家達にとってもやはり同じであるに違いない。伯夷と叔斉の例を引くまでもなく、わが国には侍という貴族の前例があったというのに、なぜ今日の知識人が自分から堕落できよう。自分自身の中に高貴な魂が宿っていることを知っていればこそ、自分より貧しい人々がすべて生活保護を受け、下賤な皇族や公務員らの不正な横領を完全に粛正しきってから、自分が最後に飯を喰らうというのが、わが国の貴族のとるべき生き方なのは疑いようもない。先憂後楽と烈公が既に述べていたのに、なぜ水戸家の統治下にあった士人が数世代でその徳を失えるものか。私は自分が単に商売が下手なだけかと勘違いしていた。現実にはそれが自分に感じられる限り汚いことであるから、やりたくともできないのだ。内容が低俗すぎるのである。利己心を動機にしている。
 勿論、私に一般大衆の気持ちなど理解できないし、彼らの日常をみているとあまりの卑俗さに驚く。だからいずれにしても大衆向けの商売など自分の職責ではないことが明らかである。そもそも私が好むところのものは、大衆全般が好むところのものとあまりに違うらしく、相手をできるはずがない。先日、無教養な上に悪意に満ちた衆愚が、アリアナ・グランデというポップミュージシャンを大変に貶めている現場に居合わせた。その現場の卑賤さといったらない。神が彼らを滅ぼし去るだろうことも疑い様がない。だがそれが通俗芸術家が金儲けをしている現場なのだ。どうしてそこに自分が混じれよう。
 私はいま気づいた、死を恐れることそのものが臆病さの一種なのだ。餓死は名誉ある死に方なのである、少なくとも天皇政府が一般国民を搾取し、経済弱者を次々生み出しながら搾取し、生存権を侵害する無法者の集団であるからには。低俗で侮蔑すべき作品を残し、それで少々のカネを頂戴し、意地汚く生き残ろうとしている全ての通俗芸術家は、断言するが三流の人達なのだ。彼らは商人とその性質において何も違いがない。死を恐れ、汚い天皇政府に媚を売り、さらに汚い大衆一般の愚かさに迎合しているのである。
 自分に経済能力がないとは到底思えない。寧ろ大衆全般が下らない買い物をしたり、明らかに非効率な仕事をくり返しているのをみて呆れているほどなのだから。単に商売というものに違和感をおぼえ、本能において忌避しているのだ。それが自分の魂にとって到底携わるべくもない下賤な迎合だからなのだ。
 まだ完璧にこの商業と芸術の全く真逆の違いという真理が分析しきれたとはいえないが、おおよそこの方角で、自分の仕事はまちがいない様に感じられる。そうと分かったからには、只今をもって私は商売から足を洗うつもりだ。やめるならすぐにやめねばならない。善は急げなのだから。自分は仕事が速い。今日から明日の間中に一切の商から撤退し(最近1円も売れていないが)、一切の広告を撤去し(大した数ではないし元々収益は0だ)、寄付先も削除し(1人しか寄付した人はない、しかも恋人)、自分が1円も手にしていないのは自分の仕事が商売ではないからだと堂々と述べる他なかろう。
 自分が戦っていたのは大衆の無知や悪意というより、自分の中の死を恐れる臆病さだったともいえる。これは自分でも認めがたいことだが。といっても、この2、3年で済んだのだからまだましだった。ミューデとかいうアメーバ・ピグにいた東京女に唆されたからとはいえ、誠に無駄足を踏んだ。この2年くらいで誤って絵を売ってしまった人は、2、3人はいたように思うが、それについては回収できないのであきらめることにする。

仕事

売れない絵を描いて殺される仕事

有限の資源と無限の資源

だれがいくらかねを儲けたか、この様な情報は我々にはなんの意味もないし、あったとしても或る人が有限の資源を寡占した証明としてその人を卑しむ結果になるだけだ。
 我々は一体なにが我々の幸福をますかに注目しなければならず、それはあればあるほど人類を豊かにする類のものによっている。

命の流れ

命の流れ
2019年
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右翼や保守は懐古的愚物に過ぎない

右翼と自称していたり、保守と自認している人は、単にできないことを信仰しているのだから、愚物となんの違いもない。万物が流転する中で変化や社会の複雑化に再適応できないとしたら、その人自身は反社会的存在なのだ。保守性が暗愚さの一種だとわかった以上、私はその種の愚物を相手にできない。

無法者の天皇明仁氏はいつ先住日本人に謝罪し建前を使った世襲の独裁を反省するのか

蝦夷とかアイヌとか琉球とかアヅマエビスとかいって先住日本人を2000年近く人種差別したり、侵略して自治権うばって虐殺してきたことについて、天皇こと明仁さんはいつ謝罪してくれると思いますか? 日本人の一人として真面目に聴きたい。過去のことは謝らない主義なら、現在、我々貧民から税金を搾取して贅沢三昧し、貧しい国民の生存権を弾圧してることについては、天皇こと明仁さんは謝罪するつもりあると思いますか? ほか、退位法は違憲立法で、憲法と皇室典範には摂政を置くと書いてあるわけですから、天皇こと明仁さんは違法行為を公然とする公訴以前の犯罪者(もし公訴されれば被疑者、マスコミ用語では容疑者)なわけですが、このことについて法律を遵守する一般国民に、謝罪するつもりがあるのでしょうか? 日本人全員がおとなしくしていたらどこまでもつけあがるのは、天皇こと明仁さんのほうではないのでしょうか? 少なくとも法律を守って欲しいです。法治国家の象徴が違憲な存在では、法秩序が成立しなくなってしまいます。退位法は最高法規である憲法に準ずる筈ですし、皇室典範とも齟齬します。

日本は天皇が国民を奴隷にしている餓死強要国家である

私は特に1円も日本人達全般にもらっていないし(親とたった1人の支援者を除けば)、いわば全仕事を無視され生殺しにされているのだから、日本国民だとか日本国というのが、私を餓死させようとしている人々なのは現実に間違いないことだ。それが日本の私への悪意でなければなんだというのだろう? これが真実だと思い込んでいるわけではないのだが、日本国は、私にとって天敵の様なものではないか? 私を生殺しにしようとするのだから。
 なぜ日本人全般は、少なくとも江戸時代から続く家系図をもち、純日本人と呼べる様な私に敵意というか悪意を持ち、全く支援せず無視し餓死させたがるのか? 日本国に純粋芸術の伝統がなく、前衛的傾向の画家は餓死に追い詰められる、ということについて、もっと周知すべきだと思う。それが私なので。ゴッホに涙などしている場合ではない。現実に、日本に、全くそれより追い詰められている一個人がいる。私です。私は幸運にも、私が直面したあまたの困難により精神が鍛えられ、ゴッホと違って完全に発狂まではしなかったし、逆に自力で立ち上がり、猛烈に学問や世間知を身に着けながら、人類の悪意を打ち負かそうとしているのである。
 しばらく前、私はある無政府主義者の京都に住んでいる神奈川出身の女を見かけた。その女は反日統一共同戦線(東アジア反日武装戦線の後継か)とかなんとかいって、反政府活動だのを本気でしている風だった。そして自閉症スペクトラムだかなんだかをもっているらしかった。その女の思想は、無政府主義を知る機会になったという意味で興味深かったので、しばらく意見を聞いていたのだが、やがてその女が同時に経済思想の面では自由至上主義者(リバタリアン)であるのを発見し、失望した。その女は人類の権力からの解放を大義名分にしているが、本当は利己的なだけだった。
 なぜその女のことを持ち出したかというと、この無政府主義という考えには、人類史の中である重要な洞察が一部含まれているかもしれない、と感じるからだ。もっというと、もともとその女が敵視する天皇だとか、日本政府だとかは作り物で、人類は国になど属していなかったのである。日本人はこの島で最低でも砂原遺跡の11万年前ころから、海山川へ行って動植物をとったり、田畑で作物を育ててくらしていた。天皇が大陸からきて日本人を奴隷にしたてあげるまでは。
 日本人達は天皇に洗脳され、税金を彼に貢ぐ為の奴隷となり、その役割を疑いもしない。ちょうど労働アリの様に。円という法定通貨は天皇の権力を補完する為の道具で、この円による市場の胴元は天皇家の仕切る日本政府の銀行である。私が働けば税をとられ、天皇の権力を裏づけてしまう。
 勿論、仮に天皇が排除され、国民自身の統治による共和政が名実共に完成しても、今度は資本家と呼ばれる金持ちが同じ権力を独占しだす。フランスやアメリカという王族を排除し共和政を実現した国々で、この影の独裁は今日明らかであると、『21世紀の資本』でトマ・ピケティが示した。
 私は与沢翼氏の動画の中で、彼が「賃金を上げろと労働者が言っているのは意味がない」等と述べているのを聴いた。与沢氏は租税回避目的にドバイへ移住した典型的リバタリアンといえるだろうが、彼の意見では正しくは資本家の側に回るしかないという。つまり天皇同様、奴隷を利用してしまえという訳だ。私はこの与沢氏の意見が資本主義のもたらす新たな封建制度、貧富の格差を乱用した主従秩序に対し順応的で無批判な態度だと感じた。自分さえよければいいと考え、奴隷状態の一般人から搾取し続けても、単に不公平で他者の幸福度を下げるのみならず当人の幸福度も頭打ちになるのは既に知られたことだ。
 人類の脳が幸福をどう感じるかから逆算すると、我々はある程度の収入を得てからはますます貪欲に耽るより、他者への奉仕、特に利他行動に努力する方がしあわせだと感じるよう進化してきている。アリストテレスは「中庸」という概念でこの利他性にも、最善の幸福度には一定の制限がある(どんなによいことでもやりすぎるとかえってよくない)と考えていた。アダム・グラント『GIVE & TAKE』によると、近年の科学的研究中で過度の自己犠牲にならぬ程度に、つまり無理せず奉仕活動をすると幸福度が上がると知られている。
 つまり、こういうことだ。我々は自分の欲深さに応じた金儲けをしたがる。元々金銭で得られる価値に少欲な人は、はじめから商売にあまり興味をもたない。私もその一員だった。そして金持ちの中でも特に傲慢な人達は、建前の大義名分を色々述べながら政治権力を独占したがる。その末路が天皇である。一方で天皇の様な大資本家に洗脳された人々は、労働によって税なり給料以上の収益なりといった上前を、政府や会社の上役に納めるのを最高の仕事と思い込む。現実には金持ちの一部が皇族縁戚の座を占めたり、贅沢三昧で浪費したり、挙句の果てには使い道をなくし結局、慈善活動にしか金の行き場がない。この資本主義経済と象徴天皇制度の中で、一般日本人は奴隷化を義務と信じきるため相互監視している。彼らは疑いを差し挟む者をなんとか脳内から排除するため、左翼とラベルを貼り、自身の置かれた奴隷という立場の悲惨さから眼を背け、現実逃避し、決して反省しない。反省しないので進歩も改善もない。
 私がなぜこの奴隷と天皇と呼ばれる大金持ちのお遊戯会的なごっこ社会に全然親しめないかというと、おそらく、私が彼ら全体ほど愚かではないからだと思う。私の目には、彼らは幼稚で、非人間的に見え、何の為にそんな馬鹿げた儀式を長々しているか、殆ど全く分からないほどなのだ。私には信じられない奴隷生活を、自信満々で続けている日本人達と、その奴隷をこき使って恥も感じていないらしい天皇という精神病質的な男は、いずれにしても私とは全然違う人達で、少しも同じ生物だとは思えない。他人を助けるなら分かるが、無理に税を取り立て、原価以上を搾取するため利用するとは?
 こういうわけで、私はこの天皇奴隷国家には全然親しめず、どちらかといえば軽蔑感しか感じられなかった。尊敬すべき点もあるのかもしれないが、商人全般は資本主義奴隷となり、天皇は人種差別で暴力団をしきり贅沢三昧、経済弱者を餓死させ恥も罪悪感もないといった厚かましさにはほとほと呆れている。私は自分が下らない贅沢をするより、少しでも恵まれない他人を助けたいと思うだろうし、現にそうしてきた。だから私の持ち前は殆どない。親に金をやるといわれても断ることもある。私はその少ない持分から最大限の奉仕をする方が立派なことだと感じられるし、現にそうだろうと思う。
 イエスも私と同意見だった。
「金持ちが救われるよりラクダが針の穴を通るほうが易しい」
世界中の富を私が独占できると悪の大魔王からそそのかされても、むしろ私は一文無しでも善く生きる方を択ぶ。ドラゴンクエストの竜王の持ちかけではないが。安倍内閣下で財務大臣と副総理を兼ね、皇族の縁戚になっている麻生太郎氏がやっていることは、天皇という極悪人と共に国民を奴隷化することではないのか。そんな役割で金を握るならゼロからやり直すがいい。

2019/02/08

茂木健一郎氏のノーベル賞二重基準への一解釈

 茂木健一郎氏はツイッターの発言ではノーベル賞は最高の知性の保証ではない、その権威を有難がる日本のマスコミは田舎臭い(たぶん世間知らずと指摘したいのだろうが、地域差別用語を使ってしまっている)といっている。
(茂木氏は他にも「ダサい(田舎い)」などと俗語で日本のガラパゴス的独自性を腐す場面がよくあり、世間知らずと田舎らしさをほぼ同意のものと思い込んでいるのだろうことが推測される。現実には都会に野暮な世間知らずもおり、田舎に洗練された風習があったり世間知に長けた者もいるだろう)
 茂木氏は一方で、ツイッター上で、ボブ・ディランのノーベル文学賞受賞を激賞したり、「シールズにノーベル平和賞を(与えるべきだ)」と述べている。
 つまり、彼は片方でノーベル賞を世間知らずの日本人しか特に有難がっていない権威だといいつつ、もう片方ではその賞を使って彼の反体制的感情を満足させてくれる人々を権威づけようとしている様に見える。これが第三者の目には二重基準に見えるのだが、彼の中では無矛盾か同居しているわけだ。
 茂木氏の脳内では、ノーベル賞の権威は特に最高のものではないにせよ、そこにある程度の権威は認めており、しかもその高すぎない権威は彼の反体制感情を補完する目的ならわざわざ推薦先になるほど価値のあるものらしい。こう解釈すれば、彼の一見、二重基準にみえる言動の中身は分析できる。

遠い異見を好みよりよく考え直すこと

愚者の中では、自見(自分の意見)からの遠さが愚かさと知覚される。自己中心性の偏見が激しいのが愚者の脳である。私はその種の人が、相対主義者であることを何度も見た。いわば彼らは賢愚や客体的知識を見分けられない言い訳に、意見の違いを無批判に全て主観的なものと見なし、同列に評する。
 賢者が賢いとしたら自見からの遠さの中に、有意をみいだす能力の故にだろう。無知の知といわれる知見の可塑性が、排中律を含む(が故に全ての場合の相対主義に陥らない)ある体系性をもつ時、それが賢さと呼ばれる。
 賢者である為には自見からなるだけ遠い異見を好んで見聞きしなければならない。しかもそれが自己の考え方という体系性をできるだけよりよい方へ変えていくものでなければならない。寛容さとして知られる特徴が低い脳は、このことがうまくできない。そのため独断的な確証偏見の正当化に耽り易くなる。

神秘の国

安倍氏は沖縄県は米国に与え、北海道はロシアに与え、次は山口県を韓国か北朝鮮に与えるんじゃないですか。国土を他国民にあげると、なぜか自国民が猛烈に支持してくるなんて、まことに不思議な国ですよ。しかもその人達が保守を自称している。神秘の国ジパング。

物価上昇しても必ずしも実質賃金は上がらない

安倍内閣が物価上昇させれば自然に実質賃金も上がるとの仮定に基づいている理由が分かったかも。彼らは過去そうだったから今後もそうだろう、という過去の経験を法則と勘違いしていると思う。その経験は高度成長期に終身雇用制の中で労働組合の努力があり辛うじて達成された奇跡でしかなかったのでは? 物価上昇しても実質賃金が上がらない場合を想定せずに、物価上昇政策をおしすすめるという軽率さ。円安政策と矛盾するのだから、現にそうなっている。
 安倍内閣が一般国民の貧困化政策を知らずしらず執っているということは大体わかったが、問題はこの内閣の横暴が終わってからの敗戦処理の方だ。できるだけ早くこの内閣を解体し、国内流動資本を日銀から民間にもどし、労組を強化し円安のいきすぎを押さえ、実質賃金を上昇させねばならない。
 米国政府に媚を売り首相の地位へ諸々の便宜をはかってもらうため、自動車・農作物にまつわる不平等条約と呼ぶべき経済制裁に甘んじてる安倍晋三氏は、平成の大老みたいなもんだろう。彼は愚民をだまし独裁政を続けるため、日本経済に悪疫を蔓延させているともいえよう。
 米国民の一部は自由貿易の公益が理解できないようだから、その種の愚民に媚を売って自殺点をあげているのがトランプ氏だと、世界の人々も既に気づいているのではないか? 安倍氏は彼と似て非なる経済グローバリストなのだが、同時に日本経済に不利で米国に有利な国内貧困化政策を執ってしまう。
 親米グローバリストの安倍氏が米国大統領で、経済ナショナリストのトランプ氏が日本の首相だと、地球経済のためもっと適切な政策になるのだが、なぜか両者の地位は逆になっている。仮に交換してもそれぞれ別の過ちを犯すので又問題が複雑化するだけかもしれないが。

天皇の謝罪の一言

天皇の謝罪の一言きけぬまま蝦夷と虐げられし日本人

卑俗な情報を避けつつ反証的情報をとりこむこと

ガウタマは「愚かな者を見るな。そのことばを聞くな。またかれとともに住むな。愚人らとともに住むのは、全くつらいことである。仇敵とともに住むようなものだからである。思慮ある人々と共に住むのは楽しい。親族と出会うようなものである」と述べたとされる(『ウダーナヴァルガ』25章24)。
 一方、ツイッター上のブロックをめぐって、茂木健一郎氏は堀江貴文氏の発言を引きながら、およそ「都合の悪い情報を遮断すること」と定義された情報鎖国という言葉で、あらゆる情報にふれることを推奨している節がある参考動画)。茂木氏は認知的ミュートという概念を用いて、ブロックせずとも無意味な情報は意図的に無視すれば十分だと考えていると思われる。
 ではガウタマのいう「聞くべきでない愚者のことば」とはなにか? 彼は直前に「称賛してくれる愚者と、非難してくれる賢者とでは、愚者の発する称賛よりも、賢者の発する非難のほうがすぐれている」(同著同章23)とも述べている。ここで懸案になっているのは、自分がもっている或る意見に対し、それをなんらかの観点から多少あれ否定していたり、自分の主観の中にはなかった新たな要素をつけくわえてくる他者の意見をどう扱うか、という問題だ。反証主義の観点に立つと、或る命題の真理らしさを検証するには、あらゆる反対の立場からその意見の間違いを指摘しつづけねばならない。もしその命題が真理であったなら、全ての反対意見によってさえ最初の主張が否定しきれないことが証明されるというわけだ。勿論、この間、詭弁は廃されねばならない。ガウタマの指している「賢者の非難」とは、この反証的意見だと考えられる。と同時に、茂木氏や堀江氏が情報鎖国の否定により特に摂取しようとしているのも、ほぼ同意のものであろう。情報という単位では、さらに要素として自己の意見と程度こそあれ違和するあらゆる差もここに含まれてくる。
 賢者の非難がそう定義されたとき、「愚者の称賛」は自己の意見と差がない、いわゆる同意であって非反証的なものだといえる。自見が仮にも正しいと思って主張した場合、この種の弁護は学問的に全く無意味だ。「小人は同じて和せず」と孔子がいうよう、同調は自己過信や集団浅慮につながり易い。多数政のもとでは同調者数が力をもつため、そこで権力を握ろうとする者は人気とりや大衆迎合に走り易く、意見の正否が支持者数にすりかえられてしまう。大衆主義と呼ばれる政治形態は、より低俗な愚者の称賛を起因としがちなので、多数政を堕落させ衆愚化する第一歩と考えられる。
 ところで、ガウタマに「愚者のことば」とされたものの中には、品性を落とすたぐいの文句が含まれている。我々は幼児がその種の悪徳に満ちた俗言を耳にするのさえ危惧する。ガウタマが「愚者のことばを聞くな」といった時の言葉とは、この種の俗語のことだと考えられる。単なる反証主義や、多数政の堕落を避ける観点から、あらゆる情報に接していると、知らずしらず俗語まで耳にしてしまう。けれども、卑俗なことに詳しくなく、高雅なことに詳しいというのが育ちのよさの重大な用件である。良家が子女をできるだけ俗語に接さないよう育てようとするのは、その俗事を表す概念には多少あれ悪徳が含まれているからだろう。良家が子女をできるだけ俗語に接さないよう育てようとするのは、その俗事を表す概念には多少あれ悪徳が含まれているからだろう。逆に情報の無制約な開国下で俗語にも触れて育った子女は、知らなくていい概念をしっているため紳士淑女から軽蔑され、それどころか俗語の使用に無自覚なことさえある。同じことはガウタマが「愚者を見るな」といっているよう、単に言葉だけでなく、悪徳に関するあらゆる俗事の認知についてもあてはまる。一方、俗事も雅事同様果てしないので、情報の批判力にまさる大人にとっても詳しさは人の興味を示しているといえる。
 これらの分析から次のことがいえる。
 情報の遮断はそれが卑俗なとき有益であり、高雅なとき有害である。同時に反証的情報についてはあらゆる観点からそれをとりこみ、自見の誤りを修正し続けねばならない。多数政が大衆迎合を要求しても、却って高貴な少数集団に属すか、至善に止まる独りが優る。いいかえれば、ツイッター上のブロックやミュート、無視(認知的ミュート)はこのため適宜つかえばよいのであって、なんらかの単純化した型は目的に背くと思われる。明らかに卑俗なアカウントと分かればミュートしたほうが無用の俗事を見なくて済む。しかしこれも勘違いのこともあり絶対ではない。
 ブロックは相手に拒絶感を示すから、はじめは荒らし対策として作られたのだろう。がストーカーに反応すると喜ばれるという現象がある様なので、その場合はすぐ警察に相談して具体的力で防止措置をとる必要があるし、ブロックが逆効果になりそうでもある。したがってブロックの使い道は、自分に想像がつくかぎり有名だが悪徳に満ちたアカウントに自分のツイートを表示させない為だが、サブアカウントなどを使えばやはり自分の投稿がみえてしまうのだから、フォロワーを厳選した鍵アカウントなども組み合わせねばならず、あまりよくわからない。
 無視というのが最も単純な情報の整理法ではあるが、これでは卑俗な情報も頻繁に目に入ってきてしまう。つまりミュート、ブロック、無視は卑俗な情報を避けつつ反証的情報をとりこむという目的にとっては道具なので、いずれも完璧ではないし、使い方を工夫し続ける必要がある様だ。
 ツイッターをフェイスブック的な現実の仲間内で使う時、鍵アカウントとブロックをくみあわせれば排他的集団を作れる。しかしもともと鍵アカウントなので外部者に自ツイートは表示されない。つまりブロックする必要があるとしても集団内なので、いわばブロックは結束性を強化する道具なのだと思われる。結束主義が全会一致の幻想に耽り易いのは史実が示す通りだった。鍵アカウントとブロックをくみわせた排他集団も、なんらかの理由で自分と違和するフォロワーに拒絶感を示しつつ自己の情報を遮断させる結果となるので、この幻想を抱き易くなるかもしれない。
 裏返せば自己反省の契機は自分と違和する情報群からやってくるのだろう。無論、既にある程度示した様それら全てが正しく、或いは高雅であるとは限らない。他人のアカウントが善意であれ悪意であれ、以上のことはやはり当てはまると思われる。

All cultural appropriations are also original

Cultural or not cultural appropriation is a way of arts. See also Picaso's cubism from African sculptures. He said to steal was a good artist. Why some people hate the way of appropriated mixed culture?  Their all cultures came from another cultures necessarily.
  Some parts of our modern Japanese language made from European words which translated to kanji words. Was it a cultural appropriation? This is more or less same all languages. In English, Ratin and Greek, or some French was mixed in old English too.
  At first, we Japanese hadn't original letters in ancient times. We appropriated kanji from China's country Kan. Ji is meaning of letter, so Kan-ji is 'Letter of Kan (an old country of China)'. By the way today why an Amecian cannot appropriate the Kan's letter from Japan?
  Japanese use many English words, and French, German, Spanish or other languages in our culture. Nobody say do not steal other cultural meme.
  American want to keep what's original culture with conservatism. But there is not cultures keeping the contemporary style. It changes. I can say all cultures are mixed more or less, and all are original. Be liberal this morphosis.
  I saw a painting of Jeff Koons which appropriated Geisha. I was amazed it as if he ridiculed some parts of Japanese women, but the expression was free on him. Some people respect, others dis. These are freedom on expression about the cultures. We keep to respect our characters. At same time, cultural interpretation is also free.

Vicious cultural mislead on post truth abusement

A bad Japanese user bullied Ariana Grande, so I'm disgusting now.
  I don't like to bully somebody, and more, she was saying learning Japanese. I saw the note she wrote Japanese, its letters were like children of Japan. Briefly, weak position shouldn't be bullied by someone. On twitter, I advised to the first person told as if the letters were wrong Japanese, that the truth was only ambiguity of kanji meaning. The truth was that the words were also right. I cannot change anything this world's bad aim people's hate crime, or bad activity to abuse ignorance above asymmetrical vocabulary.
  On Bible, God distructed Babel tower. For to distract all human's languages.
  Perhaps, this story was made for justification of Judaism authority on the book. But I'm concerning same thing now. Why we cannot get same community on the words? I'm sad, and feel misery that I cannot change all things like bullying of cultural mislead. How I can use this discontent? Also God bullied her. How I can tell the truth to another language user's personality? How I can stop bad actifvity of anti-artist fans? If I was a God, I punished the first person said mislead. Bible said 'Do not punish, it is a role of God' So I cannot do anything.
  Why I was just an artist. I should be a God really. Helplessness, powerlessness, nopotent. But I have to work as if I make the universe. The morality of human beings needs to make more.
  I rethought this problem. I found that may anti-fans had been had a jealousy on an attractive musician. If it was true, I could explain why they bullied her on a point of view as cultural mislead. They didn't need the truth. They abused the post truth on her. There are two meanings in sichi-rin on kanji, 7 rings and a homonym of a grill type.
  But the truth couldn't use for bullying her. They wanted more evil interpretation for their own aim. The first problem was her fans were pop-music fans. They hadn't education enough about the Japanese language etymology, and homonym. Second was their karma by GHQ's simplification of kanji. Other homonym was true kanji, but bad karma to destroy traditional Japanese language by GHQ brought the bullying on her 73 years after WW2. Buddha said the karma will never be vanish. If she had more cultural fans, they would only love the tatoo or at least would help her that she could understand other homonym's etymology.
  If GHQ didn't destroy our kanji usage, more pretty vocabulary would be able to distinguish which of the 7 rings and the grill. Buddha said, 'Don't be intimate with stupid person. Don't be intimate with vulgar person. Just be intimate with smart person. Just be intimate with virtuous person' (Dhammapada, 78) We artists have to rethink this phrase, on business too.
  I want to say to her, do not forget your learning by stupid disturbance, Ignorance bullies all personalities on earth. Not only you.
  I got wound by this post-truth abusement greatly. I wasn't a fan of the musician especially, but sinister Japanese women hurted not only her also me too. Their aim was to bully an envious somebody by the ignorance.
 I have not to see vicious things so much.

移民にまつわる正しい経済政策について

大体、20代前半くらいから下の人達、幼い世代ほど、就職率が団塊の引退や少子化もあって表面的にあがってるので、安倍擁護に回り易い。自分が就職したさに。子供は精神年齢が低いので、安倍内閣の構成員らの単純な愛国主義や、自己中心的な主張にも同感し易い。右翼へ洗脳するネット情報も溢れている。
 移民はマクロ経済で善。ただ日本の外国人労働者含む、過酷な労働環境を改善する法整備は必要と思う。日本人の右翼全般が安倍氏の二重基準(愛国と称しながら経済グローバリズムを推進する)に気づかないか、気づいていても忖度してしまい攘夷できないので、移民導入が自称保守政権の手で進んでいる。
 ブレグジットやメキシコの壁は、国籍差別によって自国経済の首を占めているだけだろう。どうせ世界中の人達が豊かになるほうが自国も豊かになるのだから、日本みたいな辺境にわざわざきてくれた外国人を、自国民以下の環境で働かせようなんてふざけた話だ。富の流出だの賃金低下を心配するなら、先ず租税回避地つかってる人達を全部取り締まって、最低賃金を生活保護以上の水準に定めるべきだ。米英人の一部がやっている国籍差別は汚い。自国民より優秀な人がいたら、その人を日本にどんどん招待した方が経済力含め、国力高まるに決まってるだろう。
 不良外人の危険という意味では、来日外国人・在日外国人の犯罪統計みるかぎり、日本人の方がはるかに犯罪数も犯罪率も高い様だったので、異民族排斥が不合理なのは本能には反するかもしれないが事実の様だ。

刑法犯数(2016) 日本人147万>来日中国人3409人>在日朝韓人2843人
犯罪率比較(2016) 日147万/1.27億=1.15%>韓2843/484,627=0.58%>中3409人/499万人=0.068%
日本人・在日・来日犯罪率(2016) 日>韓>中 日1.15%>在韓0.58%>来日中国0.068%
日本人の刑法犯数(2016) 東京>大阪>愛知
日本人の刑法犯割合(2016) 大阪>福岡>兵庫
警察統計

よって

犯罪数(犯罪の多さ) 日本人(特に東京人)>中国人>韓国人
犯罪率(犯罪のし易さ) 日本人(特に大阪人)>韓国人>中国人

犯罪者に注意するなら東京や大阪の一部日本人を集中的にとりしまるべきで、移民排斥は犯罪率低下には先ず役立たない。賃金を上げたければ労働組合に加入するなり、労組に近い民主党系の政権を作るべきで、人手不足の維持を期待すべきではない。公平な競争の元でしか高い生産性は達成できないのだから。

安倍氏の独裁者志向とイラク戦争への共同正犯

大量破壊兵器のなかったイラクの一般国民を大量虐殺した米軍連合に、小泉政権は後方支援という立場で加勢した。それは加勢しなくてよかったことが、戦争が終わって大量破壊兵器が出てこなかったので証明された、という話です。
 ところがこの対話で安倍氏は詭弁を弄し、殺さずに済んだ市民を政権与党の側であった自民党の一員として殺してしまったことを正当化するため「米軍の側に就いた判断は正しかった」といい、「そもそもイラク戦争が必要なかった」という太田光氏の指摘から論理をすりかえているんです。いいかえると、安倍氏は自分が自民党員として、後方支援という立場から、無実の人達を大量虐殺した殺人罪について自責の念を持っていない。おそらくサイコパス的(良心を感じない性質を持っている精神病質的)な自意識からなのでしょう。
 イラク戦争があってもなくても、国民の大部分が一方的に殺され、国ごと破壊されたイラク国民に米国や日本を攻撃するわけも能力もなかったのですから、米軍の国際犯罪に加担する共同正犯はだれにも正当化できないということになります。
 ではなぜ安倍氏が自己正当化しているか? 米軍に媚を売り共犯で侵略戦争する方が、米軍追従せず自他の国々の平和を守るより安倍氏個人の利益だ、と彼は言っている。これまで自民党の親米政権は長期化してきた経験則があるから、彼個人の地位を維持する為それが好都合だというだけなのです。日本国民である自衛隊員の命や、アメリカ・イラク国民らの命が無為に費やされ、悲惨な戦争で死んでいったとしても、安倍氏個人が自分の権力欲を満たせればよい、というのが彼の立場なのです。万国民の命と平和より自分の権力欲が優先しているというのは、彼の本性が独裁者だということを示しています。
 もし自国民の命が最優先であったなら、自衛隊員に死をもたらす侵略戦争、すなわち、米国に濡れ衣されているが直接日本と関係のないイラクへの侵略戦争に、なにびとも加担することはなかったでしょう。安倍氏は日本国民の命より、自分の独裁者としての政権維持の方が大事だ、とここで述べているのです。
 国の舵取りを任せるには公徳があるかないかでみてほしい。好き嫌いで独裁者えらばれると皆死ぬ。

2019/02/07

七輪タトゥー嫌味事件から分析するいけず文化と自製和語について

アリアナ・グランデ氏の七輪タトゥー嫌味事件に宛てて)
ほらみたことか。七輪の語源はどうやら七厘のようで、同音異義語が定着しただけだったろうに。7つの輪(英語で指輪も輪、ringだ)って普通に漢字で七輪だろう。意地悪か無知な日本女1人のせいで親日家を1人失った。某匿名ツイッターアカウントの中の人はさっさと謝罪すべき。まあ日本女が京女を代表として、とんでもなく陰湿ないけず集団だってのはこれでアリアナ・グランデもよくわかったろうし、こんな案件より遥かにひどい現場を沢山見る羽目にもなったろうから、これでよかったのかも。現実の日本人達の暗雲垂れ込める下賎さを知らず外から見る日本はさぞ美しいだろうよ。七輪ネタでアリアナグランデをからかったやつが本当に日本人女かも知らないが。
 ただ語源まで理解する様な知性のある日本女というのは先ずお目にかかったこともないし、そもそも他国民が一生懸命、日本語を学ぼうとすることを細かく難癖つけず、励ます様な基本的な国際良識ももちあわせてないよな、女に限らず一般日本人。日本語文法すら知らないくせに。語学でも減点法ばかり。欧米フェミニストのMe too運動をまねるのはいいが、現実の日本女が陰湿にいけずだかいじりだかで外人虐めやってるのは傍ら痛い。京女風排外主義の変種でしょう。日本女は、女子力とかいう日本女固有のフェミニズムと正反対な欧米フェミニズムとの二重基準とか、今後どうするつもりなんだろう?
 俺は男として生まれたから、女子力と欧米フェミニズムとの矛盾とかに対処してる暇ないんで、あと京女的陰湿さをもっと開けた国際社会にどうあわせていくかとか、日本女自身で考えてもらいたい。七輪虐めにみられる陰険さは日本女によくある重大な欠陥だよ。
 この問題についてもっと深く考えてみる。思うに京女に代表されるこういう陰湿ないけずって、日本女の一部がもっている排外主義の実践を、嫌味という憎悪表現で行うためのものだったんじゃないか?
京女「シチリンってグリルって意味なんやで(ククク、と陰険に笑う)。日本語ならセブン・リングスは、七つの指輪って書くのとちゃいますやろか(袖で口を覆い、陰湿な笑みを隠す)」
戯画化するとこういう公家的な嫌味の風習が、たまたま外人に向けられただけで、日本人に対しても京女はやってくる。
 本質的に日本語に大して詳しくなりようもない外人が、七つの輪を意味する漢字の同音異義語なんてわかるはずもないと誰でも気づくし、性格のよい日本人なら別にそんな指摘わざわざする必要も感じないだろう。「確かに漢字だとこうなる。シチリンには別の意味もあるけどね、日本語では」ってくらいだ。
 なぜ京女の中で排外主義的な憎悪表現が、陰湿ないけずという様式に進化したかというと、公家の婉曲表現という特有の上品さをまねたからだ。ぶぶづけ伝説が典型で、ぶぶづけは京都弁でお茶漬けのことで、これを出してゆっくりしていってねっていう時、暗に早く帰れと逆の意味を示しているという件。ところが嘗ての宮廷官僚同士が相手の誇りを傷つけずに物を伝える為に発達したところに原因があったこの婉曲表現の風習は、京都市民の中で陳腐化した。すなわち京の庶民の間で、相手に気づかれず裏の意味を受けとりあえる仲間内の単なる嫌味に応用されるようになってしまった。
 元々排外主義は偏見に由来する為、京都市民(特に上京区、自称洛中の人達)が外来者を排除しようとする嫌味、すなわち「いけず」は、決して上品なものでも賢明なものでもない。しかしかなりの京都人達はこの風儀を自文化の固有で高貴な証拠とさえ思い込んでいる節があって、中華的自意識を反省しない。さらに日本人一般は有名な観光地でもある古都のいけず風儀が、とうに平安期に貴族性を失い堕落したものだとまだ十分気づいていない。また武士が貴族だった関東(今日の首都圏)に比べ、平安朝では女官が後宮文化を作っていたこともあり、特に日本人女性の間で偽貴族(いわゆるsnob)のやり口としていけず的な嫌味の風習が正当化され、いまだに模倣されあっているのではないか。
 京都人(狭義で洛中人、広義で京都府民など京文化の影響を受けた人)が他人を攻撃しようとするとき、京都人自身が社会的に地位のある人であった場合は、しばしば回りくどい言い方で婉曲的に相手を腐そうとする。七輪タトゥーを揶揄した人が使っていた手法は、ほぼこれと同一のものだと思う。
 七輪は七厘の同音異義語というのが基本的語源説な上に、漢語で7つの輪を示したければ七輪で合っている為、基本的に誤解か曲解している前提の上で、ある人が「あなたは日本語をまだろくに知りませんね」と外人に言おうとする目的で「それはグリルのことだよ(その他の場合はわざと教えない)」と言う。七輪タトゥーを揶揄した匿名アカウントの中の人自身は、恐らくそこまで理性的に考え発言したのではなく、単に知恵が足りなくて七輪は某グリルと等号で結べる(多義語でない)固有名詞だと思い込んでいたのだろうが、その背後には、嫌味な言い回しを上品かのよう言いつくろういけずの文化があると思う。
『徒然草』第百四十一段で「関東人こそ言ったことは頼みになるが、京都人は返事だけよいが誠実でない」と当時の関東人が嘆く場面が描かれている。会話していたもと関東人の尭蓮上人は「京都人は心が柔らかく情けがあるため断りきれないが、貧しいため本意を叶えられない」といけず文化を分析している。この尭蓮上人の説はいけず文化を好意的・肯定的に評価した場合で、都会の軽薄さの中にある建前の使い道を随分かたよって弁護している様に思う。現実のいけず文化の中では、婉曲表現の一種である建前の嘘を、今回の七輪タトゥー嫌味事件みたいに悪用する場合も多くみられるのだから。
 外国人がしばしば使う自製和語、つまり変な日本語の典型例として、ブランド名「極度乾燥しなさい」がある。こういうのは世界中どこでも多少あれある外来語混成の結果で、和製英語や和製漢語が米英や中国とは全然違う意味に使われているのは皆しっていることだ。日本の漢字自体が中国語の変な真似かたからできているのだから、揶揄するというなら自国の異様な中国語もどき全てを自嘲すべきだったのではないか? なぜ外国人が独自の解釈で日本語を好きに使ってはいけないのか。寧ろ楽しい変成の経過として興味深く観察すべきだと私は思うが。
 語源まで理解する様な知性のある日本女に先ずお目にかかったこともない、と書いた。現実にそういう日本女性がいたら、最初にアリアナグランデからかった日本女風の匿名アカウントへ直接、または公的に注意すべきじゃないか? 僕は既に直接注意したけど、なぜ日本女性は僕より先にやってくれないのか。外国人を多義語を悪用して虐めてる様な同国人、しかも匿名アカウントって、極めて陰湿だと思う。たまたま女っぽい匿名アカウントだったが、男性であれ女性であれ、語彙の非対称性を乱用し無知な側を嘲弄した結果、恨みに思った反日を生み出すって、相手の影響力からしても完全に国家的損失じゃないの?
 最後に書いておくが、「語源まで理解する様な知性のある日本女」は、必ずや現実のどこかにいるのだろう。自分が寡聞で知らないだけだろう。当然、自分より賢く誠実で、世界市民的な女性も日本人中に多数いるに違いない。どうかそういう女性が社会に出てきて、大いに活躍し、下衆な虐めを退けて欲しい。知性的でからっとしていて陽気で、いじめには毅然と反旗を翻し積極的に注意するタイプの日本女性、こういう類型の真逆の類型が、国内で非常に多いのは経験的には事実だと感じる。ばかのふりをしネチネチと陰湿で虐めを進んで主導するか同調圧力に巻かれるタイプが接した日本女のほぼ全員だったので。自分が日本女性を単純化し差別していないか、ただの偏見でないかに十分注意する必要があるから、この日本女の類型化論については、今後、進んで例外を見つけ出すことにする。自分がいいたいのは、日本人女性一般は、虐めをやめてくれということだ。今回の様な外人いじめは陰湿で、みていて気分が悪い。
 更に考えた。日本人男性でも、或いは自分がみた限りイギリス人にも、こういう陰湿ないじめをするやつは確かにいる。自分がなんで日本男をここで特に責めなかったかというと、自分はそういういじめを大いに反省し憎んでもいるので、進んで打ち負かそうとするからだ。下衆な同調圧力に負けるやつが悪い。たまたま今回は女匿名アカウントだっただけで、いじめをするやつは何国民だろうと何性だろうと公害だろう。少なくとも日本女にとって模範となるよう、日本男児は進んでいじめを打ち負かす勇気を持たねばならない。たとえそれで自分が標的になって倒れようが、進んで虐めと戦うようでなければいけない。