2019/01/12

交際について

我々は自分より優れた人とのみつきあうべきなのだが、これほど難しい課題も珍しい。相手は慈善という意味でしか自分より劣る人とつきあいたがらないし(だからお人好しか、さもなくば誰もが自分より優れている最悪者しか無制限の交際を喜ぶ者はない)、しばしば自分より劣った相手をそうと見抜くのに諸々の偏見が邪魔しているから。
 いずれにせよ交際範囲を最大限絞る事が何より重要だ。自分より優れた点を明らかにもっている人は、最少数なら精査して確かめうるからだ。我々は世間ずれした人をしばしば見かけるが、彼らもはじめから堕落していたわけではない。知らずしらずのうち交際範囲に忍び込んできた悪徳から、自壊が始まったのである。
 もし人が同時代で最高徳に近づいていたり、少なくとも交友できる周囲の人間に比類なき段階まで進んでいれば、当然ながら彼らにとって交際は有害なものとなる。聖人が中庸を知らない事はありえないので、少なくとも全く交際を断ちはしないにせよ、この種の人は同時代の大勢に名を知られる事もなければ、交友関係がいたずらに広いだけの俗物には生涯認識すらされないであろう。一般大衆にとっての有名さは徳の目安では何らなく、どちらかといえば俗受けする悪徳や、高尚な人々にとって殆ど取るに足りない要素における何らかの特殊さの目安でしかない。だがこの世にあって徳は社会的なものだから、聖人の存在を同時代人が全く認知しないということも先ずありえないので、少数の弟子のみにその徳は部分的に伝承され、はるかな時代を経てやがて大衆の中の上等な部類に模倣されるのだろう。
 都会は人間が雑多に群れており、無益な交際を避けるに適切な場所ではない。部屋を出れば見知らぬ人に当たるような場所に、聖人は住み得ないだろう。逆に都会に近づくほど悪徳を持つ俗人が増える。これは都会に偏った高い犯罪率や、皇室(中華皇帝の模倣者)が最大の俗物である事が歴史的に実証している。もし皇族が聖人であったなら、とうに愚にもつかない権力闘争や象徴と自称する宗教権力者の戯劇をやめていたろう。