2019/01/06

売名の時代の中で賢明さとはどうあるべきか

世俗で人気を得て金を儲ける、という目的で今日多くの人々がその日を費やす。だがこの目的がどれほど尊いというのか。
 人類が金銭を目当てに行動すると必ず恨まれる。それが有限な資源であればこそ、清貧が尊い。では彼らの俗受けを狙う言動の本質は、この金儲け目的の利己心とどれだけ違うというのか。
 マズローのいう所属や尊厳・承認、自己実現、或いは超越的な社会貢献いずれでもいいが、大衆一般に媚を売り、売名しようとする人達の本性は、自分より公益的であったり人格的に優れていたり、自分より賞賛を受けるべき人を知らない恥知らずさによっている。孔子の云う君子は人の己を知らざるを憂えず、がインフルエンサーを自称する下らない炎上ネット芸人ら、あるいは風変わりという以外なんの意味もないテレビ芸人らから最も遠い態度だ。
 我々はこれらの情報商人一般にかかづらうことなく、単に同時代にあって最も重要な知見を最重要人物らから見逃していないかにだけ注意していればよい。さらに、自己発信には人類の全体または部分に対する或る批判的・批評的な啓発という意味しかあるべくもない。啓蒙主義の目的が近代理性を宗教心に対比して示す、という合理主義からの余波にあったとすれば、今日、知識人は後真実や虚偽報道、或いは偏見に満ちた衆愚や権威に対置した哲学的洞察、つまり真理といわれてきた或る立場を人類に開示していくべきなのだろう。それは誤りや悪徳に満ちた人々とは異なる道筋を、少なくとも少数派の賢者らに知らせるためである。たとえその漸近的真理が確率的であったり不確定性そのものであったとしても、これらを認識していない人にとっては有徳な情報たりうるからだ。すなわち、我々は学会を含む世論に方法懐疑的となる程に、現代の徳を再獲得できるだろう。