2019/01/07

サブカルチャーと中間芸術以後

俗衆は徳の面で聖人君子に劣った人達なのだから、大衆受けしている代物の趣味が俗悪で軽蔑すべき質なのはいうまでもない。俗人の中でも最低級の審美的判断力しかもっていない人達は、ごく奇習的で悪徳に満ちた文物にたかっている。東京文化というべき同人誌とか、通俗的な商業音楽とか、アイドル文化等がそれにあたる。そして東京都民全般とか、無知な人が自文化中心主義的もしくは中華的な都会文化崇拝と対照させた田舎差別・地方文化蔑視を行っているとしたら、その人は二重の意味で悪徳的かつ、愚かしい。大衆性とは卑俗さのいいかえなので、人口が多い地域の大衆一般が好んでいる趣味は趣味全体の質に比べて低級な方に属するのだから、都会文化は一般に、人口が少ない故に少数の知識層に力がある地域の文化に比べ低俗なのである。つまり、東京都民や、嘗ての京都市民とかいった自称都会人ら全般は審美観や芸術的教養に関して、極めて思い上がって恥を売っているだけのことなのだ。恥知らずの都会人とは、彼らが責任転嫁する田舎上がりが落魄しきった成れの果てである。
 露悪的な衆愚の都会ずれに媚を売る外人、これも同然の莫迦でしかない。漫画やアニメが代表的で主要な日本文化だと思い込んでいるとしたら、それはその外人も低俗だからなのだ。現に、我々の暮らしている国のいずれの道府県、或いは市町村地域であれ、これらのサブカルチャーを下らない幼稚な物だとみなす考えが、一般大衆の中でさえ常識的なのだから。
 村上隆や奈良美智が高等文化の中にポップカルチャー以来の漫画的表現をもちこんだのは、欧米人の一部の中では突飛な事ではなかったろう。そこで問われているのは漫画的表現形式の再検討の方であって、漫画自体の分かり易さとか、卑猥さではなかった。少なくとも村上隆自身が半ば意図的にジェフ・クーンズ風のキッチュを踏襲しているのは、大衆芸術と純粋芸術の境界侵犯を目的としたスーパーフラット概念の実践ではあるが、なおも表現の上に低俗さ自体は残るので、彼の作品の一部がたちの悪い冗談と受け取られるのは後世にあっても否応ない定めであろう。要するに、奈良は退行的で純朴な意図から、また村上は卑俗かつ戦略的な意図から、それぞれアメリカにおける大衆商業美術の再検討というポップアート的解釈を、本国のサブカルチャーでも行った。と同時に、日本風の漫画やアニメの形式を欧米ハイカルチャーの場に持ち出すことで、越境文化的な民俗表現を行う結果になってきた。村上が新たな美術用語としてバブルラップをもちだし、民芸やもの派を一緒くたにしてしまおうとしたのは、戦後から平成までの民俗表現と国内的純粋美術をスーパーフラット概念の部分にしてしまおうという野心からなのだろう。
 私がここで言わんとしていることは、バンクシーがイギリス文化の中で行ったのと同様に、低俗または悪趣味さを含むサブカルチャーを、高等文化の形式にもちこんで再検討や大衆芸術との価値転倒を迫る、という彼らの流用のやり方それ自体は、バンクシーの全ての作品がそうなわけではないにせよ、私にとっては下らないということだ。つまり、この流用の中で或る再解釈や情報に対する価値づけの変化(哲学用語を援用すれば脱構築)を芸術的に与えて、何らかの知的おかしさとか、道徳性を喚起させる啓発的な表現形態が新たな二次創作物に与えられているのではない限り。
 彼らの行っているサブカルチャーのもちあげは、特定の美術用語が与えられるべき方法論だ。Lowbrowとhighbrowを文脈表現の中で行き来したり、両者を混交させたりする。私はこの方法を中間芸術と呼んでいいと思う。村上春樹もこの方法を小説の中で予てから使っている(ドリー『村上春樹いじり』で行われている揶揄や皮肉を含む批評は、春樹の真剣な純粋芸術的意図、たとえばマジックリアリズムや映画的端書の形式の中に、通俗的な官能小説とか、今日ではライトノベルやエロゲー(エロティックなゲームの略称)に転用されている様な卑猥な要素が含まれている、衒いの諧謔性を指摘したものだといえる)。いずれにせよ、私も以前はこの方法に一定の前衛性を認めていた時があったが、私なりに流用芸術の方法を試した結果、またこの小論の前半部で示した理由で中間芸術自体は質に劣るものと認めた。今の私はイマニュエル・カントが『判断力批判』の趣味論で述べていた様に、高尚さの中に道徳性を表現する事(もっとカント風の言い方では理念の直接的表現)がより高貴な仕事だと考える。そして特に、最も年少或いは幼稚な者へも理解できる表現を目指したコンピュータRPGを制作した経験が大きかったが、大衆受けを狙ったあらゆる表現は、この高貴な仕事の威厳や威力を弱めてしまうとわかった。
 プラトンは画家がイデアの影でしかない形を模倣するだけの存在と考えていた。またアリストテレスは形相(エイドス)の理論で形自体がイデアと一体化していると考えた。私は画業の探求中で、イデアを表現するのに、より純粋な抽象表現のみ、いいかえれば色彩のみを使う事で、現実を模倣した具象的もしくは象徴的な形を借りずにできると悟った。つまり、高等文化の名に値する画業があるなら、それは哲学に於けるのと同じ意味でイデアの探求、理想の探求そのものである。
 一方でこうもいいかえられる。サブカルチャーが低俗なのは、模倣的な文化(ゲルハルト・リヒターの言い方を借りれば、再現芸術)の残滓だからなのだと。そしてそこで再現されているのが、現実にあった事、ありそうな事の中でも俗受けする卑俗な興味(たとえば直接的な性欲の発露)であったり、喜劇性、すなわち滑稽味を催す誰かの愚かしさであったり、特に深い意味のない子供じみた何かの真似事だったりするのは、それら戯作者らの思想内容がその程度だからだ。表現形式は作者の思想に付随して進化すると仮定すれば、立派な考えの持ち主にふさわしい表現形態がおのずと選び取られる。宮崎駿がもろもろのアニメーション映画で表そうとした理念は、彼の初期作品である漫画(『風の谷のナウシカ』)での方がより直接的に感じられる。或る表現が現実の模写に近づくほど、理念の表現力は弱められるのではないか。子供は例え話によってしか、高度な抽象概念を理解したがい。この事は抽象性についての知能の発達を意味し、抽象度の高い哲学的・審美的な表現に関しても然りといえるのだろう。
 美学の発展は道徳的発展の一部だ。サブカルチャーや中間芸術の時代は、当代の通俗作家にとって有効な金儲けにはなったにせよ、通時的な道徳的啓蒙に何の役にも立たなかった以上、私の代から後には嘗ての流行として忘れ去られるだろう。

※このブログURLは2019年6月8日に
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