2019/01/01

スーパーフラットの批判的考察、或いはグリーンバーグと村上隆

大衆は美をみいだしているのではなく、分かり易さ、つまり通俗性を選好している。大衆芸術は通俗度を競っている。ヒカキンや、オリコンとかビルボードの様な売り上げに基づくランキングに載る様な人々は、おそらくartistを自称しているが、その意味で大衆芸能を担っている。
 一方、オタク文化は少数派のみに受け入れられる様な、変態的な文物を選好している。そして正統的な純粋美術に見られるハイカルチャー(高等文化、上位文化)は、元々貴族的(追随者にとっては俗物根性的な)高尚さを理解し難さとして選好している。村上隆のいうスーパーフラットは、彼が精神的支柱としているオタク文化が少数派的である事と、ハイカルチャーの貴族精神を、日本文化の外にある人達、おもに欧米文化圏に慣れている人へ意図的に混同させ、村上自身の中途半端さ、つまりオタク文化の中での実力のなさと、欧米中心教義の中での高等文化内での地位のなさをごまかす装置として機能していた。くり返しになるが、オタク文化の変態性は、高等文化が理解に必要とする前提的知識の豊富さの為に貴族的たらざるを得ない事と、本質的に異なっている。更にスーパーフラット概念がこれらと混同させようとしていた商業芸術は、上述の大衆芸術をいいかえたもので、非売品の純粋芸術が作者の死後、競売にかけられるような場合を顧慮しても、商業性は芸術の本質とは何の関係もない。この事はポップアートが既に考察済みであった。
 私にいえることは、スーパーフラットという概念は村上個人の中間芸術性を彼が喧伝的に糊塗する為にもちだされた欺瞞でしかなく、その偽りがキッチュとかキャンプ(camp)といった、クーンズ以来のアメリカのポストモダン美術の流用(アプロプリエーション、appropriation)傾向と、村上自身の策略ですりかえられているのである。そしてこのスーパーフラット性は、西洋美術にとっても、日本美術にとっても伝統的なものでは全然ない。大和絵とか日本画とか、欧米に於ける漫画自体(comics)とそれらをメタ批評的に象徴化したリキテンシュタインやウォーホルの位置づけが、それを反証する。村上がこれら分化した美術傾向を擬似的に結節させる事で、欧米美術史や日本美術史に自身の名を刻もうとした戦略は、美術の多様性に対して有害に機能するので、遅かれ早かれ破綻する計画だと思われる。寧ろスーパーフラット的なものの現代性ではなく、日本漫画の美術性を真摯に問うという、嘗て浮世絵を西洋人が発見した時と同じ、ある種のオリエンタリズムの自己批評の方に、村上の美術史における意味がある。
 日本において洋画と日本画の便宜的分類が、画材の点でも主題の点でも有名無実化しているのは、たとえば日本で欧米人によって描かれた漫画絵風の油彩画をどちらに分類するか定められない事で明らかである。岡倉天心は日本画を定義する事で、Japanese paintingが世界史の中に独自性をもつよう企図していた。だが黒田清輝ら近代美術の追従者らはこの考えを退け、洋画(European painting)という、日本国民が描いたJapanese paintingの中に、模倣的な分類を捏造していった。村上がスーパーフラット概念で試みたのは、この両者の超克でもあったのだから、村上以後の日本、或いは東京の権威主義的サロン美術界(日展等の公募展団体や、美術手帳等の都内出版業界)は彼の存在を理解できず無視するか、その概念を消化して、機能していない二分類を単なる絵画に統一するかの選択を迫られる事になる。しかし、未来において国際的な経歴をもつ人が殆どになるだろうことに加え、画材もデジタル化した画像やアクリル、その他の新材料にほぼ移行していくから、ますます日本画と洋画は定義できなくなるだろうし、実質的にスーパーフラット概念が効果を持ちうる領分は、この日本に於ける絵画分類を統合する事に求まるであろう。
 小説の分野で村上春樹が中間芸術を推し進めた事も、視覚美術や絵画の概念を超えてスーパーフラット性に包括されるであろう。
 絵画史は普遍的なものであり、自文化中心主義を捨てた後の欧米美術史はアジアに於けるそれを小分類としてではなく全体の不可欠の部分とする事になるほかない。そののち、村上隆個人の中間芸術こそがというよりは、分類に頼らないあらゆる絵画そのものが評価の俎上にのることになる。たとえばパブリックアート(公共美術)の再解釈としてグラフィティ(落書き)を定義したバンクシーは、彼個人の意図とは別に、村上隆のスーパーフラット概念の恩恵を受けて美術史に接近している。だがグリーンバーグの提出した前衛性のみが、純粋美術の評価軸である事は変わらないだろう。なぜなら村上隆の行った大衆芸術からの引用、或いは商業芸術との協業は、欧米での展覧会においては日本からの文化的盗用を含んでいたにせよ、美術史にとってはウォーホルの行った流用の模倣でしかなく、そこに幾ばくかの前衛性があったとしても、グリーンバーグがとうに看破していたとおり後衛的なものに過ぎなかったからである。同じ事は中間芸術の作家としての村上春樹についても言えることだが。

※このブログURLは2019年6月8日に
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