2019/01/19

偶像

見た目がいいだけのごみ。中身のない自慢。

2019/01/18

夢よりはかなく死に絶える

若さはとわに失われ
かわりに果てしない死が襲ってくる
とかく苦しみに満ちた世に
あわれ生まれくる人とて
次には消えゆく砂塵に過ぎぬ
おごり高ぶる町人の上に
無数の苦難が襲ってくる
おごりたける商人のもとに
数えきれない負債が覆いかぶさる
手に負えないうらみが返される
財閥や血族で宗教権力を独占し
国をのっとった悪魔とて
消えゆく幻の一幕に過ぎず
夢よりはかなく死に絶える

国の消滅

たとえ一円も手に入らないとしても
もう人間に期待するな
日本人に何も期待するな
この世の俗人達がお前を理解する事も
お前の奉仕に感謝する事もない
資本主義は俗物の為のもの
お前ははじめからそこに参加できず
荒野の月のよう死んでいく
下賎な人になれないので
カネも永遠に手に入らないだろう
だから食べ物もなくなり
住む家も壊れ
着る物もなくなり
やがてこの国ごと無くなるのだ

科学と多数派説の関係

真理や道徳はその理論を採用する人の多寡で本質的価値が決まる物ではない。むしろより真実で、より道徳的な理論を人類一般は求めているので、発見・主張の初期に少数派もしくは単独者の物であった事に大した意味はない。ある理論の広がりは受容者の理解力や、採用者の説明力に依存している。

神性について

人は神になるよう生きるべきであり、それが哺乳類としての人類にとっての理想だ。神らしさは全知全能を含む全徳の比喩で、要するに知能の高さをいいかえたものだった。
 神性に個別さがあるという意見は、普遍的な全徳を求める方がより上位の神性という意見で持ち上げられる(止揚できる)。
 幸福が徳に応じて得られる快楽なのは確かだから、全徳の追求は同時に幸福追求でもある。
 人類は基本的に哺乳類の一種なので、そこでみられる行いは殆どが本能に即している。逆に神聖さを帯びている行いは、この本能からの離脱の度合いとも言え、特に利他性を己を含む公益に該当させる全利性がこれにあたる。少なくとも利他性一般は互恵的でない限り人類の理性に特徴のある振る舞いだが、中でもその永続性が全利の種別である。神々しいと我々が感じる性質はこの点に由来している。
 アリストテレスはテオーリア(観想)、現代の該当概念に即せば理論が神的活動と考えた。できるだけテオーリアの暮らしを延長させることが幸福と一致すると『二コマコス倫理学』で彼は言う。私は上述の思考から、彼のいう観想の中でも特に全徳さを全利に用いる様な理論性がそれにあたると思う。いいかえると、最も神的な生活とはやはり哲学的生活ではあるが、その中でも公益度の高い思慮がそれである。およそ全人類の活動、その他生物の活動を含む公益性とは世界政治であり、そこには一切の知識や技が含まれている。つまり後自然学、社会学、形而上学の諸分野で最も後に来るのは政治哲学である。修身・斉家・治国・平天下という儒家の段階論は、倫理学が個人から家族へ、家族から国家へ、国家から国際社会へと段階を経て発展するという原則を端的にまとめていた。最も神的な個人はこれまで東洋の聖人君子らが読書人や知識人としてそうしてきたよう政治哲学を通じ天下国家はどうあるべきか、という普遍道徳を考えあらわすのが最終段階である。勿論、重要なのはその中身で、最も公益度の高い考えがすなわち人間界にあって可能な範囲の神性である。

社交について

社交の幸福は全くの虚妄だとミル(『ミル自伝』)やパスカル(『パンセ』)、ゴータマ(『ダンマパダ』)は気づいていた。
 私も彼らの意見は知っていたし私自身もそう思っていたが、社交性を研究したり社交的知能を高める目的でSNSを使ってみたことがあった。結果はやはり同じだった。そこで俗受けしているのは品性が低い人や陸でもない連中だったし、反面教師としての参考にしかならなかった。知的な議論がしたければ社交界に出回るべきではない。そこで立派な友人を見つけることも先ず不可能に近く、あるのは性的な関係を結びたがっている下卑た人間達から受ける数多の侮辱や、二度と思い出したくない様な無礼な目にあう必然性くらいだ。勿論、無制限な社交の目的は性にあるだけなので、これは他の哺乳類と変わらない。究極的に性的快楽にしか社交界に目的はないのである。
 はっきりしているのは、あなたに特定の関心のある分野があるか、もしくは一般教養を身につけたいと願っている場合、その領域の専門性を極めたいと思っているごく少数の人を見つけ彼らに限ってつきあうべきということだ。そういう人は社交場とか通常の広場空間では先ずお目にかかれない。この理由に限って同学の士、同好の士がつどう学園は有益だ。勿論一流の人間がそこにいるとは限らない。人類全体でみてもその総数に含まれる専門分化の余力は然程あるわけでもないらしく、もしあなたの才覚と努力が十分なら容易に同時代の中で傑出してしまうだろうから結局は、社交自体が害が大きく益の少ないものと認識することになるだろう。
 一流以上の知識人や聖人が身を安全に処するため交際する範囲は自然と最少となる。逆に交際の範囲が広いのは俗物の証拠でありうる。このことは単に知識として知っているのと経験として理解しているのとでかなりの差があるが真実だ。従ってこの知識を事前に知っていた人は社交界から足を洗うのがより早くなるか、そもそも近寄りもしないという意味でやはり有益な情報だ。

自分

憧れの人になりたがっても全く無駄だ。人は自分自身になれるに過ぎない。一方で人は自らならどうとでも変えていけるのだから、自分という絵に集中しなければならない。

労働

どれほど働いても他人はあなたなどどうでもいいと思っている。他人に関心があるのはその人自身の幸せ、なかでも快楽だけだから。労働を誇る人は単に仕事中毒を正当化しているだけだ。

2019/01/17

他人

幸せを他人に関連づけてはいけない。他人はあなたを必要としていないし、あるとしても彼らの利益という関心だけである。自分のみが幸福を生み出せることが必要だ。

やくざの本性

皇族が違憲や違法をくり返しやくざの本性示しける国

個性を認めない国民

僕には何もなく
周りをろくでもない人に囲まれ
絶望のなか
ただカネと命をむさぼられている
つまりこの世に生きる意味もない
そもそもこの世といえば
バカと俗物のあつまりなので
はじめから下らなさは一緒だった
かわりに僕は連中を見下し
奴らも僕を無視しあるいは虐げ
結局日本人全般とは少しも親しめなかった
少し仲良くなれたとしたら欧米人で
それというのも個性を認めてくれたからだ
日本は俗悪地獄だから

全利性について

人は少しも自分の為にならない利他行動を無限にできるものではない。よくしつけられた人にとっても、ある行いが基本的に自分の為になる事、特にその本能を満たす物である事が普段の必要だ。
 利他主義はこの範囲を拡張したものでしかありえず、自己犠牲は例外的な貴重性であり、ある人が人生を楽しむには利己性に含まれた利他主義を追求するしかない。特に単なる悪人や利己的なだけの人に自己犠牲を行ってみたところで、その人達は偶然の幸運を喜ぶだけであなたへ何の恩義も感じず、逆に虐げてくることすらある(宋襄の仁)。倫理的中庸は相利性を追求することにあたるのだ。
 これらの事実にもかかわらず、真の善(定言命法)は純粋な利他性のみにあたるのであり、相利行動は偽善または半悪(仮言命法)でしかありえない。いいかえると相利性に向けての中庸と真の善は矛盾している。この矛盾は自己利益が相手にとっての利益でもある場合に限って、真の善に対する緩和として利己性が容認されると教えている。アダム・グラントのいう成功するgiverは利他性に包含される相利性の部分かつ利己性の部分(利他性⊇(相利性∧利己性))であり、この矛盾を止揚している。
 ピーター・シンガーは2019年1月17日のインスタグラムへの投稿の中で、"The hedonic hamster wheel of a consumer lifestyle"という小題で、消費生活のラットレースから抜け出す骨として利他行動を勧めている。ここで脱消費生活的な態度と絡めて自尊心を回復する手段になっている利他主義の実践とは、上述の真の善にあてはまる無私の、非営利的な利他行動だといえる。しかし自己犠牲をくり返してきた人にはわかる事だが、これもハムスターの車輪同様に人を疲れさせる一方で、搾取的・他害的な人は遠慮なく利他主義者を貪り、利用し、陥れる。いいかえれば例外的な自己犠牲を除き、普段から維持可能な利他性一般は、利他性が相利性と利己性を共に包含しているような場合である。私はこの状態をあらわす概念になんらかの命名が必要と思う。それは利己性、相利性、利他性という3分法では十分示せない領域だからだ。ここでは全利性と定義しておく。

2019/01/16

お前の生きている意味など何もない
単に死んでいくのだ
この星の中で
卑しい人にかかづらい何を求める
そこには何もないのに
静かに息をつき
そして消えていく
泡のよう
月はお前を見下しながら回る
全てと同じく
完璧な生がなかったよう
お前の一生もそうなのだ
だからひたすら理想を追い求め
やがては宇宙に散っていく

アカデミズムについて

アカデミズムに属している人達は、本質的に唾棄すべき存在だ。彼らは無能を隠蔽する目的で権威を使う、共犯の同業組合に他ならない。全学術はアカデミズムを完全に脱却してのみ発展し得る。彼らが保守する物は既得権だけで、決して進歩に役立たないのだから。この世に学歴差別やその後光効果に預かろうとする悪意があるのは、アカデミズムの陰謀に加担する無知に100%よっている。結果は学位や入試という免許制度の捏造による不正権力の独占でしかない。

私と日本

資本主義社会や日本国は私を仲間にしなかった。私を生かさず、放置し、殺そうとした。寝る間もないほどの努力の末に、どれほど私が彼らに貢献しても。だから私は資本主義や日本が好きになれない。資本主義は私の天敵、日本は私を殺そうとした悪魔。
 東京都民の一部は私をわけなく差別し、酷く中傷した。その上私からカネを搾取し、詐欺し、私達の土地に原発をおしつけ汚した。だから私はごく少数の善良な都民がいたとしても、東京都が嫌いだ。そこに住む人々の一部は、たとえ少数の人がかばってもかばいきれないほど、言語道断の極悪人だったからだ。

絵について

人類が絵など記録を通じ行うのは或る思いの伝達だ。この文化素は人を白紙から文明に飛躍させる。だから抽象性が芸術の核であり、その度合いが前衛の目的でなければならない。
 グリーンバーグの指摘した重要な点は前衛が純粋芸術の使命と見抜いたところだった。ゲルハルト・リヒターはピンぼけ写真を描き写す作業を通じ、プラトンのいう椅子の模写と同じ二重模倣に陥っている。これは彼の抽象画が抽象表現主義の模倣であったことにも当たる。模倣は芸術の一般錯誤であり、独創性のみが本質だ。

善と個人

自集団ひいきの妄想は、殆ど致命的なものだ。この思い込みを極力抜きにものを見て考える事は少なくとも自己の利害を判断するのに必要である。
 群れの為に行うことが致命傷を負う自己犠牲であっても、その群れはあなたを少しも鑑みない。だから信仰の為に死ぬ者は、次世代の中にたまたま彼らの精神を学ぶ人が現れるのを待たねばならず、それ自体、先ず期待できない。
 道徳的義務が利他性を命じるとして、それは普遍的な見地からであるべきで、しかもできるだけ自害的であってはならない。集団や所属妄想がこの基本を見失わせる。この点で国も、自治体も有害だ。我々は善の為には、全く個人であるべきなのだ。

辺野古珊瑚礁を観照後の高須克弥氏に向けたさえずり集

他国に頼る限り自国は安全ではありません。米軍なしに自衛隊のみで自国を守る覚悟を決めてください。それが国です。
 自衛隊のみで国を守る覚悟がないなら、今すぐその日本人を名乗っている人々は、米国に強制移民させましょう。他国の税金で自国を守るなど人道に反します。
 自分より強い者、自国より強い軍に頼っている限り、自分より弱いものも守れないんですよ。先ず自分の力で守れるものを守る。別の強い国にどれだけ脅されようが、米軍に頼ってはいけません。自国と共に最後まで自分たち自身で立つべきです。それが日本を信じるということではないですか。
 善悪と強弱は違います。米軍は強いかもしれないが必ずしも善い軍隊ではありません。第二次大戦はとうに過ぎ去ったのに、他国をいまだに占領している悪い軍に頼って、自国を売り飛ばしているのが自民党の安倍政権です。それを売国奴と言わずしてなんと呼ぶのです。

2019/01/15

Tweets for BBC world news about a teen woman exiled from Saudi Arabia to Canada

I guess, UN helped anti-monarchy indirectly. Maybe Saudi Arabia is becoming in next target for hate of USA. Her life should be helped, but, intervention to Saudi is just an another monarchy of UN government, in USA.
  Human rights might be important. On the other hand, UN's central intervention to all over the governments is also new type of evil. Democracy, majority politics cannot be perfect in the human history. Monarchy may be right sometimes.
  Fabrication of enemy, is a true aim of these biased information for Saudi Arabia? If BBC is not enemy of all human beings, you have to report the another aspect of Saudi Arabian women's happiness in their owned culture.
  Is there ethnocentrism for anti-Islamic belief under these plots by BBC? I feel something artificial smell this agitation. Muslim costume should not use to critic for their governmental human rights point. They can believe anything.
  In teen, we are almost in rebellion ages. But you agitated as if there were almost causes in islamic belief? We read she was a victim of abuses by families, according by her words. And she got out home, this was typical in the human, also same types of life all another cultures?
  Why didn't you defend another beliefs too, not only your traditional, democratic, or symbolic christian theory? Just simply, muslim government is an enemy for BBC world? I felt very bad these discriminations of biased attitudes of yours. At end, I am a buddhist, individually.

科学における理想について

科学(知る事、知識、science)の探究それ自体理想であり、先入観や偏見を除き考えるべきという真理信仰も、既存知識への懐疑的態度も、或る理想的態度といえる。理想を一切廃するという態度はそれ自体も理想で、或る真理探究の方法論への信仰。即ち理想を持つも持たぬも知る事をする者の自由である。
 形而下学(自然学、物理学)の領域で事実の前に形而上学的理念を措定し、それにあてはめるよう事実を解釈するという態度は、形而上学の主観的性質を形而下学の客観的性質と混同している為に行われる一般的錯誤である。「物ありて然る後に倫あるなり」、と福沢諭吉は『文明論之概略』で述べた。

The individuality

There is meaning in the individuality
They don't notice the characterisitic
Ordinary sense cannot get all beauty
Only craziness of heart is a real sound

推薦曲集2

推薦曲集2

As is often the case with

On the internet
Nobody knows me
As is often the case with metropolis
We die in the loneliness
But why we make the art of meme
To tell something your fragments
To redirect somewhere unknown
Above the web
Everyone knows you
As if often the case with the earth
We live in the love of God
That we do never exist
That we do never hope
As is often the case with us

ダークエネルギー引力塊仮説

ダークエネルギーとは引力の塊ではないか。

都民の中華思想についてのさえずり集

茨城県におけるほぼ全ての大人しい成人式に対する文化的偏見も、沖縄県の成人式に対するのと同様の都民による差別です。東京都はかつての京都市や奈良県と同じく、皇室がきてからというもの、ますます傲慢になり、中華思想をもっている。都民による偏見散布の一方で、地元人は地元紙や現場で、地元のよい点をいくつも知っている。
 思うに都民は自分達の政治的地位と彼らの考える物(首都性)が、他県をほめる事、田舎の善美を称揚する事で失われるのではないかと恐れているのです。逆に自文化を自画自賛し、自慢し、見栄を張ることで、自らの優越コンプレックス・虚栄心を自分自身に確認しているんです。
 しかし事実は正反対で、都民が自慢するほど、また田舎を無意味に貶めるほど、愚かならぬ他県民はその卑しさに失望するのであって、今日、中華思想は軽蔑される為にあるといってもいいでしょう。
 都民が進んで都内の汚点を露にし、自分達は大したものではないと謙遜したり、他県の美質を称揚し謙虚に学ぼうと啓発したり、皇室ジョークを駆使し、都政の馬鹿殿さなどを客観視し、東京のおかしさを自虐的な冗談にするといったことがあれば、それは或る意味文化的に洗練されているといえるでしょうね。
 嘗て武士階級を主として自画自賛は下品な事で、謙遜が美徳だった時、今日の東京都民の様な自慢や見栄っ張りに満ちた町人・商人文化も大いに軽蔑されていた筈です。他県への差別的偏見は、その種の下衆な価値観を都内報道各社も前提としていて、場合によっては皇室含む日本政府までもっている証拠です。

都民による偏見報道についてのさえずり

茨城県におけるほぼ全ての大人しい成人式に対する文化的偏見も、同様の都民による差別です。東京都はかつての京都市や奈良県と同じく、皇室がきてからというもの、ますます傲慢になり、中華思想をもっている。都民による偏見散布の一方で、地元人は地元紙や現場で、地元のよい点をいくつも知っている。

宇宙全体の中で

宇宙全体の中で
私はだれからもはなれ
だれにも見つからない隙間にいる
よろこべ
お前は神なのだ
私はいう
私はいう
私はい
よろこべ
お前は神に降りていく
だれからも遠くはなれ
私は

Tweets for an Artwork with Saudi Arabia flag removed from Ground Zero

You should know that the art is not the politics itself. We have to see all arts as an art itself, not relate with today's politics.
  The art educates a Saudi Arabian artist's eyes to American's Ground Zero. Why didn't you think the all human beings were hoping peace. This work enlights other's eyes to national flag, not to do violence again.
  I felt misery the removement, because there are many aspects to rethink the work. This point is important for good art. If you visited the place with this candy, you would feel the tragedy of Ground Zero more deeply. Who should eat, each nationalists or Trump army? For love.

皇室廃止と自民解党、都道府の解体、全県名改正について

皇室と日本政府、自民党はその下なく堕落しており、原発公害を起こす都内の東電、日本原電をはじめ主要電力会社を少しも罰したり、防止・違法化・外部不経済を内部化しようとせず、むしろ東京から公害を拡散する側に回っている。全て利権のもとにある皇族財閥の既得権を強化する為、日本国民全体から搾取する為でしかない。東京都庁も同然の悪業を進んで行う極悪政府なのはいうまでもないが、中世回帰の自文化中心主義や中華思想による全国差別の為に文化庁や皇族を京都市にひきずりこもうとする京都市庁も同罪である。
 米軍基地を民意に反しておしつけられる沖縄だけが被害者なのではない。東京都や京都市といった利己・他害主義のサイコパス的貪婪自治体や、その悪業に加担する日本政府、自民党と皇室が諸悪の根源であり、彼らの悪意ある公害ばらまきを後押しする一部日本国民も地獄におちてしかるべきだろう。
 この致命的な退廃を浄化するには、 唯一、皇室廃止と薩長閥を延長させている自民党の解党しかありえない。これらの悪徳利権団体を完全に廃絶してこそ、日本国民全体の為の共和政が獲得される。さらに東京都と京都市を金輪際、首都を名乗れぬまで権力権限を完全に無力化し尽し、徹底的に分解する事が、国民全体に対する公害・差別防止のために絶対に必要である。京都市は各区に分割し、京都府や京都市を改称させ、各自治体が山城県の一部として、傲慢さをもてないようにしなければならない。同様に、大阪府や北海道、東京都も各々、河内県、北海県、武蔵県として己の自治体が他県に比べ特別な立場と勘違いさせないように地方自治法ごと改名を行わねばならない。また明治政府による旧徳川領への差別や蔑視といった薩長閥の悪行を含む県名は廃止し、県民投票を通じ、旧国名その他の愛称へと改正を進めねばならない。

絵画論

絵の重要な使命は理想を縮減して表す事だ。抽象化は縮減の段階である。
 説明的な絵は図解で、物事を分かり易く示しはするが、その究極形が文字である。

2019/01/14

都民による原発公害に対してのさえずり集

都民は二度と原発を動かさないでください。田舎に住む人々の犠牲のもとの光です。日本原電も東電も都内の都民による会社ですが、原発は我々の住む田舎におしつけられています。他人を公害で死ぬほど苦しめしながら神に祝福されるというのは大いなる矛盾だと思います。
 もし神がいるのなら、聖書の中で何度も罪深い人類を滅ぼしたように、東京都民に対しても罰を与えるはずです。東電・日本原電を構成する都民による原発事故の被害で我々はこれほど苦しめられ、痛めつけられ、差別で毎日傷つけられているのに、神がその極悪人たちを祝福するとでもいうのでしょうか?
 本当に祝福されるべきなのはこの写真に写っている人々が原発による公害で日々犠牲にしている、茨城県、福島県、新潟県、青森県の人々だと思います。イエスは分け隔てのない博愛を語るでしょう。しかし神までもがそうするでしょうか? 悪が救われ善は虐げられたままなのですか?
 私は原発事故から7年間以上、原発による公害や風評被害、都民による差別、それに同調する人々の誹謗中傷などでおよそ筆舌に尽くせぬほど苦しんできました。これまで聖書に書いてある神による復讐を信じ、私自身は罪びとである都民を直接裁いてきませんでした。神父は神の味方ではないのですか。
 ローマ人への手紙12:19『自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それはこう書いてあるからです。「復讐は私のする事である。私が報いをする、と主は言われる」』私や私の故郷への都民による大公害、そして何度も受けた差別。私は寧ろ都民を助けてきました。主の復讐を私は信じています。

ZOZO社長・前澤友作氏の寄付にあてたさえずり

東京のそこら中で凍死・餓死していくホームレスの命は、保護者のいる特定の心臓病の子より後回しにされている。慈善による不公平はうらみを買いやすいので、善行は人に見せつけないように行うべきなのでしょう。

カルロス・ゴーン氏の日本司法による扱いに向けたさえずり

日本政府の司法や報道機関、その他の一般日本国民は他の先進国に比べて被疑者に非人道的だということを、ゴーンさんを通じてどうか世界中に拡散してほしい。一般日本国民自身が他先進国に学ぶような能力も意欲もないことは自明だから、外圧を利用して司法改革を進めるしかないです。
 日本政府やその総元締めである皇室が、いかに根底的に日本人を普段から納税奴隷としかみていないかを、遠慮なく全世界に向けて喧伝したらいいですよ。実際に飛鳥時代以来そうなんです。

サウジアラビア文化についてBBCニュースにあてたさえずり集

カネが無きゃ男女とも殆ど何もできない日本のほうがまだましだとでもいいたげですね? 文化的偏見を促進する目的の記事ですか? サウジアラビア文化を他国の人が自文化中心な見方で一方的に貶めるような報道は、大いに差別的だと思いますけど。
 ラハフ・ムハンマド・アルクヌンさんは「虐待」を受けており、国連が仲介してカナダに入国したのでしょう? それとイギリス文化・日本文化・サウジ文化の違いには本来、何の関係もないはずです。こういう中東文化に対する差別的偏見を公然と拡散する報道こそ、世界の人権に反すると思いますよ。
 国連の常任理事国は旧連合国であって、イギリスの立場からみればサウジアラビアの男女の人権は後進的なものなのかもしれません。が、私たち旧枢軸国の立場からみれば、連合国が一方的に弱い物イジメするみたいにサウジ文化を差別しようという論調には反感を覚えますね。同じ目にあってきたので。
 もしサウジアラビア国民が民主的に選ぶ文化なら、それは人権に対する多様なあり方として認められるべきではないですか? あまつさえ、この子は未成年ですから、保護者には教育上の責任があった筈です。単に虐待を責めるべきであり、文化の違いを貶めるのは決して先進国のやるべきことではないですね。
 私達は両性(その他)の本質的平等という連合国の価値観を敗戦で植えつけられました。これをいまさら問い直す事もないくらい自明の当為と考えていますが、BBCさんの母国イギリスだって、随分最近まで女性の人権はなおざりにされていました。喉もと過ぎれば熱さ忘れて、嘗ての自分の似姿を貶めるとは。
 ラハフ・ムハンマド・アルクヌンは同情に値しますが、虐待していたとされる親御さんも何か指導上の考えがあってそうしていたかもしれず、サウジ法を超えて安易に責めることもできないんじゃないですか? 勿論、サウジ文化を後進扱いするなどもっての外です。日英がサウジより遅れた点もありますから。
 サウジは絶対君主制らしいけど、日本の皇室も男系男性しか天皇になれないので政教一致の男女差別が存在しています。じゃあ日本がイギリスより後進的で、皇室は悪とBBCはあおるんですか? 政治制度や文化も多様であるべきなのではないですか。私は女帝ありが歴史的に当然と思うし皇室廃止論者だけど。
 結局、BBCのこの報道の論調って、英帝国主義のままなのでは? サウジ文化の中にいる女性にとっての美質や利点も述べないとただの一文化への差別的偏見の扇動だし、現状の男女平等イデオロギーや共和政(民主主義)が絶対的正義である保障なんてどこにあるというのですか?
 反フェミニズムもフェミニズム同様に、単なる一思想とみなすべきだし、それはサウジ文化の中で女権論者と保守主義者がいるのにも当てはまると思う。つまりは、先進国の多数派世論にあわせてサウジ文化の多数派(イスラム保守主義)を非難するのって、自文化中心主義に基づく連合国の暴力だと思う。
 私はただの日本生まれ日本育ちの一民間人だけど、たまたまこのBBCのサウジ文化差別にあたる報道をみて大変いやな気分になったので、意見を述べました。男女同権が望ましいというのは当たり前にわかるけれども、かといってイスラム信仰に由来した男女の宗教的に正当な扱いを貶めるのは、やりすぎだ。
 今後、男女らの本質的平等を、イスラム法を超えて採用していくべきかどうかは、サウジの国王や国民全体が考え、実践していくことなのだから、BBCのあるイギリス人が決められる事じゃないでしょう? 西洋人による中東の一国家に対するアジア差別の扇動を日本人が黙って眺めているのは腑に落ちない。
 他にこの男女(その他)の違いを基本的に認めるようなサウジの考えって、差別性があるという意味では問題はあるかもしれないが、その考えの一部は、人類史の中では寧ろそっちの方が頼りがいがある本来の性のあり方だと思う。女性全般が男勝りになる事は難しいし、基本的に遺伝的な差異はあるでしょう?
イスラム諸国の出生率の高さを鑑みたら、男女平等(同権でなく、万事を中性化したり両性の特長を消す方向への圧力)を旗印にした先進国、特に日韓の出生率低下は凄まじい。少なくとも日本で男女雇用機会均等法がもたらした結果は衰亡への道のりだった。女が働きながら子育てもするのは無理だったのだ。
西欧は男性に家事育児も負担させ、女性には育児を外注しながら働かせ専業主婦を前時代扱いで解決したつもりでいる。しかし、それとは異なる嘗ての男女分業の家庭文化が、安定した中流を形成したまま、跳躍的に先進国を超えて発展するような国があってもいいのではないか?
 普通に考えて女性にしか授乳できないし、男性が狩猟していた時代が人類史で最も長かったのだから、男女の或る程度の役割分業が実証済みで維持できる家庭のつくりだったではないですか。女権一点で、女性が家庭的な文化まで貶めるのって、男勝りになりたがっている一部フェミニズムの行き過ぎでしょう?
 女性が男性らによって保護されていて、自己決定権をある程度制限されはするにせよ、それを上回る利益もあるので当人達が容認している、とは考えられないのですか? 自分たちに全然合わなかったのに西欧流の男勝り主義の価値観をおしつけられ、少子化で絶滅危惧な日本の方が反面教師だと思いますけど。
 サウジの出生率より日英の出生率は低い。サウジが経済改革を進めたら、いずれ日英より金持ちになって今度は男女雇用機会均等法は失敗例、女性が本能で望む家庭にさえ入れない、奴隷労働の野蛮な旧先進国っていいだすんじゃないですかねえ?
  他にこの男女(その他)の違いを基本的に認めるようなサウジの考えって、差別性があるという意味では問題はあるかもしれないが、その考えの一部は、人類史の中では寧ろそっちの方が頼りがいがある本来の性のあり方だと思う。女性全般が男勝りになる事は難しいし、基本的に遺伝的な差異はあるでしょう?
 イスラム諸国の出生率の高さを鑑みたら、男女平等(同権でなく、万事を中性化したり両性の特長を消す方向への圧力)を旗印にした先進国、特に日韓の出生率低下は凄まじい。少なくとも日本で男女雇用機会均等法がもたらした結果は衰亡への道のりだった。女が働きながら子育てもするのは無理だったのだ。
 西欧は男性に家事育児も負担させ、女性には育児を外注しながら働かせ専業主婦を前時代扱いで解決したつもりでいる。しかし、それとは異なる嘗ての男女分業の家庭文化が、安定した中流を形成したまま、跳躍的に先進国を超えて発展するような国があってもいいのではないか?
 普通に考えて女性にしか授乳できないし、男性が狩猟していた時代が人類史で最も長かったのだから、男女の或る程度の役割分業が実証済みで維持できる家庭のつくりだったではないですか。女権一点で、女性が家庭的な文化まで貶めるのって、男勝りになりたがっている一部フェミニズムの行き過ぎでしょう?
 女性が男性らによって保護されていて、自己決定権をある程度制限されはするにせよ、それを上回る利益もあるので当人達が容認している、とは考えられないのですか? 自分たちに全然合わなかったのに西欧流の男勝り主義の価値観をおしつけられ、少子化で絶滅危惧な日本の方が反面教師だと思いますけど。
 サウジの出生率より日英の出生率は低い。サウジが経済改革を進めたら、いずれ日英より金持ちになって今度は男女雇用機会均等法は失敗例、女性が本能で望む家庭にさえ入れない、奴隷労働の野蛮な旧先進国っていいだすんじゃないですかねえ?
 確かに男勝りに社会で労働するのが向いている一部女性が自由に社会進出できる事は、日英のような男女同権をおしすすめてるタイプの社会の利点ではあった。が、大多数の女性は授乳による育児といった固有の性的機能を十分生かせていないので、不自然な状態にあるのでは? 不自然な社会が維持できると?
 一部の仕事面での能力がある女性は、公的社会で男勝りに働けるようにして、他方で一般的な多数派の女性、つまりはある程度男性に保護され、家庭に入っている方が幸せな人たちがその社会人状態を強要されないようにするのが、自然な意味での性的公平というものなのではないでしょうか?
 現在の日英より性的理解が進んだ社会では、女性の多数が社会人より家庭人を進んで選び取るかもしれない。というより、哺乳類として当然そうなると私は思う。いいかえれば、この偏見にみちたサウジ文化への否定的な報道は、文化帝国主義による単なるアジア差別の一種だったということになりましょう。

A tweet for Donald Trump

We believe that the stop wars is the best way to win the war over.

世界の中心

世界の中心
2019年
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資産家の慈善についてのさえずり

人は後天的努力も含む商才に差があり、自分よりお金をもっている人をねたむ傾向(少なくとも自分に対する結果の不公平に是正を求める傾向)があるので、一旦お金持ちになってしまうと、もはやどんな慈善活動をしてもねたむ人はいなくならないんでしょう。資産家の慈善はねたみに対する緩和措置です。

意識の抽象性についてのさえずり集

仏教でいう無我は、脳科学でいう志向的な感覚質(クオリア)の抽象性のことでしょう。抽象思考は高次認知(メタ認知)を通じ、状況の客観視に役立つ意識の系統的発展だったのでしょう。客観性は自己を感覚的対象に対し相対化することで、より社会的な行動、主に利他性を鼓舞し易かったのだと思います。
 資本主義は相利性の報酬としての利益追求を人類の一部ができるようにしました。しかし意識の抽象性(志向的感覚質の練度)は元来、サイコパシーをもった人が有利になる、利己的な社会の為に使われてきた訳では無いように思います。文明は利他性の体系なので、究極では自己犠牲の為なんじゃないですか。

Donald Trumpへのさえずり

I wish if the beauty can share for all human beings, not only US people.

喜劇についてのさえずり集

喜劇役者(お笑い芸人)というのは道化師役を兼ねている。問題は性差別にあたる風刺をふさわしく常識に着地させられない権威構造にある。師弟関係があるせいで、師を公然と批判できないし、サイコパス的な人が同調してしまう。常識への平衡感覚の回復が果たされないと、ただの差別になる。
 個々の役者(出演者)の個性が、性差別を当然視する方に混じりあう状態をつくりだし、それを放映してしまったというのは、笑えない事をしてしまっているのですから、喜劇の失敗例というべきでしょう。

株主資本主義についてのさえずり集

株主(ここでは大株主という意味で会長)・経営者(社長)・労働者という分類に倣えば、株主の経営参加度が増すと株主還元は増え、他方で労働者はより冷遇されるでしょう。労組の強さや従業員持株比率の高さは、企業の人件費を上げ競争力を減らす代わりに政府の福利厚生費を節減します。
 もし米国流の株主資本主義(株主支配)をまねる方へ舵を切るなら、福利厚生をへらされた低賃金の労働者や、失業者が沢山でます。政府が事前に責任をもって失業手当・生活保護する準備を整えてからにするべきでしょう。米国はフードスタンプ、英国はユニバーサル・クレジットでこれを既に行っています。
 経済の目的は然るべき需給によって人類の幸福を増す事です。株主資本主義も含む自由市場は万能ではなく、この本来の目的を取りこぼしてしまう事例が必ず発生します。政府の役割は利潤追求という民間企業の経営合理性とは全く異なる観点から、最も恵まれない人の利益を最大化する相補性にあります。

A profile for my twitter account

I'm a Japanese man 34 years old. I felt I could draw something through whole my life when 15 years old time. I've been studying many things, for its work.

2019/01/13

Donald Trumpへのさえずり

By the physics of today, all spaces are increasing entropy, totally.

自由についてのさえずり集

『徒然草』で使われている自由という言葉は主にわがままという意味で、freedomやlibertyの訳語としての、自然権を含むそれとはずれがある。思想史上の自由意志は近代的個人の確立に向かって要請された概念ではないか。ギリシア自由市民の自由は非奴隷身分の意味。つまり自由は多義的で或る社会的概念。
 科学主義(科学教、科学崇拝)は物質的反応として脳の反応を定義し、因果律という認識型を神学的決定論に接続しただけ。思想史の体系的に、自由の定義が変化してきたのは各時代の当為へ向けての適応でしょう。主に近代では王権や封建制など差別から自分を解放する為に自由という意識領域は使われた。
 平成末の日本国民全体が政府にいる皇室の存在(天皇制)や東京一極集中、在日米軍、資本主義的有資産階級制などの抑圧から、自分を自由だと再認識する時、この国でもイエローベスト運動とフランス・名誉・文化大革命が一体化したような共和的解放力のうねりが起きるでしょうね。無理な相談でしょうか。

暗号資産非課税特区や寄付減税・投資減税など経済政策についてのさえずり集

資本主義経済と、社会(民主)主義的政治というのは、北欧のように両立すると思います。前者は経済思想で、後者は政治思想です。政治は資本主義経済に対して何もできませんし、独占禁止や公害防止を除き、自由競争市場に干渉も規制もしない事が最善です。自由市場と、社民的資産調整は両立するのです。
 未来予想として、日本は少子化が止まっていないので国内消費は減少します。そのうえ新自由主義的格差拡大を進めると、勿論、富裕層だけにお金が集まり、GDPは低下してしまいます。状況が高度成長期の中国とは異なります。日本は国民全体の消費余力を増やすことに集中しなければなりません。
 OECDによると、所得格差の目安というべき相対貧困率は、日本が米国に次ぎ先進国で下から2番目です。現状は日本が戦後米国風の国を目指した結果だと思います。しかしアメリカの真似をしても差異化にならず、言語も文化も特殊なので移民先に選ばれづらい。
 日本が他国に比べて圧倒的に優れているような、わが国経済に世界中の起業家がこぞって参加したがる誘因が必要です。私は暗号資産の技術的発展に注目しているので、特区をつくり、そこでは暗号資産への課税を0にするのが、世界からの資産や人材流入を促進すると思ってます。
 国内で消費や、新たな産業を生み出してくれなければただの租税回避地になってしまうので、国内居住や帰化を前提にした暗号資産非課税特区を造ることを政府に提案されてはどうでしょうか。私個人は茨城県に住んでいるので、以前からつくばや水戸などに同様の特区を作ってくれるように提案してきました。
 累進課税さえ存在していれば、一部の圧倒的商才の持ち主が、どれほどお金を儲けてもそれは当然というべきでしょう。米国から学ぶべき事は、寄付の文化だと思います。ビルゲイツ氏やウォーレンバフェット氏のように、世界一級の富裕者が自ら莫大な富を社会還元してくれるような、寄付減税制です。
 投資に回すこともなくタンス預金になっているかなりの額に上る高齢者の貯金を、投資または寄付に回せば減税するが、寝かせておけば課税するという方式で、日本社会に生かして欲しいと思ってます。特に氷河期世代以下の若い世代は子供を生み育てる余力もありません。お金が一番必要なのは壮年期です。
 銀行が投資先に選ぶのは確立した大企業が殆どでしょうから、若い起業家にお金が足りません。現在の高齢者で投資していない人たちに対しては、できるだけ制度を簡略化しお年寄りの方々にもできるようにした上で、未上場の中小企業や、スタートアップ企業に限定して投資分を減税したらどうでしょうか。

柚子

強く咲く柚子

現代経済についてのさえずり集

アリストテレスは、調整的正義として結果平等と、配分的正義として機会平等を共に社会の維持に必要な物と定義しました。これらは共に欠けてはならないもので、配分のみに偏った社会は決して人間的なものではありません。インドの道端でこじきをする片手のない子供を見てください。
 資本主義は、マルクスの意見では、社会主義の前段階です。生活必需品が十分に供給された段階で経済が停滞しはじめた先進国で、この意見の正当性がケインズ政策(修正資本主義)やトリクルダウン理論の破綻で部分的に証明されました。今日の消費停滞も同じ原因、必需品の供給過剰に基づく物です。
 社民主義をとった北欧諸国は、少なくとも国連幸福度など人間開発指数で最も優秀な成績をあげてきました。米日のよう結果の資産格差が大きな国は、幸福という至大の目的が置き去りにされ、一部の富裕層が嘗ての封建領主のように振舞っている状態です。日本の理想は一部の国民の幸せなのでしょうか?
 私個人の意見ですが、規制や政府による干渉が極力ゼロに近い完全自由市場を目指していく理想と、政府による税収の再配分(恵まれない国民への調整)は、アリストテレスのいう通り同じ国の中で両立するのです。それは自由主義とか社民主義といった既存の概念では十分言い表せない政策的態度なのですが。
 資本主義は必需品を合理的に供給する段階では役に立ちましたが、今日では、先進国の経済停滞を招いています。理由は所得面における中流以下の消費余力を減少させてしまったからです。国民全体の家計消費を満遍なくふやすことが必要だというのが、ケインズ以来の前社会主義段階における政策の王道です。
 トリクルダウン政策の失敗は、アメリカで資産格差を極大化し、日本もその後追いに終わりました。これ自体は経済政策の迷い道だったと断じざるをえません。中印など新興国は家計消費全体が伸びるという当然の帰結によってGDP成長率が高い。多量の消費者がいなくなる格差極大化は間違っているのです。
 結果の或る程度の平等(調整、不公平の調整)と、機会のできるだけ完全な平等(配分、能力に応じた成果)とは、どちらも社会的正義と呼ばれるべきもので、調整が政府の、配分が経済(市場)の役割だと分類できます。
 相続税が全くない状態は、封建時代と類似の、特定の血筋をもつ資産家が、殿様のように延々と独裁権をふるう、前近代的な社会を意味していることは、『21世紀の資本』でピケティがいう通りです。相続税が100%の状態はいわば自らの子孫への偏愛を否定する社会で、自然ではありません。中庸が必要です。
 資産家の子孫が商才を遺伝しているとは限らない為、永続した資産家はいません。相続税があるのは、商才による合理的配分を競争市場で果たす為でもあり、活力という意味では相続税100%の状態が完全競争市場に一致します。がこれは資産家の人間性を無視する為、任意の寄付に減税部分を作るべきです。

私は日本ではごみと思われるような絵しか描けない
しかしそれが全人類にとっても同じようにごみなら
なぜ私はその絵に命を懸けているのだろう
なぜ私はその絵を宝だと思えないのだろう

群れる事

群れる事は判断を誤らせる。

2019/01/12

交際について

我々は自分より優れた人とのみつきあうべきなのだが、これほど難しい課題も珍しい。相手は慈善という意味でしか自分より劣る人とつきあいたがらないし(だからお人好しか、さもなくば誰もが自分より優れている最悪者しか無制限の交際を喜ぶ者はない)、しばしば自分より劣った相手をそうと見抜くのに諸々の偏見が邪魔しているから。
 いずれにせよ交際範囲を最大限絞る事が何より重要だ。自分より優れた点を明らかにもっている人は、最少数なら精査して確かめうるからだ。我々は世間ずれした人をしばしば見かけるが、彼らもはじめから堕落していたわけではない。知らずしらずのうち交際範囲に忍び込んできた悪徳から、自壊が始まったのである。
 もし人が同時代で最高徳に近づいていたり、少なくとも交友できる周囲の人間に比類なき段階まで進んでいれば、当然ながら彼らにとって交際は有害なものとなる。聖人が中庸を知らない事はありえないので、少なくとも全く交際を断ちはしないにせよ、この種の人は同時代の大勢に名を知られる事もなければ、交友関係がいたずらに広いだけの俗物には生涯認識すらされないであろう。一般大衆にとっての有名さは徳の目安では何らなく、どちらかといえば俗受けする悪徳や、高尚な人々にとって殆ど取るに足りない要素における何らかの特殊さの目安でしかない。だがこの世にあって徳は社会的なものだから、聖人の存在を同時代人が全く認知しないということも先ずありえないので、少数の弟子のみにその徳は部分的に伝承され、はるかな時代を経てやがて大衆の中の上等な部類に模倣されるのだろう。
 都会は人間が雑多に群れており、無益な交際を避けるに適切な場所ではない。部屋を出れば見知らぬ人に当たるような場所に、聖人は住み得ないだろう。逆に都会に近づくほど悪徳を持つ俗人が増える。これは都会に偏った高い犯罪率や、皇室(中華皇帝の模倣者)が最大の俗物である事が歴史的に実証している。もし皇族が聖人であったなら、とうに愚にもつかない権力闘争や象徴と自称する宗教権力者の戯劇をやめていたろう。

悪しき日本人

沖縄を守れといいつ茨城を差別するなり悪しき日本人

耐えがたき国

日本という差別の国は耐えがたし

常陸の暁

茨城の食べ物電気水にひと搾取しながら驕れる東京
農漁民つくりし糧を日々喰らい東京あきんどむさぼり驕れり
老いぼれし農夫らつくりし作物を喰らいつ都民茨城おとしむ
わが国は茨城県と呼ばれける常陸の国の暁による

仲間

人は望む仲間を得るだろう。

百獣の王の行進人は退()

2019/01/11

都鄙二元論の批判

自然(山奥)-里山-片田舎-田舎-田舎町-郊外(田園地帯)-中小都市-都会-都心など、多様な密度がある地域を、田舎・都会の二分法で差別する人の認識力は、驚くほど極端に低い。勿論、彼らがこれらそれぞれの違いや特色を認知できるはずもなく、彼らの奉じている都会なるものや田舎なるものはどちらも完全無欠の理想郷ではない。

なんて卑しい国だろうか

東京は住みづらく
きたなく
どこにいってもひとごみで
家賃ばかり高く
下品で
いいところが殆どなかった
そこに住む人たちがこちらを差別してくる
こっちは環境がよくて恵まれているからだ
広くて自然が美しく
食べ物も豊富で健やかな環境なので
おとしめることで東京の自分達のほうが
めぐまれてるとおもいこもうとしている
満員電車と狭い家で
日本で一番いえが広い茨城をみて
日本で一番いえが狭い東京が
差別してる
なんて卑しい国だろうか
差別はする側のみに100%原因があり
される側にはなにひとつ落ち度はないものだ
本当に卑しいのは都民なのだ
そして更に心底卑しいのはその都民に扇動され
愚にもつかない差別をまねる日本人全体のほうだ

我一人

差別をくり返す衆愚の中で、我一人冷めていよう。日本中が差別する人の悪意に染められていても、私は永遠に彼らの一員にならない。高笑いし、悪意ある偏見を声高に仲間と叫び、言葉の暴力を振るい、集団で差別する極悪人共の只中で、私一人は差別される側に回り、尊き人々の一員として生きるのだ。

最善者

科学的認識の一切は、人間社会にとって道具でしかない。この道具は技術一般と同じく使い方を指定しないので、不道徳な人は悪用する。したがって倫理学の最終目的である最高善に至る、後自然学の全体を修養しない科学者、いいかえれば哲学的でない科学者は、無知な者よりはるかに非人道的な悪人でありうる。
 数学や自然学はそれ自体から倫理を導出できない。倫理は全ての知識を含む過去の思想史を参考に、当為を理想する能力から生み出される。この道徳性が欠けたあらゆる個人は、社会にとって善い行動を偶然にしか取れない。
 資本経済の下で商行為を営むあらゆる商人は、哲学を究めている者(決して肩書きによるのでなく、道徳によっている)より最高善を身に着けていなければ、どれほど蓄財しても、或いはその私財で慈善活動をしても最善者たることはできない。

都市

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2019/01/10

自分より愚かな人

自分より愚かな人とつきあってはいけない。肩書きや学歴は賢愚の見分けに全く役立たない。俗物は確実にありとあらゆる世俗的虚飾で賢しらに擬態しているものだからだ。
 一言話せば相手の賢愚は大抵推察できる。明らかに自分より愚かな相手にそれ以上近づいてはいけない。迷わずすぐ縁を切るべきだ。もし話さず相手の愚がわかっているなら、そもそも関わり合いになる可能性のある全てを徹底して避けよ。

表情

自分が美人だと思っているひとの表情は醜い。

英語教育の改革案

文科省の学習指導要領において、英語教育を減点式でなく加点式にする事で、他人の英語の誤りや問題にならない誤差を指摘する日本人特有の悪癖を直すよう様式を改造しなければならない。また、初等教育にフォニックス教育をとりいれ、初期に発音を学ぶ事で発声や聞き取りにおいても、学校教育の範囲内で段階的に無理のない進歩をできるようにするべきだ。

脱法皇室

違憲なる退位法にて脱法す天皇大権不正国政

不幸の最小化

卑しい人達(不道徳な人達)から離れて暮らすことが、人生の中で不幸を最小化する。

真剣

自分が世界史に何を貢献できるかに真剣になれ。

弱い男性への徹底的差別

本当に差別されているのは常にひいきされている女性一般ではなく、金も力も知恵もなく、逃げられない環境も遺伝した性格も最悪で、顔形も醜い男性の方だ。そういう男にとってこの世はほぼ何の救いもない。ひたすら全方位から迫害を受け続け死ぬ。男女という二分法で差別を論じる人は、男性の中にいる真の被害者を最初から恵まれている女性一般より一層ひどく差別しているのだ。
 男女の自殺率をみよ。真の被害者が自殺するのでなければ、一体誰がより多く自殺しているのだろう。
 男女差別を女性ひいきの視点からのみ指摘する事は、冷遇されている一部女性を救済する目的でされているとしても(既に優遇されている別の女性がひいきにただ乗りしようとする場合もあるが)、逆説的にその時点で不利な一部女性より更に不利な一部男性を二重に差別する事なのだ。だから性別間の差別を指摘する時は常に男女同権という観点から隈なく場合わけして、誰もが不当に扱われていないか注意を払わねばならない。

2019/01/09

ブラックホール上の街

ブラックホール上の街
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嘘つきリーダー

サイコパス首相に良識求む愚民

偽善者にっぽん

常磐の海は汚して沖縄の海に同情偽善者にっぽん

月へゆく

家なしに撒くカネ削り月へゆく

茶葉の湯気

わが祖父の設計したりしサンルーム急須に注ぐ茶葉の湯気

短縮

 
短縮
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ビニールひとつ

ふゆのにわビニールひとつとびにけり

新たな俗物

金を儲けただけの商人が全能ぶる。売名しただけの卑人が上位者ぶる。名と実の乖離はますます激しく、金満家が絶対王を気取る。資本主義や情報技術は新たな俗物を生み出しただけだった。

格差広げる労働階級

商売人ふえて搾取は輪廻する格差広げる労働階級

慈善の義務

慈善の義務は金儲けに耽った欲深どもに与えられた枷なのだ。彼らがこの義務を逃れようとすれば、着せられた汚名と共に必ずねたまれる。

倫理

技術がどれだけ高度化しようと、社会の中で倫理が最重要の価値な事は永遠に変わらないだろう。

創造力

創造力
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保守について

保守とは怠惰と無能のいいかえだ。
 保守主義者は、過去が変化しないので新たな状況に何もしないで済むと思っているのだ。この意味で彼らは妄想に住んでいる。未来は常に変化し続け、現状をよりよく変えない限りそこに適応的ではありえない。
 我々には慣行という癖があるので、伝統的価値は誰もに分かり易い(伝統に訴える論証)。大衆迎合主義(populism)と保守には帰一とする卑しい目的がある。要するに人々を馬鹿にし、詐欺によって時代遅れな不正権力を維持しようというだけなのだ。
 古きよき価値が破壊されていく事を悲しむ人は一見良識的なようで、その悲劇性はしばしば同情の涙を誘うが、自然が万物を流転させているのと同様、そこにあった良識は新たな良識に取って代わられていく。懐古趣味や復興として古きよき価値の一部は保存されるが、我々は二度とその時代にもどれない。つまり保守性は完全に不可能である。辛うじてできるのは現状に役立つ過去の知恵を探し出す事だけだ。それは保守主義ではなく、単に温故知新という史家的態度である。大津浜事件を受けた水戸学の尊攘論が中国春秋時代における状況解決策の援用でありながら、日本では江戸時代末期の世界史の中で脱植民地主義を目指す当時の全国統一革命理論であったよう(結果、この理念を吉田松陰が改悪し、欧米模倣の植民地主義や帝国主義へ堕落させてしまったのだが)、復古論は新たな状況に対する換骨奪胎を意味し、退行的であるべきではない。そして復古は、内容が単なる冗談でなければその時点で進歩的たるべきなのだから、保守というより寧ろ革新の一部である。
 選択眼が劣っている人は、或る要素から悪い物を残し良い物を捨ててしまう。また悪い物を再興・維持し、良い物を無視する。今と近未来のあらゆる真新しい要素群からの選択だけでなく、復古もまた現状の批判的再考なのだから、常に過ち多き変化をくり返してきた必ずしも理想的でない伝統の中で、新たなよき要素も古き悪しき要素も含めた現状維持を目指す保守は永遠に、反社会的分子たらざるを得ないだろう。

愚かさと卑しさの違い

愚者は自分より劣った知性しか持たない子供の様に無力な者なのだから、その人を憎むより哀れむべきだろう。
 その愚者が我々の目には悪意を持っている様に見えるとしても、何かの勘違いの為にそうしているか、悪を認知する能力自体がないか、単に悪事をしたがっているか、他者からは殆ど見分けがつかない。この意味で愚かさと卑しさ(悪徳性)には共通部分とそうでない部分があり、低知能さの一部に卑しさがあるのだが、何らかの優れた専門知で後光効果を持つ人に全く悪徳的な部分がある、ということもよくある。逆に知能全般が優れていないのに徳のみに傑出した尊さをもつ人もいるのだから、愚かさと卑しさを悉く混同するのは両者を見分けうる立場に劣っている。
 我々は差別主義的な思想をもつ右翼が低IQの傾向があるという調査を見るが、この思想傾向の人達は当人なりの善意で差別をしている事が往々にしてあり、その場合、その人は愚かさと卑しさの共通部分をもっているのだ。
 そして愚かさ同様に、卑しさが本当に憎むべき事なのかについても、我々は十分考えなくてはならない。その人の卑しさが他害的な場合、なるほどそれは憎たらしい事だが、単に自滅的な時むしろその人の身に着けてきた悪習や、劣った判断力は哀れみに足るのではないか。

涅槃と資本主義の輪廻

 ゴータマが涅槃(nirvana、無欲)という言葉で説こうとしていた状態のうち、無余涅槃は要するに自然死以後である。資本経済の時代は、商行為による欲望の開発で俗人の諸煩悩を順次満たそうとする。需給の一致がこの時代の大義名分なのだが、利己の極度に功利主義的な利他の最大化が自己満足の最終段階として現れてくる。利他性自体が目的でなく、自己満足が目的ならそれは偽善なので、自己満足の究極状態に純粋な利他性が生じる。カントのいうところの義務。だからマルクスの説いた社会発展の三段階論、つまり、資本主義、社会主義、共産主義という進化は、少なくとも公民一般の利他性が増大するという意味では真実なのだろう。
 その個人の道徳性、悟り度が低いほど空に至る試行錯誤としての煩悩も多いので、GDPは三面等価の原則により増長する。しかし幸福が社会生活で本来の目的であるから、そしてその質は無欲に極まるのだから、少なくとも有余涅槃として少欲な人々が多いほど、いわば低GDPな程その地域集団は高徳なのである。死を望む人が多いということは、決して社会病理ではない。単にその人の煩悩が吹き消えている、libidoが低減しているのだから、元々その状態が生の最終段階なのだ。
 鬱病という精神医学上の定義は、ある個人が商人として天皇への納税(その他、王族の存在しない海外あっては資本家への貢納)をしつけられた国民奴隷制に適合しない、という事を問題視しているのだが、仏教の立場からみれば、これらは全て迷妄の結果なのだ。勿論、脳内でドーパミン不足など動機づけの欠如から無欲さを引き起こしている身体現象と捉える事、それが日常生活に対して支障をきたす事に問題がある、という医学的観点は一定以上の合理性がある。しかしこのウツと見なされている事象の中には、全体の一部にせよ、一切皆空を捉え、それ以上何も求めるべき事がないという涅槃の悟りもあるのだろう。同じ事は日本でNEETや引き篭もりに対する差別にもいえる。彼らを非難する商人や、自らへの納税の義務を科す皇族らは、仏教的な意味で悟った、自然死のみを求める乞食的個人を搾取や奴隷生活の延長に役立たないものとして攻撃しているのだが、輪廻する欲望の再開発に取り憑かれ真に社会病理を示しているのは彼ら俗人の方なのだ。

死と自己犠牲について

死が唯一無二の楽しみである、というだけ、自己犠牲に漸近するほど利他行動をする事が、この世で最も幸福で有徳な人生なのだ。そして私の苦楽は全てここに由来しているのだ。
 相利性が真の善でない事は、アダム・グラントのいう成果を挙げるgiverと同じ内容で説明できる。もし利己を含む利他性なら、それはmatcherのふるまいでしかない。
 自己犠牲は利他性の目的ではない。世界の幸福の最大化が目的だ。そしてあらんかぎりの利他行動をしているが自分に何の報いもないとしたら、それは避けようがない自己犠牲である。

殺人衆愚

にっぽんに生まれてくれば殺される搾取と差別を愛せという愚民

2019/01/08

天敵

薩長史観による国内外への侵略テロ礼賛ドラマで裏切りと大量殺人の悪業を美化する極悪NHKが、そのテロの被害で150年以上も苦しむ、なにも買えないほど貧しい私からなけなしの国税を搾取していく。勿論、一度もテレビを見ていないのに。明治政府以来、いや天皇が弥生人らに紛れ中国朝鮮から渡来してきて以来、日本国は日本人にとって唯一無二の天敵なのだ。

2019年
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死刑廃止論と他害的遺伝子についての省察

人類の中には、利己・他害的な習癖を完全に身につけている人、つまり悪人がいる。また利他・しばしば自己犠牲的な癖をもつ善人がいる。これらの習慣の強度が激しいほど、その人は性悪、又は性善的である。また癖の強度においてこれらの中間にいる人もいる。
 他方、サイコパスと呼ばれる人達がいる。精神医学の中で知られているよう、この種類の人々は良識、良心と呼ばれる善悪を判定する能力がもともとなく、人生全体の中で倫理全般が盲点となっている。彼らが第三者の目に倫理的に見えるよう偽装する時は、それが利己の役に立つ場合だけである。彼らは半匿名性が確保される場では極めて悪質な振る舞い、利己・他害的なふるまいをくり返し、その極悪さは上述の悪人をしばしば超えている。
 死刑制度が悪人を裁く時、その刑罰対象は彼らの遺伝的・後天的な他害習慣の強度に向けられている。そしてサイコパスの一部が具体的犯罪によって裁かれる時、この習慣に対する遺伝的強度の方がより重要な刑罰対象となる。死刑を違法化した人々は、犯人の他害性が後天的習慣、つまり彼らをとりまく環境の影響によっていると多少ともあれ考えているといえる。また慈愛という観点から全ての悪人らを根底的に許すという目的で、死刑廃止論が正当性を主張している。これらを前提として私達は死刑制度に対して次の2つのことがいえる。
 1つはこの刑罰が遺伝的な性悪さをもつ人(他人の気持ちを思いやる能力が脳の遺伝的に極端に低く、他害性に極めて傾き易い人)や、サイコパスといった特定の害他的遺伝子を淘汰する様に機能しているということだ。もう1つは、一般的な被害者遺族の心理的保障として、これらの遺伝子の淘汰が他害的な人々への同害報復になりうるということだ。我々が終身刑によって、程度あれ遺伝的に他害的な人を一般社会から隔離し犯人の自由を制限するのは、今日、最低限度の刑罰として疑われていない。つまり、死刑廃止論の焦点は、遺伝的に他害的な人々、生まれつき他人の気持ちを思いやりえない脳に対する同情の余地があるかどうかによっているのだ。性悪の脳とサイコパスの脳の違いや、彼らが遺伝的にどれだけ他人を思いやれないのかについてより正確な遺伝子的検査ができるようになってはじめて、情状酌量の余地としての終身刑の意義が問われうる。
 性悪は悪意を含み、サイコパスはもともと善悪の認知が利己心を除きできない事によって、他害的犯罪を行う。いいかえれば、性悪にも思いやりの能力が欠如しているという遺伝的な他害性の程度があるし、サイコパスにも恐らくその良心に関する盲点さの程度があるだろう。こうして、死刑廃止論における減刑性の質は遺伝学的・精神医学的・脳科学的な遺伝されうる良識の判断力が計測できてこそ、科学上の根拠を持つようになる。

哲学者

僕に全人類を滅ぼす力があったら
先ず(ろく)でもないあの首相と邪教祖を消そう
それから下らない日本人共をあの世に送ろう
それから世界中の米軍を消そう
他に消すべき物も見当たらないので様子を見る
ああ僕は神に成りたいのだ
愚かな人類に賞罰を与える絶対の力が欲しい
僕が間違えないとは思わないが
少なくとも人類の殆どより善悪を知っている
少なくとも全人類より最高善を求めている
だが現実に信賞必罰の絶対権力者と成ったら
悪しき人類は僕を独裁者に仕立て上げ
愚にも付かない言い訳で打倒したがる筈だ
だから僕は哲学者に成った

実証科学と形而上学の違い

形而上学の一部が非実証的な事を揶揄している人、特に理系馬鹿(おもに理科の教育しか受けていない為、形而上学野へ余りに無知な人)は、コペルニクス的転回以前にいる。当為は社会的理想で、既存現象の分析ではない。
 実証主義は知識に対する一態度で、現実自体ではない。実証科学は永遠に完全な真理を言い当て得ないのだ。自然学の信者も無知という無限の袋小路にいるが、その中で場当たり的経験則をつみかさねているだけである。そして自然学それ自体からは永久に当為は生み出されない。

勇者の行進


勇者の行進
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生存権なき国

生存権なきこの国で我は死ぬ邪教祖天皇に貢ぐ愚民と

たかる愚民

あきんどの人買い(さえず)りたかる愚民

偽善国

われは餓死犬猫助ける偽善国

国土売り

サイコパス首相がよろこぶ国土売り

媚び

米軍に媚び売り隣国脅す犬

エセ愛国

原発を田舎におしつけエセ愛国

狼老人

米軍の狼老人国を売る

犬畜生

衆愚だます狼老人犬畜生

2019/01/07

日本国民はなぜ多数派の暴力を振るうか

資本主義の最終段階、そして社会主義に必然に移行する時点では、貧しい人々が一斉に武装蜂起し、皇族、資本家、経営者の順で皆殺しにする打ち壊し的一揆、いわゆる社会主義革命が起きると考えられてきた。だが社民党は西洋圏で、議会による漸進的改革によりこの暴力革命を回避してきた。
 ところで日本で、搾取される一方の衆愚が右傾化し、ますます自らに不利な支配階級や金持ちへの隷属を強要しあう退化現象は、それら愚民達に資本主義の搾取体制への理解が及ばない事によっている。こうして日本国民一般は奴隷階級を形成してのち、極貧と死の間際までおいつめられなければ社会主義の意義に気づく余地すらないのだ。
 要は北欧諸国に比べ日本国民の政治民度はごく低い。その為、日本人は議会という平和的手段で被搾取体制を改善しようとする知恵すらなく、闇雲な多数派の暴力に頼り、国内外への非道な大量殺人や戦争誘発を、現実逃避の為だけに主張したがるのだ。更に状況が悪いことには、彼らの中でも悪質な愚民、すなわち保守派を称する自民党信者、神道信者、天皇・皇族崇拝者らは、低IQ者に特有の差別主義のもとで数的不利な少数派や、経済弱者、移民、外国人など、多数決において社会的弱者とみなしたあらゆる対象を、単に容易に攻撃できるという理由で標的にしがちになる。彼らが結束主義(ファシズム)に漸近するのは暴徒として、言行いずれでも憎悪活動をし易いからでしかない。
 サイコパスそのものである安倍晋三の様な退行的ファシストが少数派を弾圧する非共和的な独裁政治を維持したり、立法府と行政府を跨ぎ違憲立法や公害の推進をくり返すこの悪しき体制を更に悪用し、違憲の退位法を忖度させる平成天皇も、日帝以前への懐古趣味的ファシストでしかない。
 この様な蛮行の果てに、衆愚がさらなる弱者迫害の末にたどりつくところ、文明の荒廃でしかない。平城京や平安京といった嘗ての都市群は凋落してきた。資本主義時代の都市だった東京圏も、同じ末路になるだろう。所得・資産格差が極端になり、搾取する奴隷階級すらいない都市は、もはや維持できない。が、もし日本国という単位でそれが不可能でも、道府県以下の単位で社会主義、分けても社民主義的体制を構築した地域に新たな首都が現れ、維持できる国を再興するだろう。この間に、平成の日本政府を独裁している諸勢力、皇室、自民党員、官僚、公務員、資本家、経営者、労働者一般といった勢力は、最も不遇な立場に置かれた人々から成る革命勢力によって暴力的に滅亡させられるか、さもなければ降伏し、新体制に従属する立場を選び取るかを迫られる事だろう。

星を待つ心

 
星を待つ心
2019年
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文明論

芸術は人を救い、商業は人を痛めつける。前者は生産的で作品があればあるほど人を豊かにするが、後者は搾取的で企業活動を行うほど富を寡占させる。
 商業都市は滅亡を宿命づけられているし、ありとあらゆる退廃の末に貧民窟が残る。
 農工業の発展をGDPは計測できない。GDPを国力や地域の経済力と見なしている限り、人類は不幸を増進させていく。

国境県境で差別する人ぞ

サブカルチャーと中間芸術以後

俗衆は徳の面で聖人君子に劣った人達なのだから、大衆受けしている代物の趣味が俗悪で軽蔑すべき質なのはいうまでもない。俗人の中でも最低級の審美的判断力しかもっていない人達は、ごく奇習的で悪徳に満ちた文物にたかっている。東京文化というべき同人誌とか、通俗的な商業音楽とか、アイドル文化等がそれにあたる。そして東京都民全般とか、無知な人が自文化中心主義的もしくは中華的な都会文化崇拝と対照させた田舎差別・地方文化蔑視を行っているとしたら、その人は二重の意味で悪徳的かつ、愚かしい。大衆性とは卑俗さのいいかえなので、人口が多い地域の大衆一般が好んでいる趣味は趣味全体の質に比べて低級な方に属するのだから、都会文化は一般に、人口が少ない故に少数の知識層に力がある地域の文化に比べ低俗なのである。つまり、東京都民や、嘗ての京都市民とかいった自称都会人ら全般は審美観や芸術的教養に関して、極めて思い上がって恥を売っているだけのことなのだ。恥知らずの都会人とは、彼らが責任転嫁する田舎上がりが落魄しきった成れの果てである。
 露悪的な衆愚の都会ずれに媚を売る外人、これも同然の莫迦でしかない。漫画やアニメが代表的で主要な日本文化だと思い込んでいるとしたら、それはその外人も低俗だからなのだ。現に、我々の暮らしている国のいずれの道府県、或いは市町村地域であれ、これらのサブカルチャーを下らない幼稚な物だとみなす考えが、一般大衆の中でさえ常識的なのだから。
 村上隆や奈良美智が高等文化の中にポップカルチャー以来の漫画的表現をもちこんだのは、欧米人の一部の中では突飛な事ではなかったろう。そこで問われているのは漫画的表現形式の再検討の方であって、漫画自体の分かり易さとか、卑猥さではなかった。少なくとも村上隆自身が半ば意図的にジェフ・クーンズ風のキッチュを踏襲しているのは、大衆芸術と純粋芸術の境界侵犯を目的としたスーパーフラット概念の実践ではあるが、なおも表現の上に低俗さ自体は残るので、彼の作品の一部がたちの悪い冗談と受け取られるのは後世にあっても否応ない定めであろう。要するに、奈良は退行的で純朴な意図から、また村上は卑俗かつ戦略的な意図から、それぞれアメリカにおける大衆商業美術の再検討というポップアート的解釈を、本国のサブカルチャーでも行った。と同時に、日本風の漫画やアニメの形式を欧米ハイカルチャーの場に持ち出すことで、越境文化的な民俗表現を行う結果になってきた。村上が新たな美術用語としてバブルラップをもちだし、民芸やもの派を一緒くたにしてしまおうとしたのは、戦後から平成までの民俗表現と国内的純粋美術をスーパーフラット概念の部分にしてしまおうという野心からなのだろう。
 私がここで言わんとしていることは、バンクシーがイギリス文化の中で行ったのと同様に、低俗または悪趣味さを含むサブカルチャーを、高等文化の形式にもちこんで再検討や大衆芸術との価値転倒を迫る、という彼らの流用のやり方それ自体は、バンクシーの全ての作品がそうなわけではないにせよ、私にとっては下らないということだ。つまり、この流用の中で或る再解釈や情報に対する価値づけの変化(哲学用語を援用すれば脱構築)を芸術的に与えて、何らかの知的おかしさとか、道徳性を喚起させる啓発的な表現形態が新たな二次創作物に与えられているのではない限り。
 彼らの行っているサブカルチャーのもちあげは、特定の美術用語が与えられるべき方法論だ。Lowbrowとhighbrowを文脈表現の中で行き来したり、両者を混交させたりする。私はこの方法を中間芸術と呼んでいいと思う。村上春樹もこの方法を小説の中で予てから使っている(ドリー『村上春樹いじり』で行われている揶揄や皮肉を含む批評は、春樹の真剣な純粋芸術的意図、たとえばマジックリアリズムや映画的端書の形式の中に、通俗的な官能小説とか、今日ではライトノベルやエロゲー(エロティックなゲームの略称)に転用されている様な卑猥な要素が含まれている、衒いの諧謔性を指摘したものだといえる)。いずれにせよ、私も以前はこの方法に一定の前衛性を認めていた時があったが、私なりに流用芸術の方法を試した結果、またこの小論の前半部で示した理由で中間芸術自体は質に劣るものと認めた。今の私はイマニュエル・カントが『判断力批判』の趣味論で述べていた様に、高尚さの中に道徳性を表現する事(もっとカント風の言い方では理念の直接的表現)がより高貴な仕事だと考える。そして特に、最も年少或いは幼稚な者へも理解できる表現を目指したコンピュータRPGを制作した経験が大きかったが、大衆受けを狙ったあらゆる表現は、この高貴な仕事の威厳や威力を弱めてしまうとわかった。
 プラトンは画家がイデアの影でしかない形を模倣するだけの存在と考えていた。またアリストテレスは形相(エイドス)の理論で形自体がイデアと一体化していると考えた。私は画業の探求中で、イデアを表現するのに、より純粋な抽象表現のみ、いいかえれば色彩のみを使う事で、現実を模倣した具象的もしくは象徴的な形を借りずにできると悟った。つまり、高等文化の名に値する画業があるなら、それは哲学に於けるのと同じ意味でイデアの探求、理想の探求そのものである。
 一方でこうもいいかえられる。サブカルチャーが低俗なのは、模倣的な文化(ゲルハルト・リヒターの言い方を借りれば、再現芸術)の残滓だからなのだと。そしてそこで再現されているのが、現実にあった事、ありそうな事の中でも俗受けする卑俗な興味(たとえば直接的な性欲の発露)であったり、喜劇性、すなわち滑稽味を催す誰かの愚かしさであったり、特に深い意味のない子供じみた何かの真似事だったりするのは、それら戯作者らの思想内容がその程度だからだ。表現形式は作者の思想に付随して進化すると仮定すれば、立派な考えの持ち主にふさわしい表現形態がおのずと選び取られる。宮崎駿がもろもろのアニメーション映画で表そうとした理念は、彼の初期作品である漫画(『風の谷のナウシカ』)での方がより直接的に感じられる。或る表現が現実の模写に近づくほど、理念の表現力は弱められるのではないか。子供は例え話によってしか、高度な抽象概念を理解したがい。この事は抽象性についての知能の発達を意味し、抽象度の高い哲学的・審美的な表現に関しても然りといえるのだろう。
 美学の発展は道徳的発展の一部だ。サブカルチャーや中間芸術の時代は、当代の通俗作家にとって有効な金儲けにはなったにせよ、通時的な道徳的啓蒙に何の役にも立たなかった以上、私の代から後には嘗ての流行として忘れ去られるだろう。

制作実況

成功者

自分が成功者だと思っている人は、成長が止まっているだけである。

不足

不足が豊かさを感じさせる。

2019/01/06

悪しき若害

人の為あるべきカネを引き合いに姥捨て進める悪しき若害

炎上ブロガー

搾取してカネをばら撒く悪趣味を炎上ブロガー賞賛しており

常磐道

常磐道
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日本の天皇制に適応した少子化と革命による共和政の樹立

自民の政治屋が権力を寡占し、薩長寡頭政やら天皇制による世襲独裁を延長させたいが為に奴隷化した信者(つまり日本国民一般)に子孫を殖やせと命じる。なるほど、この様な非人道国家体制が延長する意義も価値もないのは明白でしかない。その衆愚政の悪意に媚を売り、自らの搾取権益を拡大しようとする企業経営者やら株屋、取引屋、彼らに寄生しながら更なる経済弱者である清貧な諸職業、無職、NEETを差別したり攻撃して暮らす卑しい労働階級全般、この様な愚民らも同罪でしかない。だから少子化は、ゴータマ・シッダールタの考えていた通りの文脈で、文明化の必然として皇室を頂点とする支配階級の贅沢や一般国民の隷属的輪廻、即ち(吉田松陰が中華皇帝を援用し幕藩体制を否定する為に用いた一君万民論を理論的根拠とする)国民奴隷制を目指す悪意に対する適応である。
 この国に於ける階級制度は、永遠独裁の為に無限の自己崇拝を宣う教祖に納税を強要する邪教、即ち天皇制にぶら下がる諸信者を、天皇の為の神道政治に役立つ奴隷化の度合いで整列させているのだが、勿論これ自体が虚妄と悪意ある中華皇帝ゲームの模倣でしかなく、児戯に値する。自民党の神道政治屋共は単なる経団連企業と癒着した利権団体というだけでなく、国民全般の無知につけこんだ洗脳を狂信的に目的視している始末である。いうまでもないことだが、天皇は大量殺人と世襲独裁をくり返してきた極悪人の移民一族でしかないのだし、先住民弾圧をはじめとし国内外の諸民族、諸人類に与えてきた迫害と現在も続く搾取と言論・身体的脅迫や暴力を含む弾圧の激しさは悪の大魔王そのものでしかない。日本の先住権をもたない、弥生系移民として、天皇の歴史は縄文時代以前には何もないのだし、神道に於ける王権神授説自体は論駁するまでもなく幼稚な虚構である。
 日本国が真の共和国となり、国民自身による自らを含む諸国民の為の万民平等の新政府を、一切の天皇皇族の遺物なしに再開するまで、この国で先住権や移民の権利を弾圧されてきた諸民族、諸個人は何ら救われず、それどころか天皇が(違憲立法の退位法を強要したり、交通制度を破壊したり、国税を乱用しながら搾取し、国土を簒奪する様な)絶対権力を象徴という憲法上の偽装でごまかしながら保有し続けているからには、一般の日本国民には真の主権はないのである。勿論その様な基本的人権、たとえば経済的に無力な我々の生存権すら象徴天皇政による弾圧の前で保障されない日本人、或いは日本に暮らす諸国民にとって、この国は自民党という建前の組織に隠れて多数派の横暴による集団的暴力を振るう神道信者による不幸な体制足らざるを得ない。即ち平成時点の日本国は、個々人が天皇になけなしの税を貢納する為の奴隷化を免れない、自由な個人にとって地獄の地なのである。
 我々自身がこの国の生存で、政治的にも経済的にも最も救われ、最も幸福に、裕福になりうるのでなければ、どうして日本国民として生を延長する事が喜ばしいのだろう。天皇なしの政府が縄文時代以前の数万年にわたる真の伝統に基づく日本政府であるから、天皇皇族という侵略犯罪者らに歪められた体制を完全に破壊し尽くす事、後、米軍、GHQ、その他、政教癒着の悪しき神道勢力たる自民党勢なしの国民自身によって国民自身の幸福を最大化する為の共和国を建設することが、日本国を再生し、国政を経済的、文化的、政治的に正道に戻す唯一の道のりである。こうしてようやく卑しい差別主義の弥生民族宗教でしかない神道勢が完全に国政の全局面から打破され、諸国民に対する差別や、アイヌ、琉球・沖縄人、旧縄文人の末裔といった多岐に渡る国内諸民族、或いは経済弱者、地域差別を受けている田舎、田園地帯の住民、或いは天皇に洗脳された横柄で悪質な公務員から不利で不当な待遇を受けている人々、弱くとも善良な立場にある全ての人々が救われるのである。生まれ来ることが正義で、日本国民自身の喜びと幸福の享受、その増進に役立つ状態になってはじめて、解決されるべくして少子化はひとりでに解消する。搾取からの解放という、階級のない税の公平な再配分・調整を含み、国民の中でより不利な立場の者の幸福を最大化せんとする社民主義に於ける諸公徳(ロールズの正義)は、天皇皇族、薩長寡頭政の担い手、自民党員、これらの自称支配階級に国民全体の奉仕者たる立場でありながら自ら意地汚く臣従し愚民観を以て国民の自由を弾圧する官尊民卑の悪徳官僚・公務員らが絶滅してこそ、目の前に国民自身しかいなくなり政治上で国民一般の理解に遇するからだ。

神性

神性は理想的人間性をいいかえたものでしかない。この意味で、無神論者は最高善の探求を諦めたのである。

人格主義と理科についての批判的考察

人格主義(カントの定義した、人間を目的と考える態度)をもたない人は他人を多少あれ道具視しているのだから、単につきあうのに危険な人物であるばかりか、当人に致命的でないとき人を機械同然に傷つけ殺してしまう。ほぼ理科の教育だけを受けた人達の一部における道徳性は見るも無残なもので、良識を持っていないばかりかサイコパス同然の他害的利己性を知性一般と混同している場合さえある。理科の専門教育は、その基本文法としての数学も含め形而下学、自然学でしかないのだから、アリストテレスの分類にならって形而上学、後自然学としての諸社会学、そしてこれらの最終段階たる倫理についての学までを学習過程の中で必須としなければならない。前者(理科的知識)だけをもつ非人道思想の主が己の権威を諸学に万能と主張すればするほど、公害の度合いは増していくだろう。
 数理含む理科は道具的知性でしかなく、倫理学、芸術学、文学その他哲学の一切を含む社会科学(社会学)は目的の知性(感性についての系統的認知を含み、しばしば理性と呼ばれてきたもの)である。諸知性の中で最高の地位を占めるもの、そして目的性そのものである様な認知は、倫理や道徳と呼ばれる利他性についての知能である。人格主義はこの倫理観の中でも極めて基盤的な立場であり、或る人が人類愛に疑義を呈したとしても、その当為は社会を共同する諸原理の中でも王座の地位を維持している事だろう。

虚飾

愚者は物事を無意味に複雑にしたがる。それは虚飾が、同等以下の愚者を煙に巻ける為でしかない。
 或る人の仕事や肩書きが一目でわからないほど煩瑣なら、その人は器用貧乏の何でも屋なのが殆ど疑いようがない事実である。多角化し過ぎ複合企業(コングロマリット)になった経営のよう、虚飾もまた自壊の前兆である。

売名の時代の中で賢明さとはどうあるべきか

世俗で人気を得て金を儲ける、という目的で今日多くの人々がその日を費やす。だがこの目的がどれほど尊いというのか。
 人類が金銭を目当てに行動すると必ず恨まれる。それが有限な資源であればこそ、清貧が尊い。では彼らの俗受けを狙う言動の本質は、この金儲け目的の利己心とどれだけ違うというのか。
 マズローのいう所属や尊厳・承認、自己実現、或いは超越的な社会貢献いずれでもいいが、大衆一般に媚を売り、売名しようとする人達の本性は、自分より公益的であったり人格的に優れていたり、自分より賞賛を受けるべき人を知らない恥知らずさによっている。孔子の云う君子は人の己を知らざるを憂えず、がインフルエンサーを自称する下らない炎上ネット芸人ら、あるいは風変わりという以外なんの意味もないテレビ芸人らから最も遠い態度だ。
 我々はこれらの情報商人一般にかかづらうことなく、単に同時代にあって最も重要な知見を最重要人物らから見逃していないかにだけ注意していればよい。さらに、自己発信には人類の全体または部分に対する或る批判的・批評的な啓発という意味しかあるべくもない。啓蒙主義の目的が近代理性を宗教心に対比して示す、という合理主義からの余波にあったとすれば、今日、知識人は後真実や虚偽報道、或いは偏見に満ちた衆愚や権威に対置した哲学的洞察、つまり真理といわれてきた或る立場を人類に開示していくべきなのだろう。それは誤りや悪徳に満ちた人々とは異なる道筋を、少なくとも少数派の賢者らに知らせるためである。たとえその漸近的真理が確率的であったり不確定性そのものであったとしても、これらを認識していない人にとっては有徳な情報たりうるからだ。すなわち、我々は学会を含む世論に方法懐疑的となる程に、現代の徳を再獲得できるだろう。

2019/01/05

ばか女

卑俗なるものを尊いというばか女

跳躍都市群

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2019/01/04

権力握るサイコパス

嘘をつき権力握るサイコパス頭の片隅にもなき誠実

関西訛り

関西の訛りで読み辛きブログ

仮想の狂気

仮想の狂気
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2019/01/03

不幸の原因

我々の人生を不幸にするもののほぼ全ては、自分より人格的に劣る人間とのかかわりである。この意味で、自らの徳が高まるほど無用の人付き合いを避けるようになる。自分より人格的に優れた人をみいだせなければ、その人付き合いは不幸の原因となるだけだからだ。

幸福論

人生における主要な幸福は、自分より愚かな人、卑しい人とつきあわない事から生じる。

芸術価値

芸術作品の値段と、質や意義にはなんの相関もない。芸術価値はこの意味で、経済価値と全く別個である。

2019/01/02

知識と人徳の違い

何らかの知識を問う大学入試や学位の有無は、人徳の保障では全然ない。信頼に足る知識は客体的なものなので、その習得と人柄の悪さ、悪徳が伴う事例も多い。学歴差別による確証偏見は、自他にとって最悪の極悪人を選好してしまう事もある。特にサイコパスは良識を認知せず、仮に利用しても偽装の手段、つまり詐欺の手法としか認識しないので、学歴によって私徳も公徳も精査できない。
 諸知識と人徳に相関性もない。後者は主体的なもので、個々人に帰属する善意の習性や場合による総合的判断なので、試験によって程度を確かめえないのだから。

偽善と露悪の悪しき都民

沖縄の海を守れといいながら常磐の海を汚せる都民ぞ
東電も日本原電いずれもが都内の都民の会社に過ぎざり
茨城や福島青森新潟に大公害をまきちらす都民
偽善やら露悪をふりまき差別して邪教祖崇める悪しき都民よ
自らの金を儲ける為ならば国民殺して恥じぬ都民よ

共和政論

差別の病根である悪しき天皇皇族を永久に廃止し万民平等を実現する事が、わが国共和政への第一歩でなければならない。

上皇討伐

違憲なる上皇倒し邪教祖に法の尊さ教え進ぜよ

日立市

日立市
2019年
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私の理想画宣言

 西洋の絵画史は写真が出てきてから、何かを模倣するというアリストテレス以来の役割が破綻し、そこで抽象画というものがでてきた。つまり何かをまねしていない、絵にしかできない表現を、近代の画家は探求するようになった。第二次大戦があって多くの西洋の画家がアメリカに行ったころ、そこに抽象画の主要な人達も移動し、特にモンドリアンという人が抽象画の中では一番単純な方法(つまり、一番絵らしい絵)にたどり着いていた人だったが、そのモンドリアンがニューヨークで亡くなった。この後、アメリカでは抽象表現主義と呼ばれるようになる、多くの抽象画の絵描きが生まれた。
 ほぼ同時代にアメリカは庶民が中心の国なので、卑俗な広告とか漫画とかを美術として捉えなおすという、ポップアートという運動があった。
 村上隆やジェフ・クーンズ、バンクシーらもそこに乗っかって抽象画を否定する様な、ポップアートをまねる様な(スーパーフラット概念を含む)手法で自分を売っているわけだが、私がいいたいのは、この抽象画の伝統のほうが、本来の絵の伝統を継いでいる、正統的な表現で、漫画とか広告とかは、写真的な要素とか、何か現実にあるものを線描でまねた要素が入っているので、真の抽象画、つまり真の絵ではない。
 画家は絵画史の伝統を背負って、次世代にひきついでいく立場にある(私自身もその例外ではなく、特にモンドリアンという画家に影響を受けているともいえるわけだが)。ところで絵の本来の役割は、ある理想を視覚的に表現することで、人々に何かを伝える事にあるのだから(すでに現実を写実的に模倣するという役割は、写真で行われるようになったのだから、絵は、理想を直接表現しなければならない)、純粋に絵画的な要素、つまり何も模倣していないような色の面とか、色自体とか、ディスプレイ上の光そのものによって、ある展望を示さねばならない。それは私が描いているようなものでなければならない。つまり未来都市の展望だったり、現実の中にある、心象風景としてのみ捉えられるような美のかけら、幸福に関する認知能力を強化するようなものとか、世界を美的に見直すような視座だったり、ほか、理想的なものでなければならない。

My statement for the ideal painting

As the history of European paintings, since the photographs came out, the role of Aristotle which imitated something, collapsed. Where there abstract paintings came out too. In other words, modern artists began to explore expressions that could be made in the paintings only -- that did not imitate something. When World War2 was over, a lot of Western painters went to America. The main people of the abstract painting also moved there, especially then Mondrian's thought was the simplest method in the abstract painting (that is, the most painterly painting). He was a man who arrived at the modern basic, but that Mondrian died in New York. After that, in the United States a lot of abstract paintings were born to be called abstract expressionism.
  In almost the same era, US was a country with common people, so there was a campaign called Pop Art -- to recollect vulgar advertisements and comics as art.
  Although
Takashi Murakami, Jeff Koons, Banksy and others also sell themselves as a way to imitate cartoons, or they ride these pop art movements (include the superflat concept by Murakami), and deny abstract paintings more or less. What I would like to say is next that, this tradition of abstract paintings is more better. It is an orthodox expression inherits the original picture tradition. Because manga or advertisement, these like containing elements such as photographic elements, and imitation of something in reality by drawing, are not the true abstract painting. That is, it is not a true picture too.
  The painter, is in a position to take over the tradition, the universal painting history. And they have to show the way in the next generations. I am not exception, in particular I can say that I have been also influenced by a painter named Mondrian -- by the way, the original role of painting is to have an ideal.
Because the role of imitating reality graphically already has done in the photograph. The ideal must be to paint the idea directly, as to tell something for people via expressing it visually. We have to show some prospects by purely painterly elements, that is to say, color surfaces what do not imitate anything. Color itself, or the light itself on the display. It must be something I draw. In other words, it is a vision of a future city, a piece of beauty that can be caught only as a mental scenery in reality, such as strengthening the cognitive abilities of happiness, a viewpoint to review the world aesthetically, or something else.

2019/01/01

構築的展望

構築的展望
2019年
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科学という宗教について

各大学はそれぞれ宗教団体で、各学会はその部派でしかない。現時点でこれらの人々が信仰対象にしているのは、おもに実証主義に付随した諸信念である。これらの人々、大学人一般が自らの正当性を過信しているところは、他のほぼあらゆる宗教団体と変わるところがない。同様に、この大学に入るまでの履修課程を意図して形成されている高等教育学校、中等教育学校、小学校はどれも多少あれ同様の信仰を教え込む為の分派(sect)である。
 各人は既存の実証主義中心教義に懐疑的であるほどこれらの全団体に順応し得ず、それらの信者(教授、教員、学生、生徒、未成年者の親、親権者、保護者、及びこれらの制度をつくる政治家、官僚、公務員や同教育制度の妄信的信者ら)から部外者として扱われる。つまり科学は今日、国教の体を曝している。科学信者として既存教義を年齢に対してなるだけ幼い短期間に習得しているほど、その人の科学信徒内での地位が高くなる、という伝承体系は、極めて抑圧的で非人間的な制度なので、科学を国教化している(つまり政府が公教育で科学を制度的に教えている)国々のほぼ全ての民衆はこの宗教に感染し、学歴や学位、日本にあっては一律な年齢制限による偏差値教育による順位づけに従う事を強制されている。
 今日の知識人が少しなり知性を備え持っていたなら、これらの実証教の諸要素群自体に疑義を唱え、元々胡散臭いこれら大学体制群に表裏どちらでにせよ反旗を翻しているだろうから、この意味でマイケル・スペンスのシグナリング理論は狂信性を強化する謬説でしかありえない。いいかえれば既存の科学的習得度は知性のある型ではあっても、それはある命題、わけても自然科学的命題に対する真らしさを蓋然性としても多少しか保障していないし、不確定かつ虚偽に満ちていて、その命題が社会や人間に関する事にわたっては殆ど決定的ではなく、指導性をもっているわけでもない。つまり、大学的なあらゆる要素群は、科学についてのそれらと同様に、ある人について、ほぼ知性の保証ではないのである。

無私の愛

自己愛の延長としての子孫や血縁のある親族への愛は、真に利他的なものといえようか。そこに慈愛といいうるものがあるとして、自己愛の変形でしかないのではないか。
 真の慈愛は価値のないとされるものへも等しく注がれる愛であると同時に、無私の愛である。そして人類にとってはいうまでもなく、自己にとって有害なものへさえ等しく注がれる愛であったなら、それが真の慈愛である。だが慈愛、慈悲、アガペーなどの定義の中には、上述の子孫・血縁のある親族への愛、同胞愛というものが含まれているので、この無私の愛は慈愛の一部であるにせよ、新たに非自己愛的な愛として定義されるべきだろう。

文明

政府消え国民消えてその後に像のみ残り文明伝える

悪しき自民党

表現の自由によれる慰安婦像弾圧しける悪しき自民党

愚民の啓蒙と日本国の理想

中国が労働者の解放と資本主義のくびきからの自由という当然の理想を掲げて建国されているのに比べ、戦後の日本国は憲法上において古代中国移民(弥生人)の末裔たる天皇家、皇室皇族の醜悪な自己愛妄想に基づく世襲独裁制と、名誉ある地位という卑俗な目的意識しかもっていない故に、万国に無比の偉大な国たることはできなかった。そこにあるのは日本国民全般の政治哲学的能力の不足である。
 日本国民一般が小沢一郎氏が当為として主張するような二大政党制を理解できないのは、単純に政党政治や議会制多数政治の意味を理解していないからだ。そこに何か深遠な意味があるわけではない。同じ事は政教一致の天皇制や、退位法を天皇の命令で違憲立法させるような天皇の超法規的地位への無批判に関しても言え、それゆえこの国民は何の思慮もなく容易に天皇制ファシズムに傾く。要するに衆愚なのだ。日本国民一般は近代国家以前の政治的理解度しか持ち合わせていない。そこに高遠な理想などない事はいうまでもない。
 アメリカ合衆国がイギリス植民地政策からの自己解放を自然権を述べた憲法で高々と掲げてから、やがて太平洋戦争で旧日本帝国を降伏させるまで、彼らの理想は各国に重い影響を与えてきた。連合国に属した中国や、日帝の旧植民地諸国にとっても例外ではない。いいかえれば、日本は薩長寡頭政による侵略主義や天皇主権の帝国主義を経て本国含む各国に民主主義の反面教師としての役割を与え、戦後は中国に対して援助しながら弱肉強食のアメリカ流新自由主義政策を模倣する事で全世界の労働者にとっての悪例となってきた。このどちらの場面についても、天皇家・皇室皇族や日本政府は地球世界の中で悪徳を示し、各国がそのわだちを踏まぬよう悪しき先鞭をつけるという見るも無残な成果しかあげていない。
 日本国民一般の哲学的能力は殆ど未開人未満なので、そもそも彼らには理想といったものは存在しないのかもしれない。単に同類に群れ、しかも野蛮人のよう同類を搾取したり無意味に攻撃したりしてその日暮らしをしているばかりか、絶対権力や宗教権力を握っている独裁者らに情けなく媚びへつらうばかりで、自国より強大な軍事力をもつ米軍に対しては自ら属国たることを志願するほど主権に関する理解がない。情緒的で幼稚な、しかも悪意ある陰湿な衆愚、それが日本人とやらの殆ど全てである。
 この国で一人の哲学者として政治哲学の領域でなすべきことは、先ず高邁な理想を掲げ、全民衆をその当為に注目させることである。9条に掲げられた交戦権を否定する平和主義や、不文律としての国連主義は、先の大戦やそれ以前の薩長土肥ら西軍の捏造した明治政府による国内外への侵略という重い罪への反省から端を発したと、良識の面から解釈されてきたはずだったのだが、安倍晋三という長州閥の亡霊はその生来のサイコパスさや基礎教養と常識の欠落によってこれらの戦後の理想を全く理解しておらず、寧ろ戦前、それどころか明治時代の薩長テロリストらの単なる寡頭制に先祖がえりしてしまっている。この様な三流の体制を選択しているのも日本国民一般が、政治的理解度がなく、政治史に対する反省もなく、良識や良心が欠落している、ただ単なる利己的で低民度な衆愚である証明でしかない。だがたとえ民衆が愚昧でも、知識人諸賢までそうあるべきでは当然ない。却って彼らに理解の及ばない遠大な理想、資本による搾取からの解放、中国共産党のもっているその当為からも学び取るべきときなのだ。勿論、なおかつ平和主義や国連主義という戦後の王道を踏まえつつも。
 現実的に、社民主義のもっている再配分的・調整的な福祉傾向が、ますます政界に重きを持つように、我々は新政府を作っていく必要がある。しかし民間委託の合理性を顧慮して、最大限に政府自身の福祉事業の持分を減らしながらだが。
 民主主義という新たな理念の前で、政教一致の天皇制は不可能だ。この旧態依然の制度は破棄され、皇室を民営化しなければならない。そして小沢一郎氏の当為としてきた二大政党がまっとうに日本政治に根付くよう、根気強く愚民を啓蒙し続けねばならない。

反国民集団

原発立地自治体の国民を犠牲に、己の利権を無理やり推進しようとする安倍晋三と自民党は、独裁者に媚びへつらう反国民集団だと断定できる。経団連会長、日立製作所会長の中西宏明氏は、民間の営利企業の代表者であるにもかかわらず、国民全員の公害・公益について正しい理解をもって公共に利する発言や意思決定を行っているという点で、安倍内閣の全員よりはるかに優れた人物であり、国政に類する能力も高いといわざるをえない。公務員は全体の奉仕者で一部の奉仕者ではない、という日本国憲法15条2項を全く遵法できない安倍内閣は掛け値なく即座に総辞職するべきだ。

スーパーフラットの批判的考察、或いはグリーンバーグと村上隆

大衆は美をみいだしているのではなく、分かり易さ、つまり通俗性を選好している。大衆芸術は通俗度を競っている。ヒカキンや、オリコンとかビルボードの様な売り上げに基づくランキングに載る様な人々は、おそらくartistを自称しているが、その意味で大衆芸能を担っている。
 一方、オタク文化は少数派のみに受け入れられる様な、変態的な文物を選好している。そして正統的な純粋美術に見られるハイカルチャー(高等文化、上位文化)は、元々貴族的(追随者にとっては俗物根性的な)高尚さを理解し難さとして選好している。村上隆のいうスーパーフラットは、彼が精神的支柱としているオタク文化が少数派的である事と、ハイカルチャーの貴族精神を、日本文化の外にある人達、おもに欧米文化圏に慣れている人へ意図的に混同させ、村上自身の中途半端さ、つまりオタク文化の中での実力のなさと、欧米中心教義の中での高等文化内での地位のなさをごまかす装置として機能していた。くり返しになるが、オタク文化の変態性は、高等文化が理解に必要とする前提的知識の豊富さの為に貴族的たらざるを得ない事と、本質的に異なっている。更にスーパーフラット概念がこれらと混同させようとしていた商業芸術は、上述の大衆芸術をいいかえたもので、非売品の純粋芸術が作者の死後、競売にかけられるような場合を顧慮しても、商業性は芸術の本質とは何の関係もない。この事はポップアートが既に考察済みであった。
 私にいえることは、スーパーフラットという概念は村上個人の中間芸術性を彼が喧伝的に糊塗する為にもちだされた欺瞞でしかなく、その偽りがキッチュとかキャンプ(camp)といった、クーンズ以来のアメリカのポストモダン美術の流用(アプロプリエーション、appropriation)傾向と、村上自身の策略ですりかえられているのである。そしてこのスーパーフラット性は、西洋美術にとっても、日本美術にとっても伝統的なものでは全然ない。大和絵とか日本画とか、欧米に於ける漫画自体(comics)とそれらをメタ批評的に象徴化したリキテンシュタインやウォーホルの位置づけが、それを反証する。村上がこれら分化した美術傾向を擬似的に結節させる事で、欧米美術史や日本美術史に自身の名を刻もうとした戦略は、美術の多様性に対して有害に機能するので、遅かれ早かれ破綻する計画だと思われる。寧ろスーパーフラット的なものの現代性ではなく、日本漫画の美術性を真摯に問うという、嘗て浮世絵を西洋人が発見した時と同じ、ある種のオリエンタリズムの自己批評の方に、村上の美術史における意味がある。
 日本において洋画と日本画の便宜的分類が、画材の点でも主題の点でも有名無実化しているのは、たとえば日本で欧米人によって描かれた漫画絵風の油彩画をどちらに分類するか定められない事で明らかである。岡倉天心は日本画を定義する事で、Japanese paintingが世界史の中に独自性をもつよう企図していた。だが黒田清輝ら近代美術の追従者らはこの考えを退け、洋画(European painting)という、日本国民が描いたJapanese paintingの中に、模倣的な分類を捏造していった。村上がスーパーフラット概念で試みたのは、この両者の超克でもあったのだから、村上以後の日本、或いは東京の権威主義的サロン美術界(日展等の公募展団体や、美術手帳等の都内出版業界)は彼の存在を理解できず無視するか、その概念を消化して、機能していない二分類を単なる絵画に統一するかの選択を迫られる事になる。しかし、未来において国際的な経歴をもつ人が殆どになるだろうことに加え、画材もデジタル化した画像やアクリル、その他の新材料にほぼ移行していくから、ますます日本画と洋画は定義できなくなるだろうし、実質的にスーパーフラット概念が効果を持ちうる領分は、この日本に於ける絵画分類を統合する事に求まるであろう。
 小説の分野で村上春樹が中間芸術を推し進めた事も、視覚美術や絵画の概念を超えてスーパーフラット性に包括されるであろう。
 絵画史は普遍的なものであり、自文化中心主義を捨てた後の欧米美術史はアジアに於けるそれを小分類としてではなく全体の不可欠の部分とする事になるほかない。そののち、村上隆個人の中間芸術こそがというよりは、分類に頼らないあらゆる絵画そのものが評価の俎上にのることになる。たとえばパブリックアート(公共美術)の再解釈としてグラフィティ(落書き)を定義したバンクシーは、彼個人の意図とは別に、村上隆のスーパーフラット概念の恩恵を受けて美術史に接近している。だがグリーンバーグの提出した前衛性のみが、純粋美術の評価軸である事は変わらないだろう。なぜなら村上隆の行った大衆芸術からの引用、或いは商業芸術との協業は、欧米での展覧会においては日本からの文化的盗用を含んでいたにせよ、美術史にとってはウォーホルの行った流用の模倣でしかなく、そこに幾ばくかの前衛性があったとしても、グリーンバーグがとうに看破していたとおり後衛的なものに過ぎなかったからである。同じ事は中間芸術の作家としての村上春樹についても言えることだが。

三流国民の名誉獲得競争

原発の外部不経済、公害を少しも法的に内部化できない、三流で勉強不足の自由民主党と、その馬鹿政党を頼る三流国民。虚栄心ばかり肥大化した京都市民や東京都民の様な、醜悪な自己愛で、同国民を虐げて恥じない有害な自称愛国者の群れ。吐き気がする下衆な邪教国、政教分離すらできず、貧者から奪った大金で殺人教祖の愚かな儀式に浪費。罰当たりども。経済弱者を虐げる為には手段を選ばず、国内外への侵略戦争での大蛮行を自慢ばかりする脳科学者が当代の知識人ぶっている。
 成るほど、この様な愚劣で悪業に満ちた国民であるからには、勘違いした外人の賞賛が喜ばしいわけである。それは道化に泥を塗る様なものだから、恥の上塗りに有頂天になっている愚民は、自分達が何で褒められているかすら認知していない。外人は何も褒めてなどいない。正真正銘の三流国民を、さも優れた面があるかの如く、歪んだ情報で勘違いしているのだ。
 寧ろ現実はこれら三流外人の妄想癖の正反対にあるのだから、他人から賞賛を受けた時こそ、最も恐るべき災いがあるのは自明である。何も知らない外人だの無知な人が低俗な虚構のアニメ経由で憧憬する東京という退廃した貧民窟や、京都という性悪の密集した差別地獄を知っている人にとって、外人の風評がいかにあてにならないか、彼らの一流と思い込んでいる浮世絵がわが国の並の審美眼からしてどれほど下らないものか、そうであるからには日本という国自体がどれほど偽善的で、天皇皇族が悪魔的な極悪血族でその歴史観が欺瞞と悪意に満ち満ちて作られてきたか、全てを知っている側からすれば、全世界のありとあらゆる偽りの名誉を虚妄とみなすのが当然だ。憲法に謳う名誉を得る為の競争は幼稚で愚かな振る舞いでしかない。その種の卑俗な利己心は目的視されるべきではない。
 真の名誉は利他性のみに求まるので、我々の国の最終目的も、そこにあると考えられるべきである。自ら一流以上の国民でないとすれば、その様な人の属する共同体はどこも自己欺瞞に満ちた虚勢を張って自画自賛しているだけなのだ。いいかえれば、優れた国民はよもや自分達の欲望の開発より、他者の幸福を増す事のみに努力をするのだから、相対的に清貧を求めるだろうし、そもそも自慢の為の自尊心をもたないので差別されようとも謙遜をやめないであろう。その様な人物が一人もみあたりそうにない日本は、三流の国なのだ。

Minimalismと文化資本について

必要最小な暮らしは殆ど人を発狂させる為にある。美術におけるminimalismが人生の様式として、家具や建築様式に採用されると、そこは監獄の様に人の精神を追い詰める。絶えず反復要素だけの単調なテクノ音楽だけを聴いて暮らすと、人は生きた心地がしない。
 新自由主義下で貧窮した都会人が、自ら装飾的要素になる一切の余裕をもたないが故にこの美術様式を生活化している時、その人は文化的貧困の中にいる。
 これにまさって文化資本に欠けているのが金儲けしか頭にない成金達である。ITや個人投資の発達がもたらした新富裕層は、蓄財を目的視した純資本主義精神の信者なのだが、そこで収集対象になっているのは信用貨幣と有価証券の絶対量であり、いいかえれば有限で必要な資源を独占するゼロサムゲームの赤い海を渡っているに過ぎない。そしてこの種の成金らは貨幣で計量化されない文化資本を無視する癖をもっているので、永久に囚人にまさる暮らしはできない。無論、我々が文化資本と呼んでいるものの実体は、この交換不可能で金銭化され得ない絶対値の中にあるのだから。

仕事について

同時代に三流の文化人しかいない、といって嘆くな。どの時代でもそうだったのだ。己自身が俗評に惑わされたり、大衆の無意味な動向に左右されたりしていないか、下らない三文批評屋の売名に付き合わされたりしていないかに注意せよ。
 どの国どの地域どの瞬間にあっても、低俗で悪徳に満ちた取るに足りない愚物連中に囲まれているというこの種の状況は同じだったのだから、そこで重要なのは自分自身が偉大な成果をあげているかに注力する事で全てである。
 自らが聖人を超えた者でなければ、一体誰がそうなりうるというのだろう。

知識を信じる人

知識を信じる人は自然をそうする人に劣る。知は自然の移り気な解釈に過ぎず、自然だけが変わらない。
 科学信者、何らかの実証的根拠を担保にした実証主義信者は、本質的に宗教家と変わらない。
 自然は道徳をもたず、社会は道徳のみによって文明化するので、科学に長けた人はそれだけでは人格的存在ではない。

あしき愚民

金儲け格差を広げ貧困を虐げ格差の象徴の天皇に貢ぐあしき愚民よ