2018/11/30

学ぶべき事

だれとも争わず生きる知恵が、この社会で学ぶべき事だ。

2018年11月30日の絵画

赤い谷間
2018年
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モザイクの雲
2018年
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曇りの日
2018年
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青を抱く赤
2018年
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2018年
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2018年
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闇と壁
2018年
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オレンジの平面
2018年
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空気
2018年
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2018年
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赤い十字架
2018年
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2018/11/29

商売と芸術

金儲けは何も生み出さない。単に市場に流通している限りある金銭をより多く奪うだけだ。商売は根本的に非生産的で、搾取的である。商人をCreator(クリエイター、創造主、創作者)と呼ぶのは、これゆえ比喩としてさえ根本的に誤っている。
 また諸々の職業の中で芸術家のみが神の模倣者としてクリエイターと呼ばれるにふさわしいが、市場に商品を供給している製造業者らは本質的に芸術の為の芸術を作っていないので芸術家というよりは職人である。純粋芸術家のみが、本質的に無価値と見なされる素材から、その独創的な組み合わせによって重要な価値を生み出せる。
 商売はゼロサムゲームで参加者がふえるほど一人を除き全員が困窮するしくみになっているが、芸術はプラスサムゲームで参加者がふえるほど創造性がまし全員が得をする。市場で取引される商材のうちでさえ、商売と芸術の混同を避けた、純粋かつ独創的な芸術にのみ、本来の価値が宿っている。希少価値という意味でそれがこの世で最高の価値をもつものだからだ。

資本主義の批判

動物らは同類を搾取する為に最大の力を使ってはいない。資本主義社会が付加価値という名分で搾取の罪を生産性といいかえて同類に対する悪意を最大化する組織なのは、この思想の信者らにとって不都合な真実だ。そして資本主義は単に同類への悪意を目的とした過当競争の為の考え方なので、信者を一様に不幸にしていく。利潤の際限ない核大で羨望や嫉妬をどれほど集めたところで、やはり同類から憎しみを買うばかりだからだ。
 人類全般は、資本主義を信じるべきではない。資本主義の完全競争市場への理想を無政府的な極論にした自由至上主義についてもこれがあてはまる。これらは人類への悪意を正当化する邪教でしかない。我々は資本主義や自由至上主義が世界に不幸をふやす為の考え方だ、と再認しなければならない。

2018/11/28

2018年11月28日の絵画

雲の上の景色
2018年
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磯原の海 2018
2018年
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絵画史の現実性
2018年
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一流、二流の差

この世では一流以上の人間のみに学ぶ事が重要だ。二流、三流以下の人間には彼らに固有の考え方の癖があり、その種の癖は一流以上の人間とは明白に違う。そしてその癖が彼らを一流以上の人間には永遠に近づけなくしている。寧ろ二流以下の人間は、一流の人間が彼ら自身と異なっているだけで気違いと見なしたり、何がある本質的評価の判断基準になるか知らないので単なる凡愚と見分けられない事も往々にしてある。いいかえれば二流以下の人間に学ぶ限り一流以上になる事は凡そありえない。

学歴と賢愚

学位、学歴は得た知識の特殊さを示すだけで、賢愚一般と何の因果関係もない。

愚者の話とSNS

自分より愚かな者の話を聴くのは、百害あって一利もない。だから愚者の相談に乗ったり、愚者に話しかけられる時間は完全に有害だ。衆愚が群れている大衆SNSや掲示板はこの世の地獄と等しい。金儲けの為にその種の地獄を作っている愚者もまた地獄におちるであろう。卑しさが道徳に関する愚かさの一種とすれば、卑人は衆愚にまぎれている。

2018/11/27

内的目的

人は内的目的を追求すべきで、周りの意見に耳を貸してはいけない。内的目的が達成された人は至福に包まれているが、他者の意見に従った人は結局他人の目的を肩代わりされるだけだ。しかもその他者は凡そあなたに感謝しない。そもそもその他人による意見は、あなたの内的目的以外をめざした忠告やお節介、或いは中立的で適当な意見、誤解、最悪の場合はただの悪意かもしれないからだ。
 同様に、誹謗を趣味にしている人々はそれを負の内的目的の為にしているので、誹謗をする人のみに原因があってされる側には何もないであろう。偏見、差別、加害行為としてのその他の悪意についても同じ事がいえる。その種の負の内的目的をもっている人は迷惑な人、もしくは犯罪者であり、当人の内的目的を改造するしか救われる余地はない。これらの迷惑者に被害を受けている場合、速やかにその人との縁を切り、さもなくば法に訴え或いは法をつくり事態が解決されねばならない。

政治的中世民度の日本

司法やマスコミ、ネットを含む情緒的世論において疑わしきを罰する日本人らは中世程度の政治的民度だという事はまちがいなく、国連に指摘されるまでもなく差別制度の名残に過ぎない天皇ならびに皇室を政教分離せず象徴として仰いでいるのでもそれを再確認できる。日本人一般は容疑者という無罪の者への魔女裁判をなんとも思わず、有罪未然の者を閉じ込める留置所を代用監獄にしている人権侵害国家という国際的批判の尤もさは語るまでもないし、首相の不正は忖度という謎の悪意で隠蔽してしまいさえするのだ。同様に、日本人一般に政党政治は理解できていない。だから一党独裁あるいは寡頭政を多党政や二大政党政より優先しているのである。勿論、彼らに国会は形式や建前としか理解されておらず、議会主義はない。これゆえに多数政党の横暴、いわば衆愚政が少数意見の尊重という基本的な多数政の意義より優先されているのだし、監視機能としての二院制における上下の多数政党が違う事を否定的に解釈しねじれと呼んでいる。また日本人一般は多数決の原理を正義と混同しており、少数者が正しい可能性を完全に無視してしまう。これらの数々の低民度より更に驚くべき事は、日本人民衆は言論の自由を理解してさえいないので、当時の政権に対する批評を己の意見と違うというだけで全く無意味に弾圧して平気でいるし、それをファシストそのものであるサイコパスの自民党総裁兼首相(安倍晋三)が報道機関に圧力を加え具体的に行いさえしている。この人物が立法府と行政府の長を混同しているのは、単に愚物であるというだけでなく、その種の愚物を総裁に選出してしまう自民党員ならびに自民党に投票した日本人らに、中世程度の政治的理解度しかないからである。だから日銀や年金機構が日本株を寡占し、事実上の国有化による共産主義政策を実行し、或いは日夜市場干渉で自由市場の効率性を損なっていても疑問にも思わないというのは、日本人の政治的民度が低いから、としかいいあらわしようがないものだ。
 これらの驚くべき欠陥、近代未然というほかなく恐ろしく低い政治的民度が、日本人一般を、場の空気というその場その場での多数世論のファシストにしている。この様な落ち度を改善する方法について、日本の知識人らは真剣に考慮し、教育及び啓蒙上の工夫を可能な限りくり返さねばならないのだろう。

反面教師

同時代、同じ国に自分より卑しい人が大勢いる、ということは、それだけ反面教師が多いと解釈されねばならない。

差別と偏見の自害性

差別主義者は常に当人が損害をこうむる。我々が学問から得られる重要な効用の一つが偏見の解除だとすれば、偏見を極端な形で用いる差別から受ける悪疫を、真理や当為はできるだけ避けられる。
 差別はする側、偏見はもつ側のみに悪因があり、差別される側、偏見をもたれる側には全くない。これらは思想の犯罪であり、その加害行為は単に他者への有害さのみならず、当人の認識的錯誤によって加害者自身を破滅に至らしめる。
 差別され、偏見をもたれたら、それをしている側のみに責任があると弁え、速やかに加害者らから離れるがよい。差別主義者、偏見持ちを正そうと考えてはならない。差別・偏見の解除費は被害者が払うべきではないのだし、仮に啓蒙に努力しても差別主義者、偏見持ち自身が反省する事は殆どありえない。なぜなら元々これらから自由になろうと努め、日々、自らの認識の過ちを反省している人にとって、差別観を示したり偏見をさらしたりする事は自ら恥をさらす事、及び当人のみに悪果が及ぶ罪業に他ならないのだから。
 全人類の意見が常に一方的である事も先ずありえない。したがって差別や偏見をもたない人々は主に比較的善良な人々、または利口な人々であるから、その様な善人らに交わる事が、被差別者や偏見をもたれている側にとって例外なく有利有徳である。

2018/11/26

2018年11月26日の絵画

夢を追う獣
2018年
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経営学

貧しさと尊卑、豊かさと尊卑には有意な相関がない。いいかえれば、貧富と尊卑は異なる人的価値である。これらに加え、賢愚一般もこれらの価値との間に有意な相関がない。
 学歴主義者はこれらの価値を学閥、非一律条件下の教育課程を通じ偏差値入試を経た前提、学位などで単一指標によって同時的に測れると考えているが、それは元々誤った前提に立って、因果の相関性を誤認しているからである。例えば貧富は商才に(厳密にいえば相続や資産の運用益を含むので、一代の資本利益率といいかえるべきだろう)、尊卑は徳性に、賢愚は知性に相関しているが、これらの間には何らかの副次的要素による擬似相関しかない。つまりロンダリングを除く学歴で測りうる特定知識の有(しかし学歴のない者が同知識を有している事を排除できない)は、その学位や試験で問われる知識の有しか示さない。マイケル・スペンスのシグナリング理論は特定又は一般的商才の検査を擬似相関関係しかない学歴で外注する誤った費用削減を合理化しているだけなので、根本的に認識の錯誤によっており、学歴を前提とせず商才自体を問う特定の実施検査(OJTやインターン等)に比べ、成果をあげられない。
 我々が富んでいて、尊く、賢い様な人物を見出す事は、傾向的にさえ難しい。しかし、貧しく、卑しく、愚かな人物は、一般大衆をみれば容易に見出される。いいかえれば、富や、尊さや、賢さは希少価値である。同様に、商才はそれ自体が希少価値であり、既存の富(資本利益率を除く)、尊さ、賢さと相関している訳ではない。一般的に愚かと思われる人物ですら、その他の人より商才を持っている事が大いにあるのは、商才に関する知能は一般的な認知能力と異なるからだ。また富裕な生まれの者に商才が欠けていれば、資本利益率という意味で富は流出していく。

鈍感

鈍感な人間は魂が入っていない様なものだ。

哲学と諸科学について

哲学とは学問の総称であり、知恵を友愛するというギリシア語philosophiaの訳語だから、これを特定の学野と勘違いしている人は単に語源からくる定義を知らない。自然科学や数学の一切も哲学の部分でしかない。
 一部の実証主義者が形而上学、後自然学を無用の長物と悪罵している理由は、これらの人々がコペルニクス的転回以前の哲学的認識しかもっていないからである。いいかえれば倫理的認識は当為を追究する理想的、観想的、総合的な働きであり、形而下学、物理学に見られる既にある自然現象を分析したり、その法則性を応用して将来を予想する検証作業とは学問の方法が異なっているのに、後者の一部の根拠となっている実証性を、当為についてもあてようとしているからだ。つまりその様な人は認識が混乱しているに過ぎないし、自然学を含む学究作業というべき形而上学に関する認識が不足しているだけなのである。この様な認識上の錯誤は儒家と法家の対立の時代から程度こそあれみられたが、コントの定義した実証主義以来、特に自然科学者における誤認は専門分化の深度と共にますます混迷していて、不道徳さを正当化するところまで行き着いている。技術が非人道的な結果や公害を大いにもたらしているのは、自然科学者や工学者らに、あらゆる科学的認識を含む形而上学の意味を認識する能力がないからだし、哲学からはじめ哲学で終わる、という根本的な教育のよさが見逃されているからである。
 科学とはラテン語における知ることの意であるscireから派生したscientia、即ち知識の意味をもつラテン語の和製漢訳語であり、本質的に知恵を友愛するという態度全体を示す哲学と異なる部分を持つ定義をもたされているものではない。科学は哲学の部分であり、哲学は科学の総称だ。倫理や心理、社会についての学は自然についての学の後に形而上学と呼ばれてきた分類に属し、決して哲学のみに属するものではない。あらゆる科学を前提知識として必要とするという意味で、最も高度な学問段階に属する倫理学も知識、即ち科学の一部だからだ。そして信仰に関する思想史の一部という意味で、宗教学は倫理学の一部である。つまり宗教は知識、科学の一部であり、科学と対立するものではない。宗教学は他の形而上学と同様、必ずしも実証的でなく、当為的な部分が含まれているだけである。

結束の解体について

自分より愚かな人は何らかの認識の過ちを犯しているのだが、外部からそれを伺い知るのは難しい。自分より卑しい人は、倫理的認識に関して同様の事を犯している。このため愚者や卑人の問題を解決してあげようとする事は、ごく難しい。愚者が愚かなほど、卑人が卑しいほどそうである。SNS疲れや人間関係への嫌悪が起きる最大の原因が、この認識の誤りを犯している人達との接触である。それらの人々が犯している誤りは、彼らが愚かで卑しいほど増幅し、認識における混沌度をましてしまう。いわゆる衆愚、暴徒が生じるのもこの様な原因によっている。
 有害とは言いがたい少数派への弾圧を起こしているファシスト集団(結束主義者の集団)にあって、虐めと呼ばれる集団迫害が起きるのも、認識に関する錯誤が極端に触れた時の現象といえる。イエスの磔刑がその記念碑的な象徴だった。
 個々人のみならず集団全体にとっても重要なのは、愚者や卑人の結束を解く工夫にある。それは内集団ひいきによる認識の過ちを増幅させようという有害な期待に原因があるので、内集団のいずれかに外部的認識の利益を示すか、内集団のいずれかの対比的な有害さを外集団に対して示すべきだといえるだろう。逆に、真実や合倫理性が内集団に何らかの不利益をもたらす様な場合、速やかに内集団を離れるよう自他に促すべきだろう。

属人性、属事性

学問の中身、つまり或る知識や認識の重要度が、学位、学歴、権威等それを述べた人の属性(属人性)で偏見を与えられる、という後光効果を無意識に採用している人は、いうまでもなく真理にたどり着けないだろう。属事性が適用される事柄であるからには、学会や賞、論文掲載媒体の権威、学位、その他の属人的要素を学問への評価にあてている全ての愚者は、偏見に囚われ真偽を程度あれ間違えている。

文化圏と信仰

九州地方からSNS上でコミュニケーションをはかっている人々に対して、野蛮だという印象をもつことが私個人は多かった。特に礼儀作法がないか、行動を絶対化し理論を軽視する人々が殆どなので、知的・倫理的な面で幼稚であるか野卑であると感じた。ある長崎の人や或る福岡の人も、ほぼ同様に九州地方の地元人らについて評していた事もあった。
 この経験的事実を確証偏見をできるだけ避けながら検証すると、そこで接した九州地方の人々のもっている文化慣習上の傾向は、少なくとも私が首都圏や東北圏で経験してきた礼儀や倫理、知性に関する評価機軸とは大きく異なっているのかもしれない。したがって九州地方の野蛮さと感じる言動の傾向とは、異なる文化圏に属する人々に特有の慣習がある、と捉える方がふさわしい分析だといえる。
 大分出身の福沢諭吉の『脱亜論』や、九州に接する山口県出身の吉田松陰の『幽囚録』は人種差別や植民地侵略を説く点で、今日の目からも野蛮さの一種とみなせる。構造主義の観点から、これらの考えが九州文化圏に与えている影響がもしあるとするなら、彼らの行動様式を背後から縛り付けている信仰とは、当地で敬われている類の宗教家、思想家、哲学者、倫理観念に根拠をもっているのかもしれない。
 或る福岡の人は、弱肉強食を正義と混同していた。この様なマキャベリズムが当地でやくざの多さ等に現れているとしても、その背景には明治維新時の反政府テロ活動が政府の乗っ取りとして成功体験と捉えられている歴史解釈に問題があるといえるだろう。

卑しい人達の集まるSNS

卑しい人達と関わりあいになった記憶は心を痛めつける。だから卑しい人の集まる場所に近づくな。SNSや掲示板などのインターネット上のやりとりの道具は、多くの場合苦しみを増す。
 卑しい人とわかった相手とは縁を切る必要が絶対にある。その人との関わりは害悪しかもたらさないからだ。慈善や慈悲を直接、その卑しい人に向けてはいけない。相手は害他的なふるまいをなんとも思わないからだ。

利己心の帰結

利己的な目的(例えば愛国心)の為に権力者になった者は、最大限の憎しみを買って終わるのだ。

賢さと教養

自分が賢いと思い込んでいる愚か者は、辺り構わず恥を撒き散らしている様なものだ。教養の与える効果として最も優れたものの一つは、ダニング・クルーガー効果で見られる様な際限のない謙虚さだろう。実際、科学的見解は全て信憑性に多少の差がある仮説の集まりでしかなく、実証的に真理を知ったと述べている者は自らの愚かさを吐露しているに過ぎない。

2018/11/25

罪悪感の束

人を傷つけて楽しんでいる人の中には罪悪感の束が宿り、やがて身を損なう。

野蛮人

野蛮人は人を傷つける事をなんとも思っておらず、ひたすら利己的である。野蛮人は先進国の内部にも大勢いて、インターネットを介して赤の他人を誹謗中傷して回っている。野蛮人は差別をなんとも思っていない。野蛮人の中にはサイコパシーが潜んでいる。

幸福論

自分より卑しい人との接点が、この世で最も有害な経験である。その様な機会を完全になくす事が、幸福に生きる最終的な手段だろう。

2018年11月25日の絵画

さみしさ
2018年
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蘇生
2018年
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言葉であらわされる筈もないもの
2018年
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終わりなき旅
2018年
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2018/11/23

2018年11月23日の絵画

幸福
2018年
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とわ
2018年
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宇宙史の1ページ
2018年
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宇宙開発と人類の野望
2018年
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赤い海
2018年
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軌跡

迷うことなく続いていく一本の軌跡が見える
何もかもがそこに乗っている軌跡
人類がはじまる前から続く
おわっても続いてくこの軌跡を
僕はひたすら描き続けるのだろう

2018/11/22

2018年11月22日の絵画

迷える子羊
2018年
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時代の足音
2018年
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学ぶ訳

我らはあらゆる差別と偏見から自由になる為に学ぶ。

2018/11/21

2018年11月21日の絵画

未来都市
2018年
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さざなみ
2018年
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赤と黒のアクションペインティング
2018年
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時の中で忘れられていくもの
2018年
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魂の群像
2018年
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白い線
2018年
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黒い水平線
2018年
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生の悲劇
2018年
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星を繋ぐ力
2018年
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町の明かり
2018年
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2018/11/20

言語芸術について

言語という道具による創作性を否定する者は言語を捨てて生きるべきなのだが、言語知能が当該言動の創作者に比べて低いほどこの様な態度に陥り易く、行動主義者が言語を行動の一種と見なすのは困難だろう。だが我々が生み出した言語の一切は芸術と見なされうるし、合目的にその質が問われるべきで軽視されてよいものではない。

情報量の価値

単に情報量をます為に我々は生きている訳ではない。では、情報産業の価値とは何なのか。有用性の高い情報を生み出す為?
 世界を縮約して表現する情報を、我々は思考のネゲントロピーをますべく選好する。情報産業にできる最高の価値の提供もそこに求まるとすれば、大衆的情報、人気のある情報と、知的な情報に違いがあるのはなぜなのか。量的功利主義的な情報は、質的なそれに劣る?
 賢者にとっての有用さが愚者にとってのそれではない。情報量についてもそうなら、数学的科学の様な単純な原理に則って構築される体系が、基本的規則を知らない人に分かりづらく感じるのはなぜなのか。わかる為に前提とされる知識が少ないほど情報量が大きいとすれば、喧伝と専門性はなぜ違うのか。
 専門性の高い情報は、或る分野に体系的知識をもつ個人にとってネゲントロピーが大きい。この事の特殊性は、外部者にしばしば賢さと誤認される。賢さというよりそれを好んでいる個人にとっては有用性の選好でしかない。
 賢愚の差は、客体的には、基本としてこの様に認知されている。しかもある種の個人は、自分に理解できない体系をもつ専門性を愚かさとしか認知していないが、これはソクラテスの時代から真の愚かさと定義されてきた。その様に真に愚かな個人は現実には相当少ないとしても、自分自身が多少あれ似た過ちを犯していないかにはどれだけ注意深くなっても足りない。
 専門性、即ち特定の体系的前提知識を前提としない情報は単に喧伝的な有用性の部分でしかなく、少数の賢者にとってのみ有用な情報に対しては常に冗長過ぎるので価値が劣るだろう。こうして、情報産業における価値は主観的なのである。

偉大

自分ひとり偉大であればよい。それ以上を望むのは、つまり他人に偉大さを求めるのは、贅沢というものだ。

絵画論

絵が何かを生み出せるという妄想。絵が何もできないという妄想。どちらも完全に的外れ。絵は絵にできる事ができる。しかし絵を描く人にはそれで十分すぎる。

2018年11月20日の絵画

痕跡
2018年
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作家蔵


緑の絵
2018年
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黒い板
2018年
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自由になる為の絵
2018年
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青と光
2018年
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隠された地平線
2018年
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お休みの絵
2018年
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垂れた雲
2018年
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バナナ色の休日
2018年
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星降る夜
2018年
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色の集まり
2018年
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イメージ構造をつくる為の地平線
  2018年
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 二つの印
2018年
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卑しい人間達
2018年
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渚の音
  2018年
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降り始めた雨
  2018年
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桃色の雲
  2018年
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水色の水平線
  2018年
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  2018年
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深海
  2018年
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木漏れ日
  2018年
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模倣された美術史
  2018年
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生物の原理
  2018年
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黄色い窓
  2018年
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