制作実況

2018/10/17

資本主義論

資本主義者は付加価値と呼ぶものを、共産主義者は搾取と呼んでいる。これを資本主義者は善と考え、共産主義者は悪と考えている。搾取とは、マルクスが『資本論』で説明した概念で、経営者なり資本家(株主ら)が、労働者に働かせて、労働者が稼いだ額の一部を抜き取って懐に納めている、ということを指す。英語でexploit、搾り取るという意味なので、日本語で、搾取と訳している。しかし、資本主義者は、これを企業が労働者なり消費者なりから、原価以上を稼いだ証拠と見なし、付加価値と呼んでいる。つまり儲けとみなしているのだ。 
 私が疑問なのは、商売は自己利益を含む振る舞いなので、真の善ではないのではないかということだ。他方で、デリダというユダヤ系フランス人の思想家は、商売を善と見なし、相手が何か奉仕されたお礼を省略する為にカネという対価をもらうのだといった。それで商人階級でうずめられた東京都民は、食べ物を残して捨てても、後悔しないし、吉野家で牛丼だされても、金払ってるから当然だという態度で感謝もしないことになる。その上、農民蔑視を始める。なぜなら「付加価値」の低い仕事を見下すからだ。最も付加価値が高い仕事は、資本家、投資家、経営者、或いは皇室のいずれかなので、これらの搾取をうまくやっている人達を尊敬しだす。商業主義というやつである。芸術にもその影響は及び、売れているものをよいものとみなしだす。
私は労働者が、画家を差別してきたので、資本家になろうと考えた。資本主義は労働主義ではない。資本主義は上記の「搾取」「付加価値」を目的にするものだから、労働一般はそこでは価値が低い行動になる。労働主義とは、労働を目的にする思想を指す。日本人の一般大衆が信じている思想である。日本人は労働主義者ではあるが、資本主義者ではない。だから安倍政権が、反資本主義的な政策をしても容認している。また、しばしば金持ちを蔑視さえしている。蔑視というよりねたんでいる資本家になる事を拒否している。労働主義とは、おそらく、天皇制に洗脳された人々が、天皇の奴隷となる事を自己容認するための思想なのだろう。日本政府が、文科省や文化庁を通じ、日本国民に教え込もうとしている思想は、この労働主義である。彼ら日本人衆愚は無知な群集の一員になる事、自分が日本国の多数派に紛れ込む事を安全策と考えていると見られる。労働を金もうけの手段として容認しつつ、金を無限に儲ける事を目的にしている。
 仏教は乞食を是とするので、本来は非労働主義である。京都の坊主が投資始めた、というニュースからいえるのは、金もうけする坊主と言う時点で、京都の仏教界は腐敗している、または変質しきっている。仏教の世俗化はいいとして商売が善なのかについて真剣に分析できていないからそういう問題が起こる。労働主義というのは、皇族が安定して税金を搾取する為の洗脳だ。 
 スーパーがなくなれば商店街がもどる。またはアマゾンのような通販になる生協もある。要するにそこでけちをしていると、大手が儲け、その大手が儲けた分を更に皇族が搾取する。生協は協同組合なので、営利企業ではない。協同組合とは、構成員が全員出資する組織。協同組合は搾取・付加価値が目的ではない組織だから、労働者と経営者(資本家)の区別がない。全員が組合員なのでその協議で給与を決めている。
 労働主義というのは、皇族が安定して税金を搾取する為の洗脳だ。つまり日本国民一般は、労働する事を是としているが、それは皇族の資本家としての地位を確固たるものとする為の手段でしかない。資本主義の中では、皇族と、その他の資本家は競合している。皇族は自分の組織に暴力を集め、政府と呼ぶ徴税組織を形成している。いわば日本最大の暴力団が、皇族閥、つまり日本政府である。皇族以外の資本家らは、この徴税組織と戦っている事になる。自由至上主義(リバタリアニズム)は、この様な国家政府という敵と戦う為にでてきた思想と言っても過言ではない。ところが、民衆は政府の暴力に怯えるばかりか、自ら政府に依存しているので、自由至上主義者らを脱税していると非難している。
「働く」と「労働」は違う。労働しない、と働かない、を同じ意味で使っているとしたら、間違っている。労働とは経済学用語だ。労働とは、被雇用者の賃金労働に当たる語彙だ。働くとは、一般に人が何らかの労をとって、行動する事を指す一般的語義だ。どちらを指しているのか。働かないというのは、上記の言葉の定義によれば、何もしない怠けをさす。労働しない、というのは、資本家その他の様々な仕事をする人にも当たる言葉だ。言葉を正しく使わないと、誤解を呼ぶばかりか、伝えるべき事を伝えられない。特に、専門用語は誤用してはいけない。専門用語には、特殊な意味が与えられているからだ。
 民衆は政府の暴力に怯えるばかりか、自ら政府に依存しているので、自由至上主義者らを脱税していると非難している。つまり民衆は、皇族による搾取を、自由至上主義者による本来の資本主義秩序より、正しいと思い込んでいるわけだ。ところが、資本主義の本質によれば、完全競争市場に至ったとき、需給が最もよく満たされる。皇族による搾取を、政府による市場干渉といいかえてもよい。政府による市場への干渉度が激しくなるほど、資本主義的な善、いわゆる需給の一致が難しくなる。今日の世界情勢において、最も大きな争いは、国の政府(日本においては皇族の支配する暴力組織)と、自由至上主義者のめざす資本主義的世界秩序の間の争いだといえるだろう。
 自由至上主義を、本質的な意味では、資本主義といいかえることができる。資本主義を世界規模で、脱国家的に再認識させる語彙として、自由至上主義という専門用語がつくられた。そして資本主義の秩序は、グローバリズムを当然含み、国民国家の枠組みを超えていこうとする。しかし、我々が「右翼」とか、「ネット右翼」とか、「ネオナチ」とか、「愛国主義者」とか、「保守主義者」とか呼ぶような一部の民衆、おそらくこれらのひとは衆愚なのだが、これらの人々が資本主義に対して抵抗を試みているといえるだろう。
 他方で、資本主義は微視的に格差を拡大する傾向をもっている。ここでいう微視は、国内単位でみると最もよく見えて来る。国内で、いわゆる相対貧困率が上がる傾向があるわけだ。その逆に、巨視的な単位、つまり国際単位、地球規模では、資本主義秩序は格差を縮小する傾向をもっている。現に東南アジアや中国と、日本の間で起きている事は、他の途上国と先進国の間でも起きるであろう。相対貧困率を下げる(これは国連幸福度によれば重要な施策だ)為に、政府という徴税の暴力組織が民衆によって頼られていると言える。だが、この国家規模の暴力組織、政府が、国際単位で自国第一を主張しだすと、上記の世界規模での格差縮小に反作用として働いてしまう。アメリカ政府が今日の国際秩序に対して、有害なふるまいをしていることがその一つの例示である。
 まとめると、
1.国内的に政府は、徴税と調整(再分配)によって格差縮小の機能をもっている。
2.国際的に各国家政府は、国益を追求することで、世界規模の格差縮小を害する様に働く。
3.資本主義は、国内的には政府を格差縮小の機能として部分的には利用しながら、国際的には自由貿易を推進するように導いている。
商売が善だといえるとしたら、次の2つの機能に限るのではないだろうか。
1.先ず国際的に世界規模の格差を縮小させる機能。
2.国内的には需給をできる限り一致させつつ、政府による税の調整(国税を支払う事と、その福祉への再配分)を通じ、福利一般を向上させる機能。
民衆の一部が、自由至上主義者らの脱税とみなされる行為(租税回避地の利用など)を非難しているのは、こうしてみると、2.の国内における福利の低下という点から、正しい指摘をしていることになる。
 自由至上主義者は、資本主義の秩序のうち、国内におけるあるべき秩序と、国際的にあるべき秩序を、混同しているといえる。また、自民党政府とか、皇族、あるいはトランプといった保守主義や愛国主義を主張する人々が、国益第一という誤った考えを、国際秩序に対して主張するとしたら、これは世界に対して有害なふるまいだといえる。いいかえると、「世界規模での自由貿易」と、「国内における国税の福祉への調整」は、両立されねばならない。トランプ政権や、ブリグジッド以来のイギリス政府は、世界規模での自由貿易を害しているし、現日本政府や中国政府は、むしろ自由貿易の推進に邁進しているので、国際経済というこの点では日中の方が米英より正しい道を歩んでいるといえる。
 南北格差のような、国家間の格差拡大がある、という指摘があるとしたら、これについて国連調整税、国連税をとって再配分せよと私は主張してきた。専ら米英仏、露中の国益追求が、グローバル経済の必然的な趨勢で挫折しない限り、この様な国連税が実現する日は近づいてこないであろう。
 微視的な面での商売の善悪についてだが、相手に奉仕する事を純粋に目的視するなら、慈善が正しいのであって、自己利益とひきかえにそうするという商売は、恐らく半悪半善に過ぎない。ではなぜ人々が慈善家として暮らしていないかといえば、国民全般が、上述の皇族による搾取の体系に洗脳されているからである。だが、巨視的にみれば、これは国内での徴税・調整を合理化するのに役立っているともいえる。今日の日本国民は、半開もしくは未開であり、本来の秩序としてあるべき慈善の国をつくりえていない。また、皇族による搾取という、神道政府を通じた宗教的洗脳を抜きに、国民自身の自己統治による共和的な国民政府をつくりえてもいない。今後の展開をいえば、日本国民は政府を改造し、国民自身からなる非宗教的な(世俗的な)政府を、憲法体系ごと作り直さざるを得ないであろう。皇族による搾取を世襲で、宗教政府として続けるという前時代的な秩序は、理性ある近代人の目には、欺瞞でしかないからだ。またこれに加え、自己利益の追求という野蛮な段階を徐々に脱し、単なる良心の満足の為に慈善活動を主とする生活がふえていくことになるであろう。国内経済で重要なのは、需給の一致と、格差の最小化だから、これらを両立させるのに最も合理的な方法と、最も合理的な流路を辿って進歩していくのが望ましい。
「労働者」「被雇用者」としての生活がむいていないのは、雇用主より経営上有能であるような人物か、さもなくば、非常に経済的に無能で福祉をうけているほうが増しな人間か、いずれかだろう。一般人は、それほど経営力上に有能でもなければ、それほど経済的に無能でもないので、被雇用者として、有能な経営者の命令に従っているほうが安全だというわけだ。経営上に雇用主より有能な人物であるなら、独立して自らの企業をもつか、自営業をするか、不労所得の手段を得ることになるだろう。その他の雇用主、労働者らより経済的に無能な人物は、福祉の恩恵を受けて暮らす事になるだろう。
 で、最終結論としていえるのは、商売が善か、を厳密に考えると、慈善の方が真の善なのは明らかなので、商売は真の善ではない。無償の奉仕と、有償の奉仕では、無償のそれの方が明らかに利他的だからだ。今日の地球の各文明は、資本主義という国際規模の秩序再編の中にあって、この有償の奉仕、つまり商売による需給の一致を目指して動いている。この様な世界の中でも、なお、慈善の方が優れた善なことは変わらないのだから、今日の人類にとってさえ、最も名誉ある人徳者は、慈善家として明らかな人になるに違いない。では、いかにすれば慈善家になれるかといえば、2つの方法がある。
 1つは、自分自身の欲望を完全に満たしきるまで商売で富裕になってから慈善に向かう事だ。もう1つは、そもそも自分の欲望を最小化する事で、清貧な慈善を目指す方向性である。後者の清貧な生き方については、労働者にとっては侮蔑に足る(彼らは奴隷的な労働主義に洗脳されているので)為、1つ目の超富裕層による慈善に対するより、更に侮辱的・差別的な言動をとってくる傾向にある。労働者全般、または労働者の一部による、いわゆるニートとか、無職とか、その他の経済的に無力な人々、福祉を受けて暮らしている障害者などへの差別的な言動、社会のお荷物、死んだほうがいい、といった言説を見ればこれは明らかである。だが、その慈善を目指す人に、そもそもの経済力がない場合、努力しても身につけるのが困難な場合は、清貧にいきるしかないのであって、労働者による迫害を耐え忍ぶしかないのである。労働者らは、半悪のふるまい、つまり被雇用者としての労働を苦痛なしに経験することはできないので、彼ら自身の鬱屈や不満を、攻撃しやすい経済弱者に向けかえているにすぎないのであるもし、慈善を目指す人に経済能力が十分あったなら、1つ目の、超富裕であってもはや自己の欲望を満たしきっている為、慈善しかやることがない立場を実現するべきだろう。
 更に需給の一致について緻密に考えると、対価を払う度合いに応じた需要と、対価を払うに値しない需要の2つがある。多くの対価を払いたいにもかかわらず、支払える対価がない需要、この様な需要が、最も供給されるべき価値の高い需要だといえる。ところがこの需要を満たせるような有償の奉仕者が居ない、という場合、慈善家にしかこれを満たすことはできない。他方で、対価を払うに値しない需要、些細な需要というのがあり、これは慈善の対象としてはあまり望ましくない。つまり、経済上の価値、金銭に換算されている価値というのは、需要としては一種の目安として使えるのだ。そもそも需要がないところにいくら供給しても、喜ばれない。だからこれは慈善とはいいがたい。しかし、消費者(需要する者)自身がなにを求めているか、提案されるまで気づいていないときがある。いわゆる革新(イノベーション)理論の対象となるような需要だが、これについては、例外とみなすべきだろう。革新的な需給を一致させられる人はある才能を持った人であって、この様な才能がある人は、人の気づいていない需要を、先見の明によってみいだすことができる。だが並の人にとってはそうではない。したがって、並の慈善家にとっては、すでに需要が明らかなところ、特に高額の対価を支払うとされているところに、無償での奉仕を行うようにつとめるべきなのである。そこでわずかにでも有償の対価を得れば、金が儲かるではないか、という商魂を発揮したくなり、実際にする人は、前述の超富裕層になるまでの道を辿りきっていない人だといえる。
上級の対価とは感謝であり、究極の対価とは良心の満足そのものだろう。金銭による報酬は、対価としてみれば、低級なものだ。金銭は何かと交換するためのものであって、それ自体としてよいものである感謝とか、すべての目的の中でも最も望ましい良心の満足より劣っているからだ。