2018/09/15

音楽論

ある音楽が快適になるには、似た音楽を聴く時間、ききなれるための時間が必要で、しかも音楽は一定時間を聴く為に必要とするわりに、人生は有限で、ユーチューブの登場でさらに自分の好みでないジャンルをきかなくなった。ひとことでいうと可聴体験の細分化と多様化がすすんだ。
 ある音楽が快適になるには、自分になれたパターンに近い構成である必要がある。
 鳥の鳴き声に関して学ぶと、なぜある歌・曲を人が心地よいと感じるかわかる。鳥はあるパターンのオスの鳴き声を模倣する。メスはそのパターンの巧拙や展開をききとる。最初にきかせるパターンをかえると、そのパターンでなくようになる。オウムがいい例。人間の音楽も、最初に習うパターンによって、違う展開になる。
 メスがなぜあるパターンを美と感じ、別なのはそうでないかというと、一定のパターン同士の比較で、より複雑なものをききとっていることによっているとおもわれる。もし、一定のオスの鳴き声の比較があるなかで、あるパターンとまったく違うパターンのなきごえをきかせても、美に感じない。したがって最初のパターンに或る程度近く、しかもその類似パターンより或る程度複雑、という程度が、或る人にとって美なのだ。
 客観的・物理的にみたら音波のパターンに美などない。メスの脳内に、或るパターンの雛形があり、それは成長過程でききとるものから作られる。そこからの複雑さのわずかなずれのみを美的にききとっているのだろう。吹奏楽部と軽音楽部に属する人達は異なるパターンの音楽を美に感じているというわけだ。
 人によってこのみが違うどころか、脳内で理想とする音楽構成そのものが違うから、その理想的雛形からの少しのずれ程度しか美としてはききとれない。
 美は音楽に関する限りは、主観による捏造だ。