2018/11/11

学び

学ばない人たちは何年たっても成長しない。人の成長は学びによって得られる。
 学歴や学閥、学位の効用のみに着目し、学ぶことをやめたおとなは、それ以上成長していない。

2018/11/10

極悪愛国

国民の安全安心奪いつつ原発推進自称愛国
国民の生命財産奪いつつ原発推進極悪愛国
国民の信仰と資産奪いつつ原発に寄生邪教祖皇族
国民の主権と尊厳奪いつつ原発推進極悪自民党
国民の金と自由を奪いつつ原発推進極悪安倍麻生

2018/11/09

悪しき象徴

二千年国民苦しめ搾取した天皇の亡び祝うべきなり
政教を独裁しつつ国民の税に寄生す悪しき邪教祖
国民を奴隷に人を殺しつつ世襲で独裁悪しき象徴

2018/11/08

信用ならない集団

安倍晋三という人間的に信用ならないサイコパスを首相にしている日本国民一般や、日本国政府、日本国そのものが全く信用ならない集団だ。この様な悪徳集団が失敗するのは目に見えているので、ひたすら反面教師にする事が、先を見通す力のある人、徳の高い人というべきである。

2018/11/07

衆愚状態

間違った目的の為に一致団結したり、一丸となった集団は衆愚・暴徒であり、最低最悪の結果のみをもたらす。日本人全般が陥り易い衆愚状態は、皇室・天皇制が国民を奴隷として洗脳してきた因果にもよっているのだろう。

2018/11/04

卑しい大衆

卑しい大衆に貶され、差別されているのは、既に高貴な証である。彼らに評価されようとしたり、評価されたいと願ってはならない。なぜなら彼らの評価するもの、彼らが賞賛するものは悉く下品で悪趣味だからだ。

隣国を愛せない人は隣人を愛せない人。隣接県や他地域を差別している東京都民や京都市民らは、生を共にするにふさわしい隣人では永遠にありえない。皇族と名乗り自己神格化をはかる差別主義の邪教団も同じく。

尊卑との比較

卑しい人と自分を比べるな。尊い人と自分を比べよ。尊い人と比べて自分が劣っていると思うのなら、その人に学べるからだ。また卑しい人と比べた自分に満足している限り、虚栄心がますばかりだからだ。

内容

芸術にとって重要なのはその内容物自体であり、評価ではない。

天才

自分の中から常に創作の泉が溢れ出ている人が、天才と呼ばれる。この人は寧ろその泉を止められない。だから天才は芸術家にしかなれない。

作家になれない人

作家になれない人とは、何も書けない人。

でづっぱりの正当化

日本の労働階級一般は自らの生態を正当化する為に、でづっぱり以外の生態をもつ人類を差別しているに過ぎない。生態的多様性に不寛容なこれらの人々は単に衆愚なのである。

学歴主義の批判

学歴主義者は、後天的な努力によってのみ得られる要素を先天的に与えられた要素より重視する結果、世代ごとに労苦を増していく。学歴主義は労働階級の管理を合理化する為にマイケル・スペンスらによって捏造された奴隷思想であり、あらゆる個性を尊重する自然主義に劣っている。学歴主義的社会では生存の労苦を減らす為、人口減少こそ望ましい幸福度の向上につながっている。

2018/11/03

協業

極めて優れた人は、基本的に一切協業すべきでない。この点で既存の学校教育は凡愚の最低限度に標準化されごく画一的で、個性本来の成長について大いに間違い続けている。

経済の非生産性

金を儲けるという事は、多少あれ通俗的な他人の欲望を金銭による対価で満たしたという需給の証拠として一定程度扱い得るにせよ、なにも生み出しはしない。商売は搾取的であり、非生産的である。

偉大な国

ある国、ある地域の偉大さは、そこに属する人々のうち質の高い精神がどれだけあるかで測られる。たった一人でさえ、ある地域を偉大たらしめるのに十分である。

道徳的進歩

より道徳的に進歩していない次世代は、退化している。ここでいう道徳は旧世代の道徳ではないかもしれない。しかしそれが道徳的であるなら、哲学する者の目にはそうと分かる。

若さと愚かさ

若い故に愚かな人と、単に愚かな人は違う。後生畏るべし、下問を恥じずと『論語』にいうよう、若さに含まれる愚かさを、単なる愚かさと見分ける必要がある。しかし潜在的実力の割に謙虚さをもった若者と、大言壮語する若者を比べた時、大成していくのは謙虚な方なのだろう。若さに含まれる愚かさがおのれの実力を過信させ易い条件下でも、自ら足りなさを自覚している事は、自己啓発に欠かせない反省的知性の証だからなのだろう。

芸術論

人は自然に従う限り美しい。

差別の原因

他人をそしる事で相手にされたいと望む者は、反動形成を示しているに過ぎないが、世の過半の差別もこれと同じものでしかない。差別とは、する側のみに一切の原因、それも悪い原因がある。

自慢

自慢を平気でする人は単に下品なだけでなく、自尊心が致命的に低く、常に不安がっている様な雑魚である。この人は自らが空っぽで、無能である事を恥じている為、他人が自分を見下げてくると予期し、それに先手を打って自画自賛をくり返しているのだ。
 愛国者だとか保守主義者の実態は、有象無象の雑魚、語るに落ちる凡愚でしかない。彼らへの最善の対処法とは、彼らの見苦しい差別思想や偏見、自慢の全てを見なかった事にしその雑魚っぷりを思う存分発揮させ、存在自体を誰からも忘れ去られる様にする事だ。一番よくないのは論理や哲学も一切なくひたすら多数派へ衆愚として同調したがっているだけの彼らを分析し時間を無駄にしたり、彼らをわずかなりとも相手にしたりする事だ。元々彼らは誰からも相手にされないほど卑小な荒らしなのである。

無能

人は無能たるべし(すべて、人は、無智・無能なるべきものなり。『徒然草』第二百三十二段)、吉田兼好が書き残した全ての言葉でもこれに優る至言はない。

成長

人生において重要なのは、内面の成長だ。それだけに集中しなければならない。他者や外聞を気にしている限り、人は大いに徒労してしまうだろう。

2018/11/01

世界

愚者の文脈に乗るな。ただ賢者らのいる世界に属せ。

独裁国家日本

違憲な邪教祖の独裁国家日本が、公選された有能な君主を仰ぐ北朝鮮を差別する光景。どちらも国家社会主義のどん底にいるのは変わらない。それどころか日本では薩長藩閥の名残たる世襲の寡頭政が二重に革命を妨げている。どちらが先に、真の自由主義的な共和国へ脱皮できるかを観察しているがいい。

絵画論

賞賛を得るために描くな、単に自分が見たいと心から望んでいた絵を再現するのだ。

東京地方

最初に世界から見捨てられるのは、驕きりった衆愚のスラムである東京地方だろう。

答えのない小さな井戸

答えのない小さな井戸
誰もいない世界
人類全てが醜いというより
悪徳をもつ人類が醜いのだろう
そして人類一般は醜いのだろう

答え

この世に言いたいことがあるんだろう
それが何かは知らないが
お前を取り囲んでいた下らない連中は消えた
奴らは一様に奴隷階級に堕ちていった
もうお前しか残された者はない
お前は昔から疑問だった
この世がなぜあるか
なぜこの世に生まれたか
もうお前しかそれを問う者もない
お前は自由を求めて死ぬ
だがそれは正しかった
お前だけは答えを求めて死ぬのだ
お前だけは奴隷に堕ちなかった
お前だけが何かを考えられる

目的

他人から何を言われるかを人生の基準にしてはいけない。自分が目的とする事のみに集中せよ。他人は自分の目的を認知もしていないし、未来永劫する事もないであろう。

創造性

自由である事のみが創造的である唯一の条件だ。

下司の国

安倍晋三死ねば解放される国
明仁が死ねば違憲の象徴消ゆ
極悪の自民政府が負の元凶
不況作り増税三昧下司の国
差別して売国三昧奴隷国

2018/10/31

死んだ国

天皇と首相が違憲の死んだ国
不正するゲス安倍選ぶ衆愚自民
SBI首相の不正を隠す企業
極悪の天皇と自民国を乱す
アメリカに媚びて国売る安倍晋三

2018/10/30

失敗

人々はある種の成功を賞賛するが、本当に賞賛されるべきなのはありとあらゆる失敗をくり返していた時それにめげなかった根気の方だ。

2018/10/29

極悪都

渋谷人ごみ捨て犯罪自慢する
東京人渋谷で悪事し田舎差別
差別する東京都民が悪しきのみ
差別して原発ばら撒く極悪都

奴隷となる自民

安倍晋三世を悪くしてのさばれり
長州人テロと侵略驕りきる
自民党悪政三昧驕りきる
天皇家違憲立法民騙す
悪政の極みというべし末期自民
米国に依存し奴隷となる自民
独裁制崇める衆愚国のがん

2018/10/28

理想

理想の低い人には悲壮な現実しか手に入らない。

欲望

人々は大層な欲望をもつ
だがこの世で最も幸福なのは僕だ
秋の日の夕暮れの光が
風呂場の窓から見えるブロック塀や
僕の愛する町に降り注ぐのを見る
それだけで僕にはこの宇宙の美の全てが見える

薄汚い差別の塊日本人

薩長の下衆がうそ吐き裏切りを自己正当化する汚い日本国
皇族と自称のやくざ邪教祖が貧民搾取し権力独裁
薄汚い差別の塊東京人田舎に原発おしつけハロウィン
薄汚い差別の塊京都人田舎を蔑視し小中華思想

国内侵略犯の薩長土肥

下衆が国内侵略犯の薩長土肥を自慢する
なるほど下衆にとって日本人殺しが勝利か
日本人同士に殺し合わせ金を貪った坂本龍馬
勿論最低最悪のテロリストであり内乱罪人だ
極悪人を褒めまくる汚物の様な愚民
皇室という邪教祖に媚を売りまくるバカ
どこまで卑しく愚かになれば気が済む
信じ難いほど劣悪な愚民国
自慢が下品だと気づかない
道徳のかけらもない利己と害悪の塊
金儲けと社畜をおしつけあう奴隷階級
権力に諂い不正を応援する馬鹿
確かに腐りきったごみ未満の国だ
今すぐ全滅させるのが最善だろう

けがれた日本国民

けがれた日本国民
善良な人間がいない国
偽善者が群れ
朝から晩まで極悪独裁者に媚びる
腐りきった政府
自民やくざが毎日悪業三昧
皇族邪教祖が違憲行為を連発自慢
これほど歪んだ衆愚の国があるものか
無学な労働者が差別をばらまき
ひたすら原発で弱者虐殺
世界最悪の野蛮国で自画自賛しかしない
どれほど愚かになれば満足する
地平線まで埋め尽くす衆愚の国だ
絶滅以外何も望まれない国

なんの理想もない

なんの理想もない
ひたすら自信のない愚民
周りの雑魚に群れ
虚勢を張って差別
下賤の極み
醜悪すぎる日本人
悪徳自慢以外やることもなく
搾取罪を付加価値ぶって貧者圧殺
卑怯者の俗物に群れて
今日も労働者自慢
自民やくざに媚を売り
皇族邪教祖を礼拝し
ひたすら国内の弱者虐め
汚すぎる日本国

人の消えた世界

人の消えた世界
下らない人類がいなくなった世界
金儲けに躍起になり朝から晩まで駆けずり回る
繁殖しながら生存競争
うらやみとねたみでできた下賤な国民
国際社会から褒められようと偽善を極め
国内では都道府県差別をくり返す下衆
勿論日本国民など全員死んだ方が良い
皇族と名乗る殺人教団ごと原爆で消し飛べば良い
原発を田舎暮らしの善人におしつけ
己は都会で堕落自慢
勿論消え去るべき最低最悪の国柄だ
自画自賛しかできない生まれつきのごみ
極悪衆愚が今日も悪業三昧の醜い国

浅はかさ

東北と中華思想で蔑視して呼ぶ日本の本来の居住地に住む先住日本人らを、侵略犯のやくざである自称皇室という邪教暴力団やら旧中韓人の弥生人の末裔らが蝦夷と差別し続け、弾圧し、政治的独立を破壊し、その先住日本人らが震災時に普段通りにおとなしくすれば、世界が賞賛したと突然手のひらを返し日本人扱いする。皇室を崇拝する自称右翼、弥生民族の末裔らの底知れぬ浅はかさよ。この種族の目的は利己心しかなく、しかも外国からの名誉という卑俗な目的の為ならあらゆる蛮行を恣にし、平気で手のひらを返し裏切る。その品性下劣さに何の自覚もない。自称天皇と名乗るこの古代中国移民の末裔ほど卑しい人間がこの世にいたものか。

2018/10/26

愚民国家

日本国とは正真正銘の愚民国家であり、その国に対して最善の対応とは無視する事でしかない。この国民を構うほどそれは国際社会に有害な影響をもたらすからだ。

ネット世論・テレビ世論の衆愚さ

ネット世論とは、テレビ世論を劣化させたものでしかない。衆愚がテレビからネットに移行して烏合の衆をしているだけである。特にゆとり若害は、ウェブ上で衆愚に混じり愚見を述べればそれに付和雷同する事が正義と、妄執している傾向にある。だがそこで行われていることはテレビからインターネットに依存するメディアが切り替えられただけであり、中身は多数派への妄従という劣悪な行動でしかない。
 正しい意見とか、傾聴に値する卓見は、これらと全く別にあり、しかもそれは直接、賢者なり人徳者に直帰している。

2018/10/25

商売国民

人間生活をより楽にするための商売で、足りない金を奪い合って苦しむ愚かな日本国民達。勿論この種の悪業に参加しない事のみが唯一正しい。

尊さ

たとえ卑しい国民に囲まれていても、自分ひとりは尊くあれ。この世にあって多数政治の真っ只中でも、自分ひとりが尊ければそれは十分なのだ。人間の物事は最高徳に従う結果に至るからだ。

2018/10/24

差別とひいきの因果

人が激しい差別やひいきをくり返せば、必ずそれにふさわしい反動がくる。しかもこれらが悪因であるからには、凄まじい悪果が。皇室の末路を見よ。京都市の末路を見よ。東京都の末路を見よ。中華思想で自己崇拝や自国民への差別をくり返してきた極悪人達がどの様な必然の破滅を得るか、因果の網の目をみているがいい。

悪事の隠蔽

首相や自民党の不正をかばい、野党を無能と罵る衆愚は、不正を押し通す為、不正を隠しだてする為に悪意でそうしているので、現実において個人でも同じことをしている可能性が十分に高い。衆愚になればどんな不正、どんな悪業も然るべき悪果がやってこない、と考えている点で、この日本人衆愚、自称右派、自称保守の自民支持者や安倍信者らは、地獄に堕ちて不幸のどん底で苦しむ事になるが、それは彼ら自身が凄まじい悪事を重ねながら隠蔽してきた因果応報である。

関西地方

関西地方は、いじめをいじりといいかえて集団虐待を正当化する卑しい衆愚の社会である。そしてこの衆愚は自己中心的で通俗的かつ傲慢であり、自分たち移民が日本の中心だと豪語して恥じる気配がない。それが近畿や京都という、中世の差別を引きずる恥ずべき中華的自称である。

悪の集団

皇室と自民党という悪の集団を絶滅することなしに、日本国政が一歩でも前に進むことは永遠にできない。この種の極悪教団、邪教集団を崇めている衆愚を一匹残らず除去することこそ、真の愛国心の発露というべきだ。この世で多数派が少数派を弾圧するほど醜く、あしきことはありえない。

尊い精神

尊い精神は美しく、それ自体が満足をもたらす。だがこの精神を疑う事こそが真に尊いとは。

金を奪い合う衆愚

足りない金を奪い合う者は愚かである。競争し他人から金を奪った証拠を選好するとは、即ち悪意を選び取ることでしかなく、その様な悪人とつきあう者は当然のよう不幸になるであろう。

資本主義世界秩序の批判

労働階級や、労働主義者(企業の被雇用者として労働する事を至高、もしくは普通の価値観とみなし、それ以外を蔑視する集団)らの信じている社会秩序は、確かに奴隷生活への自己適応でしかない。これは公務員という邪教暴力団(皇室)の手先をしている労働者らも例外ではない。そして多少なりとも知的な人間は、彼らの生態を客観視しこの様な奴隷生活を侮蔑するに違いないので、必ずや資本家になる。我々にとってこの様な必然の過程が、弁証法的展開である。支配階級としての資本家は、奴隷階級としての労働者を無知で、衆愚なままにした方が好都合だと気づき、ナショナリストや愛国者、保守主義者、マスメディア、ネットメディアといった分かり易い愚民洗脳装置を利用し、各国の奴隷制に諸国民を縛りつけておこうとする。この結果、世界はグローバリスト、自由至上主義者らと、それ以外の付加価値生産の奴隷たる労働階級に分離されていく。そして奴隷自身はこの秩序を正義と信じて疑わない。なぜならその衆愚は見事に洗脳されきった家畜・社畜・国畜であり、自分達の搾取される為の労働生活が最高の幸福だと完全に思い込み、その外にある生活を無意識に差別する様にしつけられているからだ。
 この種の構造に悪意がないとはいいがたいが、その国畜製造の悪意の最たる存在である皇室は、邪教によって自己崇拝させ、国畜奴隷らをこっ酷く搾取しながらあがめさせるだけの暴力を、政府として独占している。しかもこの邪教祖らは偽善の口舌を極度に巧妙にしているので、国畜奴隷が喜ぶ言い方で、奴隷階級をおおみたからなどと褒めそやすので、奴隷の方は自分から土下座し、天皇一派を陛下と呼び平伏するほどだ。けれどもこの皇室と自称する極悪宗教家の悪意に対して、奴隷階級自身の無知にとどまりつつ同調圧力で自国民を自らと同じ不幸な奴隷にしたてあげようとする悪意や、資本家らがこれらの衆愚を利用しようとする悪意も、軽視できるものではない。
 資本主義的世界秩序とは一面からはこの様に実に醜悪なものでしかないが、それを肯定的に見ようとする人にとって需給の一致を実現するという麗しい理念は実に欺瞞的である。その欺瞞は資本主義・自由主義信者を完全にあざむききっているので、彼らにとって衆愚である労働階級も、国家の暴力団員である政府の構成員も、いずれも敵となる。
 彼らは資本主義秩序以外を差別し、蔑視する様に自己洗脳をくり返しているので、そこでの成功、例えば社民主義における幸福度の上昇や、共産主義の一国二制度における経済的上昇を兎角口撃し、反省する事はない。要するにこれらの自由主義陣営を自称する衆愚は、凶悪な奴隷制を世界中に流布しようというだけなのだ。しかもその考え方は彼らがしばしば陰謀論の的にするユダヤ教的選民思想等に向け換えられるとはいえ、根底的には彼ら自身の邪悪さ、自己中心な利己心に由来しているのである。
 したがって今日の知識人が多少なり良識的なら、この様な資本主義秩序、そこには自由主義、修正資本主義、神道、皇室、自民党政府、企業、市場、労働者、貨幣経済などこれらすべてが含まれるが、それ自体を疑義するべきであり、決して保守とか現状維持とかで現実逃避したり、あるいは明治信者のよう過去の愚かだったあらゆる時代を美化し退行したり、妄執的に自称先進国の衆愚に同調し自己正当化すべきではない。寧ろ非資本主義的・非自由主義的なあらゆる世界秩序の美質や利点に目を開き、そこから学ぶことが必須である。

卑しい人と文

卑しい人は長文を読めない。卑しい人は短文しか読めず、しかもそれすら誤解する。卑しい人にわかりやすく語る事は、事実上不可能である。だから卑しい人に向けて、何事も語るな。卑しい人は達文に学ぶことがないのだ。
 卑しい人の評価はでたらめで、悉く勘違いしている。だから卑しい人からの風評を聴くな。卑しい人達とわずかでも関わり合いになったり、ふれあったりしてはならない。 卑しい人達の発する言葉は、酷く有害だと知れ。それは悪徳の塊であり、尊い人にとっては理解も、推測する事もできない。

既得権と保守性

既得権を維持する為に保守的な事を述べる様になった人間は、一秒でも早く死んだ方が世の為になるであろう。

大衆の価値観

通俗的な価値観、大衆の評価がまったくあてにならず、しかも実に卑俗で軽蔑すべきものであることは、どんなに強調してもし足りない程だ。

秋の香り

まちに降りるうつくしき夕暮れと秋の香り
七色の空に張りたる梅の枝
七色の空に張りたる蜘蛛の糸

尊卑

自分の利益と共に行動している人は、卑しい。利他的な道徳と共に行動している人は、尊い。商売人は卑しく、哲学者は尊い。労働者は卑しく、無業者は尊い。皇室は卑しく、世捨て人は尊い。商業芸術家は卑しく、純粋芸術家は尊い。

2018/10/23

重要な国民

二大政党や両院、政教分離の意味すら分からぬ愚かな日本国民は、テレビ・ネットを通じ皇室に洗脳される程度の政治的知能しか持ち合わせていない。だが重要なのは、その種の衆愚以外の国民である。我々は重要な国民のみに焦点を絞って、日本の政治を考えなくてはならない。

捉え方

同じ物事でも、捉え方を転換すれば幸になる。
 金が儲からなくて苦しいと考えるのではなく、清貧に生きる機会を与えられたと考えよう。魅力がないと考えるのではなく、高尚さは大衆に理解しがたいと考えよう。衆愚に囲まれて苦しいと考えるのではなく、自分が孤高なのは救われていると考えよう。しかもこれらはすべて、以前より正しい見方をすることによっている。通俗的な物の見方はすべて誤っている。
 衆愚の国で邪教祖が国税を貪っているのが事実だとしても、自分がその様な愚民の一員でない事は、既に救われている。
 愚か者が明治維新の際に侵略犯や内乱罪を犯した極悪人らを尊敬しているとしても、薩長土肥や坂本龍馬、岩倉具視や明治天皇といった恩知らずにして裏切り者の悪魔らを模範にしているとしても、自分がその種の大馬鹿者でなかった事に感謝しなければならない。

2018/10/22

日本国民の性質

日本国民一般は卑しい国民性なので、その様な人々に関わったり、接する事で苦しみ、不幸になるのは必然というべきだ。ただ日本国民、日本人一般に関わり合いにならぬ様に暮らすのが最善である。卑しい人々が尊さについて理解するのは先ず無理であり、期待しようもない。日本国民一般に触れたり、近づいたりしない事。これだけが幸福になる最上で最後の対策である。
 卑しい日本国民によき趣味や良心、良識を期待する事はできない。だからそれらの人々に触れるな。
 卑しい国民の存在意義は、世界の反面教師となる事だ。日本人一般の悪徳と悪業が、然るべき結果をもたらすのを、自分ひとり冷めて、美徳の中に安住し見ているがいい。
 平成時代の日本人一般は、間違いなく衆愚でしかなかった。今後その性質が急に変わる事は、遺伝や教育の質が一定であるからには、おそらくないであろう。

2018/10/20

悪徳

悪徳をもつ人々はそれを表す為に生きている。その様な人々が改心しないなら、単に、彼らにとってその習性は世に反例を示す為のものなのだ。

卑しい人々

私は卑しい人々を山ほど見た。そして彼らについて思い出さないこと、思い出してしまったときは反面教師にすることで、どう生きるべきではないかについて知った。

2018/10/19

自由

自由に生きることは、隷属的に生きることより優れている。隷属的に一生過ごすより、自由に一日生きた方が幸福である。

衆愚と独裁者の共犯

首相や自民党総裁の悪事や不正、違法行為、違憲行政・違憲立法をなかったことにしようとする偽愛国者たち。要するにこれらの衆愚は、独裁者の悪政すべてを棚上げし、多数政を放棄しているのである。単に、天皇皇族や安倍晋三といった独裁者のみならず、わが国のがん細胞とはこれらの自称右翼、自称保守の衆愚である。

高貴な生

巨万の富を蓄えてみても、世襲の象徴の地位に就き民衆を洗脳してみても、卑しい人に高貴な生を味わう事はできない。優れた幸福は徳に応じてのみ味わい得る。

2018/10/18

禍根

卑しい人との関わりは人生に禍根を残す。孤独と卑しい人との関わりを比べれば、前者が遥かに優れている。明察する者はこの道理を見抜き、いたずらに交際を求めるな。
 卑しい人は、ただ有害なのだ。説教によって改善させられると思い込み、啓蒙主義の罠にはまってはならない。それは永久に不可能だからこそ、卑賤な者の不道徳さが改善した試しがない。卑しい人に対処する専門の職業、教育家や宗教家、警官、刑務所員、裁判官、自衛官、軍人、精神科医らに、卑しい人の人生の事を任せるがいい。

卑しい人の意見

卑しい人の意見を聴くな。卑しい人はひたすら利己的で、害他的な考えを当然かの様に主張する。だがそこには何の道理もない。卑しい人は立派な考えを学ばない。卑しい人は勉学を疎む。卑しい人は俗説を鵜呑みにし、衆愚に同調する。

幸福になる手段

卑しい人を避け、卑しい人々の発する情報にふれないよう生きる事。これが幸福を得るすべての手段だ。

卑しい人の考え

卑しい人の考えを知ろうとつとめる努力は無駄である。そこには何もない、つまり考えなしに言動しているか、知ってみても呆れるほど愚かな考え、大いなる過ちや、下賤な利己心がでてくるだけだからだ。

悪役

卑しい商人は、寄付が代価と勘違いし、返済を要求して恥じない。この種の人は何事にも代価を要求するものなので、真の善や、慈善というものが理解できない。つまり悪役である。

関わり

この世で最も苦痛なのは、卑しい人との関わりだ。人生で幸福を得るのにこれより役立つ教訓はない。自分より卑しい人と、決して関わり合いになるな。不幸のほぼ全ては、卑しい他者が持ってくる。卑しさとは不道徳さだ。卑しい人を助けてはならぬ。卑しい人は逆恨みするからだ。卑しい人との交わりを断て。卑しい人と接さない限り、人が自ら不幸になることはありえない。人生で最も悪い行いは、卑しい人と接点を持つ事だ。卑しい人と関わるくらいなら、一人で過ごす方が比べものにならないほど優れている。卑しい人と親交がある状態より、天涯孤独の方がはるかに優っている。
 卑しい人々に囲まれる様な国にあっては、ひたすら孤独を追い求めるがいい。卑しい人の忠告を聞くな。それはひたすら誤っているばかりか、とかく人を不幸に至らせるものでしかない。卑しい人が夢中になっている物事もひたすら悪い。卑しい人に親切にするな。卑しい人は必ず恩を仇で返してくるからだ。
 さかしらでいて悪徳に満ちた人は最も悪い。その種の邪悪な人間と一切接するな。すでに関わり合いがあればすぐに断て。
 愚かな者と接すれば自らも堕落する。愚者を相手にするな。愚か者に説教してみても、彼らは一切学びはしない。愚者は亡びの悪例としてしか意味をもたぬ。
 自分より尊い人としか接するな。その種の人が見つからなければ、他者との交わりを断て。尊い人の孤高は幸福にとって最上の状態と知れ。
 自分にまさる一部の知識をもっている人でも、自分より卑しい相手なら関わり合いになるな。その様な人物と接さずとも知識を得る手段はあるからだ。悪徳をうつされるより、知識を別の仕方で学んだ方がはるかにましである。
 この世で人は尊い人と接した程度に応じてのみ向上する。他方、卑しい人に関わり合いになるだけ堕落する。自分より尊い人とのみ接し、自分より卑しい人には一切関わり合いになるな。卑しい人々が集まっている場所には近づくな。都会を避けて生きよ。政府や皇族と関わり合いになるな。暴力により支配を試みている政府や、宗教で愚民を洗脳する皇族は卑しいからだ。商売人と接するな。搾取を生業にする人間は浅ましい。

道徳

この世で最も価値のある知識とは道徳だ。だが卑しい人はこれが分からず、悪徳のままに過ごし破滅していく。

2018/10/17

つきあい

 愚者や卑しい人(不道徳な人)とかかわらずにいきるべきだが、賢者や尊い人についてはそうではないだろう。自分より優れた人、即ち、賢者や道徳的な人物と接する事でわれわれは自己を向上させうるのだから。

資本主義論

資本主義者は付加価値と呼ぶものを、共産主義者は搾取と呼んでいる。これを資本主義者は善と考え、共産主義者は悪と考えている。搾取とは、マルクスが『資本論』で説明した概念で、経営者なり資本家(株主ら)が、労働者に働かせて、労働者が稼いだ額の一部を抜き取って懐に納めている、ということを指す。英語でexploit、搾り取るという意味なので、日本語で、搾取と訳している。しかし、資本主義者は、これを企業が労働者なり消費者なりから、原価以上を稼いだ証拠と見なし、付加価値と呼んでいる。つまり儲けとみなしているのだ。 
 私が疑問なのは、商売は自己利益を含む振る舞いなので、真の善ではないのではないかということだ。他方で、デリダというユダヤ系フランス人の思想家は、商売を善と見なし、相手が何か奉仕されたお礼を省略する為にカネという対価をもらうのだといった。それで商人階級でうずめられた東京都民は、食べ物を残して捨てても、後悔しないし、吉野家で牛丼だされても、金払ってるから当然だという態度で感謝もしないことになる。その上、農民蔑視を始める。なぜなら「付加価値」の低い仕事を見下すからだ。最も付加価値が高い仕事は、資本家、投資家、経営者、或いは皇室のいずれかなので、これらの搾取をうまくやっている人達を尊敬しだす。商業主義というやつである。芸術にもその影響は及び、売れているものをよいものとみなしだす。
私は労働者が、画家を差別してきたので、資本家になろうと考えた。資本主義は労働主義ではない。資本主義は上記の「搾取」「付加価値」を目的にするものだから、労働一般はそこでは価値が低い行動になる。労働主義とは、労働を目的にする思想を指す。日本人の一般大衆が信じている思想である。日本人は労働主義者ではあるが、資本主義者ではない。だから安倍政権が、反資本主義的な政策をしても容認している。また、しばしば金持ちを蔑視さえしている。蔑視というよりねたんでいる資本家になる事を拒否している。労働主義とは、おそらく、天皇制に洗脳された人々が、天皇の奴隷となる事を自己容認するための思想なのだろう。日本政府が、文科省や文化庁を通じ、日本国民に教え込もうとしている思想は、この労働主義である。彼ら日本人衆愚は無知な群集の一員になる事、自分が日本国の多数派に紛れ込む事を安全策と考えていると見られる。労働を金もうけの手段として容認しつつ、金を無限に儲ける事を目的にしている。
 仏教は乞食を是とするので、本来は非労働主義である。京都の坊主が投資始めた、というニュースからいえるのは、金もうけする坊主と言う時点で、京都の仏教界は腐敗している、または変質しきっている。仏教の世俗化はいいとして商売が善なのかについて真剣に分析できていないからそういう問題が起こる。労働主義というのは、皇族が安定して税金を搾取する為の洗脳だ。 
 スーパーがなくなれば商店街がもどる。またはアマゾンのような通販になる生協もある。要するにそこでけちをしていると、大手が儲け、その大手が儲けた分を更に皇族が搾取する。生協は協同組合なので、営利企業ではない。協同組合とは、構成員が全員出資する組織。協同組合は搾取・付加価値が目的ではない組織だから、労働者と経営者(資本家)の区別がない。全員が組合員なのでその協議で給与を決めている。
 労働主義というのは、皇族が安定して税金を搾取する為の洗脳だ。つまり日本国民一般は、労働する事を是としているが、それは皇族の資本家としての地位を確固たるものとする為の手段でしかない。資本主義の中では、皇族と、その他の資本家は競合している。皇族は自分の組織に暴力を集め、政府と呼ぶ徴税組織を形成している。いわば日本最大の暴力団が、皇族閥、つまり日本政府である。皇族以外の資本家らは、この徴税組織と戦っている事になる。自由至上主義(リバタリアニズム)は、この様な国家政府という敵と戦う為にでてきた思想と言っても過言ではない。ところが、民衆は政府の暴力に怯えるばかりか、自ら政府に依存しているので、自由至上主義者らを脱税していると非難している。
「働く」と「労働」は違う。労働しない、と働かない、を同じ意味で使っているとしたら、間違っている。労働とは経済学用語だ。労働とは、被雇用者の賃金労働に当たる語彙だ。働くとは、一般に人が何らかの労をとって、行動する事を指す一般的語義だ。どちらを指しているのか。働かないというのは、上記の言葉の定義によれば、何もしない怠けをさす。労働しない、というのは、資本家その他の様々な仕事をする人にも当たる言葉だ。言葉を正しく使わないと、誤解を呼ぶばかりか、伝えるべき事を伝えられない。特に、専門用語は誤用してはいけない。専門用語には、特殊な意味が与えられているからだ。
 民衆は政府の暴力に怯えるばかりか、自ら政府に依存しているので、自由至上主義者らを脱税していると非難している。つまり民衆は、皇族による搾取を、自由至上主義者による本来の資本主義秩序より、正しいと思い込んでいるわけだ。ところが、資本主義の本質によれば、完全競争市場に至ったとき、需給が最もよく満たされる。皇族による搾取を、政府による市場干渉といいかえてもよい。政府による市場への干渉度が激しくなるほど、資本主義的な善、いわゆる需給の一致が難しくなる。今日の世界情勢において、最も大きな争いは、国の政府(日本においては皇族の支配する暴力組織)と、自由至上主義者のめざす資本主義的世界秩序の間の争いだといえるだろう。
 自由至上主義を、本質的な意味では、資本主義といいかえることができる。資本主義を世界規模で、脱国家的に再認識させる語彙として、自由至上主義という専門用語がつくられた。そして資本主義の秩序は、グローバリズムを当然含み、国民国家の枠組みを超えていこうとする。しかし、我々が「右翼」とか、「ネット右翼」とか、「ネオナチ」とか、「愛国主義者」とか、「保守主義者」とか呼ぶような一部の民衆、おそらくこれらのひとは衆愚なのだが、これらの人々が資本主義に対して抵抗を試みているといえるだろう。
 他方で、資本主義は微視的に格差を拡大する傾向をもっている。ここでいう微視は、国内単位でみると最もよく見えて来る。国内で、いわゆる相対貧困率が上がる傾向があるわけだ。その逆に、巨視的な単位、つまり国際単位、地球規模では、資本主義秩序は格差を縮小する傾向をもっている。現に東南アジアや中国と、日本の間で起きている事は、他の途上国と先進国の間でも起きるであろう。相対貧困率を下げる(これは国連幸福度によれば重要な施策だ)為に、政府という徴税の暴力組織が民衆によって頼られていると言える。だが、この国家規模の暴力組織、政府が、国際単位で自国第一を主張しだすと、上記の世界規模での格差縮小に反作用として働いてしまう。アメリカ政府が今日の国際秩序に対して、有害なふるまいをしていることがその一つの例示である。
 まとめると、
1.国内的に政府は、徴税と調整(再分配)によって格差縮小の機能をもっている。
2.国際的に各国家政府は、国益を追求することで、世界規模の格差縮小を害する様に働く。
3.資本主義は、国内的には政府を格差縮小の機能として部分的には利用しながら、国際的には自由貿易を推進するように導いている。
商売が善だといえるとしたら、次の2つの機能に限るのではないだろうか。
1.先ず国際的に世界規模の格差を縮小させる機能。
2.国内的には需給をできる限り一致させつつ、政府による税の調整(国税を支払う事と、その福祉への再配分)を通じ、福利一般を向上させる機能。
民衆の一部が、自由至上主義者らの脱税とみなされる行為(租税回避地の利用など)を非難しているのは、こうしてみると、2.の国内における福利の低下という点から、正しい指摘をしていることになる。
 自由至上主義者は、資本主義の秩序のうち、国内におけるあるべき秩序と、国際的にあるべき秩序を、混同しているといえる。また、自民党政府とか、皇族、あるいはトランプといった保守主義や愛国主義を主張する人々が、国益第一という誤った考えを、国際秩序に対して主張するとしたら、これは世界に対して有害なふるまいだといえる。いいかえると、「世界規模での自由貿易」と、「国内における国税の福祉への調整」は、両立されねばならない。トランプ政権や、ブリグジッド以来のイギリス政府は、世界規模での自由貿易を害しているし、現日本政府や中国政府は、むしろ自由貿易の推進に邁進しているので、国際経済というこの点では日中の方が米英より正しい道を歩んでいるといえる。
 南北格差のような、国家間の格差拡大がある、という指摘があるとしたら、これについて国連調整税、国連税をとって再配分せよと私は主張してきた。専ら米英仏、露中の国益追求が、グローバル経済の必然的な趨勢で挫折しない限り、この様な国連税が実現する日は近づいてこないであろう。
 微視的な面での商売の善悪についてだが、相手に奉仕する事を純粋に目的視するなら、慈善が正しいのであって、自己利益とひきかえにそうするという商売は、恐らく半悪半善に過ぎない。ではなぜ人々が慈善家として暮らしていないかといえば、国民全般が、上述の皇族による搾取の体系に洗脳されているからである。だが、巨視的にみれば、これは国内での徴税・調整を合理化するのに役立っているともいえる。今日の日本国民は、半開もしくは未開であり、本来の秩序としてあるべき慈善の国をつくりえていない。また、皇族による搾取という、神道政府を通じた宗教的洗脳を抜きに、国民自身の自己統治による共和的な国民政府をつくりえてもいない。今後の展開をいえば、日本国民は政府を改造し、国民自身からなる非宗教的な(世俗的な)政府を、憲法体系ごと作り直さざるを得ないであろう。皇族による搾取を世襲で、宗教政府として続けるという前時代的な秩序は、理性ある近代人の目には、欺瞞でしかないからだ。またこれに加え、自己利益の追求という野蛮な段階を徐々に脱し、単なる良心の満足の為に慈善活動を主とする生活がふえていくことになるであろう。国内経済で重要なのは、需給の一致と、格差の最小化だから、これらを両立させるのに最も合理的な方法と、最も合理的な流路を辿って進歩していくのが望ましい。
「労働者」「被雇用者」としての生活がむいていないのは、雇用主より経営上有能であるような人物か、さもなくば、非常に経済的に無能で福祉をうけているほうが増しな人間か、いずれかだろう。一般人は、それほど経営力上に有能でもなければ、それほど経済的に無能でもないので、被雇用者として、有能な経営者の命令に従っているほうが安全だというわけだ。経営上に雇用主より有能な人物であるなら、独立して自らの企業をもつか、自営業をするか、不労所得の手段を得ることになるだろう。その他の雇用主、労働者らより経済的に無能な人物は、福祉の恩恵を受けて暮らす事になるだろう。
 で、最終結論としていえるのは、商売が善か、を厳密に考えると、慈善の方が真の善なのは明らかなので、商売は真の善ではない。無償の奉仕と、有償の奉仕では、無償のそれの方が明らかに利他的だからだ。今日の地球の各文明は、資本主義という国際規模の秩序再編の中にあって、この有償の奉仕、つまり商売による需給の一致を目指して動いている。この様な世界の中でも、なお、慈善の方が優れた善なことは変わらないのだから、今日の人類にとってさえ、最も名誉ある人徳者は、慈善家として明らかな人になるに違いない。では、いかにすれば慈善家になれるかといえば、2つの方法がある。
 1つは、自分自身の欲望を完全に満たしきるまで商売で富裕になってから慈善に向かう事だ。もう1つは、そもそも自分の欲望を最小化する事で、清貧な慈善を目指す方向性である。後者の清貧な生き方については、労働者にとっては侮蔑に足る(彼らは奴隷的な労働主義に洗脳されているので)為、1つ目の超富裕層による慈善に対するより、更に侮辱的・差別的な言動をとってくる傾向にある。労働者全般、または労働者の一部による、いわゆるニートとか、無職とか、その他の経済的に無力な人々、福祉を受けて暮らしている障害者などへの差別的な言動、社会のお荷物、死んだほうがいい、といった言説を見ればこれは明らかである。だが、その慈善を目指す人に、そもそもの経済力がない場合、努力しても身につけるのが困難な場合は、清貧にいきるしかないのであって、労働者による迫害を耐え忍ぶしかないのである。労働者らは、半悪のふるまい、つまり被雇用者としての労働を苦痛なしに経験することはできないので、彼ら自身の鬱屈や不満を、攻撃しやすい経済弱者に向けかえているにすぎないのであるもし、慈善を目指す人に経済能力が十分あったなら、1つ目の、超富裕であってもはや自己の欲望を満たしきっている為、慈善しかやることがない立場を実現するべきだろう。
 更に需給の一致について緻密に考えると、対価を払う度合いに応じた需要と、対価を払うに値しない需要の2つがある。多くの対価を払いたいにもかかわらず、支払える対価がない需要、この様な需要が、最も供給されるべき価値の高い需要だといえる。ところがこの需要を満たせるような有償の奉仕者が居ない、という場合、慈善家にしかこれを満たすことはできない。他方で、対価を払うに値しない需要、些細な需要というのがあり、これは慈善の対象としてはあまり望ましくない。つまり、経済上の価値、金銭に換算されている価値というのは、需要としては一種の目安として使えるのだ。そもそも需要がないところにいくら供給しても、喜ばれない。だからこれは慈善とはいいがたい。しかし、消費者(需要する者)自身がなにを求めているか、提案されるまで気づいていないときがある。いわゆる革新(イノベーション)理論の対象となるような需要だが、これについては、例外とみなすべきだろう。革新的な需給を一致させられる人はある才能を持った人であって、この様な才能がある人は、人の気づいていない需要を、先見の明によってみいだすことができる。だが並の人にとってはそうではない。したがって、並の慈善家にとっては、すでに需要が明らかなところ、特に高額の対価を支払うとされているところに、無償での奉仕を行うようにつとめるべきなのである。そこでわずかにでも有償の対価を得れば、金が儲かるではないか、という商魂を発揮したくなり、実際にする人は、前述の超富裕層になるまでの道を辿りきっていない人だといえる。
上級の対価とは感謝であり、究極の対価とは良心の満足そのものだろう。金銭による報酬は、対価としてみれば、低級なものだ。金銭は何かと交換するためのものであって、それ自体としてよいものである感謝とか、すべての目的の中でも最も望ましい良心の満足より劣っているからだ。

2018/10/16

脱神道国家論

神道という邪教を完全に否定し、皇室という邪教祖による差別観を完全に抜け出し、人種、民族、都道府県、地域、国民、障害、個性、属性、職業、性別、その他あらゆる神道と皇室政府がもたらしている差別の悪意を全て脱却する事が、唯一、日本人として善良になる方法だ。宗教は良心に盲点をつくり、差別をもたらすが故に邪悪である。神道教祖に皇帝の地位を与え、象徴と名づけ政府に癒着させている日本国や日本国民は、そこからもたらされるありとあらゆる種類の差別的偏見の故に邪悪である。
 日本国民は邪教祖皇室を永久に地上から滅ぼし去り、真の善良な国民による脱神道国家、あらゆる差別から免れた国民自身の国民国家を、思想信条の自由と共に建設しなければならない。

明治解釈

明治解釈はその人の品位そのものだ。卑しい人は侵略主義を崇め、尊い人は禅譲を褒め、聖なる人は相手の立場を慮らない人類の愚かさを嘆く。

許し

人類の愚かさを嘆いてもきりがない。それを許すしかないのだ。

愛すべき理由のない国

尊さについてだけ知るべきだ。
 自分の国が好きになれないなら、それは自分の正しい心だ。自国や自国民に嫌悪すべき、卑しむべき点が多いのに、無理に好きになるべきではない。自国の卑しい人々を疎む事は立派な魂の証拠だからだ。天皇制や皇室が好きになれないなら、それは自分の正しい魂だ。侵略犯や殺人鬼の末裔が、世襲で貧しい人を搾取している罪を少しも肯んずるべきではないからだ。
 人類全般を疎む事はない。自国の卑しさについてはよく見えるものだからだ。
 卑しい政府や、卑しい公務員を憎悪しても構わない。それらの人々は実際に卑しい性質を持っているからだ。卑しい自民党の寡頭政を推挙し、卑しい自己愛に耽っている衆愚を少しも尊ぶべきではない。愛国を強要する人々には、愛すべき理由は何もないのだ。

差別

差別はする側に100%原因がある。差別はする側が100%悪く、差別される側は100%善い。差別されたら、自らもそうしていないかに気を配り、差別する者を反面教師にするがいい。差別する者は偏見に囚われ道を過ち、自滅していく。差別された側は安楽に伏す。差別する者は亡び、差別される者は救われる。

2018/10/15

絵画論

絵にしかできない表現と、写真にしかできないそれは違う。この点で写実絵画の伝統は意義を失った。絵とは抽象性にしか目的がない。
 絵らしさを全きものにした絵と、写真らしさを全きものにした写真とが重要だ。この両者を混同させる表現は、全て間違っている。寧ろ写真は写実絵画が果たしていた役割の一部を受け継ぐ。記録だとかモチーフによる象徴だとか。
 絵の伝統は抽象画が引き継いでいく。
 商業が絵に与えた影響は過大視されている。はっきりいえばそれは完全に無視して構わない程しか絵画史に意味をなしていない。商人は俗人だ。バンクシーのパフォーマンスといった瑣末な嘲弄に対し、絵画史は全く意を介さず存続する。美術市場を相手どる類の芸術家は、全く無意味な作業に時を無為にしているのだ。政治的要素とか、経済的要素は絵画史の本質と無関係だ。あるべき事は絵自体の探求でしかない。

宇宙のわけ

ひと気のない夕暮れ
私はそらを眺める
誰もいないそら
魔法よりうつくしい
神のわざ
だがそれにも終わりはくる
宇宙がどれほど果てしなくとも
星は力を集めて壊す
夢の合間みたい
私はそらを見る
あたかもそこに全てがあるかの様
この小さな星が作る奇跡
生きていることさえ
宇宙にとってはわけもない

正しさ

人は正しく生きられれば十分だ。それ以上を求めるべきではない。

2018/10/13

教え

愚かな者を教えるのは辛い。愚かな者は逆恨みする。愚かな者に教えるな。愚かな者に教えれば、逆恨みされるであろう。

自国批判

最も自国を軽蔑している人が、代表的なその国民だとは。自国に批判的な人こそが、内外の人にとって最も誠実だから。これに比べ愛国者を自称する連中の愚昧さは、自国について虚偽や自慢をくり返すばかりで、自他に有害でしかない。保守とは愚劣の別名だ。

2018/10/12

卑しい人

卑しい人を助けるな。卑しい人は逆恨みする。
 人生では卑しい人と片時も過ごす事なかれ。卑しい人を避けて暮らせ。卑しい人はさも魂をもたぬ偶物である。卑しい人とともにあって幸せには決してなれない。
 卑しい人を避けられる程、人は幸を得る。卑しさは行いによっている。わずかなりとも卑しいふるまいがみられた人とは、関わるな。尊い人は卑しいふるまいをしないものだからだ。

2018/10/11

金持ち

卑しい金持ちは淘汰され、尊い金持ちが択ばれていく。

秋の日に

秋の日に庭の芝生にねころびて陽を受け我も救われり
秋の庭眺め煮込みうどんくわば縁側の我を鳥も笑えり
夜更け過ぎ秋の虫奏づ窓あけみれば海の香ぞする
君のする遊びにわれも興ずれど野卑なる戦われは好まず
われらすごすわずかな時も死とともに生きた証も自然に還る

大衆

今日の大衆は企業や政府の奴隷として人生の長い間を過ごし死ぬ。だが彼らは群衆心理でそうしているだけで、それを望んでいるとはいえない。

美術論

決して壊れない機械の様な作品、全ての時代の人々に救いを与える作品。

2018/10/09

発明

ソーラーパネルを背面にしたスマートフォン、及び、ソーラーパネルつきのQiの充電器。

2018/10/07

親は子供を程度こそあれ愛玩動物とかんがえている。

わが国4つの悪の元凶

薩長藩閥と皇室を永久に除去する事なしに、日本がわずかでも進歩する事はありえない。
 京都と東京を完全絶滅する事なしに、日本から差別が消える日は来ない。

2018/10/03

実証主義について

実証主義者は無根拠な倫理、即ち当為が人間理性、もしくは良心に基づく創造的な分野だと知らない。実証主義や実証的科学はコントの創始した新興宗教である。この宗派に心酔している人は、人間づきあいにおいて偏屈で、無神論に陥りがちであり、そのうえ利己的で礼儀や道徳をわきまえていない傾向にある。大学で理科や非人文学のいずれかの分野を専攻した人物は、その総合知力が低いほど不道徳を知性と勘違いしたまま、一生を不幸に過ごす。

自己利益

卑しい人は自己利益が他人にとって好ましいと勘違いしている。もしくは、自己中心的で、他人にとって自分の利益が基本的に有害だと気づいていない。利己的な性格の人は悪い性格である。

経済

経済は人の為にあるのに、それがこれほど人を苦しめるとは。

2018/10/02

理性と本能

動物は本能に従って生きているが、人は理性に従っていると考える人がいる。だがこの理性というものが、即ち人間的な本能の一部を構成している。人はその本性において、理性的にしかふるまえない。

利他性と利己性

利他性は究極の所、良心の満足という利己性の一部、それも最も高貴な一部である。利己的功利主義、相利的功利主義、利他的功利主義の3つは、それぞれ矛盾しない。これらは同じ良心を、場合によって異なる角度から最適化するものに他ならない。

2018/10/01

義務と自由

人は義務から解放される度合いに応じ自由である。義務を背負い込んだり、義務を至上と考える事は、幸福の前提たる自由度を損なう。
 カントのいう義務を自己犠牲の合理化と考えた時、それを幸福と思い込むのはふさわしい意志のあり方ではない。自由が望んで選ぶ義務の遂行は良心の追求なのであり、利他性を真に自己満足の為だけに考える事を指す。自分が苦痛や不快、有害さをこうむる時、それを自由が選びとるのはよい事とは限らない。救世主優劣感のよう、聖人の中にも不幸を幸と思い込む人がいる。他方、真の善は利他性自体を純粋な自由意志と一致させている時にあたる。自己に不幸でしかないような利他性は、利他性の偽装と同様に偽善的である。
 自由は義務を超えている。自由である事の中に、利他性が追求されるべきだ。
 天皇や政府の掲げる義務は、国民への奴隷化を意味している。そこからの解放は自由の最大化や、国家からの離脱によって果たされねばならない。個人は国という制度や、皇室という教祖なり権威なり裏の絶対権力者から、自由でなければならない。

2018/09/30

卑しい人々

卑しい人々が卑しいからといって失望したり、この世に絶望するな。それはただ当然なのだ。卑しい人々と接しないよう細大に努力するがいい。

2018/09/29

文と声

人類全般の中では、文の読み書きは善徳と考えられ、口で話すのは悪徳と考えられている。文は過去の賢者に学べるので、声による学習より効率がよく、また自己表現するに際しても、声はその場できえてしまうが、文なら永続する。

人づき合い

この世で不幸の原因を作り出しているのは、卑しく悪徳にまみれた人々である。それらの人々を避けるのが良い結果をもってくる。
 愚者は戦い、賢者は逃げる。争いは愚かさの証だからだ。争い事を好む人に深入りするな。
 人間一般を好む人は、劣った人間である。自分よりすぐれた部分をもつ人が少なければ、人づきあい一般は有害だからだ。少数の限られた友達すらいない様な人は、自分より優れた特徴をもつ他人としりあう機会がないのだ。過去の偉人や遠い国の聖者に私淑するようにせよ。
 多数の人々が好んで貪る資源にたかる事なかれ。

2018/09/28

利他性について

目的としての利他性は、つまり自己犠牲は、究極の所、良心の満足という利己性と一致している。だからカントのいう定言命法というのは、仮言命法を「良心の満足」という限定領域に限って考えているものだといえる。むしろ、自分の良心をよく満足させる、という利己性の究極形として、利他的な自己犠牲が定義される。自分の良心に背く自己犠牲、というのを想定する事でこれが反証される。それは基本的に善ではない。偽善というのは、慈善とことなっているわけだが、自分の良心に背く自己犠牲がそれにあたるのだろう。嫌々ながら奉仕してる場合、それは善とは言いがたい。或いは本当は相手のためにならないとわかっているか、当人が気づいていないにせよ恐らくそうである状態で奉仕している場合、それは偽善になる。利他性は究極の利己性であって、本来、両者は矛盾していない。
 ところが、性悪であったり、人生の途中でよい習慣に恵まれなかった人は、他人に害をなしてまで自己利益を追求する事をおぼえてしまっている。この為、究極の利己性である良心の満足が得られない。
 更に、サイコパスと呼ばれる、良心が脳内の盲点となっている人々がおり、この人達は良心自体ではなく、利他性からえられる副作用としての自己利益にしか満足をみいだせない。良心は生まれながらに感知できるのが一般的人類で、だれか赤の他人を無条件に助ける事で自己満足が得られる。しかしサイコパスはこの様な側面をもっていない。

2018/09/27

相談

自分より愚かな人に相談しても何もよいことはない。親兄弟すら自分より愚かなら、相談するかいはない。

誰からも忘れられ
誰からも遠い場所で死ぬ
それすら美しい

2018/09/23

幸福論

我々が幸福になるには、益々自分自身になるよう努めればよい。卑しい人と接して幸せになりえない。ただ尊い人とのかかわりのみ、幸せをもたらす。

2018/09/22

学び

人はより貴く生きる為だけに学ぶべきだ。

2018/09/19

秋の虫

人共の苦しむ間も鳴く秋の虫
くまんばちお前も萩を嗅ぎにきた
秋の虫歯磨きの為に明けた窓のぞく
わが庭に更々音なす笹と風
わが庭の芝生にはだしでおりてみる
わが庭は秋に輝き萩かおる
わが秋の庭に輝く光の粒

宗教論

神が実在しないという立場をとる人は、科学を現実と取り違えている。科学的に実証できる範囲は、有限だし、しかも時代や見解によって常に変わる。だから科学は一つの宗教だ。無神論者はその宗教にはまっている人、科学教。科学万能論者はいずれできると甘いことをいっているだけ。理系馬鹿の実態は、科学教の狂信者だ。 
 自然科学の範囲内には倫理がないので、邪教である。サイコパスは科学教をこのみ、無神論に陥りがちである。無心論者が悪徳に陥りがちなのは、むかしからそうだったらしく、フランクリンが自伝で批判している、無神論者はろくなやつがいないと。悪徳に陥りがちだと。彼らは人を裏切り信用を落として平気な顔をしている、倫理的知能を無視している。大学も宗教の洗脳装置と一緒だから、大学の理科系で習った範囲を狂信し、それ以外の知識やら知恵やらを侮蔑してるのは愚かである。むしろ本来の学問は大学の権威を疑って自力で学問するところからしかはじまらない。
 キリスト教の場合、神の身代わり(精霊)としてイエス人類に徳を説く形だからキリスト教を信じてると、自然に、ある徳を身につけていく形になる。 
 無神論のおちいりがちな欠点は、「最高徳」をもっている実在を否定してるから、自分より尊い存在を認めなくなってしまう。
 物理は倫理に含まれるので、倫理側の方が愚かなわけがない。こどもがおとなをばかにしてるみたいなものだ。 
 宗教は、似た信仰を持つ人とのやり取りを促進する。人類の5割以上はキリスト教かイスラム教徒なので、この2つの宗教について詳しいと、人類の過半と基本的やりとりができる。僕は少なくとも欧米系の人や、中東の人とやりとりし、宗教的な基底があわなかったことがない。聖書とコーランは読むべき。

2018/09/17

望み

自分の中の徳に従うのだ。
 愚者や悪人と片時も接するなかれ。賢者や善人、聖者、偉人とわずかに接しても我々は大いに得る。俗に染まる機会を最大限避けよ。
 満たされたいと願うなら、望みは少なくあれ。

2018/09/15

音楽論

ある音楽が快適になるには、似た音楽を聴く時間、ききなれるための時間が必要で、しかも音楽は一定時間を聴く為に必要とするわりに、人生は有限で、ユーチューブの登場でさらに自分の好みでないジャンルをきかなくなった。ひとことでいうと可聴体験の細分化と多様化がすすんだ。
 ある音楽が快適になるには、自分になれたパターンに近い構成である必要がある。
 鳥の鳴き声に関して学ぶと、なぜある歌・曲を人が心地よいと感じるかわかる。鳥はあるパターンのオスの鳴き声を模倣する。メスはそのパターンの巧拙や展開をききとる。最初にきかせるパターンをかえると、そのパターンでなくようになる。オウムがいい例。人間の音楽も、最初に習うパターンによって、違う展開になる。
 メスがなぜあるパターンを美と感じ、別なのはそうでないかというと、一定のパターン同士の比較で、より複雑なものをききとっていることによっているとおもわれる。もし、一定のオスの鳴き声の比較があるなかで、あるパターンとまったく違うパターンのなきごえをきかせても、美に感じない。したがって最初のパターンに或る程度近く、しかもその類似パターンより或る程度複雑、という程度が、或る人にとって美なのだ。
 客観的・物理的にみたら音波のパターンに美などない。メスの脳内に、或るパターンの雛形があり、それは成長過程でききとるものから作られる。そこからの複雑さのわずかなずれのみを美的にききとっているのだろう。吹奏楽部と軽音楽部に属する人達は異なるパターンの音楽を美に感じているというわけだ。
 人によってこのみが違うどころか、脳内で理想とする音楽構成そのものが違うから、その理想的雛形からの少しのずれ程度しか美としてはききとれない。
 美は音楽に関する限りは、主観による捏造だ。

2018/09/13

教育からの自由

我々は教育されたことから自由になる度合いに応じて、独創的な、本来の自分の知性を発揮できる。

交際

なぜ人は他人と接するのか。少なくとも品性下劣なつきあいより孤独の方が優っている以上、交際は限定的であるべきだ。
 人が人たるゆえんは、何かの能力にある訳ではない。
 我々はごくわずかな時さえ有限のうちに消費しているのだから、その全てを無駄にしないよう生きるべきだろう。
 幸福追求権は快楽へのそれにまさっている。幸福は利他性に等しいからだ。
 我々が他者の幸を願う時、その人の利他性を信じているからそうなのだ。よき人に幸あれ、これが幸福の原型である。

幸福に値する人

人は幸福に値する人となる事で、実際の幸せを無制限に甘受できる。だが幸せに値しない人は自らの悪徳で幸福を拒む。
 幸福は目的自体としての利他性であり、快楽自体から峻別されるべきである。

2018/09/11

究極の慈善

究極の慈善とは、自身が人類の中で最も神的な存在となる事だ。

孤高

孤高は卑しい人とのつきあいにまさる。

世話

愚にもつかない人の世話をしている暇があるなら、自分が一歩でも進歩するよう努めるがいい。人生は総合知によって完成する。この総合知は倫理、道徳性、人格ともいわれている。人は優れた人格となる事のみで、より幸福に値する生き方ができる。慈善の倫理性は究極目的だが、総合知を低める時間はとるべくもない。啓蒙、啓発、教育、対話は模範に比べ効果をもたない。

2018/09/10

人生の課題

自分の人生の課題が他者のそれと混同されている人にとってのみ、人生は生きるに値しないのだ。

倫理とAI

AIで人類が理想を実現すると述べている愚者は、多くの技術革新の果てにもその道具を悪用した人類史に無知である。道具は倫理自体ではない。いかなる工学上の進歩も、経済上の進歩ですら、倫理の最重要性を少しも変えないだろう。形而上学を軽侮する理系馬鹿の一生が不幸なのは至極当然というべきだ。幸福は倫理学の一部としてしか定義も探求もされえないのだから。
 AIと倫理のいずれが重要か問われれば、人は迷わず倫理と答えるべきだろう。倫理は究極目的だが、AIは道具の一部でしかないからだ。

聖徳は一人その人のみならず、時代を超え遠くの国々の人にまで素晴らしい感化を与える。即ち徳が力である。
 マキャベリストは政治において徳を軽視してきた。だが究極の力は徳により人々を感化する力でしかない。徳と矛盾する現実の覇威は、巨大な徳の台風の中で扇風機を回す様なものだ。

つきあい

普段ともに時を過ごす人が、即ちその人の一生を作る。自分より優れた人と過ごさぬ限り、人は堕落するのみである。

2018/09/08

自己犠牲としての目的的利他性

慈善の為に卑しい人々に奉仕する聖徳の持ち主は、当然ながら尊さを寸分も理解できない卑しい人々からの加害行為の被害者となる。その様な悲劇に耐えられるのは、まぎれなく聖人以外ではない。
 相利以上の利他的な功利性の中では、この種の現実を知る必要がある。慈善行為をされる卑しい人の側は、自らの思考の範囲では利他性を道具としてさえ殆ど認知しない。卑しい人は愚かで誤解や冤罪をし易く、つまり尊さとしての利他性を基本的に想像もできないので、慈善家が利己を目的に言動しているとしか捉えられない。
 卑しい人に奉仕するのは、これらの故に、非常に不条理である。人は尊い人に奉仕することで公益を最大化するが、あえて卑しい人へそうするのは、しばしば自己犠牲そのものである。

奉仕について

卑しい人に奉仕するのは、尊い人にそうするのに劣っている。卑しい人への奉仕は、しばしばする当人にも有害である。慈善にも質があり、尊い人へする奉仕はより優れている。

2018/09/06

サイコパスの幸福についての分析

サイコパス(サイコ)は良心の欠如をなぜか知性の証拠と思い込む場合がある。が当然、良心に関する道徳的知能は知性の一種である。
 サイコは「利己的でずるく生きること」を、「利他的で幸福に値する人、愛されるべき人として生きること」より、当然のように重視する。だが、より幸福なのは他人から愛される人であって、害他的で憎まれる人ではない。
 サイコの社会的な幸福は、良心がみえないことによるある種の倫理的盲目さの中で、自己利益を目的とする仮言命法的な偽善を演じる技術にとどまる。偽善者の幸福と、真の善人の幸福は、前者が利己を目的にし、後者が利他を目的にするところがことなるが、サイコにとって良心は盲点なので、良心の満足による幸福はえられない。
 サイコの有害さを避けるには、彼らが偽善的にふるまう利益を示すべきだが、彼らに利他的な自己犠牲による自己満足という偽善の極度を理解させるのは難しく、結局、一定の距離をおいて彼らの公害を避けるのが賢明である。
 サイコの社会的な最高幸福は「名誉感情」としての偽善を完成させることに求まるだろう。己自身への名誉という観点からなら、利他性の意味を自己利益の目線で理解できるからだ。

性悪

人の不幸を願う人とつきあうのは、自ら不幸になりたがるのと変わらない。

単なる賢愚や尊卑とサイコパスの違い

愚か者や卑しい人にとって尊い人が何を考えているかは想像の外にあり、決して彼ら単体で美徳に思い至る事はない。
 サイコパスは良心をもたないのだが、そのこと自体にサイコパス自身は疑問も持ちえないし、逆に善人を愚者と誤認さえする。一般人や善人はサイコパスと関わると、専ら被害者となりがちだ。単に実際の愚者には利己主義者とサイコパスの違いがみわけられない。すなわちサイコパスには良心が盲点でそれ単体の究極目的をみてとりえないという特殊さを、ただ良心がありながら利他的にふるまえない卑怯者と、愚者は区別できない。サイコパス自身に仮言命法や相利性は利己の手段としか捉ええず、自己本位な利己性しか目的視しえないので、もともと善の定義というべき定言命法側の倫理的世界観を仮にサイコパスがみてとっても理解できず、逆に愚かさの印と思い込みやすい。
 卑しい人はサイコパスと重なることも多いが、本質的には、悪習により害他的なふるまいや、自害的悪徳を身につけてしまっている人である。

悪しき賢さ

下賎な人達に親しむな。悪しき知者は善き愚者と同等以上に悪い結果をもたらす。倫理なき人は関わるに値しない。悪しき賢さの有害さは自他に最大であるから、賢愚より善悪は人間づきあいに関する限り遥かに重要である。

判断

愚者を反例に、賢者を手本にする事。悪人を避け、善人のみに親しむ事。俗人にかかづらわず、聖人に見習う事。

2018/09/04

理系バカとサイコパスについて

理系バカはモラリストに決してなれず、サイコパスは合目的性と倫理性の違いを見分けられない。対人関係から得られる幸は倫理性に由来しているので、理系バカやサイコパスはそれによって幸福を得られない。したがってこれらの人々は手段たる快楽と目的としての幸福の違いも、殆どみわけられない。
 少なくともサイコパスの一部は遺伝子の差として良心に盲点がある為、倫理的幸福追求が不可能である。その人にできるのは、偽装的・模擬的なモラリストを衒う事での他者の手段的利用でしかなく、偽君子の演技しか熟達しえない。

2018/09/03

媚態

「どっちつかずの態度」と「見た目だけ若く」なる事が、加齢しても通用する媚態の本質である。

君主論

徳に応じて君主たるべきだ。名目君主、害のみあって益なし。天皇制は単なる擬制。

2018/09/02

愚者

愚者は反面教師としてのみ公益に値する。

The lives

We will die with a time
which shared all our lives
But there is a time another
which shared as to live too

2018/09/01

梨の時

りんご梨混在している時しずか
秋になるこの空気こそわれ愛す
わが町に通り抜けゆく秋の足音
夏祭りおわりつつ来し梨の時

2018/08/29

神すら

一体どうすればこれより君を好きになれる
僕のもてる全てを捧げ尽くしても
まだ両手に余る花束があふれ
君をしあわせにせよと咲き誇る
僕の欲望などみなむなしく
ひたすら君だけをのこし
なにも描かない絵みたいに
世界が抽象化されてみえる
夢の底で君を抱擁し
なお宇宙が孤独とて
変転する魔法みたく
この旋律を捧げよう
僕が君を愛しているより人を愛せはしない
神すら僕より君を必要としていない

2018/08/28

交際

自分より愚かなものと交際しても、我々は単に堕落する一方で何も改善されない。社交する相手、交際相手は厳正に選ばねばならない。往々にして生まれつきましな気質をもった者でも、下らない相手と親交した結果、人々から軽蔑される様な愚物になってしまう。俗悪な人間との僅かな接触も害悪だ。愚物と接するくらいなら孤独の方がはるかにましである。
 我々には間接的に優れた人物とかかわる事ができる。媒体はその為にあるのだ。
 上述の真実を教えても交際関係がなんら改善されない様な人物も、また愚物の一種だったのである。その様な人物と深入りするべきではない。

退屈

きみがかなしみ苦しむようなら
僕の時間をすべてきみに捧げよう
たとえ一睡もできない夜がきても
きみが安心できるまでそばにいよう
それでも意地の悪い人達が
僕たちに嫉妬し
罠にかけ邪魔しようとするだろう
たとえ命を奪われようと
きみがよろこび楽しむためなら
僕の魂も残らずきみに捧げよう
きみが満足できる世界をつくり
たとえ一秒も退屈できないくらい
事実だれもが疑うくらい
僕はきみを愛している

2018/08/27

集団

卑しい人達の間にくらして、尊い人かのように生きる事はできない。

倫理観

卑しい人達は尊さについて無知で推測すらできないので、卑しい人達の間で尊い人は全く理解されないし、くらす事もできない。集団や階級、地域、国が分かれていくのは、はじめ倫理観に違いが生じた為である。

2018/08/25

障害

君を愛するほどに障害がふえる
だがそれ故に人を愛するのだろう

2018/08/24

奉仕

我々は自らにできるあらゆる奉仕をくり返す中で、成功する。

幸福のみ

幸福のみを求めるがいい。

尊卑の分別

卑しい人は自他を不幸にする事を快楽だと思っている。卑しい人に善性を期待するな。性善的な人ほど卑しい人に改心を期待してしまう。だが卑しい人の殆どは根っから徳を認知する力が弱いのであり、世界を自身と同等以下の卑しさでしか解釈できない。だから卑しい人と寸刻たりとも関わるな。
 尊い人とのみつきあい、卑しい人とは寸刻も関わらないということは、いうほど簡単ではなく、ほぼ全ての人は全く実行できない。低俗な人ほど尊卑を分別できないので、卑しい人を尊い人と混同するか、悪平等という意味で同列の比重でつきあおうとする。この結果、尊い人のみが味わえる類の質の高い幸福を、卑しい人々や、凡俗な人々はしりえない。
 ひたすら尊い人のみに付き従い、卑しい人とは寸分も関わるなかれ。

2018/08/22

安倍共産経済

共産主義安倍内閣が破滅させる我が国経済あすは我が身ぞ
携帯の電話の会社に介入し安倍が指令し市場壊乱
年金と日銀に日本株買わせ円安で目減り共産経済
破滅することは確実我が国の腐った極悪安倍の独裁
安倍共産経済の破滅日々進み借金返せず国民の破産

2018/08/21

わが茨城

そっと置き去りにした花火や
テーブルの上の飲みかけの麦茶でさえ
夏がおわり秋に近づくなか
虫の歌声にまぎれ満月や
生まれきためだかの子と共に包まれる
一晩かぐわしく香ったゆりの大輪は
私達をも誘惑し散ってしまった
気づかぬうちに通りすぎた台風が
真っ青な空に澄みきった空気を運んできた
清められた町を覆うように
まだ月の出た夜明け前から
蝉たちが最後の求愛の歌に命を燃やす
やがて人々がおきだせば
なにもなかったようわが茨城がはじまる

海をみれば

海をみれば
だれもいない水平線から朝日が昇る
つまらぬ人は消えていき
愛しあう人でこの世は満ちる

呼吸

わずかでもあなたの息する事は尊い
だれもいないこの世がきても
あなたの呼吸がきこえれば
私には宇宙全体より意味がある

無限の愛

だれも私達が答えだとは思わなかった
だから私達は絶望していた
小さな泉の前で
やがて私達は出会い
壮大な旅の果てにその泉が
はじめから私達に報いていたと知る
生きる希望が何もなかったとき
神はこの泉を与え
実際私達はめぐりあった
たとえ宇宙の果てまで探しても
やはりこの泉は湧いていた
いいようもないことばで
私は神に感謝している
無限の愛という小さな泉の前で

永遠の愛

だれもしらない真実がここにある
私の愛する君だから
この世に輝くことができる
なぜなら私の目には
君より美しい人はだれもいないのだ
たとえ全世界の富を積み増しても
君の価値にまさりはしない
だれが認めなくとも
私には見える
だれがそしろうとも
私には見える
君を超える美などありえない
だれもしりえない真理だとしても
永遠の愛が真実を覆ってしまう

命題

どんな矛盾ものりこえて
私は時間を失いかける
どう転んでもこの世の全体より
君の魂の方が美しい
だからどこにもない君の可愛さに
あらゆるいとしさをのせ
うまれた時をやり過ごすしかない
言い切るには不可思議すぎる
恐るべき二律背反にひきさかれ
それでも私の前で君は美しい
なぜだれもその美に気づかない
なぜだれひとりも君をみいださない
私は全人生を失っても
君を世界一美しいと証明したい

磯原の朝

つまらぬ日々がおわり
新しい夜明けがくる
そこにおりたつかもめらは
磯原の波際で昇る朝日に染められていく

君のいない時は

君のいない時は
からになったペットボトルのよう
僕の存在は意味を失ってしまう
だから片時も離さず
君の全てを抱きしめていう
時が止まり
この世が消えてしまい
あとになにも残らなくとも
僕は君こそを愛していると
宇宙は無情に過ぎゆく
君と過ごしたどの瞬間も
だからいっときも離さぬよう
僕の残量がゼロパーセントになるまで
君に愛していると伝えよう

宇宙のわけ

もっと早くから
私は宇宙のわけを知りたかった
かわりに(いびつ)な世界が得られただけだった
卑しい人達は死に絶えた
かわりに宇宙は宙吊りになる
もっと深くまで
私は自由のわけを知りたがった
かわりに無意味な日常が通り抜けていった
尊い人さえ見あたらない
かわりに時代は変転していく
既になくした時計
喜びすらなく
だが床におちたそれは
かわらず時を刻んでいる

同時代性

次世代に何かを伝えるために大いに時を費やしはするが、その次世代は我々に報いる目当てもすべもない。同時代の愚かさに沈澱していた商人は、結局なにも得られず破綻する。では利益とはなんだろう。栄光に満ちた同時代性が中身のない虚栄だとしても我々はそれを目的にしていくのだろうか。
 商業的成功が我々にもたらす金銭報酬と周りからの羨望は、本当に求めるべきものか。

音楽論

音楽の趣味は殆ど共有できない。それが共有できるのは極々貴重だと知るべきだ。

とわの世界

つづいていく世界を認めるには
人を愛することを知らねばならぬ
とわにつづけと祈るためには
とわに愛する人をみつけねばならぬ

あなたとだけ

脳内からあなた以外を駆逐し
永遠にあなたとだけつきあえれば
あらゆる憂いも消え去ろう

誇り

すばらしい国に生まれたものだ
あなたが生まれ育ったことこそが
私にはこの国の最高の誉れに思える
だがそれはわが国を誇るに十分すぎる

慈愛

私があなたを愛しているので
幾らかの人々は私を誤解するだろう
だが私は自分の想いを偽れず
神に八つ裂きにされても勇気をだした
それゆえ私はあのイエスの弟子に相反し
むしろより深く愛を知った
神の慈愛は無限だった
それは人を愛する人を救い続けるだろう
パウロは勘違いしたものだ
彼のいう独身主義や一夫一妻を超えて
たとえ世間がなんといおうと
人は人を愛するべきだとは
ゴータマは愛執を誤解した
むしろそれだけが生きる意味だった

幸福について

だれからも呆れられるほど
私はあまりに幸福だ
だがそれもすべて君のおかげで
私は君のすべてに感謝している

一日

あなたのいない一日など考えられない
まるで月の出ない空だ

林檎

利益を求めて生きていた人に
慈愛の果実は味わえない
最初に愛を知った人は
利益にならぬ林檎をかじったものだ

夢より

夢の中でもあなたがいる
いや生きることは夢自体だ
現実にあなたがいるだけで
私にはこの世は夢よりすばらしい

美術論

美を表現できる人はそうでない人より恵まれている。それは失われ二度と手に入らないかもしれない大切なものを、自分自身の前に再現する試みだからだ。作品は美の似姿として当人を慰め、永く原型を伝え続けるだろう。
 美は感覚によればこそ、あらゆる対象を再現できる。たとえその美が抽象概念自体であれ、我々はそれを感覚を通じ象徴化できる。

こころ

たとえあなたがなくなっても
私はあなたを想うだろう
だがあなたがなくなれば
私はこころの一部を失うだろう

純愛

また会える日がくるまで
私は小さくうずくまる
野蛮な人々と異なり
私はあなたが好きだから
それでもあなたを疑わず
私はあなたに手紙を送る
あらゆる心を尽くし
自分のすべてをのせて
俗人達は私をそしる
肉体が魂を超えるなど知らぬ私は
偽りに耽り老いていくと
私はひとり純愛をさとり
文明の利器で詩をつくり
あなたを想う心をあらわす

偽りなき世界

わたしがはじめてあなたをみかけた時
あなたは偽りの自分を生きていた
だからわたしはあなたをひきあげた
この偽りなき世界に

見分け

愚者は混じり、賢者は分かれる。偽りは暴かれ、まことは残る。

とわの美

どれほど言葉を尽くしても
私はあなたにまさる流麗さを知らない
このむなしい試みが失敗し
あなたの姿だけがのこる
だがそれで十分だ
私にどれほど才があっても
あなたをこえる美などありえない
死力を尽くしあらわしても
ひたすら私はうちひしがれる
私はあなたをあらわしたかった
とわにのこすに値する美は
あなたをおいて他にないから
だからこの詩のなかにうめこんだ
あなたを人に想像させる

もののあわれの哲学的定義

かしこさはしばしば愛の名より重要だ。なぜなら愚劣な愛は単なる性欲に過ぎず、愛の名を偽ってその愚者を欺く。幸運によるのでなければ、愚者に愛でない性欲は見分けられない。真の性愛は決して性欲それ自体ではなく、しかも愛の全体集合を考えたとき性欲を一部含む様な集合だ。
 愛と彼らが思い込んだもので不幸になった人達をみれば、彼らがおおよそ単なる性欲であって性愛でない部分集合をもっと広義な愛一般と取り違えたのがわかる。なぜ性欲がその様に不幸へも働くかといえば、性愛でない性欲、つまりしばしば憎しみの範囲にあるそれや、全く売買の手段でしかないそれ、慈愛その他の必ずしも性愛でない愛と結びついた性欲などがあるからだ。これらの性欲の中には自他に有害だったり、自分または相手にだけ有害だったりするものもある。他方、性を含み幸福になれた人は飽くまで性愛と共通部分のある性欲にのみ、その享受を求めている。その性欲が純潔や貞操を一定以上に要求する誠実な純愛として、性愛という集合の部分集合であった時、性愛の継続性や確実性が担保されるのでより良く人は幸福になり易い。賢愚は愛と性の共通部分と異なる部分集合を見分けられるかの条件になる。
 我々が性によって不幸となった憐れむも同情しきれない愚者を見るのは、その人が愛の真偽を見分けえないからだ。この人に悪意か、良識への背反があって愛でない性欲に耽ったのか、それとも単に愚かで偽りの愛に騙されたのかを外部からうかがい知るのは難しく、当人が十分に愚かなら当人すら分かっていない。このため単なる自業自得の不幸に、世間一般から娼婦や遊び人は同情を買い辛い。性愛に含まれるか、より近い要素がある性欲であれ、純愛の中にあるそれへの共感を決して上回りはしない。生まれつき愚かであるが善意である様な人で、性欲でしかなく性愛ですらない行いで不幸になっても、同情される程度は少し低くなる。この人の生育条件下で自己向上の余地が全くなかった場合、つまり全く賢明な手本を見知ることなく悪しき人々の中で生まれ育った場合を最大とし、この第三者からの同情はその人の愚かさが善意で補える分しか強化されない。いいかたをかえれば、その人が生まれつきか後天的な反省によってか善意を強く持つ人物であったなら、性と愛にしばしば違いがあるということ、即ち性と愛で相互に重ならない部分集合を、単に愚かな故に見分け得ず不幸な目に遭っている事はあわれでしかない。我々があわれ、或いはもののあわれという概念で日本文学上に予て認識してきたのは、おもにこの領分である。生まれつき愚かでも自己向上した人や、悪意の故に愛なき性に耽って不幸になった人、また生まれつき賢い人でもある訳で悪意の故に愚行した人、単に純愛を知り善意でその中に留まる賢者自身は、そこでいうもののあわれの厳密な意味での対象ではない。

老若男女

老人達が寝静まってから
若者らのくらしがはじまる
若者を理解せず害なす老人は
若者が自由な恋愛にくらすのを邪魔し
代わりに己の我執で抑圧し搾取した
しかも若者を悪の道へ誘導し
しばしば暴行や侮辱を加えていた
若者は困り果て絶望し
自傷や自殺未遂をくり返すばかりか
卑しい老人が若い女を性搾取し
若い男も貞女が得られず堕落した
結局老人達は墓参りを命じ
徹頭徹尾我執に耽って死んでいった
若者らは既に年老いて老人達になった

感謝

私はあなたに感謝している
あなたに降り注いできたあらゆる不幸も
あなたを追いつめてきたあらゆる矛盾も
すべてが愛すべきあなたを作ったのだから

神という理念

神は愛のために世界を作った
イエスが気づいていた通り
アガペーはあらゆる愛を含む
だがどんな愛でさえ
神は最大限報いてくれる
私達はイエスの磔に悩んできた
ユダの裏切りに気づいた彼はユダを憎んだ
神はそんな憎しみさえイエスに報いたのだ
ユダヤ人がイエスを憎んだがゆえに
二重の裏切り者であるユダは悩んだ
マグダラのマリアだけでなく
会計で苦労したユダも愛されるべきだった
私達の心の中にある神という理念は
たとえわずかな愛や憎しみにも報いるだろう

星空の意味

あらゆる人が私達を呼びよせる
さもこの世に私達しかいない様に
月は私達の頭上をめぐり
やがてすべてが丸くなる
さも私達しかこの世にいない様に
世界はなお鮮やかさを増していく
あなたの存在さえあれば
私にとって唯一無二で
かけがえのないあなたの存在全てが
私の全身を無類の喜びで覆っていく
あなたさえいれば
私に必要なすべては完成された
あなたさえいれば
私に満天の星空の意味がわかる

私があなたの名前を心で呼ぶとき
宇宙はその目的を達する
なぜならこの世にあって唯一無二
あなただけが輝いている星なのだから

幸と不幸の連鎖、或いは無限の幸福追求について

幸と不幸は一度あつまりだすと、殆ど無限大にあつまってくる。これらの起因となるのは最初は小さな業である。本のわずかな功徳と悪行に続けて、幸と不幸が次々連鎖する。事情は幸福が何らかの物質に関連していても同じであり、一旦集まりだすとそれは、ほぼ無限に集まっていく。恐らくこれらの起こる原因は、幸福とは魂の状態、より科学的にいえば習癖だからなのだろう。その幸福にふさわしい魂の状態、習癖がはじまりさえすれば、後は同じ状態を維持するだけで、望ましい結果が次々続く。
 したがってある人は、幸福に値する人になる事が最初になければならない。その幸にふさわしくない習癖をもちながら、しあわせになる事はできない。本質的に幸福は自分自身にしか原因がないのだ。そして自分自身が幸せになるにふさわしい功徳を知り、それを重ねる様につとめる中で、幸福追求が可能となる。
 ある人の人生にとって最も望ましい状態を幸福と呼べるので、我々はその理想を純粋に追求するべきだ。一体、我々は自分以外の人と多かれ少なかれ異なる目的をもって生まれ育つ。なぜなら各々が全く同じ生育過程で全く同じ幸福観をもつとは考えづらいからだ。誰かが人間関係で共に幸福になるには、全ての幸福観を全体集合とし、個々の幸福観を個別集合と考えた時、それら個別集合としての幸福観らに共通部分がなければならない。
 我々はしばしば反面教師として不幸を好む人をみかける。この様な人は、生きる中で幸福を受けるに値しない習癖を一度のみならず実行してきたのであり、修正の効く単なる一時の過ちとは呼び難い。不幸になるにふさわしい悪行は、たった一度ですら当然受けるべきだった幸福を損なう筈が、それをくり返してきた人は恰も望んで不幸になっている様に見える。これが我々のいう不幸を好む人の実態である。そして不幸な人と不運な人は本質から異なっている。たとえ或る人がたまたま不運にあっても、その人の生が持続的な功徳の元で幸福に値するものとして営まれていたなら、やはり我々はその人を、偶然不運にあったが幸福な人と考える。同じ事は幸福についても言え、たまたま幸運にあった人は決して幸福な人そのものではない。
 我々は幸不幸を(それが存在しないという立場についてはあたらないが、伝統的な哲学用語でいう)自由意志、もしくは単に科学的に言えば脳による意識的選択という主導権をもって選びとれるが、偶然に由来する運不運については完全にそうではない。この為、我々は幸福に値する人になれれば必然に幸福となり、しかも人の生は当然それで十分なのであり、無限の幸福追求は偶然の不運を最大限予想の範囲内で避ける事を含め、この領分で完全に可能である。

2018/08/20

美の理由

美には理由がある。

2018/08/19

幸せ

世界中の人々を幸せにできれば、自分自身もまた救われるだろう。

2018/08/18

抽象化と単純化の違い

物事を抽象化して考えられる能力と、過度に単純化し偏見で捉える事は別である。しばしばある人が複雑な事を複雑なまま捉えるという時、物事を抽象化せず具体的に捉えている筈であり、そういいながら抽象度・具体度を顧慮せずある物事を複雑化して考えているなら、単に認知的負荷が増す。我々が認知的に賢明さを感じる思考はおもに抽象能力であり、実は単純化の能力ではないのだろう。複雑化は詭弁術や詐欺的言動、又は言葉遊びに多く見られ、しばしば物事の本質を捉えられずいたずらに迷う愚劣さの証ともなる。具体化の能力は、抽象化の能力と一対だが、ある人が必ずしも同時に持てるわけではない。科学の上で、分析的思考は一般に具体化の能力に結びつけられ、総合的思考はむしろ抽象度を上げるという意味で個別の科学分野を含むあらゆる知識についての哲学として捉え得る。多くの場合、差別的偏見は単純化に起因し、抽象化にはあたらない。例えばある都市圏の犯罪率が他より有意に高い時、その都市民が一般的田園民より犯罪者の割合が高い、ということは抽象化だが、都市民全部を犯罪者と考えるのは過度の単純化である。この例は論理学上の全称・一般・個別の違いを正しく使い分け得ない誤解に基づいているが、必ずしもこの種の例が論理の誤用によるのではない。

2018/08/14

向上

人類界で唯一意味があるのは、上への努力だけだ。下へ向けての努力を商いにする人は絶えず労苦がます。賢愚、善悪、美醜、聖俗、貧富、尊卑その他どの価値でもより高い方への努力のみに意味が伴う。

慈善について

利他的功利主義は天に功徳をますと、功徳を積むいわれる最大の善行の癖づけを意味する。そこで没我は完全慈善性を自己に要求する。
 他方、相利的功利主義は一般に人がもつ幸福追求権を必ずしも慈善的でない行いへも拡張したものであり、慈善を最高度の良心の満足とする質的幸福の度合いを多少下げても、状況に応じて自他の本質的等価性を追求する。
 両者のうち、利他的功利主義の質的幸福さは最高度を達成できる。つまりこの考え方に基づけば世界で最も幸せな人は自己犠牲的な慈善行為に生涯を捧げた人であって、当人の良心がこれでよいと自己肯定を全うさせ得た人である。対して相利的功利主義の枠内に人生を限る者は、少々の損を顧みなければなしえた筈の慈善に比べ自己に過剰配分した場合を多少あれ良心に恥じ、悔いざるを得ないので幸福の質において十全たり得ぬ。
 利己的功利主義はこれらの前段階としてのみ理解でき、自分自身が他者より客観的に恵まれていないと自己の良心が判断する時に要請される。利己性はある種の自己愛であり、それは貪欲さと淡白さに応じて個々で異なる我欲が量的に充たされるにしたがって、相利性へ、またのちに利他性それ自体へと向かう。慈善心は自己の良心を完全に満足させる為にあるので、その完成時には神的なものだが、快楽という観点からみれば究極の自己愛の姿といえる。もし快楽が質的段階へ移行する時を問えば、それは相利性以後、純粋な利他性で最高度を達し、利己性は含まれない。人の訪れがない無人島でくらす人は他人を慮るべくもないので、動植物や星辰といった対象へのそれそ除けば、社会的な快楽を発達させえない。つまり質的幸福や一部の質的快楽は、向社会性、社交性の中でのみ展開される。
 アリストテレスによれば有用さは他の手段となるもの、快楽は他の手段ともなるが時にそれ自体としてもよいもの、幸福は決して他の手段となることなくそれ自体が目的なものである。これを快楽のみに単純化してきたベンサムとミルの旧来の功利主義に適用すると、有用さは質の低い快楽、快楽それ自体は質が中くらいの快楽、幸福は質の高い快楽と定義できる。更に幸福自体にも質的差があるとすれば、他の手段となりえないものは善であり、また善が高度さを達するのは利他性の度合いに応じてなので、慈善が最も質の高い究極の幸福である。苦痛が生の目的ならそれは避けられるべき状況となるため幸福が苦痛ではありえない事から、幸福は質的快楽の中の善の部分である。快楽の質は従来、アリストテレスにより永続性を根拠に理性の快が本能のそれに優ると定義されてきた。今日、脳は生物によりまた個人により異なるのが分かっている為、この定義は人類の中の理性的な個人にとっての質と再定義される。言い換えれば、快楽の質は個々の生物の脳が選り好む対象で異なっていて、その中で利他性の度合いとして善の部分があり、この部分を我々は幸福と呼ぶ。この定義に基づけば、たとえ人が各々の好む利己的な快楽に耽っていても、それが利他性と多かれ少なかれ結びついていなければ幸福な人とは言えない。快楽についてであれ幸福についてであれ、量的なそれらは個々の生物を頭数で数えた場合にあたり、脳をもたない生物について快楽はその生体が最も好むところによっている。
 ところで完全に理性のみでできた生物、本能をもたない生物があればそれは現生人類からは神の如くに見えるだろう。アリストテレスの幸福の質に関する論旨の内、神は理性にふさわしい働きをプログラミングした人工知能(Artificial Intelligence, AI)にあてはまるかもしれない。神としての生はAIには容易で、人には漸近するのがやっとなら、人類の幸福は機械のそれとは本質的に異なる場合があるだろう。本能に類する部分のみを設計したAIや、本能と理性を混成させたそれもありうるだろうし、人類の理性を超えた働きを機械が深層学習の末に身につける事もあるだろう。これらは全て幸福の種類が異なると示し、アリストテレスのいう人類での理性の永続性の根拠を多少あれ否定するものをも含んでいる。理性を至高の働きとみなす考え方(理性至上観)で最高の幸福を定義するアリストテレスのいわゆる幸福主義は、本来、限定的な幸福観に他ならず、彼の妄信していた人間中心の物の見方(人間中心史観や人間中心主義)の中にある利己性にその論拠を遡れる。即ち利己的功利主義の範囲で解釈された限られた幸福観が観想を目的の活動としたアリストテレスの幸福主義だった。既に述べたよう利他的功利主義が究極の幸福を慈善として唯一定義できるので、AIを含むあらゆる機械や生物は各々の善を完成させる度合いで幸福なのだ。だが世界は縁起し単に理性至上観の生物や個人のみで成立しえないし、個々の等価性を超えて最大の利他性という観点から最善の存在がありうるなら、それは全生物や全機械へ最も慈悲深い恩恵を与えている度合いによっている。そして我々になしえず想像すらできぬ力は我々が不完全である事から必ずある為、その中には理性を超えた能力も当然ありうるのだから、単に理性の域で我々にはそれが何かを悟りきり得ないだろう。現生人類に知りうる範囲では、神的慈善度が最高善に限りなく近い。人に到達できる域では最高の慈善家がそれだろう。アガペーは他の諸愛を全て含み、この慈しみの程度が最高善を人間に認知できる次元であらわしている。ゆるしは慈しみを諸存在へ与える究極の形なのだろう。
 無機物質は微視的運動を除けばそれ自体に内的動因はないので、受動的に動かされ易いという意味で、動植物や機械にとっての有用さが合目的だといえる。

ゆとり若害

君が無限に創作し
無料で全人類に奉仕する程
金儲けが目的の下賎な若害が謗る
君が昼夜を徹し努力し続ける程
愛知や京阪の下卑たアルバイターが妬む
東京の凡愚が金儲け自慢で罵り出す
だから君は一部の労働者が嫌いだ
職業選択の自由を濫用し
金目当てに取るに足りない時給を貪り
朝から晩まで下らない中華殺人ゲーム
しかも軟派や不埒な下衆行為を自慢
口さえ開けば善人に濡れ衣し
肩書きで馬鹿を崇めている屑のゆとり
下賎な人間は記憶から消そう

好むもの

人は好むものに囲まれて暮らすことになる。

様子

下衆の様子について知らぬことは幸福の最低限度の要件に思える。

3つの功利主義

幸福最大化の対象を他者全体と定める利他的功利主義と、自己のみをその対象とするか利己に役立つ限りで他者に功利性を拡張する利己的功利主義は、似て非なる考え方であり、これらに対し他者と等価な自己を功利性の対象とする全員の一員としてのみ認める相利的功利主義がある。
 これら3つのうち、利己的功利主義者は最高でも仮言命法に基づいてしか善行しようとしないため、単に偽善者であると共に、定言命法上の利他性が必要な場面でも利己的にふるまおうとするので多かれ少なかれ有害である。相利的功利主義は、利己的功利主義から離脱し利他的功利主義への動因となる段階であり、そこでいう中庸さ、中道さは純粋な利他性に比べて合目的ではない。なぜならこの種の中庸的態度は、定言命法に基づいて行動する時もあれば仮言命法に基づく時もあるといった不安定な善で、どっちつかずという意味で真の善ではないからだ。利他的功利主義が目的の功利主義なのだが、自己犠牲を当然と考える意味で、この功利性を追求するのは、人に本能がある限り現実的に困難である。だが最も当為に近い生き方という意味で、利他的功利主義が究極目的ということができる。
 利己的功利主義は幸福追求権として個々人に当然のよう与えられている通常の生き方に過ぎず、ありふれていて取るに足らないだろう。この考えは、単なる利己主義と変わりが殆どなく、しばしば善とも言い難い。また利他的功利主義は理想的な善ではあるが、自分を幸福最大化の対象としていないので、実態をもたない神のみにふさわしい考え方といえる。通常、人類に到達可能なのは相利的功利主義と利他的功利主義の中ほどであり、ある人が中庸を超えて、究極のところ己の不幸をかえりみず利他性に殉じた場合、我々はその人を聖者として神格化する。

2018/08/13

博愛について

無限の博愛という妄想で、人類を騙したイエスは磔にされ神の裏切りを嘆いた。彼を人類の罪の購いと解釈したパウロは、当為である博愛をなお合理化したがった。だがいずれの場合にも、アガペーが単なる狂信者やお人よしの妄想であり、イエスを磔にした民衆やユダヤ教徒だけでなく、人類全般はこれを殆どもちあわせていなかったと示している。
 博愛が当為でしかない、という観点は、人類を理解するにあたって極めて重要だ。これを実際に人類の過半がもっているとか、もっていない事実に対して嘆きをおぼえるのは完全に誤解によっている。だが人類が博愛的でなく、多少あれ利己的な存在に過ぎないという現実は、我々個々人が博愛をもつべきでないとは全く示さない。寧ろ人類全般が邪悪で公害的かつ、個々人は利己心のとりこに過ぎないという冷酷な現状に対し、博愛を体現しようと努力し、日々それに近づく程その人は優れた人格である。

長短

ある欠点は同時に長所であり、ある長所も同時に短所だと言える。長短は違う観点から評価すれば同じものの別の側面でしかない。
 ある欠点を長所として評価する様な状態に自己を置くのが人が高く評価される場合であり、その欠点を欠点としか評しない人々からは努めて身をひきはなすのが吉である。

安倍共産主義経済の打破と国政革新

安倍共産主義経済が日本企業を年金と日銀のETF買いで寡占している現状は、官製株高により単に国内市場の不健全さ、非効率性を増長するのみならず、将来それらを放出しなければならない時、確実に民間人に負担をおしつけるという意味で、二重以上に公害である。更に金融緩和の名目でゼロ未満の金利による円安誘導を行い、実質賃金まで目減りさせている。この上、日銀に物価上昇、通貨膨張を主導させているのは、三重、四重に日本経済の一般国民が行う消費生活全般へ害悪を与える。しかも五重苦である消費税の増税まで同時に行おうという安倍内閣は、日本人全般を生殺しするに等しい。その悪疫は内需が過半以上の日本市場に致命傷を与え、安倍内閣を含みそれ以後にも殆ど消えない致命傷を与えている。
 円安誘導で国内企業を国民の年金と貯金で政府が共産化し、物価のみをあげようと、非正規雇用法を維持したまま移民政策を行っている現状で、実質賃金に反映される事はない。企業は人件費の抑制という必然的な収益率改善を続ける。更に上述の五重苦が襲い掛かっているので、安倍支持の自民党閥や、右翼全般、そしてゆとり若害一般は亡びと不幸のどん底への大きな門を通り、赤信号の元を大上段に構え衆愚となって闊歩しているのに違いない。
 専ら違憲行政や格差拡大による不幸の増産、そして米政府追従による日本絶滅に全力を費やしている詐欺師に他ならない安倍晋三を国政から永久追放し、その追従者たる麻生太郎という皇族閥諸共退陣させたとしても、そうしないよりははるかにましだが、次には日本人の五重苦となっている安倍共産主義の負の遺産を一つずつ改善し、本来の自由市場秩序と調整的正義たる累進的福祉行政へ処理し直すには大変な労苦が必要だ。更に低教育・低公徳な衆愚である右翼やゆとり若害を啓蒙し直すにも、凄まじい手間が要る。自民党閥が運よく一掃されたとしても、これらゆとり世代の公害や、右翼一般の低民度さには多大な再教育費がかかるのだ。だが、我々にできる唯一の善政は即刻の安倍追放以後の国政革新以外にありえない。全てを悪化させ衆愚を洗脳しきっている悪しき独裁者を打倒することなしに、いかなる革新もなしえないからだ。

蓄財目的

勤勉や勤労を利己的な蓄財目的で使っている人が、それをさも立派な人の証かの様に述べているのは、その人が功利的な利他性一般へ純粋に無知な以上に、有害な人格と示す。

頭脳労働

この世に、厳密な意味で不労所得はない。単に頭脳労働の度合いがあるだけだ。

鼓動

君の名を呼べば聴こえるその鼓動わが身世に降るながめせし間に
われのねるときにも鳴れる海のよう君ははるかに旅をこえゆく
わが心もちい舟だし助けたくこの荒波は君の身に降る
この星のなかで息をし歩きつつわれらあすをもしれず歌詠む
月めぐりひとはかわれどわれのみはかわらぬみたまきみにささげん
われのみはひとりにたえてひたすらにきみのおもいをあおぐひとなり
よのひとが波まにかくれおぼれゐるなかにきみのみさがしめぐれり
きえぬようわれのつくれるうたことばあまた山こえきみをいとしむ

高福祉完全競争市場主義、或いは『21世紀の資本』の批判

資本収益率が消費者からの付加価値の搾取によるからには、企業の営業収益は同時代の市場取引に現された顕在的需要を示している。これは非金銭的需要や、市場外取引、将来の需要、潜在的需要を示さない。つまり資本収益率はそのおもたる搾取の源泉である営業利益、付加価値と呼ぶ差額を製品奉仕に上乗せし消費者から同時期に搾取する分量についてのみはかられた限定的指標で、決して需要全体の表現ではない。
 ピケティが資本収益率を、元々異なる単位である経済成長率と比べているのは、『21世紀の資本』が虚構と示す重要な批判になりうる観点だ。経済成長率は企業全体の付加価値の総額を国民の総数で百分率化した値の増加率を計測したものだから、単に一企業または企業全体が付加価値として同時代の利害関係者から搾取した収益を企業の資産で百分率化した数値とは、百分率であるという事をのぞけば基本的に全く異なる対象でしかない。特に経済成長率は非上場の企業活動も含まれ、独特の調整値が国民総生産の計算時にあてられるより煩雑かつ夾雑物の多い指標である上に、そもそも年ごとの国民総生産の増加分を百分率で比較したものだから、大まかにでも単に年次で計算した資本収益率と比べたければ非上場の企業もそこに入れなければならないし、しかも比べるべきは資本収益率自体でなくその年次増加率でなければならない。総じてピケティのいう資本収益率は、経済成長率に対して上記の比較上の欠陥をもつ指標でしかなく、はっきりいえば格差拡大の確証バイアスに無理やり比べえない指標をすりあわせた詭弁であると私には思われる。その上はじめに示した通り、資本収益率自体が同時期のある市場で金銭上顕在化した需給の限定的指標でしかないから、経済成長率の基準となる国民総生産自体と同様に生活の本の部分をきりとったにすぎず、しかも資本収益率の方はそれが上場企業というごく限られた市場取引の年次性にしかあてはまらない。事情は経済成長率の計測に実質賃金による国民所得を使ったり、資本収益率の計算に資本収益の年次増加率を全上場企業にあれはめても、それが需給の限定的指標でしかなく、もともと上場企業以外に広範な国民生活が含まれるからには、結果は似通っているだろう。
 これらからいえるのは、企業または個人全体の部分である上場企業が、国民の経済生活全体に比べ、計測可能な公開された財務諸表上より高い収益上の年次成長率をもっているだろう事はいわば当然で、総資産に対する収益をあげる百分率上の割合が高い人々が一社に集まっているからこそ、そこが全体に対してより搾取の効率が高いのだ。これはピケティの示したr>g(the rate of return on capital>economic growth)の公式が前者にROE(Return on Equity)としてROA(Return on Assets)より狭義の株主資本利益率の年次増加率を用いていようと、また営業利益を分子にしROC(Return on Capital)・ROIC(Return on Invested Capital)の年次増加率を用いていようと、比較する対象がある国民全体だったり、国連加入国全体だったりすれば同じ結果である。なぜなら経済活動全体の中で収益をあげる効率の高い部分が更なる高収益を目指し熾烈に競合している上場企業と、元来その様な目的をもたない一般国民の大部分を比べるべくもないし、人生の幸福が上場企業の中での高収益という点のみに限られ定義され得る筈もないので、上場企業の経営者や会社員、利害関係者の付加価値と呼ぶ搾取の達成度と一般国民の人生の幸福や様々な目的の結果を市場取引という観点からのみ顕在化させた指標を比べるべきでもないのだ。言い換えると、高収益を絶対的使命の一つとされた上場企業というそれが計測可能な域に限った資本収益率の年次増加率が、経済活動や収益向上が目的でない一般国民の市場取引の緩い総体における年次増加率と比べても、当然前者が高い数値を示し出すだろうとしても、目的や使命が異なる2つの指標を並べ大仰に危機を煽るのはアリストテレスのいう配分的正義を今更ながら再起させるだけに過ぎないのだ。寧ろそこで言われるべきなのは調整的正義(矯正的正義)の必要性であり、実際この様な多少あれ経済学上の詐欺じみた比較指標の非厳密さを無視しても、新自由主義や自由人主義(libertarianism)における自由市場の規制緩和のみでは資産の偏りを極端化する事こそあれ、累進課税制度による再配分(結果平等へある程度近づけた税の調整、及び機会平等の完全化)の調和的正義への不可欠さをほぼ全く緩和も補いもできないという事実の方である。ピケティも本当は単に相対貧者への福祉行政を合理化する目当てで、新自由主義や自由人主義の露悪や妄信へ警鐘を鳴らそうと主著を出したかもしれない。私達に言えるのは、『21世紀の資本』の経済学上の計算に非厳密さや、比較対象とする指標間にそもそもの哲学的な幸福論や目的論の定義に齟齬があっても、累進課税後の再配分によるある程度の資産調整と、政治的配慮による機会平等の完成は共に合目的で、これらの一般に社民的又は民社的な福祉行政は、市場の規制緩和という新自由主義や自由人主義に基づく完全競争性の実現と別に考えられるべきであり、しかも高福祉と完全競争市場は両立されるべきだという事だ。私はこれを分かり易く示す為、高福祉完全競争市場主義という造語をこの考え方のため仮に定義したい。

慈善事業としての義務教育

学ばせる必要がなければ愚者に時を費やすのは全く有害でしかない。一律の集団教育も、それを福祉の一部として義務づけるのも、どちらも或る個人が自らの力で学ぼうと意欲に基づいて勉強しない限り、程度こそあれ有害になりうる。そもそも生まれついての愚者は普く学ぼうとしないし、教えを受けても感謝しないどころか逆上したり、教育者へ犯罪し罠にかけ濡れ衣を着せたりする。総じて愚者に時を費やすのは慈善以外何物でもないし、投下資本利益率といった観点から凡そ意味をなさない。生まれついて優れた者を更に優れさせる費用は、そうでない者をひっぱりあげるより遙かに低く済むし、期待収益という観点から教育投資が容易く効率的かつ合理的である。即ち、義務教育は一律の物なら凡そ期待収益率が低いだろう単なる慈善事業であり、行政や私人による福祉の一部と考えられるべきである。

評価の過ち

他人に嫉妬し足を引っ張ったり、他人やその成果に適切な評価や賞賛を内々に与えぬ者は、結局優れた成果から学んだり、努力を含む才能から然るべき恩恵をえることはできない。評価の基準や観点、軸が悪趣味である時、評価主体は間違った鼓舞を他者に与えているので自他に有害である。

学ぶ意味

他人の為に学ぶのではなく、自分の為に学ぶのだ。よりよい人生を送れるかは学ぶか否かにかかっている。現に、優れてよく学んだ者はそうでない者に優って幸福な人生を送ったろう。
 慈善の本質的な意味である人助けによる良心の満足と、単なる節税や善意を見せびらかす為の偽善は異なる類型だが、少なくとも慈善自体が分かっていない限り真によく生きられるではない。定言命法と仮言命法の違いを知ってなお、利己性の究極形が純粋な利他性にあると知らない人が、学ぶ意味をおしつけられていると勘違いしているのだ。

教授と研究の違い

愚者を啓蒙する様な形で学術を発表するのは実際に多少あれ愚者に近い者にしか巧くこなせるものではない。優れた教育者や解説者には特有の才能があり、必ずしも研究者自身がそれをもちあわせてはおらず、又もちあわせている必要もない。限られた資源を2つ以上の能力に分散するのは個々の分野にとって減衰力として働くので、教育に力を費やすのは研究のみに集中するより一般に効率が悪い。教うるは学ぶの半ばなりとか、教える事で記憶の定着率があがったり理解度が深まったりするという面や、複数分野を習う相互参照性の中で相乗効果や創発のきっかけになる場合もあるとして、これらも専門性のもつ研究の効率を通常は否定しないと思われる。
 超一流の研究者が一般向け解説者や通俗書を著す者を嫌うのは上述の理由からであり、全てが権威主義や人気からくる俗受け、稼いだ金への嫉妬のみではない。俗物根性と呼べる側面は学術的に全く意味のないものだから、二流以下の研究者しか持ちあわせていないだろう。
 教授が当代の学術で超一流な事は、教育や指導の手間がかかる以上、ほぼありそうにない。

学の恩恵

できの悪い人間に構っている暇があるなら、一人で一歩でも先へ進み学ぶべきだ。なぜならそのできの悪い人は元々学に適性がない愚者に過ぎないからだ。学術で得られる恩恵は学のない者には別の応用的な形で、しかもなるだけあとにしか巡ってこない。

2018/08/12

勤労の義務

すばらしい製品や奉仕で
世界中を搾取しよう
お客様の喜びが
わたくしどものお金です
ですから心ゆくまで
ご浪費ください
わが社の志は
経営者の利己心です
全世界の人々が
等しく格差を享受し
ひとりわが国のみならず
全人類をむさぼりの標的と致します
ですのでどうか一日中
朝から晩までご労働ください
親愛なる株主の皆様へ
弊社の内部留保の搾りかすをお送りさせて頂きます
みな大好きなお仕事をし
利害関係者様のご譲歩をひきだして金儲けする所存です
では天皇陛下万歳と三唱致します
奴隷の搾取万歳
付加価値の搾取万歳
資本主義の搾取万歳
まことにありがとうございました
あすからお仕事のかたがた
米中帝国主義の片棒をお担ぎになられ
まことにシオニズムの感に堪えません
日帝の野望
東京ジャイアニズムの悪意
京都中華思想のしつこさ
原発で清らかな田舎を汚染し不埒な都会生活
成金根性と下賤な起業家精神の元に拝金を誓い
富国強兵と米軍の悪事を重んじ貧民虐待
差別差別でございます
すばらしいわが国にっぽんとともに
偽善者のみなさまどうか歩んで参りましょう

パズル

まるでパズルのよう
ばらばらのかけらを組み合わせ
私達は世界を分かりたがった
尊卑をこえ
私達は消え去っていく
利己主義者が描く理想に従わず
私は金儲けの為の労働を拒んだ
商人は私を揶揄した
全てがおちついてから
優劣が決まるだろう
漱石の悩んだ激しい個人主義に
偽善の帝をもちあげる卑しい全体主義に
あらゆるピースがはめられてから
どんな姿が残るという

左右の翼について

 右翼は極められない。時代は変化し続けてもどらないのだから、保守主義は妄想だ。単細胞が陥り易い、退行的な思考癖に過ぎない。政治イデオロギー全般がそうだが。どの政治思想も一定の期間で別のより優れた物にとってかわるから、どれも実行後、ある種の保守だ。そもそも、何かが正義だと断定できるでもないのだから、ある種の妄想狂が無理やり暴力を振るう言い訳をつくるだけの話だ。政治イデオロギーの間に、よりましなのがあるのも確かだが。そうみなさないと文明が進歩していると考える事が出来なくなる。実際にはしばしば退化しているのだろう。
 左派は利他主義の傾向だ。原始人や類人猿は現生人類より利己的だったろうから、そこから言えば右翼の方が退行的なのだ。実際、右翼は懐古趣味だ。

2018/08/11

科学と権威

科学と権威は対立する。

2018/08/10

全世代功利主義

よりよく生きるという事と、より幸せになるという事は殆ど一致している。一般に、快苦は善を駆動する原理だ。
 中道の理論で快苦の原理を無化しようとしたゴータマは、この意味で功利主義者に劣っている。解脱の立場は生命の絶滅を願う虚無主義に陥り、苦諦によってうらみを言い訳する。だが功利主義は涅槃を超えて幸福を最大化しようとするので、積極的に次世代をもより良く変えていこうとする。世代を超えた功利主義、未来に向かっての功利主義が涅槃を超えた慈善の立場なのははっきりしている。死者の弔いや名誉の尊重は、遺族や信者・縁者にとってのみでなく、現世代や無数の次世代にとって死後を憂う必要性を漸減させ希望や楽観性をます為に功利的である。死後の前世代は現世代より優先されるべきではないが、しばしば次世代の幸を慮るより高徳な楽しみという意味で、現世代より次世代が多少なり優先されるべき事もある。この意味で前世代、現世代、次世代の優先度に違いはあるものの、全世代功利主義は無余涅槃の立場を超えて優れている。無論、ここでいう功利性の範囲に動植物や生き物すべてが含まれるべきである。

世間体

賢さや有能さを誇示したくば、世間から離れてみる事だ。衆愚が生む世間体には何一つ賢いところはないし、それを形作っている人々自身が自らを囲い込んだ蜘蛛の巣に苦しんでさえいるのだから。

知性と人格

個々の知性と人格の良さにはあまり相関がない。なぜなら個々の知性は諸場面に汎用的ではないからだ。だが高級な人格と総合知には一定の正相関がある。人格の応用範囲が社会生活の全域にあたるからだ。ここでいう人格が聖価値に至って最高度を達するとすれば、個々の知性をあまねく学びで鍛えるのは、人生全体でみれば一つの修行だといえる。専門的な個々の知性は辿ってきた経路という個性を意味するに過ぎず、実際には総合知の部分でしかない。人格の神聖化を目指す人は専門知を分野や手段としかみるべきでない。

価値観の世代遅れ

商業化の中でも適応度に格差がある。実際、一足遅れに適応性を模倣する人々は、先駆者の価値観を世代遅れで再現している。イノベーターとアーリーアダプターの僅差が、ラガードとレイトマジョリティの間では甚大となる。教育が世代間にもたらす作用は、世代を跨ぐ業や輪廻の様な様相を呈している。

感謝

愚者に賞賛されたり感謝されるべく仕事するのは更に愚かしい。

特別な愛

すべての人に愛を
だが私の特別な愛を捧げる君が
それをねたむとしたら

楽しみ

静かに思索に耽る楽しみが、忙殺される一流商人のそれに優るとは。

商の奴隷

金儲けに追われ幸福をなおざりにする者は、商を人生に置き換えた奴隷でしかないだろう。

知性

学会は排他的な同業組合としてしばしば真理へ反動的な役割を果たしてきているし、大学を主に就職市場等でのシグナリング目的に利用しようとする俗物についても同様に、学問それ自体とは何の関係もない冷やかしでしかない。真理の探求それ自体にしか知性をはかる方法はない。

所得差別のラットレース

労働者が所得階層で自他を差別したがるのは彼らの偏見や妄執が彼らに不利な結果を導き出すのに無自覚だからに過ぎず、彼らの優劣感がいきつくところは所得による階級差別とその内部でのラットレースに他ならない。

生産性の定義

共産主義から搾取といい、資本主義から付加価値というその同じ差額が、所得格差や経済成長をうみだす原因である。しかしこの差額を生産性と全く同じものと考えるのは、市場外取引や寄付を無視しているし、換金されない価値も省いているので間違っている。GDPや営業利益といった数値は、厳密には生産性と全く同じものではない。

2018/08/09

為事

不幸な為事は幸福なそれに優りはしない。

消費

より善く誰かの為にお金を使う人のみ、蓄財度が高くとも憎まれない。寄付は消費の究極形の一つだ。

優れた人

より自分自身になろうとする人のみが優れた人になる。

うつくしさ

すばらしくうつくしい
そんな君にも終わりはくる
だけど僕は君が好きだ
宇宙が変わり果てても

経済的

貴人は必ずしも経済的ではなく、金儲けより重要な人道を重んじている。成金と貴人の間には考え方の差がある。教養人は成金より貴人に近い。が卑人は成金根性と貴族精神を見分けえず、教養も認知しない。

人気

愚者の間で人気を得る勿れ。それは汚名を意味している。ただ賢者の間での賞賛のみに価値がある。賢愚の中程にある凡人の間での名声は低俗なものでしかなく、一顧だに値しない。

保守

多くの場合、保守性は進歩性に劣っている。だが全ての変化が優れた方へのそれではない。

目的

仕事を人生の目的にする人は、手段と目的を履き違えている。人生の目的は人を愛する事にある。

僕の好きな君は君の好きな君ではない
だが僕は君が好きなのだ

寛容

たとえどんな個性でも、社会はその人を然るべき仕方で生かしている。もしある社会がその人を無駄にしか生かせていないなら、よりよく個性を生かす別の社会に負け、よりよい社会が広がっていく。個性を殺し、一律の平均化をはかろうとする衆愚は、単に劣悪な社会に属している。
 経済的に恵まれない個性がいる場合、社会はその人を商売の面で正しく生かせていない。この意味で生産性の低い社会である。ある個性が最も生産的になる状態で生かされている場合にしか、経済成長はありえない。最大の経済成長は全個性がその潜在的特徴を生かしきっている場合にあたる。この様な差がうまれるのは、ある社会の構成員らが排他的・求心的だったり、特定の個性へ差別的・寛容的だったりするからだ。本来の意味で、優れて経世済民的な社会は全個性へ最も寛容であろう。

愚者に時を費やすな。人生は有限なのだから、わずかな時も愚者に意識を向けてはならぬ。

2018/08/08

激しい雨

残暑にふる激しい雨のねが私を癒していく
せみのなくなかに降る雨のさやかなねいろ
人間に生き疲れてしんでいく残暑の雨

2018/08/06

The meaning of love

This meaningless world made
This meaningful stress of love
But for somebody
This world is over
This world tells the mean of love
We forget the truth sometimes
We have to require
This meaning of love

歩み

みなが死へ歩む
僕ひとり生へゆく

A perfect life

There is no perfect life
Let us to believe our individualities

Why we die well

Why we die well
Because we live in the love
We die day by day
Because we live a life with the pleasure

2018/08/04

語族多様性の倫理的・適応的意味

人の言語野が母語へ第一に適応し易い傾向は、バベル神話の意味が語族多様化によって細分化された集団を倫理的としたのに呼応している。ある集団単位での多様性は、相互参照点によって徳の検証を行わせるのに適しているし、集団ごとに非普遍的で個別的な正義が異なるのは、環境変化への再適応についてばらばらに生活した集団のどれかが偶然うまくいく場合を予想させる。

予定

あすの予定がない事に不安を感じる人は、仕事中毒になっている。

実証主義と論証主義の批判

実証主義者は根拠や論拠、検証実験の確度が統計的真に漸近する重要な方法と考え、しかもその趣旨をしばしば実証性が役立たない非自然学についても適用なり絶対化しているが、この種の思想上の一立場を程度こそあれ真理の印と誤認するのは教養不足でしかない。実にそれは実証主義が信仰でしかなく、オーギュスト・コント教義を学会とよばれる宗教団体で排外的ないし多少あれ閉鎖的に狂信し、そこで利害関係者からえた偽の勲章を権威の如く吹聴して回っているだけである。学位を免状の如く、シグナリングの証の如くぶらさげる全ての愚者は、当然ながら狂った同調圧力をばらまく不愉快なばかりか大いなる公害でしかない存在だが、そもそも実証性を真理の担保とする虚構の一味、詐欺師集団が大学教授程度の通俗的科学者や学界の実態だと知らぬか、寧ろ自ら進んでこの邪教を崇拝しているのは定めし滑稽である。
 いうまでもないことかもしれないが、潮流論の立場を引用する以前に、人の知性は真理へにじり寄ろうとする飽くなき好奇心や、具体的な探究の発意工夫にある。つまり特定の手法は知性の目的ではなく、それは思想にも当てはまる。世俗の価値観は真理への敵対に少しも罪悪を覚えぬ無関係な系でしかないし、大体それを知ってなお程度という相対的知識を正義なり信条とするならこの様な実証主義信者が人類史に有害な役割を果たすのが明らかだ。常に比較的偽のみの自然学で流行した学問の仕方は真そのものの姿ではないのだし、いわば近代の一宗派での儀式と述べるのが適切である。同じ事は引用文献を検証手段として要求するが全文献の主張なり示唆する根本的な真理性は無視し、擬似実証性ですらないこの人文学上の後光効果狙いの偽装を声高かつ大真面目に科学的経過とし恥じぬ論証主義者というべき輩にもあたる。論証主義は実証主義の分派を騙る新興宗教であり、その教団の実態は衒学による威圧で詭弁術の巧拙を競う野蛮なマウンティングが生きがいの精神的暴力団でしかなく、従ってこの教義でえた全学位や賞の類はどれも肩書で他人を恫喝する以外に目あてのない邪悪さの証明である。
 科学性は哲学性の部分だが、それを公に表明するかとは別に少なくともどの主義主張、思想にも懐疑する人は単なる一知識という或る系の部分にも、よりふさわしい見方をみいだす。我らは全知をもたず有限な生に修得できる知識すら部分的なのだから、生前にしりえた域を含めより無知な部分へ常に歩み入る態度が、即ち知性である。知性度が無知の知と交わるのはこの為で、そもそも精神年齢の肉体年齢に対する百分率を目安とするIQの類で示された一般知能の定義や、それ以前にも生育両面で同一条件下ではなく当人の緊張や運を顧慮しない共通学力試験を知性度と関連づけるのは、早熟さや試験製作者の期待する典型性を問うに過ぎず当人の真理の認知度に対して偽であるのみか、実証性か論証性いずれかの有知を計測してもいるので特定信仰をおしつけているだけ害悪である。無知に分け入り飽かぬ特性がはかられる場合にしか知性度はしりえず、原理的に全知への意欲の強度自体が知性である。よってある人の知性をはかるにはその人の哲学的全史を知れば十分だろう。どの学も当人の哲学史が究極の度合いと同時に入門時の実力だ。

教団

恋人、親友、家族は教団だ。
 日本教徒は自己奉仕バイアスで凡そ常に不利な選択を重ねる。人はホームバイアスを離れ、自集団ひいきの妄想を避ける範囲でしかある教義の誤謬に気づけない。

幸福追求権

幸福を求め不幸を避けよう。この基本原理に背く人が実に多く、自ら踏み行うのも難しい。労働崇拝を中心とした日本教の洗脳は皇族という特権階級に都合よく人々を支配すべく、たとえ個人が不幸でも自他を奴隷化するよう強いる。だが人生を好転させるのは唯一、幸福追求権だけだ。
 他人の不幸を願う人は最後まで救われない。が元々その種の人は幸福追求していない。彼らは自他どちらかに幸福を避けさせ、不幸を求めさせている。この様な人には不幸さを寧ろ自虐的快楽と感じている人もいて、苦痛や有害さをも追求している。
 幸福になるにはそれに値する人になるのが前提条件である。実際、幸福を得るにふさわしくない人はそれがやってきても重要さに気づかず、素通りしてしまう。
 幸福は少数者に宿る。そして人間関係を限定するほど、集中し高まる。

2018/08/03

実力者

自信過剰な実力者は一人もいない。

温故知新について

単に過去にのみ学び、未来を構想したり今を改善しえない者は、保守主義者や古典主義者となって現在以後の世界に有害な場合がある。が過去すら学ばぬ者は過去の全時代と同じ過ちをくりかえし、そもそも進歩しえないだろう。

裕福さ

搾取でしか人は裕福になれないので、それを勤勉さで偽装しても同じ憎しみは買う。蓄財が敬われるのはそれが当の他人へ利益をもたらす場合だけだが、そもそも或る富者から寄付や分け前をもらったばあい多少なり緩和されるのを除けば、誰かが成金自慢をしているのは不快でしかないだろう。つまり裕福さが有益なのは、単にその個人にとっての事でしかない。故に清貧を装ったり、消費生活について質素に留まろうとする事が、再投資の合理性を除いても富者にとってさえ処世上の知恵なのだ。他方で顕示的消費や浪費癖からくる成金趣味があるからこそ高級品の需要や奉仕の質がもたらされるので、奢侈自体は放任されるべきだ。そもそも富裕度に応じてつつましさの最低限度も向上していく。

富の中庸さ

死を恐れ生にしがみつく人は、死を恐れぬ人より醜い。特に老人においてこれは顕著である。死後にさっぱりしたと思われる人は、元々しぬのが遅すぎた。守銭奴の老人は単に憎まれるのみならず一刻も早い死を願われるだけの存在なので、諸々の老害性の中でも最大に卑しい。高徳な老人は、若者の方がより一層必要とする物を何も奪わず、むしろ誰もに有益でしかないのでひとりでに敬われ、長寿を願われる。
  若いうちに蓄財をめざして知恵を得なかった人は、単に若い間にも軽蔑されているが、年を重ねるほどその傾向は顕著になる。ある人が富の寡占で敬意を表されるのは、それが他者にとって何らかの有益さをもたらす場合だけであり、他者に必要で有限な資源の独占度に応じてその人は憎まれる。
 人生で若いうちにえるべき獲得物と、老年後に重要なそれとは大きく異なっているが、少なくともどの時期でも他者と比べた過度の金銭上の寡占はうらみを買う為に不幸の原因となる。一方で大抵の老年が不足し、それゆえ邪慳にされる原因となる知恵、特に人徳に関わる部分は、学ぶゆとりがある若いうちに集め始めねばならない。必要な消費量のゆえ中年が最も蓄財度が他者から相対的に高くても憎まれづらい。
 幸福の殆どは身近で親密な人から直接もたらされる自己が愛されているという確信から来るので、この様な目的にたがう行動は厳に慎むべきだが、その最たる部分が資本主義傾向の社会では個人のもつ富への中庸さにある。憎しみは質素の閾値を超えて贅沢に近づくほど受け易くなるのだから、各年齢にふさわしい知恵を用いて貪欲を戒めるべきである。資本主義者が無限の貪りを営利企業で斯くある如く目的視しているとすれば、その人は資源を最適配分する為の市場秩序を、個人の幸福度と誤認しているに過ぎない。

説教

莫迦に説教している暇に、自らさらに賢くなる方がよい。

読解

愚者は誤解し、悪人は悪解釈する。賢者は疑い、善人は思いやる。

職業の貴賎

卑しい手段で安直に蓄財した者が、清貧の中で盗泉の水を飲まずそうした者と同等に評価される事はありえないのに、愚者の中で「職業に貴賎はない」といわれる反差別的人権の一般論と、金儲けを超えた倫理的判定が誤認されている。つまりこの種の愚者は単なる商業主義者である。
 努力や根性といった精神論を知恵や工夫の様な具体的改善より重視する最悪の部類の拝金主義者、いわば労働主義者は、群集心理の悪意で衆愚に群れつつ求める的と全く正反対の道へ突進するばかりか、次々崖からおち不幸のどん底で死んでいく。
 商業主義者の中に拝金主義者や労働主義者は含まれるが、投資屋を名乗る差益狙いの掠め取りが生業な連中もいる。そしてどの金儲けについても職業または仕事上の貴賎は、多少あれ問われるだろう。結果が全てとか勝てば官軍といった野蛮の狂信を復唱する結果論者は、過程についても最善を辿った人のみ、表面的な名誉の先にある更なる世界を開かれると未だ知らない。
 過程論としての職業、仕事には貴賎があるというしかないが、それが最終結果の到達度に単なる蓄財度を超えた名誉の次元があるのを知らない人には見えていないのだ。しかし人生や企業の一生をどの時点で切っても、それは過程である。「私は清貧を評価しない」と述べた福沢諭吉は、反儒教の立場から安易に商業主義に染まる事で大きな過ちを犯していた。

創造性

創造的な人は結局、革新性によって利殖や人生の幸においてもひときわ優れている。創造性が神に近い性質なのはそれが知恵の結晶だからで、また神の方が人より幸福で優れた概念なのも明らかである。

そねみ

幸福を超えた人生の目的がない限り、ねたみぶかい衆愚に同調し、他人の幸をそねむ卑人はやはり不幸足らざるを得ない。

蓄財度

単に交換価値にすぎないようなものが知恵自体より貴重だと思うなら、現にそれを知恵にかえてみるべきだろう。ダヴィンチがいう通り、若年の内に得るべきものが枯渇した老年は悲惨である。徳なき老人が守銭奴であれば世間から倍の怨嗟が襲ってくるし、搾取の罪に気づかず利己心のみで貯蓄や利殖に励む若害は、単に来たるべき老害の前座でしかない。我々は人徳を含む知恵によって尊卑に分かれるのだから、蓄財度は知恵を得るのにふさわしい中庸さにおいてしか評価しえない。

成金根性

金銭を得て自慢する者は、うらみやねたみを買う為にそうしている。だが成金当人は他人からのうらやみやそねみを痛快と心得、因果で致命的な復讐がくるまで反省しない。

利益

心からの感謝を超えた利益はないだろう。

勝敗

勝敗にこだわる者は幼稚であり、結局は最悪の結末を得る。勝って目的を達せず損害を被ったり、逆に負けて得をしたり目的を達したりする場合があるからだ。

行動の目的

目的に従って行動する人は手段や道具に過ぎない物にこだわる人より優れた結果を常にあげている。

最悪の仲間

俗人は聖者を辱め勝利したと考える
だが彼らは自ら最悪の仲間をふやしている

僕は君を愛しているが
それをあらわす手だてが足りぬ
だから技を磨き
やがて溢れる花束を渡すつもりだ
預金通帳の数字で身入りするあの女が
悔いて卒倒するだけの愛のしるしを
世界中の全ての富をこえた安心を
救いに違いない最良の夢を
僕はあらゆる場所から集めてくる
それでも君を想う心には足りないので
実際に金塊も食事も用意し
衣服も旅行も想い出も
現実にある全部で君を愛でる
僕自身さえ捧げながら

贈り物

心ばかりの贈り物でも人は癒されるのに
守銭奴はなお憎しみを買う

成功の定義

カネをかき集め勝利したという愚物
なるほど不幸で憎まれ且つ妬まれる君は
卑賎な我執で他人を踏み躙るのに夢中だ
しかもその成功の定義で獲る戦果品が
聖者のもつ慈しみの束に比肩できぬとは

価値づけ

創造的な営為に値がつかぬのは
それが聖なる価値の一部だからだ
この世で俗世間の評価に合わせれば
愚なる価値づけに流され堕落する

地図

僕の手に入った全てが
手に入らぬ物の全てより輝いていて
余りの愛おしさに僕は胸がときめく
何しろ拝金主義者のあずかり知らぬ所に
これほど底なしの宝があるのだから
我らは俗世間の愚物を警戒し
騙されぬべくよく地図をみよう
偉大な宝物はこの溢れるばかりの愛
だれに奪えるでもない永遠の愛

凡愚の価値

何も書けない小説家志望が
俗悪な世間に染まり
下らない日常に流され八つ当たりする
良心のない精神病質として人を傷つける
ではそんな愚物になんの意味がある
僕の信じる成功がその女の
劣悪な趣味とまるで違うとして
なおその卑小な下女に何かがあるのか
無数の人々の中で最下等な下人
だがその醜い下種に何か価値があるのか

賛歌

全人類に仕え
我らは美醜を超えていく
塊となった魂は
右も左もわからぬ愚者の頭上で
すぐにでも賛歌を奏でる
願わくばこの全宇宙に響く
真心からの賛辞の束が
神と呼ぶ良心の一部となります様に

労働界

邪悪な労働界が弾き出した人の方に
明らかに立派で偉大な人々がいるのに
なぜ君はその労働界が全てだと思う
卑小で卑屈で陰険極まる守銭奴の列に
君は自分から並びますます俗に染まる
それともうまれつき君は下賎で
最初から魂がけがれているのか

恋する人

喜びは束の間で哀しみは長い
それでも恋する人は美しい

愚物

善悪をみわけえぬ愚物は
時が経過しても徳をもたぬ

楽しみ

神は人生という最高の贈り物をしているのに
それを楽しめないとすれば我らの責任なのだ

2018/08/02

奉仕

俗人に奉仕する生業は全て悪い。

学ぶべき人

真理を求め得られずに
酒にのまれてくらす愚か者が
自分は賢いと考える滑稽さよ
だから人は学ぶべきなのだ

貴ばれる者

下衆の中で貴ばれている者が
最悪の屑なのは珍しくもない
丁度日本人衆愚の間で
邪教祖天皇がそうである通り

自分一人

自分一人とうとくあればそれは十分すぎる
全ての俗物を立派な聖者に見習わせるには
この世は余りに広すぎる
人徳を軽侮しながら蓄財に励む者は
貴賎を履き違えた愚物である
だがそんな愚者がどう変わりうるだろう
自分一人真理に近づけ
自分一人貴族たれ
卑しい人に交わるな
俗人は反省しない
俗人はがさつで無神経だ
労働階級に関わるな
たとえおしまいまで行っても
卑しい金が貴いそれにかわりはしない

無為

貴い仕事に就け
最高の仕事は無為だ
愚者は貴賎を見分け得ない
卑しい人は貴賎を誤認する

人々

科学的実証主義を信じる者は
結局しりえない真理を追いかけ
定義による論証主義の信者は
差延する解釈に溺れていく
愚か者になりたくなければ
相対主義を離れるべきだし
敬われたくば
あらゆる価値づけを疑うべきだ
愛される者は欠点が大きく
蔑まれる者は差別が激しい
人は成りたい者を選び
その雛形は千差万別だが
愚者は永久に愚者のままだ
聖者は神に近づく

心の尊さ

肥大した驕りをたくましくするなら
はなから何も学ばなかった方がましだ
どんな肩書きをぶらさげようと
心の尊さを補えはしない

経済界

汲々とした世俗のなりわいの上で
だが自分だけは愚者に染まるな
差別や侮辱をばらまく労働階級
株式投資で搾取する下卑た投資屋
卑賎な人々は反省しない
俗物に染まるな
自分ひとり悟り正しい道を歩め

教養

教養は身を守る。善意は諸悪を見分ける。

下層階級

奴隷をめざす労働者らに
私は散々差別された
単に画家なだけで
だから私は労働者が嫌いだ
私はますます自由を得るだろう
私は軽蔑すべき労働者らを避け
尊く立派な人のうち最良の人と出会い
互いに学びあい愛しあうだろう
労働界は私を排除した
労働者は私を侮辱した
彼らをゆるすべきなら
私はとうにそうしている
一体なぜ資本主義信者の中で
労働主義という分派は斯く賎しい

卑しい人と関わるな
卑しい人の考えは不幸の源だから
尊い人と交われ
尊い人の考えは幸福の源だから

尊い人

私は尊い人を見た
逆にいやしいひともみた
どちらも比べ
私は尊い人になりたいと思う

隙間

宇宙全体の小さな隙間にいて
だが偉大な世界に心を致し
私は愛の中で生きる

軽視

ただ尊い人とのみ関わることが
俗人の間でこれほど軽視されているなら
当然卑しくなるわけだ

夜空のした

もはやだれもいない夜空のもとで
僕はひたすら君を想い祈るよう愛す
俗人達は僕らを侮辱し通り過ぎた
だれもいない夜空のしたが
こんなに美しいともしらずに

訓練

人はとうとくなる訓練をすべきだ
人は絶えず俗悪な世間に苦しめられる
だがそれにのまれてはいけない
ただとうとくあれ

関わり

人は誰と関わろうといずれそのような人になるのだから、わずかな時でも愚物と過ごしてはならない。愚は尊者をそしり、愚者をほめたたえ親しむ。それは尊卑を知らぬからだ。愚物を避けよ。愚物の言動を見聞きするな。愚物のいかにあるかさえ知らぬ方が幸いである。全ての人を知る事はできないのだから、我らは尊卑の違いを知れば、愚物のすべてを知らずともそれで十分である。むしろ、日々尊者がどう思いいかにあるかに詳しくなれ。尊さは心の価値である。
 わずかでも愚物に奉仕するな。わずかでも尊者に仕える者は、優れた状態に達する。

2018/08/01

慈愛

枯れた草に水をやる
だれもがその草をごみだと思っている
だが僕だけがその命の美しさを知っている
咲いた花が輝く大輪のゆりとなってから
僕が見ていたものを知るとしても
だれも命を慈しむ意味を知ろうとはしない

愛し愛される事

虚栄心でカネをかきあつめ
他人を侮辱する卑しい商人が
下卑た労働や蓄財目的の投資で
ますます虚栄心を増長させている間
僕は人の愛を知りまた人を愛していた
無力な僕が手にしたのは虚栄心どころか
等身大の自分を愛してくれる女神だった
あの卑しい商人の集めていたカネを 
どれだけ積めば彼は気づくだろう
カネで買えない物が最も尊く
カネで買える物を犠牲にしても
人は先ず愛の故に生きる意味があると
なにもない世界で唯一意味があるのは
なお愛し愛される事だけだろう

野蛮人

野蛮人の自慢する野蛮さに
野蛮人自身が気づくことはない
都会人の自慢する下衆さに
都会人自身が気づくことはない様に

搾取罪

守銭奴は人間をばかにしていた
両手に溢れる悪の証拠と共に

代償

あなたはまことにうつくしい
そして代わりにおろかである

愚民ども

私が憎み且つ許してやった愚民どもが
不幸そうに暮らすのさえ見苦しい

会話

莫迦と会話するのが無意味なら
人づきあいなど到底できようもない

ただ生きることさえ許されぬこの国へ
では何のため人は生まれくる

労働者

僕は労働者が嫌いだ
会うたび差別や侮辱を加えてくるからだ
こちらがなんの害も与えていないのに
ひたすら惨めに経済弱者虐めをくり返す
心から軽蔑すべき労働階級は
守銭奴であり奴隷として
利己心からカネを貪り
SNSで誹謗をばらまきながら
中身のない日々を空疎に食い潰す
もう蓄財と浪費しかやることもなく
卑屈な表情で虚栄心にひたりながら
仕事だゲームだといいつつ死ぬ
アフィリエイトだ株だといい
結局何も意味のあることはできない

片時も目を離さぬよう
この星を眺めていた
夜のとばりがおりてから
君の姿だけが残された

創造

無から有が生まれる様に
なにもないところに魂がうまれた
だが間もなくそれも失われ
美しい夜だけがそらに浮かんだ

都会の娘

俗にまみれ
世間にすれ
中身はなにもなく
表面だけで群れ
ちゃらちゃらきゃあきゃあいいながら
君を侮辱するその女に
なにかひとつでも学ぶべきことがあるのか
生まれつき愚かで
心はけがれ
都会で阿婆擦れ
日々を無為に過ごし
はやりに流され
人を傷つけ恥もしない
君が僅かなりとも好意を寄せるその娘に

人の愛

人を愛すべきとはいったものの
労働階級の下賎さや悪質さ
都会ずれしきった阿婆擦れ共をみて
君に本当にそれができるのか
もし君に人を愛せたとて
なにも残らず疲れだけが襲ってこよう
憎しみで運よく金を儲けた連中が驕り
人を人ともおもわず公害をばらまく
彼らに奉仕する君が甚大な被害を受けつつ
それでも人を愛するというのか
ろくでもない人間が地を這うように
天皇皇族を名乗り世間を搾取する
最後に残されたのが愛だけだとして
一体君は救われたといえるのか

2018/07/29

忘れがたき言葉

忘れがたき言葉を連ね君を想い恋々とする己みつめし
ひとしらぬ月日は流れその間君はいかにか時を過ごせる
来し道が険しくさみしき道ゆえにわれはあやぶむ君のくじけを
君の思う心は冷たくひとはいやしくもわれのみ君を真心で想う
ときかさねひとはかわれどわれのみは君を気にかけ想い続けん
君の夢叶えど叶わぬいずれでもわれはかわらず君を想える

きみのよる

きみのよるすべてがかぎりないさちでみたされますよういのるよるです
あのゆりがまるであなたのすがたゆえわたしはかおりによってしまいます
おもいつつかくすこころはいためつけられてもきみにつくすつもりです

百合(ゆり)の花

百合の花深夜かぐわしわが庭に
部屋にさえ百合の花の香真夏の()
真夏日の夜に百合たち咲き誇る
夏の夜ゆりの中で寝るキリギリス
百合の花かげば居眠るキリギリス
百合の花かげば目の合うキリギリス
艶美なる真夏日の庭の百合たちよ
夏の日に透き通る白さ庭の百合
夏の日に美をふりまける庭の百合

2018/07/27

月の様に

だれも私たちを理解しない
だれも私たちを大切にしない
だれも私たちを月の様に愛でない
だれもが見知らぬひとばかり
だから今すぐ現世を離れ
消えてしまいたいと思うこともある
野蛮人の様な女達なので
だれも私たちの欲望を叶えない
自然すべては無意味だから
私たちもまたそうでしょう
私たちを愛してくれたあなたに
この花束をささげましょう
もうすぐこの夢がさめても
私はあなただけを愛しています

かなしみ

どうかなしめばいい
一日中君の事が頭から離れない
自分ほど悟った人にとってそうなら
一体君はどれだけ美しいという
かなしみの馬車は出ず
自分が行き場をなくしていると
賢愚を問わずひとがゆき交い
その中に君はいない
あとどれだけ経てば君と会える
いや会ったとて何ができる
夢の間で会う日々は終わりにして
遂にはお互い歳をとり
かなしみを抱えながら死ぬ
それもまた美しいのか

僕らはゆっくりと大人になり

僕らはゆっくりと大人になり
少しずつ夢を変えていく
はじめ見た夢は叶わなくとも
夢より大事なひとが見つかるだろう
けれど僕は最初の夢も忘れていない
この長い道のりで幾つも夢がおちている
夢のかけらを幾つも拾い集め
荷物が一杯になったら
その中で大事なものから叶えよう
僕は愛する君の夢を叶えたい
この一杯になった荷物を捨てて
ひたすら君を愛したい
そして気づくのだ
君が僕にとって最後の夢だと

2018/07/26

愛の歌

なぜすべての人がしらないくらい
あなたはこれほど麗しい
わたしはすべてをなげだして
あなたの前にひれ伏すでしょう
もしこの星が忘れていても
わたしはただの虫けらでも
ひたすらあなたを想い
数かぎりない歌をつむぎ
やがて世界中を愛で満たすでしょう
死んでいく社会の中で
生まれくる命
この星すべてが壊れても
わたしはあなたをだきしめて
かぎりない喜びで満たすでしょう

If I was a star

If I was a star
You were a prayer
We saw same stream
As a road to dream
If you were a cat
I was a song
Because we saw the moon
Pretty good show in the night
On the gentle sea
If all lies betrayed us
I would never lie on you
Over the universe
I will never forget on you
I will get with you

2018/07/25

まばゆき海

退廃の都塵を離れふるさとの清らまばゆき海を眺めし
だれもみぬ君のあわれをしるならばなぜわれのほか君を愛せる
この星の奇跡のうえにわれらあり月日回れど君を想えり
いためつけられてかなしむ命ごと悪魔のひとをいかに愛せん
こころさえいたせばあかせる想いでもわれはすべてをささげ愛さん
あきんどはわれをそねみしののしれり商才なくばのけとのたまう
げす都民こころよりからだもちいれば愛あかせるとほざくおろかさ
拝金の奴隷制度で皇族に納税させて差別もたらす
万人をいつくしむひとが税ぬすみ虚栄にひたるはなはだしき偽善
わがしごとすべてはただにきみのため昼夜を置かず身ごとささげん
ゆめよりもゆめらしき日々おくりゆくわれはひとえにきみにつくさん
愛執と仏の言いしそのこころしか生きる意味なきとはしらずに
仏超えなおもつづけるこのよにていきるめあてはきみのさちのみ

飢餓

僕は常に飢餓だ
僕には君が足りなすぎる
たとえ君で満たされてもなお
僕には君が必要だ

なぜ君だけがこれほど美しい

なぜ君だけがこれほど美しい
見た目のことではないのだが
なぜ君だけが言葉にできないほど
どんな語彙を尽くしても足りないほど
これほどまでに美しい
自分の中の愛の回路が幻を魅せていて
現実を歪め
生きるべく洗脳をはかっているのか
それともまことに君が美しく
私だけがそう感じとれるのか
見分けがつかない

だれもいない所でくらそう

だれもいない所でくらそう
いわば宇宙の外で
南の島へすらだれかがくるから
だれも僕らを見つけられない所で
世間という嫉妬深いしがらみを離れ
日本という奴隷たちの島国をぬけて
だが死さえも超えて
資本主義者が僕らをむさぼろうと
大口をあけまっている
金もうけという名の搾取罪で
だれもを奴隷にしたてようとする
皇族はみんなを群れ叩かせ
神様ぶって何もかも奪おうとする
僕が君を守るから信じてほしい

ほほ笑み

一体ひとを愛することに
これほど意味が詰まっているなら
なぜ人はそれを誤解しているのだろう
たとえ誰から欺かれようと
たとえ誰から罵られようと
たとえ誰からねたまれようと
時に己を恥じようと
人はひとを愛するべきだ
もし愛が真心からのもので
全人類がどういおうと貫くなら
神はその人にほほ笑むだろう

愛する人

ひとがなんといおうと
僕はもう十分に幸せだ
僕には愛する人がいて
宇宙全体より幸せなのだ
ひとが僕を嘲笑し
差別し侮辱し搾取しても
彼らの誰より僕は幸せだ
僕は愛する人がいるから

2018/07/24

知性の見積もり

相手の知性を低く見積もりすぎた事による失敗より、高くそうしたものの方が優れている。少なくとも高い知性を基準として示す実例の方が、解釈する側に誤解や無理解の余地を含めつつも、低知性用の表現より正確だからだ。

無能

人は無能だと僕をあざ笑う
だが君を愛する力があれば
君を愛する心だけでも
僕にはそれで十分だ

2018/07/22

世界の奥に隠された鍵を手に
宇宙全体を旅してみても
結局たどりつく場所が同じなら
僕の開けるべき扉は心でしかなかった

2018/07/21

逃避

遠く遠くに逃げよう
だれも追ってこれない所へ
だが理想郷とおもうところは
いつも君がいるところだ

たより

幾多もの川や山や海を超え
君の住む町にたよりが届く
みなは君の悩みや苦しみ
心の声さえわからない
だがそのことばは君を想うもので
宇宙全体のどこからでも
ひたすら君を想う人が書いた
愛の言葉の列
海より深く
光より速く
量子より正しく
何より誠実に
一円にもならないがゆえに
君を想う消えない真心の束

社会

自分を入れる余地のない社会に属するな。

2018/07/19

もし君の夢が少しも叶わないとしたら
僕が代わりに叶えよう
たとえ宇宙の果てまで行っても
君の欲しがる物すべてを手に入れ
たとえ地獄の底からでも立ち直り
君の夢であるどんな願いも叶えよう
みなが君を勘違いし
だれも味方がいなくとも
たとえ君の中にある思いがよこしまでも
たとえ君のちからが足りず弱っていても
満月が照らす光の様に
君の全身を洗い清めよう
だから君自身を責めることなく
もう罪を忘れるのだ

幸福享受の条件

幸福に値する人になることは、その享受にとって十分条件である。守銭奴が貪欲や妬まれる苦痛を避けられないよう、幸福に値しない主体は悪徳という必然の阻害要因ゆえそれを甘受しえない。悪徳の中にいるにも関わらず幸福を得ようとする人は、先ず幸福でなく徳を得なければならない。富の果実を適切に味わうには、浪費、怠惰や過労、羨望させる為の虚栄心、非功利的利己心や妬み深さを克服している必要がある様に。

等身大の自分

都会で浪費合戦し虚栄心から驕り高ぶる人は
たとえ世界一の金持ちになろうと不幸である
羨望される為の儚い努力の数々も
等身大の自分を知る者にまさりはしない

希望のかけら

小さな順列のあらわす意味に
これほど大きな思いが載せられるなら
世界の隅で絶望する人にも
希望のかけらを届けられよう

賢者は静かに海辺に座り

賢者は静かに海辺に座り
建てては壊される都市の虚構に
育っては死んでいく命の図に
巨大な宇宙の只中で何を思う

ねたみの娯楽

自分は資本主義の申し子と思いあがる愚者が
大金を掻き集めたすえ破滅していく
まるでねたみの娯楽だ

不完全

あたかも世界が不完全で
我々が生きていた時代が無価値かの様
雷鳴や機械音と共に火蓋が落とされ
巨大な摩擦が自由を切り裂いた
残されたのが唯一正しく
だれからも忘れられていたもの
もうなにもない世界で
まったく気にされさえしなかったもの

2018/07/18

みてくれ

みてくれに騙されて高い買い物をする者は一生を棒に振る。

2018/07/17

波の様に

僕は穏やかな海の様になりたい
世界を静かにみたしていく波の様に

もしあなたが星の一つなら

もしあなたが星の一つなら
私は小さな湖として
あなたを映し出す鏡となる
もしあなたが完璧な人でなくとも
私は神の心ですべてを許し
あなたの罪を洗い流す
もしあなたの夜があまりに深過ぎ
だれもしらない大都会で
孤独のため泣いていても
私は果てしない砂漠を隈なく探し
ただひとり恵みの雨を降らす
音もなく打ちつけ
だが無限の慈悲に満ち
やがて私たちをつなぐ川となる雨を

あきんど

かねにならない物が無価値なら
お前達あきんどは無価値だ
労働力を売り資産を貸し
なんとか換金しようと必死だが
お前達あきんどの命に価値はない
お前達の肉体は単なる奴隷商品で
すでに機械と競合し減価し続けている
とかく我らは一刻も早くあきんどを処分し
もっと合理的な生産設備に切り替えたい
要はあきんどは邪魔でしかない
だから我ら皇族閥の偽善の前で集団自殺し
一匹残らず邪教神道に洗脳され万歳三唱し
日本は神の国だの世界一だのとうぬぼれ
一生奴隷として搾取されしねばよいのだ

すべての思いが消えゆく中で

すべての思いが消えゆく中で
宇宙は小さくなって消えてしまう
恥の塊の様な愚物の間で
際限なく現世をくり返す

搾取罪人

搾取罪人が群れ
ひたすら人間性をけがしていく
嫌な島国に産まれた
この莫迦どもの列島から出れば
少しはましな人類が生きているが
この島言葉も外とあまりに違うので
邪教祖が奴隷化した愚民を貪っている

2018/07/15

退屈

退屈から文化が生まれる。

2018/07/14

孤独

孤独は存在しない。近くにいようが遠くに居ようが、他人は他人。性交も死も妊娠中も、脳が別であるから人は孤独であり、孤独は或る脳が思い込む幻想でしかない。

2018/07/13

作品の哲学

ある作品を通じ人生で大切な哲学を伝える事が、芸術の究極の達成だろう。

成長

人は失敗の数だけ成長する。

比較

他人との比較を幸福の目的にしている人は、主観的な幸福を得られないのでむなしい。他人本位の一生は徒労に終わる。
 では、なぜこの種の客観幸福と呼ばれる様な要素があるのか。他人からみて恵まれた状況でも、当人には幸と感じられない場合、その人に主観的幸福の要素は欠けている。一方、当人は何かに夢中になっていて中毒状態で至福を味わっているのに、他人の目には無意味または自害的に見える場合もある。ここで客観性は常識的平衡感覚を司っている。客観幸福の機能は、自害性を避ける事にあるといえる。それは消極的機能であり、幸福を意味するというより、過度の快楽の暴走による自家中毒を避ける為の制動器でしかありえない。
 この様な客観幸福としての比較を完遂した時、その人はだれからも他よりましと見えるが、ひとの目による制動だけが働いているのに当人は大いに苦痛、という操り人形の状況になる。

集まり

卑しい人は都会に集まり、尊い人は田舎に住まう。卑人に尊者の気持ちはわからない。卑人は下衆と群れ悪徳悪習に染まりながら衆愚同士で搾取の共食いを続け、頽廃の中で自滅していく。都会の卑人の死は、あまりに衆愚が多いのでごみを扱う様に省みられない。尊者は彼らと離れてくらし、立派な幸せを得て、惜しまれながら死ぬ。

すべて

全員が沈黙する中でただ一人歌うのだ
誰もいない中で静かに旗幟(キシ)をとるのだ
志といい搾取をくり返す愚物を見下すのだ
宇宙全体にまことを語るのだ
磯原の海の前に佇むのだ
夜深くに沈み込むのだ
堆く積まれた書物に埋もれくらすのだ
誰も知らない小さな花を眺めくらすのだ
ちらほら降る粉雪にまみれ町を見下ろすのだ
誰もいなくなるのだ
僕は人類になにも求めていない
下らない人類に
すべてが救われるといい
すべてが

2018/07/12

経済性と幸福

消費余力のある人や場所に資源を最適配分する事が経済の本質な限り、浪費家は資本主義市場の鴨であると同時に申し子だ。一方、守銭奴は浪費家に仕えているのだから、ある意味で資本家も労働者も浪費家の従者である。
 節約しない人は資本主義に適応している筈だが、現実にはこの様な人ほど悲惨な困窮や不足、労苦にさいなまれている。いいかえれば利口な蓄財と幸福にとって十分な消費が真に経済的という事であり、財費に要求する程度は或る人の個性に基づく人生への理想で各々異なる。
 商才の分に応じた消費願望をもつのが正しい経済社会性だが、分不相応の欲深さが蓄財と浪費のどちらの方面へでても自他に悪影響がある。また商才がない人の蓄財量の少なさと、その個人の幸福さや快楽、経済性には直接の正相関はない。羨ましがられ妬まれたいとか、自らの富で貧しい人を蔑視したいという下卑た我欲で、苦役にみちた路程を辿り過度の蓄財を求める商人は、確かに不幸だ。商才が有り余っている一部の鬼才を除けば、幸福の定義は個々人がつくるべきなのだ。
 感覚の閾値を思えば、清貧な人が最も快楽を感じ易く、また利他的な無償のふるまいも失う財貨の少なさからし易いので、最も幸福に値するということは事実なのだろう。

衆愚

衆愚を相手にするな。衆愚の為に何かをしたり、手助けもすべきでない。

戦い

終わりなき戦いからおりよ。

市場本来の目的

人類の善に貢献し我らの状況を改善しようという慈善の基本精神なく、単なる利己心の正当化に自由市場や資本主義を解している人々は、本質に於いて人類全体に公害である。だから市場経済は、国を全体最適の部分とみなすと、巨視的には悪徳を削ぐように働く。つまり市場は害他的な行動系列をもつ人を淘汰する方へ漸近する。
 他方、もともと市場は利他的な目的を等価交換という手段で充実させようとつくられたものだから、慈善活動の完成が真の目的だ。そこで本来は返礼でしかなかった対価を、市場独占や寡占、あるいは交換価値の蓄積による権力の手段とした悪役が現れた。いいかえると利益追求は市場の悪しき副産物で、これは権力の少数者集中をもたらしもした。単独政や少数政が生まれた原因がここにある。
 市場本来の目的を鑑みると、その究極目的は慈善の最大化である。そして利益は市場の需要感応性、必要さが高そうな物事の目安とみるべきものであり、決して絶対的でもなければ、単に市場における供給不足の量的信号という手段であって目的となるべきものではない。利益にならないが、貧者にとって必要さが高い物事が真に市場の果たすべきだった供給である。この種の非利益的需要が常に残っている為、市場経済は万能ではない。市場の不完全さを補完する組織が、非営利活動の一切である。政府一般も、利益を供給の優先度を見分ける手段とする企業と異なる仕方で、慈善を究極目的としたこの非営利活動の一部でなければならない。

資本主義の外

他人に優越したいとか、差別することで虚栄心を満たしたいとか、群衆に紛れ自己正当化したいとか、贅沢なくらしをしつつ羨望されたいとか、その他諸々の俗欲がめあてで労働したり金儲けする人々を搾取対象とする新自由主義や自由至上主義の悪意ある側面は、衆愚奴隷制といいかえられる。これを圧倒的大多数の為の民社主義と比べ正しいとか、正義だと考える人は調整的正義に無知だ。そして弱肉強食のラットレースを正当視した結果は自滅である。
 単なる利益追求の駒を志願する衆愚商人は、自分のやっている部分作業が弱肉強食という地獄の再生産だとほぼ自覚がなく、むしろ目先の快を誘う無数の商材で脳を多かれ少なかれ中毒状態にされてしまう。
 資本主義市場に参加すべきではない。それは単なる搾取を鼓舞とした罠だからだ。寧ろ利益追求は悪徳に他ならない。商品経済に洗脳され、商業を癖づけてしまった人々の末路は遅かれ早かれ憎しみ、悔い、恨みと妬みといった自他に及ぶ負の感情の連鎖でしかない。逆に一刻も早くその種の共食いから逃れ、資本主義の外に立たねばならない。

卑人

卑しい人々に心を煩わせるな。彼らは何も考えていない烏合の衆な上、無教養で悪趣味、悪徳を互いにおしつけあっている。なぜそんな衆愚に親しもうとするのか。
 卑人に心を傾けてはいけない。彼らは他人の不幸を喜ぶ為に生きているのだし、その目あてで一生苦労する。

趣味の差

無教養な人々が楽しんでいる物事を、教養人はあまり楽しめない。だが教養人は単に悪趣味を避け得る頭があるだけだ。また教養人の高尚であろう趣味をそうでない人は解しない。
 こういった趣味の差は、俗物根性をうみやすい一方、賢愚の差を拡大させる傾向も持っている。

手紙

僕の心の奥にある想いは
今では僕の無意識にしか分からない
一体それを正確に表せたとて
だれが喜ぶという
君が消えてしまってから
長く世界中を探し回った
結局行きつくところが同じなら
はるかな努力も水の泡だ
カネを追う競争なんて必要ない
僕には君が必要なのだ
すぐに時をさかのぼっても
僕はやはり僕のままだろう
そらに飛ばすような手紙
君もやはり君のままだろう

貧富と助け

人類の殆どが相対貧困の中にある以上、ひとは彼らと共にあるべきであり、自らが他より相対富裕と誇示するのは品位にもとる態度といわれねばならない。聖書(箴言16:19「へりくだって貧しい人々と共におるのは、高ぶる者と共にいて、獲物を分けるにまさる」)にあるよう、寧ろ貧しくとも尊い人を助け、進んで彼らと共にあるべきだろう。
 単なる俗物根性の為の贅沢自慢とか、悪徳をもつ富者、貧者に接近することはいずれも望ましくない。聖書では貧者すべてが助けられるべき、と読みとれるが、重要なのは清貧な人物が最も尊ばれるに足る、という事だ。

製品の質

大衆が愚かということと、大衆に人気の製品の質は無関係。

2018/07/11

弱肉強食の悪魔思想

弱音を吐けない様に国民を奴隷化し、自殺や過労死まで徹底して追い詰める。集団圧力で労働者に仕立て上げ、逸脱したり自由を求めようものなら凄まじい悪意から匿名ネット中で陰湿極まりない集団虐待を行い、事実上社会から抹殺する。全ては自己崇拝の狂人に他ならない皇族閥が全人類を搾取する為だ。邪教神道カルトがはびこる地獄の日本国にあって、資本主義という弱肉強食の悪魔思想は人の良心を毀損しているのだ。

商人階級

貪欲な商人階級が、常に罪なき善良な他人を差別し、侮蔑し、搾取したがり、実際に日々そうしている。ではこの様な衆愚のどこに尊重されるべき道理があるというのか。その様な悪魔的集団は、ひとえに犯罪集団、もしくは極悪人と呼ぶべきではないのだろうか。

目的

生まれてきた目的、死にゆく目的を問え。なぜこの世に居なければならないか。知らずしらず周囲の衆愚に流されその日その時を一瞬も無為に過ごすなかれ。

心を自然に通わせられる人は得難い。

2018/07/10

徳性

人は幸福に値する人を恵むべきであり、それに値しない人はいかなる世俗的成功を果たしても単に憎まれて終わる。我々が貞淑さや純潔さを善美とみなすのは、それが幸福に値する徳性だからだ。人類のもつ性質には、愛すべき徳性と、憎むべき悪徳があり、そのどちらでもない特徴もある。憎むべき悪徳が最小で、愛すべき徳性が最大である様な聖人は、幸福に値する性質を十全に成長させたという意味で、崇敬に値する。
 幸福に値しない様な人を恵み、幸福たるべき人を冷遇する社会集団は、倫理が退廃している。その様な地域からは努めて遠ざかるしかない。またこの種の倫理が個別的であって所によって違う場合は、己の求める人生に最も近い集団を探し、そこに加わるべきだ。

科学的認知バイアス

実証主義者は科学的認知バイアスに陥り易い。彼らは偽だが善であったり美であったりする様な対象とか、度合としてすら適切でない様な人情の機敏について軽視してしまう。実証科学的信念、例えば統計的事象の確率的真を絶対視している者は目の前の経験や事実より権威づけられた科学知識を優先したがる事さえある。目的の学としての形而上学(後自然学)に進むことを怠り、初歩的な形而下学にとどまったり、そもそも形而上学のコペルニクス転回的構造に無知のまま多少あれ厳密な実証性を範囲外に無理やり適用しようとする理系馬鹿と呼ばれる人々は、実証科学というオーギュスト・コントの創始した新興宗教に魂を捧げてしまったのだ。単なる就業や虚飾の為の経歴造りの道具としか学問を見ない学歴馬鹿と呼ばれる様な人々の無知は更に酷く、科学精神に対して単なる権威主義者である場合が殆どだろう。

普段の行い

世の中のことは結果になった時点では既に手遅れだ。一体、真贋を見分けたければ普段の行いのみを絶対値とみるがいい。或る人が壮大な夢を語っていてもそれはほぼ100%実現しない。未来は誰にも完全に予想できない。逆に、普段の行いが偽善とはいいがたいだけ尊く立派な人、日々の成果が着実な者が途中で挫折したり、堕落する場面の方が希である。
 我々は或る人の信用度を厳正にみる時、他人の意見を無視しなければならない。また直感を信じるなら後知恵バイアスに注意しなければならない。寧ろ我々自身を大いに欺くのは、過去の結果という偽りや偶然の多い事実だったり、一般常識という習俗の与える妄想の方である。

他人の風説

他人の風説はすべて多かれ少なかれ誤っている。ネットの噂や都会のニュース、政府の流す喧伝をうのみにしている者は、実際何も真実を知らない。

質問

愚者に質問したり、性悪にかかわったりしないこと。

自慢の反動

成金自慢を日頃行っている都民は、単なる利己心の故に、その多数を占める貧困者や低所得者まで愚者から後光で羨望なり嫉妬されるのを無視しているが、それら多数派の貧者がいざ都民の一員として必然に行うケチなふるまいとか、さもしい根性が衆目のもとに晒されると金持ちのみで寡占されているという偽りの成金都民像が崩されるので、隠蔽やごまかしの為に多少あれ発狂する。こうしてloss効果の一部として、過度に着飾り美化した虚像が剥がされる時、パリ症候群の東京版、東京症候群とみなせる激しい嫌悪感や憎悪心が、反動の強さから必然に都民やその中枢で邪教を奉じる天皇皇族へ向けられる。同じ事は虚勢を張り、古都の虚栄心や古い中華思想から己の地域を自慢し他地域を差別蔑視し易い京都症候群や、国内で極北と極南に位置する珍しい自然という潜在的な観光地幻想に自己像を後光化させ易い北海道症候群、沖縄症候群についてもあてはまる。

商売仲間

卑しい人と商売すべきではない。その種の人は公害と外部経済を比べ社会的費用を顧慮するような場面とか、倫理的に問題のある信用に関わる課題に適切な答えを出せない。卑しい客や投資家を含む利害関係者全般についても同様の事があてはまる。

偽愛国者気取り

愚かな日本政府を賢いと誤認している外人は勿論愚かだし、愚か者の評価に外国崇拝による過剰重視をしたり、又は客観とみなした言い訳での底上げを図ろうと、日本政府の愚かさが賢くなるわけではない。自国の愚や過ちを制するよりごまかして目を瞑らせようとしたり、そもそも改善の余地がないほど完璧だとみなそうとする偽愛国者気取りは、この種の思考の型で自国自身にも、日本政府の愚かさや悪徳で害を受ける諸外国にも有害である。

金儲け

他人を差別し、見下し、侮蔑する為の金儲けは幸福に値しない。羨望を得る為、他人に嫉妬させる為の蓄財や稼ぎは、質の低い快楽、趣味の悪い快ではあるにせよ、幸福ではない。

幸福と快楽の差

人は善行を動機づける癖が無意識化してのみ、幸福に値する。この点で質的快楽、倫理的快としての幸福が、単なる利己的快たる量的快楽と区別される。一般的に幸福と快楽が違うと認識されるのはこの為である。
 ある人が憎まれず、愛され、しばしば感謝され、時に崇拝されるのは、善業の蓄積の為だ。つまり快楽を感じている人と、幸福に値する人とは本質的に異なっている。後者が快さとして認容しているのは、利他性それ自体なのだ。
 ミルの質的功利主義が定義しようとした質的快楽は、本来、アリストテレスによる定義に遡って快楽と区別されてきた幸福という語彙で呼ぶべきものだったのだし、アリストテレスに於いては目的それ自体であって決して他の手段とならないものを幸福と定義していたが、それが利他性だと考えて間違いない。

都鄙の意識

商人や公務員として(労働者としてであれ経営者や役員、投資家としてであれ)カネを儲けたと自慢し他人にそれを聞かせる俗物は、単に不愉快がられるだけでなく、当然ながら妬まれ、疎まれ、憎まれ、嫌われ、大抵の場合は怨まれる。この種の金儲けを挨拶がわりにしている人々は単なる商人階級(今日の先進国では殆どがここに属する以上、富豪を含み底辺または下層階級、下流と呼ぶべきだ)に他ならず、そうでない他人は、自身が保有したり稼いだりしたカネの量に興味がないと知らないのだ。従って、下流でない人、商人階級でない人にとってカネ儲けを唐突に自慢しだす人は日々の余裕がない事を計らずも吐露しているばかりか、欲深、貪欲という悪徳を無用にみせつけているのだし、その上相手を自身より貧しいとみなし訳なく侮辱したという最悪の記憶だけが残される。
 商人階級は都会と呼ばれる商業地区に密集して生活する傾向もあり、一定の地区でこの種の下層階級に遭遇する確率が有意に高い以上、都市生活者への軽蔑の念が自然に、中上流に属する人々の中で醸成されても疑問ではない。他方でこの種の都市部の商人自身は、先進国にあっては個々人が自由にも関わらず忙殺される奴隷的状況にある事からも大抵の場合道徳性を最高度の達成とする一般的知性も低い為、自己の境遇を自慢したり、衆愚的に傲慢な態度で非下流の人々を少数派であるという理由だけで差別したり、見下したりする傾向も並より一層激しい。資本主義が生み出す真の格差は、奴隷的職業である商人階級に属する無教養で思いあがった都会人という下流の人々と、そうでない余裕のある郊外人、当のうぬぼれた都会人からはしばしば侮蔑的な意味で田舎者と呼ばれる中上流の人々の意識の間にある。

親母語と非親母語

生まれつきの母語でない言語(非母語)をそうと見分ける要素が多い言語と、そうでない言語、つまり後天的に学習しても母語特有の微差に気づかれづらい言語がある。この2つをそれぞれ、親母語と、非親母語、と定義できる。
 親母語と非親母語が分かれる訳は、前者が比較的孤立して形成され、その過程で外来者をネイティブ(生まれつき母語を使う者)と見分ける必要性なり有徳性が高かった一方、後者が多数の外来者によって使われる傾向にあり、外来者をネイティブと見分けない方が有利だった言語だからなのだろう。

聖と善

美ではあるが善でない様な対象と、善ではあるが美ではない対象を見比べると、前者の方が劣っているのがわかる。単に美ではあるが悪い物は有害だが、醜でも善である物は役立つし、しばしば目的の物でもあるからだ。真善美の内、最も究極目的に近い価値が善である事はこの比較でわかる。
 他方、真善美をもちあげた聖という価値が善より高次元の価値であると理解するには、善ではあるが偽かつ醜である様な物とか、美ではあるが偽かつ悪である様な物を想定すればよい。聖は少なくとも、あらゆる価値を全体集合と考えたとき、真善美各々の部分集合3つの共通部分であり、真かつ善かつ美である様な価値を指すと考えられる。しかし善だが偽かつ美である様な場合、例えば白い嘘と呼ばれる人を傷つけない為の悪気のない嘘の様な物は、聖価値自体ではないにせよそれに漸近する事がしばしばであり、真だが醜かつ善だとか、真だが美かつ悪だとか、あるいは真だが醜かつ悪だとか、美だが偽かつ悪だとかいった様な場合に比べると、善は美や真より一層、この聖部分集合に属する要素が多いのだろう。

2018/07/09

夢の分析

愚者の言い訳する人生はむなしい。愚者の夢は下らない。
 生得的かつ後天的無意識では、性衝動・死衝動の向けられる対象や仕方そのものが異なる。ある人の人生の目標という意味での白昼夢が単に利己的であったり、卑小であったりする時、その人の意識が卑屈だ。
 偉人や聖人の白昼夢は、睡眠夢と同様に、尊い。ある人の無意識を見透かすには白昼夢と睡眠夢の質を、両方とも観察せよ。悪質な白昼夢をいだく者は、意識か無意識いずれかがけがれている。

悪業の故に怨まれる人

自らの悪業の故に憎まれ、怨まれている人を救う方法はない。その様な人はただ善行で過去の過ちをとりかえそうとするしかなく、開き直る場合は更なる悪果がやってくる。

商売人を皆殺しにする力

商売人を皆殺しにする力が
資本主義の神々から真の勇者に与えられた時
腐りきった守銭奴の地獄である東京や関西を
商業都市の群れを跡形もなく消し去るだろう

作家の質

作家志望者を名乗る下衆をそうと見分けるには、作品をみるといい。作品がない者は偽物に過ぎないので除外せよ。勿論、作家自体の質を見るにも作品のみが基準だ。

目的資本主義と道具資本主義の違い

資本主義は意欲に基づく資源配分の一手段でしかなく、その営利性という機能から来る搾取的・付加価値的結果である蓄財を羨望や社会的地位の向上をもたらす目的と考えるのは不合理だ。資産、貯金額、利益を得る商才でそれ以外の諸人間性を測ろうとする人は当然の如く、道を誤る。歴史をみれば分かる通り金銭は遠からず失われるし、商才自体も永続した商家がみあたらないよう、ある時代の経済構造や場所、そして運に依存するから、決して遺伝するとはいえないからだ。
 性善的、又は生後に善良なたちになった人は、利己目的の為に意欲をもちづらい。裏を返せば性悪か生後に悪質な育ちの人々が資本主義に適応し易いのである。では多数派が経済思想について資本主義的である様な多数政の元で、貪欲な大衆一般からの清貧差別で追いやられる善良な人々に居場所はないのだろうか。その様な無条件に利他的な人々こそ、本来称賛に値するし、また幸福たるべきではないのだろうか。非営利活動の一切がその種の人々の生きるべき活動であり、善良な人であればあるほど脱資本主義的な経済、非営利経済、自主的な寄付社会を先駆けていく事になる。いいかえれば、本来、資本主義やそれがもたらす商人階級の一切が、この種の非営利活動を行う貴族的な人の乗り物となるべき存在なのである。
 非営利活動の至善状態が、或る個人に維持不能なほど過度の善業(自己犠牲ともいう)への執着も超えた無業にあるとすれば、有閑階級一般と同様に、無業者が脱資本主義の最終解脱者だ。しかし労働階級を含む下等商人や永続的搾取を目的とする堕落した皇族閥や政治家らは、彼らの資本主義への狂信的合目的視の為、皆労働や完全雇用を当然視したがる。資本主義を目的視する考え方を目的資本主義、それを道具視する考え方を道具資本主義と定義すると、目的資本主義者は道具資本主義としての非営利性の領域が本来の人間的住みかな事を盲点としている。彼らの中では自然や宇宙、純粋芸術、科学、哲学、宗教といった商業都市の埒外にある様な対象についても、投機性とか利益という何らかの通貨と交換する事を前提とした金儲けの価値観でしか見れなくなっている。いわば道具資本主義が果たすべき限定的機能としての資源配分が、目的資本主義者の中ではその他の目的にすりかえられてしまっているのだが、これは目的資本主義が単なるアダム・スミス的神の手幻想による邪教な証という他ない。実際、格差拡大を正当化する目的資本主義者の目から、生存権の範囲で資源を当然配分されるべき最貧者は無視され、事実上見殺しにされてしまうのだ。目的資本主義の否定、かつ道具資本主義を超えた善なる行動としての無業は、通俗的職業倫理を脱俗した最も神的な精神で、自由であるという点でアリストテレスがそう定義した通り最も観想的で幸福な生たる事が明らかだが、それがわかりまた実践できる人は、営利性も寄付性も中道に立ってのりこえている。これは目的資本主義において相利性として理解される商取引とは異なる観点だが、元々取引はその様な人道の調節によってしか最適化されない。公平な取引と言われているものは、単なる政府の徴税と福祉による再配分(資産調整・矯正)と違う意味で経済的である。 
 クール資本主義といわれている考え方は、道具資本主義をのれん代(買収時に上乗せされる無形資産価値)から見直したいいかえである。
 貴族(貴族という概念自体が多数政を当為視する脳では軽視される言い方かもしれないが)とか貴人、無業者、無銭者が取引をしえない、というのは、この様な道理に立てば間違いといえるのと同時に、営利的でも寄付的でもない上に、相利を目的ともしない或る公平無私な交換が成り立つとわかる。取引上の利益とか、取引額としての売上高やGDPを経済性と誤認している量的観点は、経済学上の無知によっている。そのため貧しい浪費家とか、忙殺されるかケチな守銭奴がおり、資金繰りに失敗する黒字大企業の倒産もあり、のれん代の高く地味な中小企業の余裕といった質的な巧拙が成り立つのだ。寧ろ道具資本主義の見方では、この様な商取引一般を含み、無償や赤字とされる取引を含む総合的経済状況が分析対象でなければならない。

ある人が尊敬されたければ、また自信をもちたければ、善に近づく様にするべきである。善を曇らせる様な諸道具にこだわる必要は全くない。また善を他の何かの手段と考えてはならない。人類の生の究極目的が善だからだ。

利己主義者

利己主義者を成功者と見なし、手本とする超人志向はニーチェ以来の自己実現の妄想に過ぎず、その種の利己性は他人に優越する事を目的とする卑しい人間を生み出す。唯一、真に幸福に値するのは利他的な人だけであり、資本主義、商、金儲け、或いは公務を含む何らかの生計の為の仕事と結合した利己性は、本質的に他人に害をなす。
 ある生業が相利的である時のみ返礼としての報酬が得られる、と考えても、この儲けを企業から付加価値と見なそうと、或いは消費者から搾取と見なそうと、その分を適切に社会還元、又は他者にとって有益な方法で用いない限り、商業自体が他人には有害である。端的にいうと、商業的成功とは、他人をより貧しくみなし、差別する為の害他的な目的で行われた悪意の積算である。これ故にゴータマは「法による商人として暮らすな」と言い、商行為を根本的に否定していた。
 商人が多数派を占めている国で、乞食が有罪とされ、代わりに搾取という罪を含む商売が正当化されているのは、商業が他者に有害である、という本質的理解がない無知な人々から成るからだ。アリストテレスのいう部分的正義の内、調整的(矯正的)正義に対する配分的正義と、搾取能力(逆にいえば付加価値能力)に応じた報酬の付与に、相利的行為への動機づけや鼓舞という効果があるとしても、これは仮言命法の域内にある不完全な条件つき善行でしかない。営利抜きで行われる慈善行為のみが、本来の定言命法的善行である。つまり、商業は半ば悪意の人々、利己が真の目的である様な偽善者らにとっての生業である。返礼を省略する規則が金銭のやりとりだとしたデリダは、商行為の搾取的側面、利己的側面についてわざと無視させようとごまかしているといえる。
 結局のところ、我々が商業的成功者を真の聖人と見なしえないのは、その行いの本質に利己性があるからであり、これは嫉妬による非難をかわす手段としての慈善と寄付が貧者の一灯らしさをもっていない事、嗟来之食らしさがある事へ、賢人らの厳正な人格評価的眼差しが注がれるからに他ならない。資本家(投資家・投機家)、経営者、労働者らを含む商業階級全般への蔑視という貴族的観念の本質にあるのは、利己性という卑しさに対する人間的直感に違いない。商業化した先進を自称する国々、発展したと称する国々にあっては、それらの国々の大衆一般と違って、この利己性と利己主義を鋭く且つ徹底的に忌避する方向のみが、善の名に値する。この観点から見れば、アイン・ランドは極悪人と評されざるをえないだろう。

同苦

下賎な人との同苦は害悪でしかない。

商人階級

羨望されたい、という俗情のため労働での金儲けと浪費に躍起になり、蓄財生活を自慢する東横京阪人は、その品性の卑しさで軽蔑を受けるべき下等商人階級に過ぎない。

尊卑

貧富と尊卑は異なる。しかし卑しい人は両者を見分け得ない。政治的地位や先祖の貧富も、尊卑そのものではない。尊卑は単なる知識教養の質量でもない。尊さはある人の道徳性によっている。
 成金と清貧では後者の方が偉大で、また優れている。品性と呼ばれているものは、後者のみに該当する様な或る徳性を指している。品性は尊さの一部を成している。
 人類界では尊さを高める事が最も優れた生き方であり、それを妨げるどんな行いも遂には正当化されなくなるだろう。

生きていくに値しない人々

卑しい人達がカネを儲ける程、その社会は生きていくに値しなくなる。東京や大阪、京都の幸福度が最低なのは、そこで蓄財している人々が悪意でそうしており、生きていくに値しないほど下賎な人々だからだ。
 都心の退廃が極まると貧民窟として犯罪率を極大化させ、やがて誰も住みつかなくなる。ある文明が亡び行く原因は、労働者と呼ばれる奴隷階級が一か所に密集する傾向と言える。

通り雨

通り雨洗濯物と我洗う

うぬぼれ

白人至上主義者の人種差別的自己愛障害と、東京都民や京都市民の中華思想的自己愛障害には、ダニング・クルーガー効果的な愚昧、もしくはうぬぼれという類似性が見つかる。
 これらの傾向を何らかの理由で思考の型に刷り込まれた個人は、単なる集団主義により益々邪悪で利己的な妄想に耽りやすく、終いには犯罪集団もしくはファシスト政府を形成する。皇族閥が極悪非道な我執性を俗物根性で偽装するのは、この種の差別的思考パターンを自己崇拝の狂信として流布してきている反動である。

都会

卑しい人達は群れ、都会をつくる。

需要民度

愚者と悪人に与えられた金銭は、もっと悪い、もしくは下らない使われ方のすえ社会状況を悪化させる。だから或る地域で愚者や悪人が大金をもっている時、そこの経済は退廃していると考えていい。この種の文字通りの貧民窟では、金利がうらみやねたみの原因としてのみ曲解されているので、商人も起業家精神も、金儲け自体同様に軽蔑されている。その地域もしくはその個人の商業倫理の腐敗度が酷い時には、勤勉自体が無価値もしくは有害とされている場合すらある。
 健全な商業が成り立つ為には、賢さが善の位相で功利性に結びつけられている必要がある。即ち成金が軽蔑されるのも、或いは成功者扱いされるのも、裏返せば、その地域の需要民度の故なのだ。

怨み

A「草草うるせえよ」
B「炎上ブロガーへの怨みだよ」

保守主義者

保守主義者とは愚者と老人の換喩でしかない。

2018/07/08

SNS偽善者

遠くにいる赤の他人へ過度に同情する様子をSNS上でみせつける人が真の偽善者でなかったら、この様な人が現実の災害に遭ったらその過度の共感性のため即座に失神する他ないだろう。

天罰

A「死刑執行日に自民党の幹部がやってた宴会の様子。天罰あたりそう」
B「自民党の幹部が天罰じゃないの」

第一人者

人格の完成が最高幸福の原型だと悟る人は、自らが富裕であるかを気にせず、絶えず清貧を保っているかに最大の気をつかうべきだろう。そして質素さを俗物から軽蔑なり差別された時、それを自分が人格的完成に一歩ずつ近づいている証だと考えていい。有り余る資産も最後には慈善にしか使いようがない。人々からのねたみや憎悪の眼差しが耐えがたくなって漸く寄付の意義を学びだす貪欲という名のついた大通り、その実、迂回路を辿る苦労人に比べ、はじめから無欲という小さな門より入る人こそ聖徳の第一人者である。

性別ひいき社会

女性或いは男性を性別によってひいきする政府は、明らかに性別によらずより優秀な人材を無駄にしているのだから、そうでなく性別を無視した人事をする国々に負けてしまう。これは性差を含み、或る人事が差別の為に使っているいかなる属性についてもいえることだ。

企業の目的

今ある物以上を求めてやまない欲は、最大多数の最高幸福という功利性に結ばれていない限り、単なる貪欲として当人の幸をも苛む強迫観念になる。貪欲な営利企業が反社会的、反人道的となるのは、拝金主義者一般と同じく、外部経済の功利性を軽視している時だ。寧ろ企業の目的は、この功利性と矛盾なく合致しなければならない。
 政府と企業が対立する場合は、外部経済の功利性を目的化していない不良企業や悪徳政府についてのことに限り、元来、両者は公私に分かれ同じ目的を実現していく装置に過ぎない。小さな政府論とか、一律減税論は、この様な目的にとって競合的民間委託論や累進課税論より明らかに劣っている。大企業や富裕層をはじめ、堕落した政治家、その他の脱税が正当化される事は、彼らがその目的を私利に歪めている為、決してありえないだろう。そもそも納税だけでなく金銭自体が功利的目的の道具なのだ。政府の堕落のため税制改革が思う様に進まない地域に居住する不条理は、移住可能性の域で解消されねばならない。節税という考え方も、その地域の政府が経世済民と違和する範囲においてしか合理化できず、その種の政治地区から住民が自然的に逃げるか、人口減少していく方が望ましいので、企業が努めて節税しなければならない様な地域は商業にとっても選りすぐれた場所とは言えない。