2019/02/17

の、ん、む、ぬ、の研究

「の」は終助詞として1.柔らかい断定(例「私は知らないの」)、2.問いかけ(例「何がすきなの」)、3.命令(例「だまって食べるの」)と3つの意味がある。一方、関西弁の終助詞「ん」(例「うちは知りませんねん」)はこの「の」が訛った形であるとする。
 ところで標準語の「ん」 は、古語で推量などの意の「む」と、打消しの助動詞「ず」の連体形であった「ぬ」が混同されながら崩された助動詞としても使われている(例「どうなんだ(推量。上代東国方言「なむ」と、連語「なむ」の混同)」「俺は知らん(打消し)」)。
 ここで、関西弁の助動詞「ん」(例「わしは知らへん」)は、上述の標準語の終助詞「の」が訛って使われている時としばしば混同され、上述の終助詞「の」の3つの意味(柔らかい断定、問いかけ、命令)と、更に「む」から推量、「ぬ」から打消しの意味が加わり、多義的で曖昧になっている。
 まとめると、関西弁の終助詞・助動詞「ん」が含んでいる意味は、
1.柔らかい断定
2.問いかけ
3.命令
4.推量
5.打ち消し
と5つあり得、この語の意味を知るには文脈に依らねばならない。
 また、標準語の終助詞「ん」は、古語では推量の意味で助動詞「む」か、打ち消しの意味で助動詞「ぬ」として使い分けていたので、平成時代の時点で、短歌や俳句など擬古文の詩語として残るこれら「む」「ぬ」という日本語は、本来伝えたい意味を文脈に依存せずより明晰に伝えるのに有益である。

おべっか使い

トランプの心の壁を省みずアメリカ二軍でおべっか使い

死が救いである為には限界まで利他的に生きるといい

自分が死を救いと感じられるよう生きるがいい。生前に己の限界まで利他的に生きていたら死は恐れるものでなく、その労苦からの解放となる。自殺した人はこの理屈に悟っていなかったので死を恐れつつも急いでしまった。利己の為に生きる意味は見いだせない。死についても同じだろう。

魅力はもともと主観的で絶対のものだから、媒体に情報操作された誰かと同じ魅力の感じ方は疑わしい

きのう、ある学者(誰かいわなくてもわかるかもしれないけど)が、北海道をべたぼめしてるのをみて、とてもこんな低俗な人には関われないと思ってリストから外してしまった。その人は実用的な投稿と専門的な投稿、しばしばひどく低俗な投稿を織り交ぜる特徴があって、最後のが自分には耐え難い。
 北海道、沖縄、京都、(あるいはしばしば東京や横浜)をやたら魅力という観点から持ち上げ、逆に茨城、佐賀、群馬、栃木、埼玉、名古屋市などを貶めるというのが、ブランド総研という都内の会社等によると平成日本人一般がもっているらしい確証偏見なのだが、この人も完全にその偏見を述べていた訳だ。
 私はこの中で茨城に住んでいるが、『常陸国風土記』を読むと、奈良時代の段階で今日の茨城県にあたる常陸(ひたち)の国は、当時の大和王朝の高級官僚から極めて最上級で褒められている。冒頭を読めば分かるが、天国(常世の国)といわれてさえいる。僕は前、冒頭だけ訳した(拙訳『常陸国風土記』前文)。
 ではなぜ、今日この真逆の貶めの様なことが、今度は日本人の一般大衆の一部から行われているか。僕は0歳の時から北茨城市という所に住んでいて、ここは海・山・川・湖に恵まれ田園と里山に隣接した小都会で、いわゆる天然にできている田園都市といえる。エベネザー・ハワードが郊外開発の類型として金儲けを含めて作ろうとしていったものではなく、最初からその様にできているものである。
 で、そこで子供の頃、目の前は開けた野原で、春は菜の花やたんぽぽが咲き、夏はばったを草原の中で捕まえて遊んだり隣の家の庭にひまわりが大きく開いていて、秋はトンボがすすきの中を飛んでいて指で目を回して遊んだりしていたし、冬は一面の雪化粧で足跡をつけ回り雪だるまや雪合戦で遊んでいた。思い出は数え切れない程あるのでここでは書き尽くせないが、あるのどかな春の日、山あいの田んぼに両親と車でいって山菜をとったり、ある夏の日に、幼馴染の秋田君と近所の川に入って遊んで、近くにあったスパーというコンビニで冷たいおそばを買って、二人で川辺に座って食べた。とても涼しかった。沢山、僕らの小都市の周りに湖の様な沼があるので、そこにマウンテンバイクで友達と放課後に直行して、ブラックバスの釣りをやったりしていた。野口雨情生家の前の海でも、友達と釣りをした。夏は海や川や清流で遊べるので、家族で山奥の冷たい清流にピクニックにいって、ヤマメを釣ったり、おにぎりを食べたりした。東京や千葉からおじさんらが実家に帰ってくるので、一緒に川であゆ釣りにいった。家で塩をふって、小さな川魚を焼いて食べるとこの上なく自然の滋味というものがわかる。
 中学校の頃、友達とみんなで友達のお父さんのトラックの荷台にのせてもらって、風をきって花園神社がある山奥の清流に遊びにいった。透き通る川の水にみな崖の上から飛び込むのだが、僕は町育ちの都会っ子なのでその種の野蛮な行いはやったことがなく、無意識にびびって足がもつれ、飛距離不足で崖にあたりそうに落ちたので、すぐ柴田君が川に飛び込んで助けにきた。その後、学校で某土方の子(名前は何だっけ)にそのことを笑われた。
 中学校2年だか3年だか忘れたが、夏休み、市内であった花火大会の終わりだかなんだかに皆で磯原の海まで自転車でいった。潮風がとても涼しくいい香りがし、日の暮れかかった海は浮かぶ二つ島ごと静かに青く、徐々に暗くなりつつあるのだが、いや夕暮れを反射しながら言葉にいいあらわせない色に変化していって、途轍もなく綺麗だった。そこにみなで自転車を留めて、なんかを話したりしていたかだった気がする。その場に柴田君もいたのだが、その柴田君が好きだった女子もその場にいたかなんかで彼はテンションがあがり、いきなり海に飛び込んで、下半身ごとびちょ濡れになりながら騒ぎだした。僕はそこでみなと腹の底から愉快で笑って眺めていたのだが、その時の感じは他の場所で得られたとは全然思えない。
 僕が19歳だか20歳くらいの頃、芸大受験で落とされ、必死に東京・池袋の美術予備校でデッサンの練習し、やがて猛勉強して美術系大学がいんちきだと悟り、そのころ同じ都内の保谷という場所に住んでいた田中隆央君と煮込みうどんを食べにいき、「芸大受験やめる」といってなぜか彼に泣かれた後の話だが、そのころ僕はデ・ステイルやモンドリアンの新造形主義の研究をしていて、それは建築に絵画・彫刻を装飾的要素として統合しようという考えだったのだが、それなら最も時間がかかりそうな建築を新たに学ぼうと決心していた。それで実家に帰ってきて毎日、建築に必要な数学や物理を新たに勉強していた。
  毎日僕は、気分転換に海へ散歩に行き、そこをネット・ウォークマンだったかツタヤで買った500円の音楽プレイヤーだったかで音楽を聴きながら、真っ暗になるまで走った。海は毎日表情が違うし、砂浜も形を全く変えて行く。朝・昼・夕・夜と海は色も姿も違う。そこには宇宙そのものといえる無限がある。学科は通ったが、実技について自分は型にはまったことをさせられるのが苦痛だったが、自分では完璧に手本通りの設計図を書いている筈なのに結局、5、6回落とされた。で、僕はその間、主に東京の調布という場所に住んで朝から晩まで一人で勉強し、たまに地元の北茨城に帰ってきたりしていたのだが、ある夏の日だったと思うけど、僕は果てしない勉強にも疲れ果て夕暮れの磯原の海辺に座り込んだ。空に満月に近かったかは定かではないが一つの月が浮かんでおり、あたりには誰もおらず、潮騒だけが耳に聞こえた。あたりはオレンジに近い色に染まって、徐々に夜になりつつあった。
 それは自分が寝ている砂浜が、周りはもう涼しさを通り越して徐々に寒くなっていく夜の穏やかな海を背景音に、ほのかに温かいということだった。それまで僕は砂浜は冷たいものだと思っていた。死んでいると思っていた。地球は無生物で、あの大都会と同じ物体だと思っていた。それは大きな間違いだった。
 勿論、日の光を地球が吸収し、内部熱として保っているだけなのだけど、現実にその温もりを自分が全く不意に感じてみると、地球は、そして自分の地元の海は、常に自分を、ほかのあらゆる生き物と同じよう温かく見守ってくれていたのだと気づくことになった。僕は芸術の道を歩みだしてから、殆ど誰からも無視され、時には狂人と間違われながら、酷く孤独だった。しかし子供の頃からきちんとしつけられ、真面目な自分が探求を諦めるべくもない。その時、地元の海で僕は一人で涙を流した。この星の人間達は僕にとても冷たく、誰も僕を助けてはくれなかったが、少なくとも、この星は僕を助け、支えてくれていたのだと気づいたからだ。母なる星は自分がこの市、この町に生まれてから、一度も休むことなく僕を見守り、密かに父なる太陽と共に自分を温め続けていたのだ。音楽はやんでいたが、海の奏でる潮騒の方が遥かに素晴らしく、とめどもなく尽きせぬ曲だった。あお向けになった格好のまま、手の平を砂浜の中に突き入れてみると、星の温もりは確かだった。しばらく、計測できないほどの時間そうして海の歌と、地球と、月が僕を見守る中で休んでいたが。それで自分は安心し、上半身を起こし、涙を拭いて、真っ暗闇を国道の車のライトが切り裂く中、帰途についた。
 僕はその他にも数え切れないほど、表現し尽せないほど、地元にあたる北茨城市や、それを包む茨城県の思い出を色々ともっている。だから自分を産み育てた母であり父にあたる茨城を、日本人の都内の報道機関とかが、ブランド総合研究所という都内の会社の会員にあたる一部の人達の意見をうのみにし、魅力が最低と何年間もしつこく毎年いわれても、単なる侮辱にしかきこえないし、実際に僕への激しい侮辱にあたるのではないだろうか。
 僕は北海道にも沖縄にも行ったことはないし、行く予定もないが、京都には何度も行ったことがある。修学旅行で1回か2回、個人旅行で1回行った。で世間が京都を至高の観光地みたいに言っているのはよく知っているし、『源氏物語』も『枕草子』も読んだし、自分が見た範囲で詩仙堂だの桂離宮はまあまあよかったけど、僕個人の趣味からいうと、あまり好きではなかった。公家が国税で贅沢三昧していた証は、正直いって低俗な悪趣味だと思った。なぜそういえるかというと、茨城の水戸弘道館や西山荘、或いは佐竹寺を僕は知っているからで、水戸弘道館や西山荘の示している質素の美学や、佐竹寺の雄壮で堂々とした古典的構造による茅葺建築の愛民的素朴さという意味で、今あげた京都の建築物より遥かに善い趣味を示しているとわかっているからだ。
 しかし世間の人々は低俗な趣味を好むものだから、僕が幾ら偉大な文化遺産を茨城の中に知っていても、或いはかけがえのない絶対的価値というものを実体験として十分に知っていても、ブランド総研会員やその他の日本人全般が、それに気づくことは多分、今後もないのではないだろうか。人の行く裏に道あり花畑、と相場格言でいうけど、これは好みについても全くあてはまると思う。皆が東京や神奈川に鬱積し、東横線の満員電車で隣に座った会社員が性風俗の話を公然としだした時はあまりの汚さに吐き気がした。が都会にはじめからくらしている人は無感動になっていて、何も感じないのだ。
 ある日、僕が都内から普通列車で地元に帰ろうとして、常磐線にのって車窓を眺めていたら、スーパーひたちに乗っていたのでは気づかなかった一面の緑色の稲穂に感激したり、途中で筑波山がみえてきたので駅でおりると、そこに豊かな水を湛えた霞ヶ浦が果てしなく広がっていて、大いに感動した。その霞ヶ浦の周りを散策してみたら、調度夕暮れ時で、無音の湖を鏡写しにした上を、白鷺が絵の様に飛んでいった。その飛んで行く先には、夕陽で紫色に染まった筑波山がシルエットになって映っていて、夢の様に美しい景色にしばらく唖然とするほど見とれていた。これほど素晴らしい景色が、あの喧騒とごみで溢れた大都会東京の本のすぐ近くにあったのだ。ある日、東京の渋谷駅で会社員がゴミ箱から、自分が読む為の新聞だか雑誌だかを漁っていたのを見た時は、カルチャーショックを受けた。僕は急ぎすぎ、特急列車で大事な地元の美質を見過ごしていたのだった。
 その霞ヶ浦の周りを散策してみたら、調度夕暮れ時で、無音の湖を鏡写しにした上を、白鷺が絵の様に飛んでいった。その飛んで行く先には、夕陽で紫色に染まった筑波山がシルエットになって映っていて、夢の様に美しい景色にしばらく唖然とするほど見とれていた。ついさっきまであふれる人混みと雑踏に紛れ、死んだような目つきでその間を擦り抜けて抜けてきた東京の新宿駅と違い、辺りには誰もいなかった。湖の中にいる筈の魚達さえ一言も話さない。しばらく目を開いて行くと、堤防の上のあぜ道を、地元のおばさん2人がウォーキング用のカシャカシャいう白い化学素材の運動着を着て、子供だか親戚の子だかの芸大受験かなにかの話をしながら歩いていた(取手に芸大校舎があるので近いからだろう)。ここでは目を見張る景勝が、普段の景色なのだ。
 これほど素晴らしい景色が、あの喧騒とごみで溢れた東京の本のすぐ近くにあったのだ。ある日、渋谷駅で会社員がホームのゴミ箱に手をつっこみ、自分が読む為の新聞だか雑誌だかを漁っていたのを見た時は、カルチャーショックを受けた。僕は急ぎすぎ、特急列車で大事な地元の美質を見過ごしていたのだ。後に、僕は『常陸国風土記』や『万葉集』にも奈良時代や平安時代の人達が似た様な感動を述べている詩句を見つけ、古代から同じことだったのだと悟った。恐らく僕のこの記録も、未来の人に参考にされ、やはり筑波山や霞ヶ浦の美に魅せられ憂いをなくした時に、思い出される筈だ。
 北海道や沖縄、勿論、京都や東京にも素晴らしい景色は沢山あるし、そこで生まれ育った人達には絶対的な価値がある筈だ。だがそのことは、茨城についても全く同じで、それは他の地域と比較して評価できるものではない。好みが或る集団で偏るという現象は、或る意図の媒体に情報操作を受けて生じる。
 パリ症候群(憧れから花の都へ行った人が現実の醜汚や文化差に失望し鬱状態になる現象)は、絵が情報操作の媒体となった影響があると思う。印象派以後、エコール・ド・パリの画家らが主にパリ界隈の風俗を美化した絵ばかりを残し、それが近代化のはじめに日本へ輸入されたのと同時に、首都パリのあるフランスが日本人にも一般に知られはじめた。これが日本人にとってパリの印象を決定づけていることは明らかで、今もその影響が残っている。​茨城県は首都圏整備法で首都圏(多極分散型国土形成促進法によると南部の一部は東京圏)に位置し、都内のテレビ放送が基本的にほぼ全て受信できることもあり、民放の会社がない。なくとも情報受信に関する限り不便が全くないからだ。これが一般大衆向けの茨城情報を外部に進んで表現しない既定条件となっていて、水戸学に含まれる孔子的「人の己を知らざるを憂えず」式の君子道徳、奥ゆかしさもあいまって、そもそも自分達の優雅な暮らしや日常を他人に商売だかなんだかを目的に激しく喧伝するのは下品なことだという風土がある。
 いいかえれば茨城情報は県外に先ず知られていない。実際にここで生まれ育ち体験的に知っている自分の様な人は、外部の無知さから受ける多くは悪意ある偏見だか差別だかに驚嘆する。なぜなら東京がテレビ局など大衆向け報道機関を通じ、捏造した悪意ある虚像にあてはまる時だけ茨城をとりあげるからだ。
 同じことは北海道、沖縄、京都、或いは佐賀、群馬、栃木、名古屋などにもあてはまる。東京都民が自文化中心主義で自分の確証偏見を裏づける偽情報を適当に捏造しているので、何でも色をつけ放題なのだ。都民は9割が商人で、江戸時代に大坂商人を家康が呼び寄せたところから町がはじまっているので、大まかに商業や大衆的な大都市文化を自分と似ているので称揚し(例えばロンドン、NY、パリ)、農工業や貴族的な田園文化を貶める傾向がある(いわゆる全世界の田舎全般、荘園等の田園都市)。つまりこの偏見の目的、都民の自己愛に都合がいい方向へ、国内外の情報は歪んで伝えられる。
 ここまで書いてやっといえるわけだが、自分が感じたのは、冒頭に書いた或る学者の好みは、この東京的自文化中心主義によって裏づけられるのではないか、ということだ。
 自分は北海道を日本人一般だの、それを越えて人類全般がやたらと魅力的だ! と褒めそやしていたら、先ず怪しいと思って現実に魅力がない点を進んで探そうとするだろう。逆に茨城をやたらと魅力がない! と貶めている人が多かったらその魅力を自分で探しに行く筈だ。魅力は主観的印象なのだから、なんらかの先入観をもっていると、世間の多数派を占めている誰かに操作された好みと知らずしらず似通ってしまう筈だ。裏を返せば、自分が偏見から自由に物を感じ、真理を直接捉えられれば、世間の好みとしばしば違う結果が出るはずだ。比較文化論の見地からいっても、或る文化が全面的に魅力的であるとか、他の文化と比較してそうだとかは全然いいえないのであって、単に他文化と異なる要素があるだけである。個人的好みが主観的経験に左右されている以上、ある地域文化の魅力は絶対的価値をもっており、それを単に称揚はできない。いいかえれば別の文化と比べてここがこの様に異なっている、とはいえるが、それらの間に上下とか優劣の価値づけをしようとするのは間違っている。或る地域の魅力を他に対して称揚することは、単なる自分の思い込みを確証偏見で上書きし、他文化を差別する恥知らずな世界観に過ぎないのだ。
 中華思想が中国から日本に伝わり、天皇がそれをまね、奈良や京都、東京で自文化中心の帝国主義的中央史観に耽ってきたと既存の日本史は知らせているが、世界史の本でこれは無残にも打ち砕かれ、逆にしばしば欧米中央史観で蹂躙されてしまう。勿論どの中央史観も間違っているのだが。
 北海道がなぜ都民に人気の観光地なのかといえば、東京という過密都市と正反対の大自然が広がっているという、各媒体に情報操作された空想からだ。同じことは沖縄にもいえる。そして京都の場合は、近代都市である東京と違う、中世都市の名残があると、都民の媒体的空想の中で信じられているからだ。対して、茨城や佐賀の大部分は関東平野・佐賀平野という広大な穀倉地帯であり、いわゆる田畑が地平線まで広がっている。特に茨城の関東平野は日本最大の平原であるばかりか耕地率も日本一なので、夏には稲穂が地平線まで広がっている。奈良時代の官僚が当時の米経済に理想郷と見たのは想像に難くない。
 ところが金銭経済に入った東京商人の大半は、米を商品価値が大して高い物とは感じておらず、しかも彼ら自身は観光を通じ各地を自らに都合よく利用したいと考えている。西洋圏では荘園領主の伝統もあり農家滞在等のグリーンツーリズムも流行ってる様だが、元々町人の末裔たる都民にそんな高尚さはない。しかも都民の殆どは農工業の現場に接した経験がないので、田畑や工場が何かすら知らない。或る都民は米はコンビニに落ちてくるものだと考えていて、水田の稲から脱穀されると知らなかったりする。又私は別の都会かぶれな長野県出身の女が収穫後の冬の田畑を荒野と言っているのを見て驚いたことがある。彼ら都会で生まれ育った人達一般は、自然を近づき難く恐ろしい対象だと考えていて、川は都内でそうあるよう下水だと考え、親から近づくなといわれ育っているのかもしれない。海はヘドロの積もった東京湾でなければ南の島の透き通る水どちらかで、自然のイメージが極端化され引き裂かれているのである。
 そうであるから、天然または人工の田園都市、田舎町がもつ中庸性、つまり大自然や大都会ではないが程々に人為的な里山や田畑に囲まれ、中小都市の中にそう極端でなく自然と接してくらしうるという特徴を、東京都民は正しく認知できない。都心から大自然か古都か、観光地としてしか外部の世界を見ない。
 これが茨城を代表として、佐賀、群馬、栃木、或いは名古屋といった田園都市的な中庸性をもつ類型の地域を、東京から情報操作された日本人全般が魅力がないと思い込む、差別的偏見の分析結果である。そして北海道、沖縄のよう雪国・南国という、東京の関東的風土から遠い類型の自然がある地域や、京都のよう異国情緒のある地域を、観光的消費地という客分のまなざしで魅力的とみなし、無闇に美化して賞賛するのが、この偏見と表裏一体の裏面である。
 某学者の吐露している偏見に見える大賞賛も、私が第一印象で直感的に感じた限り、この東京中心教義の媒体を通じた強化活動の裏づけになっている様に思う。我々にとって差異という認知の基本的な構造から、真の知識として役に立つのは、その種の既存の偏見を反証してくれる情報の方なのだ。
 まとめると、私は北茨城市という茨城最北の町で生まれ育って、そこに我々人類を含め、家の前の空き地の土の中に住んでいたオケラや、磯にひそんでいるアメフラシや、山奥の清流にひっそり生きているイワナなど、沢山の命が生きているのを知っているから、彼らの為にも魅力がないなどとは到底いえない。で、東京都民は自分が観光先に択ぶ地域をやたら美化して宣伝し、航空会社とか観光業者の肩代わりとなる情報を流すので、日本人全般は洗脳されている。だが現実の茨城には涙が出るほど美しい景色だとか、ここで書かなかったけど恐ろしく美味しい食べ物とかはしぬほどある。県外人は知ろうともしないが。
 Aを大賞賛するのは、しばしば、その他大勢であるところのBを間接的に貶める宮廷風の嫌味な修辞である。某学者がその種の嫌味を意図していたかは定かでない。ただ、私がいいたいのは魅力という言葉で、或る地域文化全体を称揚したり貶したりするのは元々間違っているし、実は不道徳なのだということだ。皆が京都を「全て」誉めそやしていたら、その一部には魅力的でない部分もあるではないかと考えたり、皆が茨城を「一般化して」貶していたら、その考え方自体が思い込みではないかと疑義を呈したりするのが、今日の知識人が、比較文化論を経てやるべき仕事ではないか? 広く文明の比較論として。
 ま、その某学者が民俗学とか比較文化論みたいな比較的新しい分野に無知なまま歳とってしまった偏屈な俗物なだけでしょ、と誰かにいわれればそうかな? と唸ってしまうけど、そう言ってくる人も今の所いないので、植民地主義がひっくりかえった様な開拓地礼賛に、なんか妙な違和感を感じ書いてみた。アイヌが本州・九州・四国の和人にどういう扱いを受け今に至るかを思えば(アイヌの妻がいた間宮林蔵みたいな時代を先駆けていた和人もいたが)、某学者みたく急に手のひらを返し北海道礼賛を始めるというのは、いかがなものか。旧和人側に都合がいいので誉めだすなら最初から侵略するなという話だ。もし本当に北海道が豊かな自然に恵まれた美しい北の大地であったら、そこは本来、アイヌの暮らす場所であった筈で、旧和人側の末裔というべき某学者が、その土地の特徴を過度に美化して語るのは、植民地主義的な恥知らずではないか。アイヌに所有権があるべき筈だったものをとりあげてから、自賛する。
 まだ僕がその某学者のツイッター投稿に感じた強い違和感の全てをうまく書けたとはいえないが、大まかな部分は書けたかなと思う。
 そしてその大礼賛投稿を見たせいで、自分の中では北海道の印象が物凄く低下してしまい、少し前まで北海道新幹線で行ってみるかと思ってたけどもうやめた。誉め殺しだ。パレスチナ問題でイスラエル軍を一方的に賞賛するビデオを見せた被験者は、3割が考え方を変えたらしい(Boaz Hameiri et al. 'Paradoxical thinking as a new avenue of intervention to promote peace' 2014)。特定都道府県を誉め殺しするのは同じ効果があるのかもしれない。